第2ゲーム 新入生たちの実力(1)

「ねぇ、いおり、大丈夫? 昨日、何があったの?」


 翌朝――。全身に湿布を貼りつけたまま登校したいおりに、翡翠は思わずギョッとして声をかけた。


 昨晩、バスを見事に乗り遅れ、漆羽の発言が頭にこびりついて眠れず、さらに筋肉痛で迎えた朝。いおりの気分は最悪だった。


「色々あったんだってば」

「その“色々”を聞いてんだけど?」

「……話す気力もないんだよお……」


 いおりは大きくため息をつき、疲れ切った表情で肩をすくめた。翡翠は呆れたように眉を上げつつ、そっといおりの隣に腰を下ろす。


「どうせ漆羽くん絡みでしょ? 昨日アイツと何かあったんじゃないの?」


 核心を突く翡翠の言葉に、いおりは少しだけ顔をしかめた。


「……バドミントンやらされた」

「は? やらされたって、どういうこと? 練習終わりに?」


 翡翠は目を丸くして驚く。その反応に、いおりは机に突っ伏し、ぼそぼそと答えた。


「アイツ、容赦なかったの。こっちはほぼ引退状態なのに、軽くやるつもりだったのにさ……」

「……で、その有り様ってわけね」


 翡翠は呆れつつも同情の色を浮かべ、軽くいおりの肩を叩いた。


「でもさ、漆羽くんとあんたって同じ中学だったんだよね? 久々にはしゃいじゃったんじゃないの?」


 翡翠の何気ない言葉に、いおりは一瞬黙り込んだ。翡翠には、自分が鳳凰学院出身であることは話しているが、中学時代の詳細までは伝えていない。漆羽との関係や、昨日の彼の言葉――それらをどう整理すべきか、いおり自身まだ答えが出せずにいた。


「……まぁ、アイツが何考えてるかなんて知らないけど」


 そう適当に答えながらも、いおりの頭の中は漆羽の真意で埋め尽くされていた。


 その時、次の授業の開始を告げるチャイムが鳴り響き、二人の会話は強制的に中断された。机に突っ伏したままのいおりは、翡翠の顔を見上げることなく、小さく呟いた。


「……本当、何がしたいんだか……」


 翡翠は何か言おうとしたが、結局何も言わずに席を立った。漆羽との再会がもたらす波紋は、まだ始まったばかりだった。


 部活の時間――。

 いおりはいつもより念入りに準備を進めていた。ラケットの確認、ネットの調整、器具の整理――手際よく動く自分に、少しだけ満足感を覚えていた。しかし、そんな静かな時間は唐突に破られた。


「おはようございます。今日は時間通りに来ましたよ」


 軽やかで耳慣れた声に、思わず顔色が青くなる。振り返ると、漆羽がいつもの笑顔を浮かべ、すぐ背後に立っていた。昨日、いおりの顔面にサーブを打ち込んだ本人の、まるで何事もなかったかのような態度。それが、いおりの胸に余計な引っかかりを生む。


「あ、うん……偉いねぇ、漆羽くん。ちなみにもう入部届けは出したの?」


 いおりは努めて平静を装い、表情を取り繕う。しかし、内心では漆羽への不信感が消えない。


「いや、まだ出せなくて……早く出したいんですけどね」


 漆羽の言葉はどこか無力感を含んでいた。本気で入部したいのは伝わるが、その真意がわからないままでいることが、いおりにはもどかしかった。


「ウチも早く入って欲しいよー!即戦力だし!」


 翡翠が明るく声を上げる。その無邪気な言葉に、いおりは少しだけ目を伏せる。翡翠には、漆羽の存在が『即戦力』以上の何かとして映っていないのだ。


「はは」


 漆羽の返事は冷ややかとも取れる響きだった。いおりは、自分に言い聞かせるように心の中で繰り返す。「今は部活に集中しなきゃ」と。気を取り直して動き出したその時、漆羽の声がまたしても背後から飛んできた。


「それ、代わりますよいおりさん」


 その言葉には、どこか余裕が滲んでいた。振り返ると、漆羽はいおりの持っていた道具を手に取っている。


「準備は僕がやっておきますから、休んでてください。無理しない方がいいですよ」

「え、漆羽くんって、いおりのこと下の名前で呼んでんの!?」


 翡翠のからかうような言葉に、いおりは思わず口元を引き締めた。その反応を見た翡翠は、ニヤニヤと笑いながら、わざとらしく肘でいおりをつついてくる。鋭い痛みが肩に走った。


「いやぁ、微笑ましいなぁ。推しコンビになりそ」

「マジでやめて」


 思わず語句を強めて、漆羽の方を見ながら言う。漆羽は、いつもの冷ややかな表情を崩さず、少しだけ微笑んだが、それは何とも含みのある笑みだった。


「いおりさんの直接指導を受けてたので、相性は悪くないと思いますよ。まあ、当時はいおりさんには正式なペアがいましたけどね」


 漆羽がわざと試すように言ったその言葉に、いおりは内心で苛立ちを覚える。過去を引きずり出されるような感覚に、思わず言い返しそうになるが、なんとか冷静さを保つ。


「へー、鳳凰学院も男女混合ダブルスだったんだ。じゃあいおりも結構大会出てんだね」

「まあね」


 いおりが淡々と答えると、翡翠はますます興奮した様子で目を輝かせる。


「ってことは――いおり、番がいるってこと!?えー、気になる気になる!」

「番じゃなくてペアね!?」


 反射的に強く突っ込んだいおりの顔は、赤く染まっていた。何とか平静を装おうとするが、隣の漆羽の冷静な態度がそれを許さない。彼は肩をすくめながら淡々と言葉を続ける。


「当時は最強コンビでしたね。いおりさんも相当な戦力でしたし、あの人――ペアの相手も、シングルスでもダブルスでも最強でした」


 その言葉に、いおりは一瞬、胸の奥がちくりと痛むのを感じた。昔のペアとのことを思い出してしまい、どこか懐かしく、そして今の自分が少しだけ空虚に感じられた。それでも、やり過ごさなければと深呼吸をし、笑顔を作り直す。


「まあ、そうだったかもね。でも、いちいち思い出させないでよ」


 漆羽は目を細めて静かに答えた。


「勝手に思い出しただけでしょう?」


 冷たいようで含みのあるその言葉に、いおりは何も言い返せなかった。普段の彼なら、こんな挑発的な話題をわざわざ持ち出さないはずだ。


「そ、そうだね……」

 

 いおりは力なく言いながら、少し視線を外した。漆羽のその静かな言葉の中に隠れた意味を察するのが怖かった。過去を引きずられるのが嫌だった。だけど、漆羽は一歩も引かず、何かを訴えるようにいおりに視線を送る。


 翡翠がその空気に気づき、急に笑いながら話題を変える。


「ふふ、やっぱり二人とも仲良しだね!じゃあ今回、公式ペアになるのは二人かな」

「いやぁどうだろうね」


 いおりは話題を逸らそうと意識的に答え、準備を進めた。漆羽も黙ってその様子を見守りながら、自分の作業に戻る。普段なら何でもない会話のはずだったが、今はその一つ一つが妙に気になり、空気が重たく感じられる。

 その沈黙を破ったのは、翡翠だった。彼女は二人の間の微妙な空気を感じ取り、少し早足で歩きながら言った。


「ねえ、いおり、漆羽くん、早く準備して!練習始まっちゃうよ!」


 その言葉に、いおりはようやく我に返った。試合の準備をしなければならないことを思い出し、気を取り直して道具を手に取った。漆羽もその隣で黙って作業を進める。普段なら、こうして一緒に準備をすることに特別な意味はなかったはずだ。しかし、今はその一つ一つの動作が妙に気になり、どこか気まずさを感じていた。


 しばらくすると、漆羽が静かに口を開いた。


「いおりさん、これからどうするつもりですか?」


 その言葉に、いおりは一瞬だけ手を止めた。漆羽の目がじっとこちらを見ていた。どこか温度の低い目がいおりの胸に圧をかけるような気がした。


「……どうするって、何を?」


 いおりは冷静を装って答えるが、その心の中では漆羽の意図を探ろうとしていた。何かを問いかけているのだろうか。それとも、過去のことを再び蒸し返そうとしているのか。彼の言葉の裏にあるものを知りたくなくて、知らないふりをしている自分がいた。

 漆羽は少しだけ沈黙を保ち、いおりの反応を見ていた。そして、ようやく短く答える。


「決めるのは、いおりさんでしょう?」


 その一言に、いおりは一瞬、言葉を失った。漆羽は、無理に何かを強要しようとしているわけではなかった。ただ、それ以上に深い意味が込められているように感じられた。自分が今、何をすべきか、どんな決断を下すべきか、全ては自分にかかっている。


 その重さに、いおりは無意識に肩を固くする。緊張感と、漆羽との微妙な空気が交差する中、ようやく口を開く。


「……私、ちゃんと自分と向き合うよ」


 その言葉に、漆羽はただ黙っていた。何も言わず、ただその場に立ち続けた。

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