第9話 紹介
先代のサンゼイユ侯爵である祖父の口癖は「胃袋を掴め」だった。
欲の最たるものであり、常により良いもの、美味しいものを追い求めてしまう欲だからだ。
それが満たされたら、人は一時の至福を手に入れられる。
そして、それを求めて色んなものが集まる。
人は美味いものを味わうと、それを忘れることはできないから。
現サンゼイユ侯爵の父も先代からの訓示を引き継ぎ、家訓とした。
他の特権階級の家庭ではすることはない調理を必修とし、侯爵自ら包丁を取って料理を振る舞うこともある。
そして、子供達にもそれを課した。
指導に当たったのは屋敷の料理長で、週に一度は授業があり魚を捌くこともあった。
だが、鳥の調理までいくと母が抗議をして、アデルのみ除外された。
魚までは捌くのを許したが、貴族の令嬢がそれ以上進むのを母はよしとしなかったのだ。
アデルとしても母の抗議は有難かった。
魚でも青ざめながらだったが何とかできた。しかし、それより先は及び腰だった。
鳥の内臓を引き出したり骨を切ったりするのは、想像しただけで血の気が引く。
兄弟は特に気にする様子もなかったが、アデルはやる前から出来そうにないとわかっていた。
人には向き不向きがあるので、あまり気に病まないようにと父も無理強いはしなかった。
何かある度に父や兄弟が人々に料理を振る舞うのを見た時に、疎外感を感じなかったといえば嘘になる。
食べた人々が美味しいと賞賛と感謝を送るのは父や兄弟であって、自分はそこに寸分も入ることができないからだ。
自分にできないことを、できる人がいると見せつけられたからかもしれない。
それ以来料理から遠ざかっていたが、今再び包丁を手に取ることになって、前の感覚を覚えていたのは驚きだった。
そして、自分の手で作り上げたものがそれなりに美味しかった時の嬉しさは、初めて給料をもらった時に匹敵する。
実家の料理長が書いてくれたレシピはいずれも初心者用に編集したものなので、アデルでも挑戦しやすい。
この機会に一つでも多く作りたい。
恐らく、これを逃したら一生料理をすることはなくなるだろうから。
近郊からの乗合馬車が到着したのか、ティユーの目抜き通りは多くの人がいた。
肉屋から出てきたアデルは、買い物袋を抱え直して人混みの通りを歩き出した。
表通りを避けて裏道へと入って行くと、一本入っただけなのにほとんど人がおらず閑散としている。
店の前に立っているのは看板を掛け直している店員と、店の前で立ち話をしている数人しかいない。
その中の、一際背の高い男性がこちらに振り向いた。
「こんにちは、ギレム様」
女性二人を置いて歩み寄って来たのは、別館総支配人のスターレンスだった。
「こんにちは、スターレンスさん」
アデルも挨拶を返すと、スターレンスは大きな紙袋に目を移す。
「今日は何をお作りになるのですか」
「ポトフです」
そうですかあと、少し語尾を伸ばしてにっこり笑う。
また料理に関わりたい雰囲気を滲ませているのが伝わってくる。
彼は料理するのが好きなのだろう。先日、レモンジャムを手伝ってくれた時にも嬉々としていた。
だが総支配人となると多忙なので、今回もという訳にはいかないだろう。
ふと見ると、その場に残された女性二人がこちらを見ている。
「ああ、そうだ。もしお時間あるならご紹介します」
スターレンスは紙袋を代わりに持ち、女性の所へとエスコートした。
反物の絵が添えられている簡素な吊るし看板と窓にレースのカーテンが掛かっている店の前にいる女性のうちの一人は三十代くらいで赤毛の女性だった。
「こちらはこの生地屋の店主のアンゲリカ・フーケさんです」
もう一人は、二十代後半くらいで眼鏡を掛けており、左手の薬指に指輪をしている黒髪の女性だ。
「こちらはフーケさんがこの度お店を引退されるので、引き継いで仕立て屋をするイヴェット・モローさんです」
二人にアデルを紹介すると、揃って「え⁈」と正直に驚いた後、慌てて貴族に対するお辞儀をした。
誤解を招くような格好をしているので無理もない。
恐縮する二人にはこちらこそ紛らわしくて済まないと詫びた。
「フーケさんは弊社社長のフェルトゲンの婚約者で、来月婚姻予定なのです」
「そうでしたか。この度はおめでとうございます」
「ありがとうございます、お嬢様」
「もしかして、引退なさるのはそのためですか」
「はい」
フーケのふっくらした頬が染まり、わずかに横に広がる。見ているとなぜか安心するような人だ。
「モローさんは元々ご主人とブリュールで仕立て屋をしていたのですが、この度の仕儀によりここを引き継いで二号店を開くことになったのです」
F&Aホテル・リゾート・ティユーの本館には舞踏会が開催できるようなホールもあり、店は近いので仕立て屋兼貸衣装を展開予定だという。
「恐れ入ります、お嬢様。背が高くていらっしゃるし、整ったお顔立ちですので、華やかな色がとても映えると思います。もし、お時間よろしければ、採寸だけでもいかがでしょうか。いえ、今が駄目でも是非一度当店にお立ち寄りくださいませ。必ずお嬢様のお役に立てると思います!」
彼女はドレスのデザイナーでもあるそうで、眼鏡の縁を摘んでアデルを上から下、左から右に観察するように見回し、鼻息荒く早口に問いかける。
溢れる熱量に圧倒されそうになり、返答を考えあぐねていると、見慣れたホテルの制服を着た青年がこちらへ駆け寄ってくるのが見えた。
「お、お忙しいところ恐れ入ります」
息を整えながら別館のページボーイはアデルに来客があり、すぐにお呼びたてした方がいいとの宿泊支配人の判断で探していたという。
来客の名前を告げられて、アデルは息を呑んだ。
「兄が……?」
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