第1ゲーム 影との再会(2)
その頃、鷲見はしっかりと新入生たちに基礎を教えながら、部の将来を真剣に見据えている様子だった。いおりは、少しばかり罪悪感を覚えつつ、それでもインターハイの夢は実現不可能に近い理想だと、いおりは内心思う。
練習が進む中、いおりは軽くシャトルを打ちながら、ふと体育館の入り口へ視線を向けた。
「どしたの、いおり?」
翡翠が隣でシャトルを拾いながら問いかける。
「いやさ。インハイ行くにしても、流石にアイツがいなきゃ無理だよなって」
「アイツ、って――ああ」
途端に翡翠の顔が少し曇った。
「そりゃそうだけどさ。アイツのせいで部員がこんな減っちゃったんだし、変わんないんじゃない?それよりウチは、いおりが本気出した方がいけると思うんだけどなー?」
「うわ、やめてよ。私の実力を過信し過ぎ。それに、私のモットーは『何事もほどほどに』だから」
「ほどほどし過ぎなんだよなぁ」
翡翠は半ば呆れた様子でため息をついた。いおりはわざとらしく肩をすくめ、「それに、私は今の緩い雰囲気が好きだしね?」と軽い冗談交じりに言った。
「まあ、確かにそうだけど。でも、いおりがもう少しやる気を出してくれたら、ウチらももっと頑張れると思うよ」
翡翠は意外にも真剣な表情だった。その瞳には、何かを見透かしたような光が宿っている。
「それって……いつものあかりのカン?」
いおりが軽い調子で尋ねると、翡翠は少しだけ得意げに微笑んでみせた。
「かもね。でも、ウチの勘、外れたことあんまりないでしょ?」
言われてみれば確かにそうだ。あかりの「なんとなく」の直感は、これまで何度も驚くほど的中してきた。練習試合の結果から、部員のちょっとした変化まで、気づいたときには大抵その通りになっている。いおりは苦笑いしながらシャトルを拾い上げた。
「私一人がやる気出したところで、そんな大きく変わるもんでもないって」
「そりゃいおり一人の影響力は、豆粒くらいだけど」
「おい」
「でもなんか、そう思ったの」
翡翠の言葉は柔らかいが、その声にはどこか確信めいた響きがあった。いおりは思わず目をそらし、シャトルをぽんと軽く上に放る。ふわりと宙を舞ったシャトルは、やがて白線のライン上へと落ちた。
体育館の隅では、新入生たちが鷲見に指導されながらラケットを握る手を固めている。ぎこちない動きの中にも、真剣さが滲んでいた。翡翠が言う「変化」がどんなものかはわからないが、いおりにはそれが漠然とした不安と期待のどちらも含んでいるように思えた。
翡翠が肩をすくめながら続ける。
「まあ、勘の話だからね。でも、いおりがちょっと本気出したら、今よりもっと面白いことが起こるかもしれないよ?って話」
いおりは翡翠のその言葉を聞き流そうとしたが、何かが胸の奥で引っかかった。その「面白いこと」という言葉の裏には、翡翠の見えている何かが含まれている気がした。
「面白いって……またまた。私はあかりがいればじゅーぶん、面白いんだけどね」
その言葉は嘘ではなかった。だが、翡翠はじっといおりを見つめたまま、ほんの少しだけ眉を寄せた。その視線に気づいたいおりが「何?」と問いかけると、翡翠は小さく息をついて肩をすくめた。
「なんでもない。ただ、いおりってさ、そうやって何かを避けるとき、わざと力を抜いた冗談っぽい言い方するよね」
「え?」
いおりは一瞬言葉を失い、翡翠を見返した。翡翠の口調はいつもの柔らかいものだったが、その中に何か鋭いものが潜んでいる気がした。
「いや、別に責めてるわけじゃないんだけどさ。でも、もしかして本当は怖いんじゃないの?変わるのが」
翡翠の言葉が不意に突き刺さった気がした。いおりは反射的に笑ってごまかそうとしたが、その笑みが少し引きつっているのが自分でもわかった。
「そんなことないってば。ただ、楽しいのが一番じゃん?部活なんだからさ」
「うん、そうだよね。でもさ、いおりって、本当にそれだけで満足できる人だったっけ?」
翡翠の問いは静かだったが、その真っ直ぐな視線に、いおりは言葉を詰まらせた。楽しいのが一番――そうだ、それは自分の本音のはずだった。けれど、心のどこかで「このままじゃいけない」という声が微かに響いていることを、自分でも気づいていた。
翡翠はふと視線を外し、新入生たちがぎこちなくシャトルを打つ様子を眺めながらつぶやく。
「いおりがちょっと頑張ってくれたら、この部ももう少し盛り上がるんじゃないかな。あの新しい子たちも、もっと笑顔になれると思うんだよね」
いおりはその言葉に返す言葉が見つからなかった。翡翠の言葉がどこか正しい気がして、それを認めるのが悔しくもあり、複雑な気持ちでシャトルを拾い上げた。
「……考えとくよ」
ようやく口にしたその言葉は、不器用で少しぎこちなく、それでも本心に近いものだった。翡翠はその返事を聞くと、小さく笑ってラケットを握り直した。その後、新入生たちも緊張が和らいだのか、楽しそうにシャトルを打ち始めた。いおりはその様子を横目で見ながらも、心の中で引っかかるものを抱えていた。
「考えとくよ」と言ったものの、何をどう考えるのか、全然整理がついていない。ただ、翡翠の言葉が胸の奥でしつこく響き、無視できない。その時、突然、鷲見の声が体育館に響き渡った。
「ほら、白羽さん!ぼーっとしてないで、次のペア練習の準備してください!」
いおりはハッと顔を上げ、慌てて返事をした。
「はあい、わかってますよー」
わざとだるそうに返事をすると、鷲見は半ば呆れた顔で「その態度が新入生に悪影響なんですからね」と、低くぼやく。いおりは肩をすくめてからラケットを手に、新入生たちの方へと歩み寄った。
「じゃあ、次はペアを組んでみようか。まずは軽くシャトルを――」
そう、言いかけたその瞬間だった。
体育館の扉が急に開き、冷たい風が一瞬で場の空気を変えた。部員たちが一斉にそちらを振り向き、静まり返る。いおりもその気配に気づき、視線を向けると、黒髪の少年が一歩足を踏み入れた。前髪が少し長く、顔立ちははっきり見えないが、どこか落ち着き払った表情で歩いてくるその姿に、周囲の視線が自然と集まった。
「すみません、遅れました」
静かな声が体育館に響き渡る。少年は優雅な動きで、足音も立てずに鷲見に向かって軽く頭を下げた。何の前触れもなく現れたその人物に、鷲見はすぐに反応する。
「遅刻ですね。いくら新入生とはいえ、感心はしません。もし正式の部員としてだったら、ペナルティがあることを忘れないでください」
鷲見は鋭く問い詰めるような口調で言ったが、少年はひるむことなく落ち着いて答える。
「すみません、少し道に迷ってしまって。これでも急いで向かいました」
その答えに、鷲見は眉をひそめるが、すぐに深く息を吐き、肩をすくめた。
「まぁ、仕方ないですね。お名前は?」
「――
その名前を聞いた瞬間、いおりは胸の奥で不意にざわめくのを感じた。
「漆羽……?」
呟きながら、目の前の少年をじっと見つめる。すらりとした体躯、濡羽色の髪、そしてその落ち着いた雰囲気――確かに記憶の片隅に誰かが浮かぶ。だがそれが形になる前に、翡翠の声が耳に届いた。
「待って待って、いおり見て。あの子、よく見たらめっちゃ顔キレイ。やば、原石ってやつ?」
「ちょっ、あかり……興奮しすぎだから」
「絶対、あの子だけは入部させよ!そしたら宣伝効果でめちゃくちゃ新入生とか入りそうじゃない!?」
翡翠の熱意に、思わず後ずさりながら、いおりは困惑した表情で彼女を見た。対照的に鷲見は、経験者と聞くや否やすぐ前のめりになった。
「なるほど、経験者ですか。ちなみに出身はどこですか?」
「鳳凰学院です」
漆羽がその一言を発した瞬間、体育館にいた全員が一瞬、息を呑んだ。鳳凰学院――その名が響くと、部員たちの反応はすぐに目に見えるものとなった。
「え……?鳳凰学院?!」
「まさか、あの名門の?!」
「全国大会常連のあの学校!?バドミントン部が強いって噂の!」
その少年、漆羽大地は鳳凰学院のバドミントン部だと語る。つまりそれは、経験者以上に実力者であることを洋々と語られていた。周囲が盛り上がる中、いおりはその場に立ち尽くしていた。頭の中で漆羽という名と鳳凰学院の名が結びついていく。
「いおり?」
翡翠の心配そうな声が耳に入るが、いおりはその声を聞きながらも、漆羽に目を奪われていた。漆羽、大地。あの漆羽大地が、今ここにいる。
(なんで……)
動揺が収まらない。あの頃のことが一気に蘇る。
あの時捨てたはずの過去と、いおりが最も戻りたくない姿を知っている者が、まさに目の前に立っている。その強さ、迫力、そして落ち着き――それがいおりを一瞬、呆然とさせた。
いおりは自分の胸がどくどくと響くのを感じる。うまく呼吸ができない。呼吸を整えようとするが、身体は思うように動かない。何かがこみ上げてきて、まるで胸の奥に手が届きそうで届かないような感覚に襲われる。
だが漆羽は周囲の興奮を気にすることなく、淡々と再び鷲見に向き直った。
「今のところ、正式部員として活動していきたいと思っています。どうかよろしくお願いします」
その言葉を受けて、鷲見は驚きの色を浮かべて眉を上げた後、無言で頷く。彼のような経験者が来るのは大きなことだ。
「ねえいおり、あの子のこと知ってるの? だって、鳳凰学院ってあんたの……」
周囲の興奮が冷めぬ中、翡翠が小声で尋ねるが、いおりはそれに答えることなく、ただ漆羽を見つめ続けた。周りの声がますます賑やかになる中で、いおりは漆羽を見つめる。彼の存在感が、この部に新たな風を吹き込むような、そんな予感を感じさせていた。
「いいですか、漆羽君。次からはちゃんと時間を守るように。今回は特別ですよ」
鷲見の言葉に漆羽は軽く頷き、微笑みながら答えた。
「もちろんです、鷲見先輩。よろしくお願いします」
「よろしい、ではみなさん。練習を再開しましょう。経験者の皆さんは、未経験の子たちにいろいろ教えてあげてください」
鷲見の声が体育館に響き、新入生たちはそれぞれペアを組み始める。その中で、いおりは漆羽を見つめたまま動けなかった。彼の言葉や笑顔が、何か遠い記憶を呼び起こすようで、心の中で何かが揺れ動いていた。
「……ねえ、いおり。本当に大丈夫?」
翡翠の声が耳に入り、いおりははっと我に返った。焦って振り向くと、彼女の顔が心配そうに見つめていた。
「うん、ごめん。大丈夫」
軽く答えたものの、いおりは慌てて歩きだした。背後で漆羽が新入生たちに指導している姿を感じながら、彼に背を向けることで、まだ不安定な気持ちを隠そうとした。何事もなかったかのように振る舞い、無理にでも心を落ち着けようとしたが、どうしてもその思いは胸の奥に引っかかって離れなかった。
漆羽は淡々と新入生たちと会話をし、いおりのことを気がついているのか測りかねた。しかし、いおりはその姿を無意識に目で追ってしまう。彼が新入生に動きを教え、優雅に身をひねっている姿、その笑顔が浮かぶ顔を見ていると、過去の記憶が無理やり甦ってくるようで、胸の中がざわつき始めた。
(いけない、集中)
いおりは深く息を吸い込み、気持ちを切り替えようとした。軽い口調で指示を出しながら、新入生たちのぎこちない動きに注意を向けていると、その中に一人、妙に滑らかな動きを見せる新入生がいた。彼は他の新入生たちが戸惑いながらシャトルを打ち合っている中、まるで最初から慣れているかのように、見事に動いている。
「あれ、君、もしかして経験者?」
いおりはその新入生に声をかけると、彼は軽く笑って肩をすくめた。
「うーん、まあ、ちょっとだけね。中学の時にやってたから。あ、俺、結城陽太っす。よろしく!」
結城はあっさりと答えながら、ラケットを軽く振ってみせる。その仕草があまりにも自然で、まるで誰かに教わったかのようだった。いおりはその動きを一瞬じっと見つめ、すぐに納得した。
「経験者かぁ。なるほどね、ちょっとやっぱり違うね」
いおりは感心しながらも、少し冗談交じりに言った。
「でも、あまりに上手すぎると、他の子たちがついていけなくなっちゃうかもよ?うちの部は――初心者でも楽しく、がモットーだから」
ちなみに、そんなモットーは特にない。むしろ、結城や漆羽のような経験者を見て、鷲見がやる気スイッチを押さないか心配ないおりが作ったスローガンである。
「それは心配しなくていいっすよ。俺、気を使うタイプだから」
結城は肩をすくめながら軽く笑った。その態度に、いおりは少し肩を竦めつつも、思わず苦笑してしまった。
「まあ、結城くんが楽しくやってくれればいいよ。あ、無理に華麗なプレーとかやらなくて大丈夫だからね?」
いおりが冗談を交えながら言うと、結城は爽やかに笑って言った。
「それ、フリですか?」
その無邪気な笑顔に、いおりは一瞬胸が締めつけられるような既視感を感じた。まるで過去の誰かと重なったような感覚。その時、左膝に鋭い痛みが走った。完治したはずの古傷が、不意に疼き始める。
「先輩?大丈夫ですか?」
結城が心配そうに声をかけてきた。いおりはその声に慌てて顔を向け、無理に笑顔を作りながら答えた。
「うん、大丈夫。ちょっと疲れただけだから」
結城はその答えに納得したようにうなずき、すぐにまた新入生たちと一緒に練習に戻った。いおりはその背中を見送りながら、心の中で不安を必死に押し込んでいた。
(もう全部、終わったことなんだから……)
心の中でそう呟き、過去を振り払おうとする。しかし、頭の中でその記憶がちらつき、集中するのが難しくなってきた。いおりは深く息を吸い、練習に意識を戻すことにした。
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