ポトフ

第8話 炭酸水

 ティユーの街外れに天然炭酸水の湧き出る水飲み場があり、誰でも無料で飲めるようになっている。


 コテージのキッチンにコルク栓付きの空の瓶があったので、アデルはそれを持って朝早く散歩がてら水飲み場に汲みに行った。


 時間のせいか誰もいなかったので、待つことも待たされることもなく汲めたのは幸運だった。


 大理石の彫刻で装飾された水飲み場の脇に木の板があり、この炭酸水の効能などが記されている。


 胃腸にいいことや美肌にも効果があるようなので、思わずへえ〜と呟きが出る。


「おはよう、ムシュー。いいかしら?」

 朝早いので誰も来ないと思っていたが、後ろには総白髪の老婦人がいた。


 アデルは詫びてから横へずれて、蛇口の前を譲った。


「観光客の方? ティユーは初めて?」

「はい。地元の方ですか?」

「ええ。これから朝ご飯を作るのに、ここの水を汲みに来たのよ」


 十年前にルヴロワからティユーに越してきたという老婦人は、毎日のようにここに汲みに来ると言う。


「食前に飲むと胃もたれしにくいのよ。料理にも使えるし」

「料理にも、ですか?」

「魚の臭みを取ったり、お肉を柔らかくしてくれるの」


 興味深く聞き耳を立てていると、老婦人はシチューの作り方まで教えてくれた。


 あまり長話をしていると夫がお腹を空かせて機嫌悪くなるからと言って、老婦人はまだ話していたい様子を残しつつ暇を告げた。


「色々教えていただきありがとうございました、マダム。良い一日を」

「あら、あなたもね。色男さん」


 始終間違われたままだったが、訂正する気にはならなかった。



 ホテルに戻り、上着を脱いでからキッチンへ行く。


 手を洗って調理コートを着け、氷冷庫から卵とバター、牛乳と調理部門特製のワッフル用の調合済みの粉を出す。


 ワッフルを一から作るとなると面倒くさいので、生地用に調合した粉をホテルの調理部門に用意してもらい、卵と牛乳、好みで砂糖やバターを加えるだけで作れるようになっている。


 ボウルに卵と牛乳を入れて混ぜ、粉を入れて再度かき混ぜて生地を作る。


 棚からワッフルプレートを出して、バターをのせてコンロにかける。バターが溶けたらプレート全面に塗り広げる。


 片面に生地を流し込み、上部を閉じて二、三分。焼き加減を見てからプレート上下をひっくり返す。


 格子状の狐色の焦げがいい具合になったので、皿に取り出す。


 その他諸々お盆に載せて、ティールームへと向かう。


 ダイニングもあるのだが、一人で使うには広すぎるし朝晩は寒いのでこぢんまりとしたティールームで食事をするのが常になっていた。


 席に着いてから、コップに炭酸水を注ぐ。


 老婦人が食前に飲むと胃もたれしにくいと言っていたので、何となく試してみたくなったのだ。


 説明板には時間が経っても炭酸が抜けにくいと書いてあった。汲んでから一時間は経っているが、注ぐとしゅわしゅわと音を立てて、飲めば口内や喉元を元気よく刺激する。


 まだ温かいワッフルに先日作ったレモンジャムを垂らし、ナイフとフォークで一口大に切って頬張る。


 生地の香ばしさとバターのまろやかさ、そしてレモンジャムの爽やかな香りと酸味が混ざり合う。


「うん。美味しい」

 自分で作っておいてなんだが、お店で出しているのと同じくらいの品質だと自画自賛する。


 飲み込んだ後もレモンのお陰でさっぱりとしているので、すぐに次を食べたくなる。


 先日、露店でもらったアプリコットのコンポートと交互に食べていたら、あっという間に食べ終わってしまった。


 でも、美味しかったので大満足だ。


 口直しに炭酸水を一口含んで、ふと思いつき、この中にレモンジャムを入れて飲んでみた。


 ほんのり甘味があり、レモンの爽やかな香りがしてとても飲みやすい。


「失礼いたします」

 声を掛けてきたのはソフィーだった。


「おはよう、ソフィー」

「おはようございます、ギレム様。朝食はお済みでございますか。食後のお飲み物はいかがいたしましょうか」


「いいえ、今日はこれがあるので結構です」

 そう言って、炭酸水入りの瓶を指差した。


「『フロワフォンテーヌの水』ですか?」


 ちゃんとした名前があったのに、今まですっかり忘れていた。


 ついでに、朝の出来事をソフィーに話して聞かせた。


「そのご婦人曰く、料理にも使えるとのことだけど……」

「はい。よく聞きますが、わたしは詳しいことはわかりませんので調理部門に問い合わせしましょうか」


 なんなら料理人を派遣するというので、そこまではいいと慌てて断った。


 忙しい厨房の手を煩わせるのは気が引ける。


「素人にも簡単にできる料理があれば、レシピをお願いしたいと伝えてください」

「かしこまりました」

 ソフィーはそれ以上言わずに、空いた皿を持ってキッチンへと行った。


 グラスの中の炭酸水の泡がレモンピールに絡みつき、離れて上っていって表面で弾けて消える。


 朝にこんなにのんびりできるなんて、数年前は想像もできなかった。


 この時間を大切にしよう。


 アデルは思いと共に炭酸水を飲んだ。



 一息ついてから部屋に戻り、書き机の引き出しから実家の料理長のレシピを出した。


 一枚ずつめくって、グラタンの紙で手が止まる。


 グラタンは好きだ。

 でも、難易度が高い。


 自分の腕前ではまだ早い気がするので諦めて、また紙をめくる。


「これにするか」


 ポトフを抜き出し、必要なものをメモに書き出した。

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