第10話 ラウンジ

 兄は五年前に西国のイスパール国で行方がわからなくなり、父が手を尽くして探しても消息は掴めなかったと聞いている。


 アデルも忘れたことなどない。


 無事であってほしい、会いたいと常に思い続けていた。


 その兄は生きていた。


 そして、会いに来ている。


 アデルは期待が身のうちで膨れ上がって口から出そうになるのと共に、騙されているのではないかという一抹の不安も片隅にあり、どちらに心の天秤が傾いても平静ではいられなかった。


「大丈夫ですか、ギレム様」


 一刻も早く別館に戻るために用意してくれた馬車の、向かいに座るスターレンスが問いかけた。


「動揺、してます」


 素直に白状すると、アデルのそんな心うちを推測ってスターレンスは落ち着かせるように微笑んだ。


「お察しいたします」


 乱高下する内心をよそに馬車は別館に着き、入口の前でドアマンが挨拶をしてくれた。

 だが、挨拶を返すアデルの声は枯れていた。


 スターレンスが軽く背中を撫でて、アデルの緊張を和らげようとしてくれた。


 それで少し腹が据わり、こくんと頷く。


 ドアマンが扉を開けてくれたのでエントランスへ入る。


 フロントカウンターの前方斜め横にあるラウンジには入口を向いて座っている宿泊支配人がいて、アデルの姿を見つけると席を立った。


 そして、向かいに座る男性に声を掛ける。


 振り向いて立ち上がった男性は、ミルクチョコレート色の髪をしていて目に掛かるくらい前髪が伸びて目がほとんど見えない。


 おまけに髭が伸び放題で、顔のほとんどが何らかの毛に隠れている。


「……ア、アデル……?」


 男性はソファからこちらへ寄って来たが、アデルはスターレンスの後ろに隠れた。


 警戒されているのが見て取れて、男性ははっと立ち止まる。


「……顔を見せなさい」


 アデルの言う通りに男性が前髪をかき上げると、一直線の眉の眉尻が緩い角度で斜め上に向いている。実家の屋敷に飾ってある祖父の肖像画とよく似ている。


 そのすぐ下の目は、アデルと同じ青。


「……え? お、お兄様?」


 髪の色、瞳の色、特徴的な眉毛から背格好まで五年前の兄と一致する。


 だが、侯爵家の長男として常に弟妹の見本だった兄が、ぼさぼさの髪とよれよれの服で旅人よりひどい格好をしている。


「お、お前こそ、アデルなんだよな? どうしたんだよ、何でそんな格好してんだよ」


 向こうも向こうで混乱しているようだ。


 無理はないと思う。

 五年振りに会う妹が男の服を着ているのだから。


「お前、本当は弟だったのか? ずっと騙されてたのか、俺は」

「兄はそんな話し方をしません。貴方は何者ですか」


 記憶の中の兄は次期侯爵となるべく、品行方正で貴族の令息然としていた。


 目の前にいる男と一致点はあるものの、同一人物と見做すのには判断材料が、確定要素がない。


 と思いつつも、認めたくないことの方が大きいのだと、アデルは自覚している。


 あの兄が、こんな、こんな流浪人のようになってしまったことが納得できないのだ。


 そんなアデルの戸惑いを感じて、スターレンスは顎を上げて控えているスタッフに指示を出す。


 カウンターの奥から黒い制服を着た強面の男性が出てきて、兄と名乗る男性の横に着いた。


 管理部の警備担当だ。


「俺はセドリック・オーレリアン・リュカ・エルンスト・オットー・ド・ギレムだ。サンゼイユ侯爵の長男だ」


 両親、父方祖父、父方祖母、母方祖父、母方祖母が付けた長ったらしい名前も正確に言えている。


「お前が五歳と二ヶ月だった時、りんごの木に登って降りられなくなったのを助けてやったことは忘れたのか。それに、社交界デビューする時に同伴相手が見つからなくて俺がエスコートしたやったことも、それから……」


「何でそんなことまで知っているのですか。貴方は本当にお兄様なのですか」


「俺がお前の兄だからだ……というか、お前こそ本当に妹なんだよなあ。妹だと思っていたが弟だったなんてこたあないんだろうな」


「私はアデル・マリー・ド・ギレムです。れっきとしたサンゼイユ侯爵の長女です」


 ぽんっとスターレンスが両手を打ち鳴らし、応酬が途切れた。


「お話しの途中で恐れ入りますが、お客様は長旅でお疲れでしょうし、ギレム様も買い物から戻ったばかりで喉が渇いていらっしゃるでしょうから、一度お茶にしませんか。別室にご用意申し上げます」


 いくら宿泊客が限られているとはいえ、ここはホテルの入口で、誰が訪問してくるかもわからない。


 兄妹喧嘩はここではなく他でやれということだ。


「もしよろしければ、お客様には先月完成しました小浴場がありますので、まずはそちらで旅の疲れを落としてくださいませ」


 スターレンスは男性に温泉の効能や設備について立板に水のように説明する。


 そして、男性は黒服の係員が付き添い腰を抱かれて案内された。


 案内というより連行されたというのが正確かもしれない。


 スターレンスが指示を出し、従業員がにわかに忙しく立ち動く。


 アデルの買い物袋はコテージの氷冷庫へ入れておくとソフィーが預かり持って行ってしまった。


「総支配人室に行きましょう。ギレム様もお茶を飲んで落ち着いた方がよろしいと思います」


 スターレンスの提案に、アデルは首を横に振った。


「いいえ。コテージに帰ります。彼もそちらへ連れてきてください」


「よろしいのですか?」


「あれは、兄で間違いありません。ただ、私の記憶にある兄と現在の姿が一致するのに時間が……今もまだ認めたくありませんが、ですがそれはお互い様のようですので」


 お騒がせしてすみませんと、そこにいる全員に向けて詫び、アデルは『5』の扉に向かって歩き出した。

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