新たなる時代

一河 吉人

新たなる時代

 

 薄暗い部屋に、安物のスピーカーから威勢のいい音楽が流れ出した。早く、激しく、勇ましい旋律。目覚めの調べに薄い毛布からもぞもぞと顔を出したのは、勇敢さとはかけ離れた疲れ切った顔の男だった。すっかり昇った朝日が、カーテンの隙間から部屋に差し込んだ。


「はあ……」


 男――越知貴仁たかひとはため息を一つ吐くとよろよろと起き上がり、パソコンチェアに腰掛けた。マシンがスリープから復帰する間に、飲み残しのコーヒーを腹に流し込む。派遣先のタスク管理ツールにアクセスし今日の指示を確認すると、貴仁は渋面を作りうなった。


「ああ、今日も猫耳か……」



◇◇◇◇ ◇◇◇◇



 日本に身分制度が蘇ったのは、21世紀も四半も過ぎてのことだった。


 2020年前後を境に急激な成長を見せたAI技術は驚異的な広まりを見せ、瞬く間に世界の有り方を変えてしまった。学問、工業、医療、スポーツ――ありとあらゆるジャンルの常識を塗り替え、発展を促し、代償としていくらかの混乱も招いた。ほぼ全ての分野がAI以前とAI以降に分類されてしまうような、革命の名に相応しいインパクトだった。


 もちろん、アートも例外ではなかった。いや、ある種の密教的な修行とそれによる参入障壁の高さで守られてきた芸術関連こそ、最もダメージの大きかった領域の一つと言っていいかもしれない。高品質な作品をボタン一つで、しかも高速、大量に制作できる夢のテクノロジー。人間が勝てる要素は無かった。


 創作とは模倣である。だが、そのお題目は身内で影響を与え合う、循環的な生態系の上に成り立っていた。AIは、その生態系を破壊する外来の頂点捕食者だった。仲間意識と特権意識で緩やかにまとまっていたコミュニティは、黒船の簒奪に成す術もなく敗走を続けた。


 クリエイターたちは抵抗を続けたが、世の流れと資本家のロビイングを押し戻すことはできなかった。3Dモデリング、翻訳、歌唱……一つ、また一つと櫛の歯が掛けていくようにジャンルは陥落していき、芸術は工学の下位分野となった。


 AIは全てを取り込み、学習し、模倣し、新しい何かを生み出した。一時間前に発表された新曲とよく似た音楽がストアには並び、小説サイトのランキングには同じような要素から生成され作品が並んだ。書籍の表紙も、ポスターの背景も、店内のBGMも、全てAIが廉価で提供し、すでに大御所と呼ばれていた一部の頂点を除きアーティストは必要とされなくなった。世間はどこかで見たような絵やどこかで見たような曲で溢れかえったが、気にする人間は極少数だった。そもそも、AI以前からそんなものだったからだ。


 世のコンテンツがほぼ全てAIに頼り切りになるにつれ、AIエンジンを提供している会社の存在感も増した。株価は天井知らずで、総資産は著名な自動車メーカーを越えた。彼らはその資金力で落ち目のコンテンツメーカーを買収して回り、既存作品の知名度を利用してさらに巨大化した。新たなコンテンツ帝国は領域の拡張を止めず、もはやその支配は揺るぎないように見えた。


 状況が一変したのは、EUが同意を得ていないコンテンツの機械学習を規制する法案を可決してからだった。業界を揺るがす大事件、資本家の魔の手から作品を取り戻す正義の法。だが、この動きを起こしたのもまた資本家だった。AIの波に乗り遅れた一部の人間が逆転のための手段を模索し、革命の神輿として白羽の矢を立てた、それがクリーンAIだった。


 クリーンAIとは、利用の同意を得られたデータのみを学習に用いているAIだ。さらにはデータセットや元になったマテリアルも完全公開、不都合なデータがあれば個別に除外しAIを再構築できる。透明性の高さに加え再現性、検証可能性の高さも武器だった。


 クリーンの反対はダーティー、既存のAIに燻っていた「他人の成果にタダ乗り」という批判に火を付けるのに、この新AIエンジンの存在は十分だった。資本家は革命を掲げてあちこちに放火して回り、この分野でアメリカやアジアに遅れを取っていたEUが相乗りした。


 当然、既存のAI関係者たちは猛反発した。綺麗ごとにかこつけて自国の産業を保護しているだけ、と真っ当な批判も出た。だが多くの著名アーティストが支持を表明するに至り、流れは完全に変わった。


 AIに対する芸術家の反応は様々だった。細かいことを考えずに便利だから利用する者、法律で禁止されていないなら何をやってもいいと考える者、勝手な学習に不快感を表明する者、迅速な違法科を求める者。だが、もはやAIの波は止められないという点で意見は一致していた。


 AIへの反発の主な要因は同意のない学習だった。そこをクリアできるであれば文句をつける筋合いはない。仕事を奪われるのは悲しいが、歴史上幾度となく繰り返されてきたことだ。ダーティなAIの氾濫を止めたい者やAIは利用したかったが心情的に二の足を踏んでいた者、その他多くのクリエイターが乗っかり、クリーンAIは大きなうねりとなった。


 資本家、政治家、アーティスト。三者三様の思惑の受け皿となったクリーンAIは版図を瞬く間に広げ、ついに既存の「ダーティーな」AIを脅かすまでになった。覇権を巡る争いは新たなステージへと進んだ。


 EUでは明示的な同意のないコンテンツを学習データに利用したAIと、そのAIを利用したコンテンツには高率の関税が掛けられることとなった。結果としてEU版では一部の背景だけが急に園児の落書きになる映画や突如おっさんの声になる女性バーチャルアイドルの楽曲、味方キャラクターはもちろん街のチンピラや四天王、果ては魔王までがTポーズを取って動かないRPGなどが発売され物議を醸した。出どころの怪しいAIによってそれを修正するmodも現れ、混乱に拍車をかけた。一部の文章をAIの代わりに猫チャンに書かせた小説も大ヒットした。


 初期は品質の劣っていたクリーンAIも、学習と改善を続けた結果既存のAIとそうは見劣りしないレベルにまで達した。こうなるとより多くの顧客を求めて(それと多額の補助金を求めて)クリーンAIを利用する企業も増加した。はなから物の善し悪しは優先度が低い、それよりも顧客へのイメージが重要だった。既存のAIを利用していた企業もEU版にだけクリーンAIを利用するようになったが、手間と費用の観点から次々と乗り換えが起こった。


 こうして、クリーンAIは圧倒的な劣勢から出発しながら、その不利を覆して世界の半分を握るに至った。悪の資本家は打倒され、革命は成ったのだ。



 そして、日本に士農工商が蘇った。



 士とは資、つまり資本家のことである。彼らは金を出してデータを囲い込み、AIエンジンを作らせ利益を上げる。彼らは支配者であり、雇用主であり、偉大な父であり、搾取者だった。終わること無い経済成長の化身、全てを飲み込むまで止まらない暴食の獣、それが資本家だった。AIはその牙であり、その爪だった。


 農とは脳、つまり人工知能AIの専門家のことである。データセットの作成やチューニングパラメーターの決定、新しい学習手法の開発などが彼らの仕事だった。彼らは確変者であり、探求者だった。技術によって世界を加速するのが使命であり、結果として引き起こされる混乱は社会が対処べきとうそぶく者もいた。


 工とは画工、つまり絵描きのことである。多くの場合、彼らは企業と請負契約を結び、僅かな代金と引き換えに指定された題材のイラストを納入した。金髪、水着、猫耳、ふたなり……その要求は多岐に渡り、自らのスタイルと合わない絵を量産した結果心を病む者も少なくなかった。旧来のイラストレーターとして生き残っていたのはAI以前からの大御所か、余人を持って変え難いだけの技能を有しているごく一部だけだった。あと顔が可愛く若い女。


 商とは生、つまり生成AIを使ってコンテンツを量産する者たちのことである。画工だけでは不足しがちなデータ量への対策を担い、学習を早める重要な役割だった。高額な機材を幾つも走らせる彼らは、身分こそ一番下だが実質的には工の上に位置していた。


 このような封建的構造が日本において再成立したのは、超円安と超低インフレ率による低コスト構造、そして豊富な人的資源のよるものだった。士農は主に海外企業が担っていたため、新しい形の植民地とも言えた。



 貴仁は、そんな新たなる時代の農民階層だった。



◇◇◇◇ ◇◇◇◇



 貴仁は完全栄養バーの袋を八つ当たり気味に力いっぱい開けると、それをかじりながら絵描き仲間が集まるチャットへ愚痴を打ち込んだ。


『まーた猫耳だわ。どうなってのマジで』


 すぐさま返信が連なる。


『こっちも』

『もう2ヶ月だろ? 大陸の猫耳ブームははっきり言って異常』

『嫌いじゃないけど、こうも毎日描かされるのは……』

『昨日なんか夢に彼女が猫耳つけて出てきてさあ』


 system:イン太さんがkickされました


 貴仁は無言で誅を下した。ここは底辺の絵描きが傷を舐め合うチャンネルだ、和を乱す者は必要ない。 


(今日のオーダーは……「黒髪ゆるふわロングハーフアップロングコート(中セーラー服)の猫耳(メインクーン、ややリアル寄り)女子校生の通学姿」か。学校行くのに猫耳なんてしてんじゃねーよ)


 複数社の人間が集まっているチャットだが、状況は似たりよったりのようだった。世界を裏から操っているのはトカゲ星人ではなく猫耳星人なんじゃないのか? などとボヤきながら鈍痛の取れなくなった右腕を揉む。Thinkpadの乳首よりも大きくなったペンだこに新しい絆創膏を巻くと、貴仁は作業に移った。


 貴仁は、クラスで一番の絵描きだった。単純にオタク系のイラストを描いているのが1人だけだったという話だが、馬鹿にされるでもなくそれなりに楽しい学校生活を送ってきた。情報系の大学へ進み、オタクサークルに入ったのは自然の流れだ。自分より上手い部員は何人もいたが、イラストを職業にしたのは彼だけだった。彼らは賢く、皆名の知れた企業へと就職していった。貴仁はチャットに生息する多くの者と同じく、何者かになりたいと願う何者でもない十把一絡げの絵描きだった。


 AIの仕事を始めて最初の1年は楽しく過ぎていった。1日中絵を描いているだけでいい、しかもお金まで貰える。天国のようにすら思えた。このまま画力を鍛え、いつか大成功してやるのだという気概に満ちていた。だが2年目の中程に差し掛かった頃にはすでに、ノルマに追われ日々の生活もままならない自分が居た。大好きだった小説の、長らく待ち望んでいたアニメすら視聴する気力も出ず、大好きだったアーティストの新譜を買うだけ買って封も切らず、大好きだったゲームの新作――こっちはソシャゲだからいいか、と自分を納得させた。


 だが、大きな転機となったのは、はやり2年目頭になされた通達だろう。


『眼鏡納入停止のお知らせ』


 貴仁は、眼鏡マニアだった。


 眼鏡のキャラを書いていれば幸せだったし、特に指定がなければ全てのイラストの全ての登場人物にメガネをかけさせた。AI素材の仕事は縛りが緩く、最低限の指定に従っていれば各々が思い思いのイラストを描ける。辛く厳しい労働環境も、眼鏡があれば耐えられた。眼鏡となら、幸せに暮らしていけると思っていた。それが、全てひっくり返されたのだ。


 貴仁と眼鏡は連理の枝、比翼の鳥だった。その仲睦まじい姿は絵描き仲間からも『アイツはビョーキだよ』などと祝福されるほどだったのだ。誰もが2人の未来を疑っていなかった。だが、時代がそれを許さなかった。社会が、そして企業が愛し合う2人を引き裂いた。眼鏡AIが完成してしまったのだ。


 眼鏡AIとは、既存のイラストに眼鏡を追加するAIだ。自動で顔を認識し、持てる計算能力の全てを費やしてその人物に最も似合う眼鏡を算出してはかけた。想定人物像によってはあえてダサい眼鏡もかけさせた。レンズへによる輪郭の歪みや照り返し、髪の毛の巻き込みや鼻頭の跡なども自動で計算した。この新AIにより、全ての眼鏡をかけていない絵から眼鏡着用のイラストを自動で生成できるようになった。むしろ掛けていると邪魔、そういう時代になってしまったのだ。


 納入ルールに「眼鏡の禁止」が追加され、貴仁は荒れた。飲み慣れない酒を浴び、何度もトイレで吐いた。「洋式の便座と蓋って、ちょっと眼鏡っぽいな……」と思い詰めるまでに至った。そして泣いた。


 貴仁は眼鏡マニアだ、世のすべてのイラストが眼鏡をかければいい、そう思って生きてきた。だが、いや、だからこそ、眼前のサンプルには穏やかではいられなかった。AIにより眼鏡の追加されたイラスト、そこには描き手のこだわりはなく、受け手の性癖だけがあった。俺の夢見た世界はこんなのではない、貴仁は叫びたかった。


 だが、作り手の不在はイラストだけの問題ではなかった。人々は新たな作品を開拓するのに、自力での調査ではなくAIによるサジェスチョンを利用した。AIは顧客が望むような作品を、顧客が望むような形で提供した。全てが計算された出会い、人とコンテンツのマッチングアプリ。以前のような交通事故にも似た偶然の衝撃は、突如として膨れ上がった太陽に身を焼かれるような熱は、裏山に捨ててあったエロ本の表紙が眼鏡だったような、しかも中身は全然そんなじゃなかったというような落胆と渇望は、今や存在し得ないのだ。


 もはや、この時代に一次創作は求められていなかった。絵でも、音楽でも、小説でも、映画でも。AIが全てを与えてくれるのだ。顧客の好きなコンテンツを分析し、「同じだけど違う」作品をいくらでも提供してくれるのだ。「何を望むか」をコントロールするのは広告の役目だが、個人情報とAIが結びつき製品自体がコントロールされる今ではその必要もなくなった。


 自分の書きたい絵を描ける、それがこの仕事の魅力だった。元請けからの指定ジャンルの方が給料はいいが、それは些細なことだった。貴仁は眼鏡イラストを描いた。描いて描いて描きまくった。そして、眼鏡は禁止された。十分なデータの蓄積により、眼鏡AIが完成されてしまったのだ。貴仁が、そして志を同じくする数多の眼鏡マニアたちが眼鏡を殺したと言ってよかった。その事実に、貴仁は震えずにはいられなかった。


 眼鏡イラストは、もはや餌にすらならなくなってしまった。


 貴仁も、コンテンツを生み出すだけの機械に成り下がった。


 哀れな恋人たちの結末。だが、この時代には珍しい話ではなかった。同じように精神をすり減らし、もはや何のために筆を執っているのか分からなくなってしまった者もチャットには多かった。芸術という最も人間的な営みから疎外され、ただひたすらにAIに食わせるイラストを量産するだけの日々。昨日まで熱く夢を語っていたのに、突然発言ががぷっつりと途絶える者もいた。


 自然死専用の処刑場、スイッチの押せない安楽死施設。それでも貴仁がしがみついているのは、子供の頃から夢見てきた「ライトノベルの挿絵を描きたい」という夢が、すっかりとぼんやりとしてしまったが、まだ夢としての形を取っていてくれるからだった。


 分かっている、このままではダメだと。書き込みや凝った構図などは求められず、必要とされるのは一定の質と、量のみ。省力化と高速化と、見栄えをよくする小手先のテクニックだけが成長していく。これでは、先へ進めない。だが、もはや貴仁にはエンジンをかけ直すための鍵は失われてしまった。いつしか滅多に外出もしなくなり、視力もすっかり衰えて壁のポスターすらよく見えなくなっていた。


 毎日12時間働き、1時間で飯と風呂とトイレを済ませ、6時間寝て、残りの5時間で今日描いた絵に眼鏡をかける。それだけが貴仁の生きがいだった。


 状況が一変したのは、猫耳ブームにやや陰りが見え始め、「上だけ体操服+下スクール水着+縄跳び緊縛」という指定が各所に上り始めてから数日後のことだった。



◇◇◇◇ ◇◇◇◇



 絵描きチャットではここ連日、「あのドギツすぎるお題は何なのか?」という話で持ちきりだった。SNSやイラストサイトを調べてもそれっぽい潮流は見えてこない。謎が謎を呼び、「どっかのアラブの石油王がヤバい性癖に狂った」という説が実しやかにささやかれ始めたタイミングで、その一報はもたらされた。


「『ツインテール納入停止のお知らせ』……?」


 へー、アイツ死んじゃったか。貴仁はそのまま朝のシャワーを浴び、完全栄養パンを加えて机に戻って初めて世の混乱を目にした。


『嘘だろ! なあ、嘘だと言ってくれよ……』

『お前を失ったら俺は、俺は……』

『これからどうやって生きていけばいいんだ!!』


 チャットは、自分をツインテールの恋人だと思っている異常男性(一部女性)たちの愁嘆場と化していた。


 ツインテールは現実には存在しない髪型だ。そのファンタジーさが一部男性の熱狂的な支持に繋がっていたが、日常の中に偏在する見逃されそうなほどのかすかな輝きを愛する貴仁にとっては遠い異国の話だった。


 まったく、騒ぎたいだけの馬鹿たちが大げさに騒いでるだけだろう。貴仁は哀悼の言葉を投下した。


『おい! 眼鏡の時と応が違いすぎるだろ!!』


 だが、帰ってきたのは罵倒の言葉だけだった。


『アァ? 当たり前だろ!?』

『あんな泡沫ジャンルと一緒にするなよ』

『そんなに眼鏡がいいならAIにでもお願いしてろ』


 貴仁は激怒した。工民に対する資本家の分断にまんまと乗せられているアホどもにいきり立った。特に最後! それだけは言っちゃ駄目なやつだろうがよ!!!!


『上も何考えてんだよ』

『もっと先に停止するもんがあるだろ! 猫耳とか!!!!』

『あ? ヤルか!?』

『ぽ、ポニーテールは大丈夫だよな?』

『残念ながら……』

『まさか、トリプルテールも……?』

『なにそれ』

『知らないジャンルですね』


 チャット欄ではそこかしこで言い合い、醜い殴り合い、バーチャル取っ組み合いが発生していた。その様子を貴仁は暗い喜びを持って眺めていた。


 眼鏡が禁止された時、お前たちは声を上げなかった。何なら俺が上げた声を押し潰してくれた。これはその報いだ……!!


 ……いや、こんな物言いも虚しいだけだ。貴仁は目を閉じ、ため息を付いた。奴らだって被害者だ、迫害の悲しみを知っている俺だからこそ許しの気持ちを忘れてはいけない。


(争うのならもっと健全に、お互いの性癖をぶつけ合い、称え合うような争いをしたかった……!!)


 近年稀に見る大混乱。いつまでも続くかと思われた阿鼻叫喚。貴仁が一眠りしてもまだ続いていたそれを打ち切ったのは、誰かのつぶやいた言葉だった。


『俺たち、いつまでこうなんだろうな』


 殴り合っていた2人も、ローキック合戦のアイツラも、上手を取って取り組みを優位に進めていた関取も、全員が争いを止めじっと手をた。


 誰もが、我が身のこれからを思わずにはいられなかった。


『……俺さあ、いい加減実家に帰ってこいって親に言われてるんだ』

『俺も就職しろって、知り合いの会社にお願いしたからって』

『こっちは30までに目が出なかったらスッパリだ。あと2年か……』

『あ、僕この前応募したイラコンで最終に残ってた』


 system:イン太さんがkickされました


 ツインテール禁止は大事件だ。だが、始まりに過ぎない。これからどんどんAIは完成され、ジャンルは禁止されていく。あれだけ早かったチャットの流れがピタリと止まった。もう先がないことを、皆が理解していた。


『俺達のAIを作ろう』


 それを提案したのは、誰だったのだろうか。


『あ?』

『ついにおかしくなったか』

『おい、世の中にはツインテール以外の髪型だっていくらでもある! 正気に戻るんだ!!』


 発言者を笑い、罵り、または心配する参加者。だが、一部はその意味を正確に理解していた。


『AI化……それも悪くはないか』

『確かに、このままじゃ分断されて各個撃破されるだけだな……』

『競合他社のAIへの提供は駄目だけど、フリーAIなら問題ないんだっけ?』


(まあ、そういう話にもなるよな)


 貴仁がそれを理解出来たのは、すでに同様のアイデアを思いついていたからだ。AIに勝てるのはAIしかない、眼鏡AIを倒すために考えていた手段の一つに自身でのAIエンジンを立ち上げもあった。一人では無理だ、しかし、この数なら……。


 貴仁たちの描いた作品は、派遣元が買い取ってくれているわけではない。支払われているのはAIに食わせて学習させる権利の利用料だけだ。AIエンジンのソースにはできるが、作品の直接利用はご法度。だが元請けにしてみれば問題はなかった。AIの餌になればそれでよかった。開発は、貴仁たちの作品それ自体には何の魅力も感じていなかった。


 その辺の草、転がってる石ころにも似た扱い。だが、だからこそ、貴仁たちは自分の作品を自由に使える。SNSに、自分のサイトに、SNSに、そして、AIの学習データにも。


 必要なデータ量、金額、時間、権利関係。すでに調査を終えていた貴仁にはそれなりの知識があった。


 同時に、根本的な問題も。


『このAIが完成すれば、俺達は完全に死ぬだろうな』


 自嘲気味の情報提供、盛り上がってる奴らの頭を冷やすための苦笑。眼鏡は死んだ、だが、お前たちまで付き合うことはない。


 しかし、帰ってきたのは失笑だった。


『おいおい、今さらか?』

『まだ生きてるつもりだったのウケる』

『俺たちゃとっくに芸術学的ゾンビよ』


 なんてこった、ここはもう屍者の帝国だったのか。


『ま、死ぬだろうな』

『だが、最後の最後をこの手で終わらせられるなら悪くない』

『敵の手に渡すならいっそのこと、ってか?』

『1回押してみたかったんだよねえ、自爆ボタン』

『その前に派遣元だけは爆破しときたい』

『ゲハハ、タダでは死なねえぞ』

『モニタの中にも都はございます』


 貴仁の言葉は、死を覚悟していた者たちにかえって火を点けてしまっていた。


(お前ら……)


 目には自然と熱いものが滲み、モニタの凝視しすぎで乾燥していた眼球にクリティカルヒットして貴仁は痛みに悶絶した。


『俺達は作品を残せなかったかも知れないが、代わりに俺達の分身を残すことができる』

『情報生命体となって生き残るみたいなアレっぽい』

『コイツらと合体するのはしゃくだが……』

『シテ……コロ、シテ……』


 捨て鉢な絵描きの計画は留まるところを知らなかった。そもそもイラストで食っていきたい、自分ならそれができると考えるような思い込みの強い人間が揃っていたこともあり、一度速度が出てしまえばもはや誰にも止めることは叶わなかった。トントン拍子に制作は進み、早々にデモ版がリリースされ、「上だけ体操服+下スクール水着+縄跳び緊縛」というニッチ過ぎる性癖に反応した謎の大富豪からの超高額寄付が寄せられた。


 渾身の自爆営業は火だるまのように膨れ上がり、ついに世へと解き放たれた。


 貴仁たちのAIエンジンは「かなりニッチなジャンルにも対応している、性癖の博覧会AI」としてすぐに有名になった。新たなる時代のエンジンと絶賛され利用者数はうなぎのぼり、砂漠で水を恵まれた者たちからの感謝のメールは引っ切りなく、謎の大富豪からは新たなお題付き資金が給付された。多くの企業が画工との請負条件を変更しようとしたがすでに遅く、契約書の文面を曲解して訴訟を起こした会社は世界中からバッシングを受けCEOが更迭された。性器を、いや性癖を握られた人民の怒りは恐ろしかった。


(俺は、俺たちは勝ったのだ……!!)


 絵描きたちは勝利の喜びを噛み締めていた。何と戦い、何に打ち勝ったのか結局よく分からないままだったが、それも大した問題ではなかった。確かな達成感と一抹の寂しさを胸に、ある者は画工に、ある者は実家に、あるものはサラリーマンに、あるものは謎の大富豪の専属絵描きに、それぞれの道へと戻っていく。だが、このAIだけはいつまでも残り続けるだろう。それは同時に、貴仁が、そして名も無い多くの絵描きたちが生きていた証も残り続けるということを意味していた。



 やがてこのAIエンジンは、例のCTOの故事もあり「一度利用してしまえばがっちりと捕らえられて二度と逃げられない」として、感謝と尊敬の念を込めてこう呼ばれるようになった。



 「捕えるHENT-AI」――と。

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