第1ゲーム 影との再会(5)

 体育館の片隅にある道具棚に目をやり、簡易的なネットが置かれているのを見つける。いおりはそれを手に取り、少し面倒くさそうに立て始めた。ネットは簡単に設置できるタイプで、足元に広げて数回引っ張るだけで、すぐにネットが張られる。漆羽がもう待ちきれない様子で戻ってきて、いおりの準備を見て少しだけ笑った。


「やる気出ましたね、いおりさん」


 その言葉に、いおりは一瞬眉をひそめる。


「ちょっとだけだから。すぐ終わるでしょ?」


 漆羽はただ静かに頷き、再びラケットを構えてスタンスを取る。

 

 「じゃあ、ます軽くラリーでもしましょうか」


 漆羽が楽しそうに言いながらラケットを差し出してきた。いおりは少し躊躇しながらも受け取り、距離を取って構える。


「手加減してよね」


 いおりが警戒するように言うと、漆羽は笑いながら軽く頷いた。


「もちろん――昔のままのいおりさんを、相手にするだけですよ」


 その言葉に何か引っかかるものを感じながらも、いおりはシャトルを打ち返した。軽快な音が体育館に響き渡る。

 

 ラケットの先に乗せられたシャトルが、軽やかな弧を描いて飛ぶ。いおりは少し膝を曲げて構え、正確なタイミングで打ち返した。シャトルは漆羽の方へと一直線に向かい、ふわりと吸い込まれるように彼のラケットに収まる。しかし漆羽は余裕たっぷりの動きでシャトルを返してきた。そのスイングは滑らかで、力みのない自然なものだった。それに対し、いおりはややぎこちない動きながらも、なんとか追いついて打ち返す。


「お、いい感じじゃないですか。まだ身体が覚えてますね」

 

 漆羽は軽く微笑みながら、少し強めのショットを放った。シャトルはスピードを増し、いおりのコートの隅を狙うように飛ぶ。


「……やっぱり全然手加減しないじゃん!」

 

 いおりは小さく息を吐きながらも、素早く足を動かし、懸命にシャトルを追う。そしてギリギリの体勢で返球に成功。シャトルは高く舞い上がり、漆羽の頭上にゆっくりと降りていく。


「ナイスリターン!」

 

 漆羽は笑顔を崩さず、一歩前に出て、軽くスマッシュの構えを見せた。しかし、力を抜いたショットでふわりとシャトルを返してくる。いおりはそれを素早く拾い上げ、再びラリーが続いた。


 シャトルが空中を飛び交い、音が規則的に響くたびに、いおりの動きは次第にスムーズになっていく。だが、その一方で、漆羽の動きの正確さと余裕には目を見張るものがあった。まるで、彼がすべてを支配しているような感覚が、いおりの中に不安を呼び起こす。


「やっぱり漆羽くん、上手いね……」

 

 いおりは息を整えながら呟くが、漆羽は笑顔のまま答えた。


「いおりさんの方が思ったより動けてますよ。でも、次は本気でいきますね」


 その言葉と同時に、漆羽のスイングが鋭くなり、シャトルが風を切る音を立てる。いおりはその速さに驚きつつも、必死に反応しようとするが、シャトルは容赦なく床に突き刺さるように落ちた。


「……漆羽くん、なんか本気すぎない?」


 いおりが息を切らしながら問いかけると、漆羽はわざとらしく肩をすくめてみせた。


「そんなことないですよ。ただ、楽しくなってきただけです」


 その笑顔にはどこか冷たさが混じっているように見え、いおりの胸にひっかかるような違和感が広がった。思わず息を整えながら、ラケットを下ろして一息つく。

だが、その瞬間、漆羽の目が僅かに細まり、視線が鋭くいおりを射抜いた。


「いおりさん、もう終わりですか?」


 笑顔を浮かべたままの彼の声には、何か試すような響きが含まれていた。その声色に、不意に背筋がぞくりとする。


「いや、まだやれるよ」


 いおりは咄嗟に答えるものの、内心では漆羽の急な変化に戸惑っていた。それを悟られまいとラケットを握り直すが、彼の瞳はまるで何かを確かめるかのようにいおりの動きを逃さない。


「なら、もう少し楽しみましょう」


 次の瞬間、漆羽のスイングはさらに加速し、シャトルの軌道がまるで乱れるように変化した。それは意図的な挑発とも取れる動きで、いおりはそのプレッシャーに飲まれないよう必死に食らいつく。


 だが、漆羽はなおも軽々とそれを捌きながら、にこやかに言葉を重ねる。


「いおりさん、本気の相手をするのって、結構疲れるでしょ?」


 その言葉に、いおりの手が一瞬止まりそうになる。漆羽の声色には確かに柔らかさがあるのに、その裏側に潜む別の感情が見え隠れしていた。


「疲れるっていうか、容赦なさすぎっ……!」


 いおりは汗を拭いながらも声を張り上げ、気力を奮い立たせるように漆羽に返す。しかし、その声とは裏腹に、腕の疲労がじわじわと襲いかかり、呼吸も荒くなりつつあった。


「そうですか。それなら、もう少しだけスピードを上げても大丈夫ですね?」


 漆羽の笑顔は変わらないが、次に放たれたシャトルの勢いは明らかにこれまで以上だった。まるで弾丸のような鋭さに、いおりは反射的にラケットを振るう。何とか返球はしたものの、体勢は崩れ、足元がふらつく。


「ほらほら、いおりさん、しっかりしてくださいよ」


 漆羽の声が楽しげに響く一方で、シャトルは再び容赦なくいおりのコートへと飛び込んでくる。いおりは必死に追いすがるが、次第に追いつけなくなり、次々と得点を奪われていく。


「ちょっと待って、漆羽くん、それはさすがに速すぎ――!」


 いおりが抗議するように声を上げるが、その瞬間にも漆羽はもう一球を放っている。その速さに対応しきれず、いおりのラケットは空を切った。


「え、待つんですか?」


 漆羽が悪びれた様子もなく微笑む。その言葉に、いおりは息を呑むと同時に、漆羽の笑顔に隠された冷酷さを感じ取る。


「いや、もうちょっと加減してくれても――!」


 いおりが慌てて言い終えるよりも早く、漆羽のラリーはさらに激しさを増していく。シャトルの軌道は、もはやいおりを翻弄するためだけに設計されたかのようだった。


「いおりさんはあの鳳凰学院の元エースだったじゃないですか。そんなあなたにとってこれくらい、余裕ですよね?」


 漆羽の言葉に余裕が感じられる一方で、いおりはそのたびに追い詰められていく。握ったラケットが汗で滑りそうになりながらも、必死に漆羽のペースに食らいつこうとする。


「そんなの、もう何年も前の話だってば!」


 いおりは必死に返すものの、ラケットを握る手が震え始めていた。汗が滴り落ち、視界がぼやける。それでも、漆羽の容赦ない攻めは止まらない。


「そうですか。でも、昔の実力が完全に消えるわけじゃないですよね?」


 漆羽は軽い調子で言い放つが、その眼差しには鋭い光が宿っていた。まるでいおりの限界を試しているかのような冷たい視線だった。


「……!」


 いおりは喉の奥が詰まる感覚を覚えながらも、言葉を飲み込む。シャトルが床を叩く音が耳に響くたび、漆羽のラリーは一層狂気じみた強さを増していく。


「ねえ、いおりさん」


 漆羽が急にシャトルを止めた。微笑んだまま近づいてくるその姿に、いおりは無意識に一歩後ずさる。


「昔、試合で誰かを圧倒するのって、楽しかったですよね?」


 その声は穏やかだったが、底知れない何かを秘めていた。いおりは返す言葉を失い、漆羽の表情をじっと見つめる。だが、その笑顔の奥には、どこか人間味のない冷たさが透けて見える気がした。


「……何が言いたいの?」


 いおりはようやく声を絞り出す。それでも漆羽は表情を崩さず、シャトルを軽く指先で弾きながら静かに答えた。


「いえ。ただ、昔のいおりさんと今のいおりさんが全然違うのが、面白くて」


 その瞬間、漆羽の手から再びシャトルが放たれた。いおりのコートに向かうそれは、まるで彼の言葉の真意を伝えるかのように鋭く、重く、冷たい軌道を描いていた。いおりは咄嗟にラケットを振るったが、そのシャトルの勢いに押され、打ち返すどころかラケットから弾かれるように手元が乱れた。


「ちょ、今のはさすがに――」


 動揺を隠せないいおりが抗議しようとするが、その言葉を遮るように、漆羽は一歩前に出てくる。その足取りは軽いはずなのに、いおりにはどこか圧迫感を覚えた。


「漆羽くん、もういいでしょ。帰ろうよ」


 いおりがそう提案すると、漆羽はラケットを片手に持ちながら、更にゆっくりと歩み寄ってきた。ネット越しに見つめるその表情は穏やかだったが、目の奥には何か底知れぬものが潜んでいるように感じた。


「帰ろうって、なんで?」


 その声は、先程の軽やかさを失い、少し低く響き、いおりの心に重くのしかかる。


「なんでって……」

「まだ始まったばっかじゃん」


 その言葉に、いおりは思わず肩を震わせた。漆羽の笑顔は変わらないものの、その目には確かに冷徹なものが宿っていた。何かが違う――それが、いおりには痛いほど伝わってきた。


「いやだって、早くしないとバスが――」


 いおりはぎこちなく言葉を続け、無理に笑顔を作ろうとしたが、口元が動かない。冷たい汗が背中を流れ、焦燥感が広がる。漆羽は無言でじっと彼女を見つめ、その視線が無言のプレッシャーとなっていおりに重くのしかかった。


「じ、じゃあ……ちょっと休憩しようか?ほら、お互い積もる話もあるしね」


 いおりは言いながらラケットを軽く地面に置こうとした。しかし、漆羽の鋭い視線が一瞬、いおりに向けられたことで、思わずその手が止まる。漆羽は笑顔を崩さずに、冷静に言葉を続けた。

 

「そうですね。じゃあ早く、聞いてくださいよ。――なんで俺が、わざわざこんな学校に来たのかって」

「え?」

「ほら、早く」

 

 不気味なほどニコニコしている漆羽に違和感を抱えつつ、いおりはあえて冗談を言って空気を誤魔化そうとした。

 

「そりゃあ、ほら。漆羽くんって、中学の頃は少し……まあ、少しってほどでも無いけど……ちょっと尖ってたからね。居づらくなっちゃったとか?」

 

 そう自分で言って笑ってみせるが、漆羽の目は鋭くなるだけだった。空気が数段と冷たくなり、息苦しいほど重くなっていくような気がした。

 

「へえ、そう思うんだ。さすが、いおりさん。俺の性格、よく分かってる」


 いおりは無意識に一歩後ずさる。彼の声には、静かだがどこか底知れない圧力が感じられた。


「居づらくなった、ね? まあ、半分は正解かもしれませんね」


 漆羽は目を細めながら続ける。

 

「でも、もう半分は違う。俺は――逃げたんじゃない。探しに来たんだよ」

「探しに?」

 

 いおりは眉をひそめた。


「そう」

 

 漆羽の声は穏やかだが、その瞳の奥には冷たい光が宿っていた。

 

「いおりさんみたいな人を」

「……私?」


 漆羽は何も答えず、ただ微笑んでいた。その笑みには、得体の知れない薄暗さが宿っている。いおりはぞくりと背筋が震え、視線を逸らすこともできずにその場に立ち尽くした。周囲の喧騒が遠ざかり、世界に二人だけが取り残されたかのような感覚が広がっていた。


「俺、あんたと一緒に地獄に落ちようと思って」


 その瞬間、漆羽はラケットを構え直すと、次の瞬間には風のように速く動き出した。いおりはその動きに反応する暇もなく、漆羽のスマッシュが空気を切り裂いて、シャトルがまっすぐいおりの顔面に向かって飛んできた。


「え――!」


 いおりは反射的に顔を背けようとしたが、間に合わなかった。シャトルが顔面に当たった瞬間、衝撃と痛みが走り、視界が一瞬歪んだ。ラケットが手から抜け、シャトルの反動で体が後ろに倒れそうになったが、何とか踏みとどまった。


「いおりさん、大丈夫ですか?」


 冷ややかな声が耳に届く。その言葉には、心配の色など微塵も感じられない。むしろ、どこか嘲笑うような響きが含まれていた。


 いおりは顔の痛みをこらえながら、漆羽を見上げる。先ほどまで浮かべていた柔らかな微笑みは消え失せ、鋭く冷たい瞳がいおりを射抜いていた。


「な、何で――」


 いおりの言葉は震え、次の言葉が喉に詰まる。その彼女を余所に、漆羽は無表情のままラケットを軽く地面に叩きつけた。その音が体育館に鋭く響く。


「手加減してほしいって言ったの、あんたでしょ?」


 その一言に、いおりは言葉を失った。その口調は、部活中に見せていたあの礼儀正しい面影を一切感じさせなかった。むしろ、今の彼は誰かを小馬鹿にし、見下しながら、あえて丁寧な口調で煽るような――そんな、どこか小憎たらしさを漂わせていた。いおりはその態度に、嫌なほど懐かしさがこみ上げてきた。


 昔の漆羽だ。


 いおりの脳裏に、中学時代の彼の姿が鮮明に蘇る。当時から彼は、一見礼儀正しく、誰にでも笑顔を向ける人物だった。だが、その笑顔の裏には、誰にも見せない冷酷な一面が隠されていた。

 

 彼は当時から、一見礼儀正しく、誰にでも優しげに接していた。周囲に対しては常に敬語を使い、笑顔を絶やさなかった。同時に練習にもストイックな実力派。誰もが彼を尊敬し、好意的に接していた。しかし、その裏で彼がどれほど他人を小馬鹿にしていたのか、いおりはしばらく気づかなかった。

 

 実際、漆羽が口を開くと、その言葉の端々には棘が漂っていた。彼の言葉は、どこか皮肉に満ちていて、相手を試すような、挑発的なものが多かった。最初は誰もそれに気づかず、漆羽の外見にだまされていたが、次第にその本性が明らかになった。彼が軽やかに放つ「礼儀正しい」言葉は、実は慇懃無礼で、相手を見下ろすようなものであること。彼がどれほど多くの人間を敵に回しているかが分かるようになった。


「なんでこんなこと、するの」


 漆羽は顔色一つ変えず、淡々と答えた。


「復讐」


 その一言に、いおりは混乱と恐怖を覚えながらも眉を寄せた。


「何を――」


 言い返そうとするより早く、漆羽は冷たく言い放つ。


「全部むちゃくちゃにしてやろうと思って。アイツらも、あんたも」

「……ふざけてんの?」


 いおりはラケットを握り直し、漆羽を睨みつけた。だが、彼は怯むどころかさらに畳みかけるように言葉を放つ。


「てか、んなもんじゃねぇよな? あんた、昔の自分を忘れたのか? あの頃の『軍曹』の白羽いおりが、今じゃこのざまかよ」


 その単語を聞いた瞬間、いおりの胸に鋭い痛みが走った。心の奥底に埋もれていた記憶が突如として鮮明に蘇る。


「軍曹」――それはかつて、いおりに付けられた蔑称だった。


 そして、最も向き合いたくない過去。


 心の中で疼くような痛みが響き渡る。あの頃の自分を思い出すたびに、孤独と苦しみが再び甦るようだった。


「その感じ、思い出しました? あの頃、俺はずっと見てましたよ。あの頃の、あんたの強さをさ」


 漆羽の言葉が鋭く突き刺さる。


「もう、そんなの関係ないでしょ。私はもう、あの頃みたいにバドミントンを本気でやるつもりないから」


 震える声で必死に言い返すいおり。しかし漆羽は無表情のまま、さらに言葉を重ねた。


「関係ない?」


 その低く絞り出された声に、いおりは一瞬体が硬直する。そして次の瞬間、漆羽は抑え込んでいた感情を爆発させるように叫んだ。


「それこそが、問題なんだよ!」


 その叫びが体育館に響き渡る。漆羽の目は鋭く、熱を帯びていた。彼は手を強く握りしめながら続ける。


「あの頃のいおりさんは、俺にとっては『目標』だったし、憧れてさえいたよ。でも今のお前は――」


 漆羽は一歩近づくと、さらに冷たい声で言い放つ。


「今のあんたは、ただ過去から逃げてるだけじゃないんですか」


 その言葉は鋭く、いおりの胸に突き刺さった。漆羽の冷たい視線が、いおりの心の中を見透かしているように感じる。


「私は……ただ、普通に戻りたかっただけだよ」


 いおりは震えながらもそう語る。だが、その言葉に漆羽は微動だにせず、かすかに嘲るような声で返す。


「へえ、あんたが普通を求めるなんてね。あの頃のいおりさんなら、そんな弱気なこと、死んでも言わなかったよな」


 いおりは奥歯を噛みしめ、揺れ動く心を必死に押さえ込む。


「だったら何だっていうの……私があの頃みたいに戻れないからって、それがそんなに悪いことなの?」


 いおりの言葉に、漆羽は冷たく笑みを浮かべる。


「悪いとは言わないよ。でもさ――」


 漆羽は一歩前に出て、いおりを見据える。その瞳には冷徹な光が宿り、挑発的な声が続いた。


「俺が期待してたのは、そういう逃げの言葉じゃない」


 そう言うと、漆羽は新たにシャトルを手に取った。


「来いよ、いおりさん。あの頃の強さ、取り戻せるか試してみようぜ」


 漆羽の笑顔には、もはや親しみのかけらもなかった。それは冷徹で、いおりを追い詰めるための笑みだった。いおりは喉が詰まる感覚に襲われながらも、震える手で打ち返した。


「……私が、戻らなきゃいけない理由なんて、ない」


 小さく呟くように言ったが、漆羽の目が揺らぐことはなかった。


「あなたの言葉なんかに、振り回されない」


 いおりはそう言い聞かせるように一歩踏み出す。その瞳には、静かな決意が宿っていた。


「漆羽くんの復讐とか、マジで興味ない。でももし、あんたがそれを理由にこの部活を壊すつもりなら――それだけは絶対に許さない」


 その言葉に漆羽は目を細め、不敵な笑みを浮かべた。


「そうか。なら、この部をめちゃくちゃにするって言ったら、あんたはもう少し本気を出せるってわけか」


 漆羽の目が鋭く光る。しかしいおりはその挑発に反応せず、ただ静かに体勢を整えた。


「本気だよ」


 いおりの言葉が静かに響く。漆羽はその声を聞き、まるで期待していたかのようにラケットを高く掲げると、にやりと笑った。


「いいね。その決意、見せてもらおうか」


 その瞬間、漆羽が軽くスイングしたラケットの先から、シャトルが飛び出した。見た目の優雅さに反して、その速さと鋭さに、いおりの心臓が跳ね上がった。まさに、彼がかつて放っていたあの力強いショットそのものだった。

 いおりは即座に一歩踏み込む。シャトルの軌道を正確に読み切り、強いフォアで打ち返す。しかし、漆羽は表情一つ変えず、さらに鋭いスマッシュを放ってきた。そのシャトルは空中で火花を散らすように、いおりの足元を狙う。


(やっぱり速い!)


 いおりはかろうじて体勢を崩しながらもリターンを試みる。ラケットが辛うじてシャトルを捉え、相手コートへ浅く返る。だが、そのわずかな隙を漆羽は逃さない。前へ一気に詰め寄り、ラケットの先で巧みにネット際へと落とす。


「さすがですね……だけど――」


 漆羽の言葉が空気を切るように響く。その刹那、いおりは全力で駆け込む。息を切らしながらも、手首を鋭く返し、絶妙なクロスで応戦した。漆羽がすぐに対応しようと動いたが、そのスマッシュは彼のリーチをかすめ、再び高く跳ね上がる。


「まだだ!」


 いおりの目が燃え上がるように光る。前進し、今度は全力で叩き込むスマッシュ。ラケットが空を切る音と共にシャトルが弾け、鋭い角度で漆羽のコートへ突き抜ける。観客がいるわけではないのに、コートに響く音が空気を振動させるようだった。


(決まった!)


 確信した瞬間、漆羽の足が再び鋭く動いた。信じられないほどの速さでコートを横切り、彼のラケットがシャトルを捉える。だがその動きはぎりぎりで、体勢が乱れる隙を見逃さず、いおりはさらに攻め込んだ。


「これで――終わり!」


 いおりが全身の力を込めて放ったスマッシュが、まっすぐ漆羽のコートに向かう。しかしその瞬間、漆羽の目が鋭く光った。体勢を崩しながらも、信じられない反応速度でシャトルを弾き返したのだ。


「……!」


 いおりは驚きを抑えきれなかった。その返球はただ速いだけではなく、的確にいおりの逆を突く軌道を描いていた。咄嗟に足を動かそうとするも、身体が悲鳴を上げる。

 

 そして、シャトルが地面に吸い込まれるように落ちた。


「___アウトですね」


 だが、いおりのスマッシュはわずかにラインを越えていた。その事実を告げる漆羽の声は冷静そのものだったが、いおりの胸には奇妙な虚無感が広がる。


「……終わり、か」


 息を切らしながらつぶやくいおりに、漆羽はラケットを下ろしながら歩み寄った。その表情には勝者特有の余裕ではなく、どこか探るような鋭さがあった。


「さすがですね」


 その言葉は、彼がまるで自分を認めたように響いたが、どこか皮肉めいていて、いおりはその裏に隠れた感情を読み取ろうとする。しかし、すぐにその試みが無駄だと感じた。漆羽の目は、すでにその瞬間の戦いを過去のものとして捉え、次の何かを考えているようだった。


「だけど、まだまだ全然です。あの頃の“軍曹”には到底及ばない」


 その一言に、いおりは思わず項垂れた。確かに、昔の自分と比べれば、今の実力は大きく劣る。その事実がどれほど虚しいか、いおり自身が一番よく分かっていた。漆羽の言葉は、過去の栄光にしがみつく自分を冷徹に突きつけるかのようで、胸の奥に鋭く突き刺さる。


「わかってるってば」


 いおりは小さく呟いたが、その声には力がなかった。自分に何度も言い聞かせてきた現実が、今ここで、誰かに突きつけられる――それは格別に辛いものだった。漆羽の無遠慮な態度に、いおりは改めて自分の無力さを痛感させられる。


「でも、私はもう……あの頃の自分には戻れない。二度と」


 絞り出すようなその言葉が口をつくと、漆羽は一瞬だけ目を細めた。そして再びいおりに向き直り、静かな声で問いかける。


「本気で、もうやめるつもりですか?」


 その問いは思いのほか重く、いおりを圧倒した。漆羽の視線から感じる威圧感に、彼女は言葉を失い、息を呑む。まるで、次に何が起こるのかわからない恐怖が胸に広がっていく。


「ちょっと、何を――」


 思わず後ずさろうとするいおり。しかし、その一歩は重く、足がもつれるような感覚があった。漆羽はそれを見逃さず、すばやく歩み寄ると、いおりの肩に手を置いた。その手の感触が、妙に冷たく思えた。


 いおりの視線が自然と漆羽の顔を捉える。いつの間にか、かつての少年は、見上げるほどの青年へと変わっていた。その事実に思わず身が強張る。


「これを最後にしますか? それとも……」


 漆羽の言葉は、氷のように冷たかった。それでも、どこか挑発的で、いおりの心を激しく揺さぶった。肩を掴む漆羽の手の力が、妙に強く感じられる。


「何を……?」


 震える声でようやく問い返すが、漆羽の意図はつかめない。不安と恐怖がいっそう膨らみ、心の奥で警鐘が鳴り響く。


 漆羽は一瞬目を伏せると、再び冷徹な笑みを浮かべた。


「本気で、何も知らないんですね」


 その言葉に、いおりは胸の奥が震えた。まるで漆羽の言葉が警告であるかのようだった。同時に、彼の内に潜む不穏な一面が、今まさに露わになろうとしていると、いおりは直感した。


 しかし――。


「――アウトでしたけど、いいショットでしたよ、いおりさん」


 漆羽はふっと肩をすくめ、いおりの肩から手を離した。その行動は意外なほどあっさりとしていた。


 その言葉には、ほんの少しの悔しさが込められているようにも感じられたが、漆羽の表情に大きな変化はない。ただ、その奥にかすかな感情が滲んでいるように見えた。いおりには、その表情が妙に懐かしく思えたが、その感情も一瞬で消え去る。


「まあ、再会したときは本当にガッカリしましたけど。いおりさんがまだ完全に腑抜けなわけじゃないとわかったんで、今回はこれで十分です」


 漆羽はラケットを肩にかけ、ゆっくりと視線をいおりに向けた。その目には、かつての温かさも期待感もなかった。ただ冷ややかで、どこか無情な光を宿している。


 いおりはしばらくその言葉を頭の中で反芻した。漆羽の言葉は、彼がかつて抱いていた憧れや尊敬の念を、完全に捨て去っていることを示していた。


 だが――。


(私が本当に取り戻したいのは、過去じゃない)


 いおりは静かにそう思った。そして彼女は、自分にとって今何が最も大切かを見つめ直していた。


「もう行くね」


 いおりは短く告げると、意識を切り替えるように足を踏み出した。今は、立ち止まっている場合ではない。


「気をつけて帰ってくださいね」


 漆羽の声は穏やかだが、どこか冷ややかだった。いおりは振り返らず、小さく頷いて扉を開けた。そのとき、漆羽の最後の言葉が耳に残る。


「本当に……気をつけてくださいね、いおりさん」


 その言葉の意味をいおりは完全には理解できなかった。ただ、その背中に向けられた視線の冷たさだけが、不気味に胸に残った。

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