四十二、厄日に現れた推し
「はあ。これで一息つけるかな・・・って・・え!?もうこんな時間!?急がないと約束の時間に間に合わな・・・っ」
予定外、余計と思われる洗い物を済ませ、たいして広くも無い工房のなかを走り回って帰宅の準備をしていたデシレアは、着ている作業服の袖を扉の把手に引っ掛け、派手によろけた。
あのまま床に転んでしまった方が、まだましだったわよね。
そうならなかったがため、後に少なくない時間を費やしたデシレアが思うのも無理からず。
運悪くも、デシレアが倒れ込むその先にあったのは、テーブルの上にきれいに積まれたボウルの数々。
「あっ・・ああああああっ」
何とか突き込まないようにと身を捩った努力もむなしく、デシレアの手は見事にボウルの塔、のみならずレードルなどの調理器具をも弾き飛ばした。
「こんな時にぃ・・・・!」
今日は厄日、泣き面に蜂とはこのこと、と涙目になりながら、デシレアは床に散らばったそれらを拾い集めると、丁寧に洗い始める。
「これはもう、時間ぎりぎり。予定では、時間に余裕もあるから戻って着替えて、だったけど、戻って着替えている時間なんて無い。絶対に無理。となると、作業用の服だけど、このまま行くしか。それでも、遅れるよりずっとましだけど・・・ああ。お出かけ仕様で頑張らねばならない日になんてこと」
大きなため息を吐き嘆きつつも、大切な調理道具をぞんざいに扱うことは絶対にしない。
そして思い出すのは、数日前にしたオリヴェルとの遣り取り。
『ほう。色硝子の採用が決まるかどうかの場に、俺は行く必要が無い、と。つまり、俺を部外者扱いするのか』
見るからに機嫌悪く言ったオリヴェルに、デシレアは慌てて首を横に振った。
『そうではないです。色硝子の工房も、オリヴェル様のお蔭で予定よりずっと早く復旧出来ました。本当に感謝しているのです』
『だが、俺の同席は不要なのだろう?』
じろりと睨まれるも、デシレアも引くわけにはいかない。
『感謝していればこそ、です。オリヴェル様、お忙しいのに、我が領の色硝子の売り込みの際にも、わざわざお休み取って参戦してくださるとか、申し訳なさすぎます。それに、色硝子の採用が決まれば、また私のことで契約とかお願いすることになると思いますし』
考え込むデシレアに、オリヴェルは深い溜息を吐く。
『それは、俺の利益でもあると言っているだろう?』
『そんなの。微々たるものです』
『はあ。頑固な』
『お願いします、オリヴェル様。私、決めたことがあって。それってずばり《めざせ!迷惑、お手数最小限!》なんです。だから今日は、私に頑張らせてください』
「・・・なーんて胸張って偉そうに言ったのに、この体たらく・・・くぅっ。私もあの《故意に脱輪事件》のご令嬢くらい体幹が強かったら、ボウルに突き込むことなく持ち堪えられたのに」
ため息吐きつつデシレアは、少し前に街道で遭遇した、運動神経抜群の子爵令嬢を思い出す。
「とか言っている間に・・よしっ、終わり!ああ、でも時間が!待ち合わせのカフェまで走るしか・・・!」
最早、お出かけ仕様で、などと気にしている時間は無い。
それでも間に合うかどうかが問題だ、とデシレアは、ただ己に目的地まで走り続ける速力、何より体力があるかを心配しながら、工房を出た。
「ばう!」
そこで遭遇したのは、一匹の大型犬。
「あ、ロビン!お腹、大丈夫?」
あの時ロビンが食べたのは、バスケットからこぼれ出た、パンプティングとりんごのゼリー。
人間が食べることだけを想定して作ったそれが、犬の体調不良になりはしないか、と案じるデシレアは、じっとロビンの目を見た。
「ばう!」
「平気、なのかな」
それらが、犬も食べて平気な物だったか心配するデシレアは、そっとロビンの頭を撫で、体調を見極めようと、更に目を細める。
「ばう!」
そんなデシレアに、ロビンはただ嬉しそうに鳴き、楽しそうにデシレアにじゃれつく。
「へ、平気かな。お腹とか、痛くなったら直ぐにオロフさんに言うのよ?」
「ばう!ばう!」」
「そして、私が待ち合わせに遅れないように祈っていて」
分かっているのかいないのか、飼い主のオロフという名に一際反応し、尻尾を振って懐くロビンを撫でてから、デシレアは、思い切ったようにすっくと立ちあがった。
「よし・・・行きまっ・・わわっ。ロビン、今日はもう私、行かないとだから」
そう説明しても、犬であるロビンに理解できるはずも無く。
犬として、かなり大きな体躯のロビンは、ただ嬉しそうにデシレアの足にじゃれつく。
「ほんと、可愛い。可愛すぎる」
そんなロビンを見て、彼が厄日の、そして泣き面に蜂の一端となろうとも、やはりとてつもなく可愛い、とデシレアは目を細めた。
後には厄日、泣き面に蜂と言いたくなる頃合いもあったものの、当初、その日までのデシレアの予定は完璧だった。
まずは初日。
色硝子の件で、幾度か手紙で遣り取りをしたデシレアの父親、レーヴ伯爵が、見本となる色硝子を携えて王都へ着いたのが昨日の夜。
当初、その予定を聞いた時、オリヴェルは気安く、私邸へ招けばいいと言ってくれたものの、色硝子の職人も帯同しているがため宿を取る、と返信したレーヴ伯爵に怒ることもなく、それならばと信頼のおける王都の宿を、気持ちよく用意してくれた。
「ありがとうございます、オリヴェル様」
そのことにいたく感動したデシレアが心からそう言えば、オリヴェルは少し残念そうに首を横に振った。
「いや。レーヴ伯爵には、我が邸で寛いでもらいたかったが、職人が一緒では気を遣われるだろうからな」
「・・・あ、そういう・・・ええと。父は、職人が一緒でなくとも、気後れすると思います」
苦笑交じり、そう言ったデシレアに、オリヴェルは心底不思議そうに眉を顰める。
「何故だ?」
「何故、って。このお邸の調度、壊したらどうしようって。私も最初、緊張しましたから」
「そう、なのか?」
「そうなんですよ」
正直に言えば、オリヴェルが考えるようにデシレアの顔を見た。
「今は?」
「かなり慣れました」
冗談めかして、けれど本気の気持ちを籠めて言ったデシレアにオリヴェルはひと言告げた。
「不要だ。そんな気持ち、今もあるなら捨ててしまえ」
そして、いよいよ色硝子を売り込みに行く当日となった今日。
「くどいようだが。本当に俺は、同行しなくていいのか?」
「大丈夫です!今日の夜には朗報をお届けしますから、楽しみにしていてくださいね!」
出勤途中の馬車のなかでも、仕切りに心配していたオリヴェルに勢いよく言い切り、いつも通り工房で下ろしてもらうと、デシレアは、オリヴェルを乗せて王城へと向かう馬車を、いつも通り元気に手を振って見送った。
「さあ、頑張りますよ・・・!」
そしてその日、いつもより高揚した気持ちで、いつも通り予定していたケーキを作り始めた頃、最初の予定変更が生じた。
「え?王女殿下が、ですか?」
突然、予告無しに工房を訪れたアストリッドに、王城の使者だという人物を紹介されたデシレアは、その話の内容に目を瞬いた。
「はい。一昨日から熱を出されて、食欲も無い状態でいらっしゃるのですが、こちらのパンプティングとりんごのゼリーなら、食べられそうだとおっしゃったのです。何とか、お作りいただけないでしょうか」
頼む姿勢でありながら、慇懃無礼でもある使者に、けれどデシレアは真剣な顔で頷きを返す。
「それは、お辛いことでしょう。分かりました。わたくしの作るものでよろしければ、お受けします」
答えながら、この先の工程にパンプティングとりんごのゼリーを組み込み、デシレアはてきぱきと動き出す。
「デシレア、大丈夫?無理していない?」
「大丈夫です。そう手のかかる物ではありませんから」
こそりとアストリッドに聞かれるも、デシレアは笑顔で答えた。
実を言えば、この時も未だ、デシレアには余裕があった。
手際よく作業すれば、この二品を増やそうとも然程の時間は取られない、と。
しかしここで、運命の女神がにやりと笑う。
「おお、これは見事な。それに、食欲を誘ういい香り。ありがとうございます。殿下もお喜びになります」
先に約束した時間。
パンプティングとりんごのゼリーを受け取りに来た使用人が、持参のバスケットへ大切にそれらを入れ、工房を後にしようとした、正にその時。
「ばう!」
「ぎぃやあああ!」
突如現れた大型犬ロビンに驚いた使者が、思い切りバスケットを放り投げた。
「ばう!」
そして、バスケットから転がり出たパンプティングとりんごのゼリーは、あっというまにロビンの胃袋へ。
「ばう、ばう!」
満足そうに尻尾を振るロビンと対照に、蒼白から真っ赤へと色を変える使者の顔色。
「も、もう一度作ります!」
このままでは、ロビンが不敬罪にて処刑一直線。
そう悟ったデシレアは、咄嗟にそう叫ぶと同時に、使者へも檄を飛ばす。
「使者の方!ニーグレン公爵令嬢のお店、どこだか分かるのですよね!?」
「は、はいっ」
「ならそこへ行って、ニーグレン公爵令嬢から
「はいっ!ただいま!」
慌てた様子でアストリッドの店へと向かう、機敏な使者の動きを流石と見る間もなく、自分は工房へと戻ったデシレアは、急ぎ作業に戻る。
「お店の物の方は、後は飾り付けだけだから。こちらを先に済ませて、それから」
パンプティングの方は、この工房で仕上げまで出来るが、りんごのゼリーは固まるのを待っている時間が無い。
「ゼリー液だけ作って。後は、岡持型保冷庫に入れて王城まで持って行ってもらうしかないわね」
工房にある保冷庫は固定型で、大きさもそれなりにあるので品を入れて運ぶのは現実的ではない。
その点、アストリッドが嬉々として作成依頼して来た岡持型保冷庫なら何の問題も無いと、デシレアは手を動かし続けた。
「じ、時間との勝負・・・だけれども。落ち着け私。ひとつひとつを丁寧に。食べてくれるひとへ、思いを込めて」
呟きながら店の品を仕上げ、パンプティングを仕上げ、とくるくる動き回るデシレアが、ゼリー液を作り終えた所で再び工房への訪問者が告げられる。
「はい、はーい!あ、え!?アストリッド様!」
「ご所望の
「ありがとうございます!さ、こちらへ」
ぱたぱた走ってデシレアが開けた扉の向こうに居たのは、デシレアの予想を上回る数の人々だった。
まずは、パンプティングとりんごのゼリーを運搬する、当初の予定通りの王城の使者、そして何故か彼と共に現れたアストリッド。
更には店の品を運ぶ従業員をも招き入れ、デシレアはまず、店の従業員が持つ岡持へ、今日の分の品を入れることとした。
「その方が円滑に行きますので、先にこちらを運んでもらいますね」
殿下を後回しにするような形にはなってしまうけれども、余り広い工房でもないので、とデシレアが言えば、使者も頷きを返す。
「仕方がありませんね」
「ご理解、感謝します」
「・・・デシレアってば、ほんと生真面目ねえ。王城の使者だからって、そんなに気を遣うことないのに」
会話をしながらも手を動かすデシレアに、つつっと寄ったアストリッドが囁く。
「そんな訳にはいかないです。アストリッド様とは立場が違うと、前から言っているではないですか・・・はい、こちらお願いしますね」
そうこうしているうちにもデシレアは手を動かし続け、あっというまに店の品が運搬用の岡持へと収まった。
「よろしくお願いします」
「お預かりします。今日は、一回だけなんですよね?」
「はい、そうです」
顔見知りの従業員とそのような挨拶をし、デシレアは大きく店の名前の入った岡持を携え笑顔で戻って行く従業員を、これまた笑顔で見送った。
「ニーグレン公爵令嬢。先ほどの岡持、そしてこちらの岡持は、お店の物なのですか?」
「ええ、そうよ」
「実は、岡持を実際に近くで見るのは初めてです。話にはよく聞いていたのですが。この大きく入っている文字は、お店の名前ですよね?」
「ええ。宣伝効果抜群ですの」
「なるほど。そういう効果もあるのですね」
王城の使者とアストリッドが会話しているのを聞きながら、デシレアは型にゼリー液を流し込み、そこに小さく切ったりんごを入れていく。
「出来ました!」
「・・・え?こちら未だ液体ですが?」
「はい。なのでこれを
そう言ったデシレアに、使者は訝しむ目を向けた。
「ここへ入れる?・・・入れるとどうなるのですか?」
「三時間ほどで、固まります。なので、固まったのを確かめてからお召し上がりください。こちらの型を逆さにして、お皿に盛りつけて」
「なるほど。岡持には、そういう機能もあるのですか」
感心したように言う使者に、アストリッドが悪魔の囁きのように告げた。
「それ専用の魔石は別売りですけれど、とっても本当に便利なのですわ」
「レーヴ伯爵令嬢。それでは、失礼いたします」
「余り揺らさないように、注意してくださいね」
「はい」
岡持型保冷庫を大事に抱えた使者が、外へと続く扉の前で躊躇した。
「先に確認しますね」
またロビンが現れ驚いてもいけないと、デシレアは彼を笑うことなく、先んじて扉を開け外を確認する。
「大丈夫です」
「ありがとうございます」
しかし、礼を言った使者が持つ岡持保冷庫が揺れる度、デシレアは不安になってしまう。
ラップもしたし、大丈夫とは思うけど。
この使者さん、岡持を持つのに慣れていないみたいだし。
やっぱり、最後まで工房で仕上げるべきだった・・・?
先約もこちらも反故にしない方法、と考えた結果だけれど、と思うデシレアに、アストリッドが女神の微笑みを見せた。
「心配しないでいいわよ、デシレア。わたくしも一緒に王城へ行くから。もちろん、馬車でね」
片目を瞑り言う可愛くも小悪魔なアストリッドに、デシレアは安堵の瞳を向ける。
「それを聞いて安心しました。どうぞよろしくお願いします、アストリッド様」
「お任せなさい。盛大に恩を売り付けて来るから」
瞳を輝かせ、力強く宣言したアストリッドに、デシレアが顔色を明るくする。
「なら、ロビンが不敬罪で処刑されないように、お願いします。アストリッド様がお願いしてくださるなら、安心です」
ほっとしました、と心から嬉しそうに言うデシレアに、アストリッドは呆れたような笑みを浮かべた。
「貴女って、ほんとに・・・まあ、いいわ。それもお任せなさい」
「ありがとうございます!いっていらっしゃいませ!」
そうして充足感たっぷりにふたりを見送り、後片付けも終え、帰宅を、というところで、どんがらがっしゃん。
ボウルを薙ぎ払う失態を演じてしまったデシレアは、ひとり呟く。
「今日は、やっぱりこういう日」
それでも何とかボウルやらなんやら、ばらまいてしまった物をきれに洗い終えたデシレアは、ここからスタート、とロビンを思い切り撫でて走り出そうとして。
「乗って行きませんか、お嬢様」
突如目の前に現れ、執事の如き仕草でそう言ったオリヴェルを、信じられない気持ちで見つめた。
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