第11話 金貨
先月完成した小浴場は、規模は小さいがサウナを併設しており、ハマム(垢すり)用の寝台なども設置している。
元は、別館に宿泊する貴族や富裕層の従者に利用してもらうための浴場にする予定だった。
だが、それだけではもったいないので、コテージの風呂に飽きた宿泊客が、垢すりやアロママッサージなど、オプションで利用できるサービスを付帯できるように造り変えたのだった。
「垢すりは二名で対応してください。お客様にお伺いをたてて必要なら理容も行うように。厨房はご所望があった時に迅速に対応できるようにしておいてください。リネン係はシーツの替えや洗濯の調整をお願いします」
では、よろしくお願いしますとスターレンスは一通りの指示を出した。
セドリック・ド・ギレムが来てから応対していた宿泊支配人によると、他に宿を取っているようではないので、今夜はここに泊まることになるだろう。
アデル・ド・ギレムが気持ちは別として実兄だと認めているので、同棟に泊めても問題はないし、コテージの部屋も余っている。
新たに別棟を用意することにはならないだろうが、人一人増えたことによって作業も増えるし、従業員の調整もしなくてはならない。
「セドリック・ド・ギレム様の従者は?」
宿泊支配人のセルヴェに尋ねると、彼は肩を竦めた。
「いません。乗合馬車を乗り継いで一人でいらしたようです」
妹が妹なら、兄も兄だ。
サンゼイユ侯爵家はどうなっているのだという言葉が喉まで出かかったが、何とか飲み込んだ。
だが、そのお陰でホテル側としては接客人数が少なくて助かるのも事実だ。
「それと、これを渡されました」
セルヴェは内ポケットから封筒を出して渡してきた。封蝋の紋章はアデル・ド・ギレムに時折届く手紙で見ているので、ギレム家のものだと認めた。
フロント係がペーパーナイフを持ってきたので、封蝋を割らずにフラップの隙間にナイフを入れて切る。
入っていたのは細長い紙一枚。
スターレンスは思わず目を瞠った。
それはサンゼイユ侯爵のサインがすでにある、金額が空欄になっている小切手だった。
一時間後、髪を整え髭を剃った小ざっぱりとしたセドリック・ド・ギレムが現れた。
「やあ、皆さん。実にいい湯をいただきました」
体が温まって頬を紅潮させ、満面の笑みでセドリック・ド・ギレムはラウンジにいるスターレンスにお礼を述べた。
「あれ、アデルは?」
「コテージにお戻りです」
ただいまご案内いたしますとスターレンスは席を立ち、先導して『5』の扉へ向かう。
ドアが開いた瞬間から、沈丁花の香りが二人を包み込んだ。
「いい匂いだ」
「
木の周りには花のような萼が散り落ちており、セドリック・ド・ギレムは立ち止まり、そのうちの一つを拾って鼻先に持っていく。
「……感動の再会はできなかったな」
ぽつりと零れた言葉は、辛うじてスターレンスの耳に届いた。
「お話は伺っております。ギレム様……アデル様も混乱していた様子でしたが、お兄様であると認めていらっしゃいました。あとはお話し合いで、空いてしまった隙間を埋めるのがよろしいかと存じます」
「模範解答だねえ。まだ若いのに。ところで、君は?」
「失礼いたしました。私は当別館の総支配人のスターレンスと申します」
自己紹介が遅れたことを詫び、貴族に対するお辞儀をした。
「堅苦しいのはいいよ。俺もこんなだし。しばらくの間、お世話になるからよろしくね。あ、俺のことは『セドリック』と呼んでくれ。ギレムだとどっち呼んでんのかわかんないからさあ」
セドリックは侯爵令息とは思えない鷹揚さと言葉遣いで手をひらひら振る。
アデル・ド・ギレムが疑い、そして認めるのに時間がかかったのも無理ないことだと思った。
コテージのドアをノックすると、出てきたのは部屋付きメイドだった。
彼女によると、アデル・ド・ギレムはキッチンで調理中とのことだった。
「あいつが作ってんの?」
セドリックの問いにメイドが肯定し、今日はポトフだと答えた。
「よしっ、俺も手伝うか。あ、君達はここまででいいよ」
そう言うと、無造作にポケットに手を突っ込んでスターレンスに一枚の硬貨を渡してきた。
「今まであいつが世話になった分と、これから色々よろしくね」
スターレンスとソフィーは深々とお辞儀をし、ドアが閉じるまでその姿勢を崩さなかった。
通常チップは、銅貨か多くても銀貨まで。
「……さすが、侯爵家ですね。チップも規格外だわ」
彼女の言う通りで、風体や話し方はそうであるようにはとても見えないのに金払いだけはそのものだ。
「私達の応対もそれなりのものを求められている、ということです。これからも適切なおもてなしを心掛けるようにしましょう」
各部門の支配人を急遽招集して、そのことを通達をしなくてはならない。
手の中の硬貨がずしりと重く感じる。
チップが多いということは、それに見合った接客を求められているということなのだ。
それが金貨の対価だ。
そういえば手伝うと言っていたが、侯爵令息が料理を手伝えるのだろうか。
だが、もはや一般常識より、あの方なら出来そうという所感の方が大きいスターレンスだった。
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