第1ゲーム 影との再会(4)
「まったく。だから早く帰りたかったんだよ……」
いおりは文句を漏らしながらも、必死に片付けを続けていた。体育館の広いスペースが少しずつ片付いていく中、新入生たちの忘れ物を集め、ゴミを拾いながら心の中で不満をつぶやいていた。忙しい日なのに、どうしてこういう時に限って自分が担当になるのだろう。そもそも、こんなに忙しい日に当番制って、どうかしてる。そんなことを考えつつも、根底にある義務感故に手は止められない。
「いつになったら、私も楽できるんだろうなー。早く後輩入って欲しい……」
片手でラケットをまとめながら、いおりはちらりと部員たちの後ろ姿を見送った。みんな楽しそうに話しながら帰っていく。その中に、あの濡羽色の姿がないことに、無意識に安堵している自分がいた。気がついて、すぐに視線を床に落とした。
「終わらせてさっさと帰ろ」
心の中で自分を励ましつつ、いおりは残りの掃除を急いで済ませた。だが、どうしても漆羽の顔がちらついてしまう。彼と話したわけでもないのに、あの笑顔や立ち振る舞いが、まるで映像のように頭の中で浮かんでは消えていった。
――『いおりさん、まだ練習ですか』
かつて自分が指導していた
いおりが少し動いてはため息をつき、またすぐにため息をつきながら動き出す。それを繰り返すうちに、体育館内はすっかり静まり、外の光も次第に薄れていった。掃除をしながら、ふと窓の外に目をやると、空がオレンジ色に染まっているのが見えた。
「あともう少し…」
いおりは肩をすくめながら片付けを続けた。急いで帰りたかったが、しっかりと片付けなければならないという義務感が足を止める。すると、ポケットのスマホが振動する。急いで時間を確認してみれば下校のバスの時間まで残り十分を切っていた。そして、スマホの画面には『いおり、まだ!?』という翡翠からのメッセージがスタンプ付きで届いていた。
「やばっ」
慌てて、スマホをポケットにしまい、掃除を終わらせるために手早く動き始める。レンタル用のラケットをまとめ、掃除用具を片付け、雑巾を拭きながら扉に向かう。身体が急かされるように動き、もう一度時間を確認してから、ようやく体育館の扉を開ける。
その時だ。
「――いおりさん」
静かながらも確かに響く声に、いおりは足を止めた。
驚いて見れば、そこには漆羽がいた。まるでどこからともなく現れたかのように、壁に寄りかかって立っている。
ドクン、と心臓が嫌な予感とともに大きく鼓動する。
(なんで__)
漆羽の視線はじっといおりを捕らえていた。まるで待ち伏せしていたかのように。彼の表情は穏やかで、何事もないかのようだったが、いおりの胸には不安が渦巻いた。
「……何で、ここに?」
いおりはできるだけ冷静を装って尋ねた。だが、その声には隠しきれない警戒心が滲んでいた。すると漆羽はいつもの笑顔を浮かべながらゆっくりと歩み寄る。その手には何かを持っているようだった。
「いや、忘れ物があって。鷲見さんに、いおりさんが掃除当番だって聞いて急いで戻ってきたんです。レンタルのラケットに混ざってたみたいで」
漆羽が差し出したのは、いおりが先ほど整理していたラケットだった。あまりにも自然な態度に、いおりは一瞬言葉を失った。
「忘れ物、ね……」
漆羽の言葉を反芻しながら、いおりは彼の顔を見つめる。タイミングが良すぎる。本当にラケットを忘れていただけなのか?疑念が頭をもたげるが、漆羽の穏やかな笑顔は何一つ乱れていなかった。
「漆羽くん……」
名前を呼んだ自分の声が震えていることに気づきながらも、いおりは彼の名を呟いた。漆羽は軽く頷いて、にっこりと微笑む。
「今日ずっと話したかったんですよ。でも、全然タイミングがなくて……避けられてるのかなって思うくらいに」
その静かな言葉に、いおりの胸が一瞬締め付けられる。彼の声は落ち着いているのに、その響きがどこか張り詰めたものを含んでいた。まるで、存外に責めているかのような。
「……本当に、久しぶりですね」
漆羽が言葉を続ける。その一言に、いおりの中で鮮明に蘇る記憶――彼と過ごした日々、共に過ごしたあの時間。そして、いつの間にか遠く過去に押しやられていた関係。それら全てが、走馬灯のように駆け巡った。
「うん。久しぶり……」
いおりが呟くと、漆羽は懐かしむように少しだけ目を細めた。
「もう何年経ったんでしょうか。先輩が部活休んで、高校受験の準備をしてた時以来ですかね」
「そうだね……もう、そんなに経つんだ」
いおりは記憶の断片を辿りながら答えた。その時の漆羽の微笑みはどこか切なく、懐かしさを帯びているように見えた。だが、その微笑みに絆されそうになる自分をいおりは振り払った。
「でも、本当に……偶然、ここに?」
いおりの問いに、漆羽は少し肩をすくめてラケットを軽く掲げた。
「もちろん。疑ってるんですか? ちょっと傷つきますよ」
「別にそういうつもりじゃ……」
冗談交じりに言う漆羽に、いおりは何も言えなくなった。それでも彼の言葉の裏を探ろうとする自分がいる。
「じゃあ、ちょっとだけバドミントンしません?あの頃みたいに」
漆羽がさらりと提案する。その言葉にいおりは驚き、反射的に彼を凝視した。
「……え?」
「バスの時間、まだありますよね?それに、途中までなら送りますし」
いおりは返答に困った。こんな状況でどう断ればいいのか。流されそうになりながらも心の中で警戒を解けない自分を感じる。
「こんな時間に……?」
いおりの声には困惑が滲んでいた。だが漆羽は気にする様子もなく、軽くラケットを振って見せる。
「せっかくラケットあるんだし。誰もいない体育館なんて、なかなかないですよ」
そう言って、漆羽は笑みを浮かべたまま、体育館を顎で示した。ただ再会した先輩を誘うだけの、自然な態度。だと言うのに、いおりにとってそれが安易なものとして受け入れきれなかった。
「でも……もう遅いし」
「大丈夫ですよ。ちょっとだけですから」
漆羽はにっこりと笑いながら、既に体育館の入り口に向かって歩き出していた。その背中を見て、いおりはため息をつく。
(断るのも面倒か……少しだけなら)
いおりは一瞬の躊躇を感じたが、すぐに肩をすくめて決心を固める。少しだけなら――そう、自分を納得させるように呟きながら、彼の後ろを追いかけた。
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