第15話

 八月二十五日の夜。あと少しで日付が変わりそうな、真夜中といっても差し支えのない時間帯に僕は家を出た。何か用事があったわけではなかった。ただ、壁に掛かったカレンダーを眺めて夏休みが終わるまでの日数を数えていると、妙に落ち着かなくなったのだ。気紛れな散歩欲に一滴の不安を混ぜたような、そんな衝動に背中を押されるまま、僕は夜の住宅街へ繰り出した。


 寒気がしそうなほど真っ青で眩しい昼間とは違って、ほんのりと緑がかった夏の夜空は随分と静かだった。どこかで鳴く鈴虫の声を聞きながら、僕は頼りない電柱の灯りの下をゆっくりと歩いていく。時折大通りを通る自動車の音が聞こえる。この夜に僕一人しかいないというわけではなかったけど、命が寝静まっている気配が心地よかった。優越感と夜が持つ独特の匂いに浸りながら、耳を澄ませて当てもなく道を行った。


 以前は日課のように夜の街を徘徊していたのに、遅刻して彼女に心労を掛けないよう最近は自重していたから、こうして散歩をするのはかなり久しぶりだった。温い空気が首元を撫でていく。蒸し暑さの残滓を感じながら、僕は今日の昼間を思い返していた。


 今日の朝、僕とヒナは電車に揺られていた。車窓からの風景は徐々に自然が多くの割合を占めるようになっていって、路線が単線になる頃にはいつも見ているよりもずっと濃い青空と若々しい夏草が鮮やかに窓の外を彩っていた。他に乗客のいない車両で、僕と彼女は取り留めのないことばかり話していた。雲の形がどうだとか、どんな天気が好きだとか、そんな話だ。やがて目的地に着くと、民家ほどの大きさしかない駅のホームで僕たちは降りた。無人の改札を通って外に出ると、彼女は郷愁に駆られながらも、それを素直に喜べないような複雑な表情をしていた。深く息を吸うと、透き通るような澄んだ空気が肺を満たした。遠くの四方は山脈に囲まれていて、心ばかりの建造物を駅前に寄せ集めたかのように、少し歩けばずっと続く田畑の緑が見えた。


 僕たちは、生前のヒナが暮らしていた町へと足を運んでいた。遊園地に行った帰り、翌日は何をして過ごしたいか尋ねた僕に、「おばあちゃんの顔を見に行きたい」と彼女は言った。彼女がどんな場所で生活していたのか興味もあって、僕たちは遥々田舎町まで足を運んだ。


 到着して早々に、ヒナの案内を受けて彼女の祖母の家へと向かった。どことなく緊張した面持ちの彼女の手を取りたかったけど、僕にできたのは和ませるように笑いかけることだけだった。幸か不幸か、彼女の祖母は不在であり、ヒナはただ残念そうに薄く笑みを浮かべた。「入院してるのかも。おばあちゃん、体が弱かったから」と安堵とも寂寞とも取れない顔をする彼女に、僕は何も言えなかった。


 それから、僕たちはヒナの生活の軌跡を辿るように田舎町を歩いた。畦道、バス停、錆びついた廃バス、シャッター街、色褪せたポスター、ひしゃげたガードレール。そういった正しい田舎の風景の中を彼女と二人で巡った。彼女の通学路だったり、買い物へ行く際の近道だったり、記憶に触れるように話す彼女の後を追ってひたすら歩いていた。夏の青空の下で、ずっと向こうまで続く畦道を制服のまま並んで進んだ。自然が溢れる風景に、少しの野暮ったさを残すセーラー服がよく似合っていた。


 結局、僕が家へと帰ってきたのは完全に日が沈んだ後だった。片田舎とは比べ物にならないほど大きなホームを出てすぐにヒナと別れた。それからずっと自分の部屋で過ごしていたのだけれど、鮮明な彼女の生前の光景に触れたせいかやけに頭が冴えていた。本を読んでいても、暗い部屋で映画を観ていても、頭の片隅で思考がぐるぐると回っている感覚があった。だからこうして、行き場のない居心地の悪さを誤魔化したくて僕は夜の街を歩いている。


 しばらくぼんやりと歩いていると小腹が空いたから、コンビニへ立ち寄ってホットスナックを買った。何を血迷ったかカレーレモン味なんてものを買ってしまって、ヒナにこのことを言ったらどんな風に笑うんだろうな、と自然に考えた。そんな自分の馬鹿らしさに呆れながら、児童公園の側を通ろうとしたときだった。


 僕を引き留めるみたいに、不規則に明滅していた電柱がその灯りを取り戻した。淡く照らし出されたブランコには、見慣れたセーラー服の少女が座っていて、すぐにその存在に思い当たる。いつかもこんな遭遇の仕方だったな、とつい頬が緩んだ。足音を抑えていたつもりもなかったけど、砂の上では僕の靴音はあまり鳴らなかった。


「ねえ」


 静かな夜に、僕の声ははっきりと響いた。唐突な呼びかけに猫のように肩を跳ねさせた彼女がこちらを振り向く。そして僕の姿を認めると、呆けたように目を丸くした。


「聞こえてますか?」


 いつかの意趣返しで意地悪くそう訊ねる。


「……聞こえてるよ」


 ヒナは数瞬呆然とした後、最初のやり取りの焼き直しをする僕に、呆れるように柔らかく笑った。


「何してたの」


 彼女が座っているブランコの隣に腰掛けながら呟くように訊いた。ほんの少しの葛藤の後、自分の性根を卑下するように彼女ははにかみながら言った。


「んー。……幽霊じゃなかったらな、って。ちょっと拗ねてた」


「珍しいね」


「まあ、夜だからね。誰も見てないから」


 どこか開き直ったような顔をした彼女が投げやりに笑う。いつもの素直なそれとは違う笑みに、僕は苦笑するように息を吐いた。ヒナだって普段はひた隠しにしているというだけで、不満や弱音を持たないはずがないのだ。誰もいない夜くらいは自分の心を素直に吐いても罰は当たらないだろう。真夜中の彼女はいつもより少し卑屈で悲観的な女の子で、少しだけ親近感が湧く。そんな彼女の人間らしい弱さに寄り添いたくて、僕は愚痴を零すように言った。


「……誰にも見られてないって点では、僕も幽霊みたいなものだよ」


「もし柊汰も幽霊だったら、私たちどうしてたんだろうね」


「さあ。少なくとも、今みたいに必死に成仏の方法を探そうとはしていないんじゃないかな。案外気ままに色んな場所を観光してたりするかも」


「いいね、それ。成仏とか、夏の残り時間とか、全部忘れて遠くまで行くの。……楽しそうだなぁ」


 それからしばらく、僕たちは二人とも幽霊だったらやりたかったことを適当に語り合った。それはどうあっても叶うはずのない夢物語で、残酷なほど綺麗な色をした、決して手の届かない理想だった。


 不意にヒナが言った。


「じゃあさ。もし私がまだ生きてたら、どうだったかな。……ずっと一緒に、いられたのかな」


 何気ない調子で呟くその面持ちはどこか悔やんでいるようにも見えた。


「……どうだろう。一緒にいられたらいいけど」


 僕はそれだけ返した。肯定も否定も、悲しい答えであることに変わりはなかった。


「やっぱり、普通に生きてる人が羨ましいな。……ほんとに羨ましいよ」


 やりきれない嫉妬を誤魔化すような寂しさの滲んだ顔で曖昧にヒナが笑う。俯く彼女と同じく僕もしんみりとしてしまい、そんな空気を見兼ねた彼女が静かな雰囲気を換えるようにどうだっていい話をする。それに応じて僕も適当な言葉を返した。


 そうだ、カレーレモン味のホットスナックの話でもしよう。どうしようもないくらい感傷的な夜には、それくらいくだらない話が相応しい。


 僕たちは寂しさを埋めるように他愛もない話を続けて、夜が更けるまでブランコに並んで座っていた。


 明け方まで夜中の公園で話し込んでいた僕が目を覚ましたのは、ちょうどお昼を過ぎた頃だった。窓の外には久しぶりに雨が降っていて、僕たちはどこへも行かなかった。僕の部屋で彼女に課題を教えてもらったり、映画を流し見しながら駄弁って時間を過ごしていた。昨日の電車の中だったり、夜の公園のブランコだったり、彼女とはいつも話し込んでいるけど、僕たちの会話が完全に尽きることはなかった。少しの言葉に迷う沈黙さえ心地がよくて、こんな時間がずっと続くことを一瞬だけ本気で願ってしまった。


◇◇◇◇◇

 

 八月二十七日、土曜日。翌日に夏祭りを控えた僕たちは、いつもの神社の石段に揃って腰を下ろしていた。茜が差した空に、十八時を知らせる『夕焼け小焼け』が響いた。夕陽に染まる街並みはどこか慌ただしい印象を受けた。川沿いには花火大会の本部用のテントが足を折って寝かされていたり、長い階段を登らなくて済む他の神社の敷地には赤や白、黄色といった屋台が鎮座していたり、確かな祭りの前夜の気配が街中に漂っていた。他の神社の参道や階段には提灯が並べられているのに、僕たちが座る石段はいつもとなんら変わらなかった。小さな境内しかないことに加えて無駄に小高い立地が人を寄せつけないのだろうか。街の一体感からも外されたこの神社はやっぱり僕たちに相応しいようだった。


「それにしても、昨日は雨だったから仕方なかったけど、今日はどこかへ行かなくてよかったの?」


 いつもどおり夕暮れを眺めるヒナに、僕はそんなことを訊いた。今日僕たちがしたことと言えば、これまで訪れた身近な場所を巡ることだった。僕たちが初めて会った児童公園に、下校途中の住宅街。いつか轢かれかけた十字路に、図書館から神社へ向かう際の人気のない坂道。そして最後に、彼女はいつもの神社へ行こうと提案した。残り少ない時間をこんな普通の散歩に費やしていいのか、僕は不思議に思っていた。


「うん、今日はいいよ。毎日どこかへ行くのも疲れちゃうし、明日は花火大会があるから」


 僕の疑問を晴らすように優しく微笑みながらヒナは言った。その言い方はまるで物分かりのいい子供のようだった。僕への配慮など必要ないのだと改めて伝えようとしたとき、数瞬先に彼女が言葉を続けた。


「それに、どこかへ行くのと同じくらい、こうしてただ話してる時間が好きなの」


 縁側で穏やかな日を浴びるかのように、満たされた表情で柔らかく彼女はそう言った。ただ幸福を噛み締めるかのようなその朗らかな顔に、心臓がおかしな脈の打ち方をした。胸が詰まりそうになりながらもなんとか言葉を返す。


「……僕も同じだ。この時間、結構好きだよ」


「そっか。……よかった」


 好きという言葉に安堵するように、彼女は息を吐いた。いちいち安心するそのいじらしさに、僕がヒナといる時間をどう思っているかうんざりするくらい伝えたかった。ただ、彼女が残りの短い時間にこの何気ないやり取りを選んでくれたことが嬉しかった。


「明日、楽しみだね」


「うん。楽しみだ、本当に」


 並んで座る僕たちの間には肩が触れてしまいそうな距離しかなくて、偶然を装って寄りかかってしまおうか、なんて不埒な考えを殺して適当な話をしながら、僕は明日の夜祭に思いを馳せていた。


 それからどれくらい経ったか、僕がサイダーを買って戻ってきたときだった。腰を下ろして一息ついた僕にヒナは言った。


「それにしても、本当の名前よりもヒナって呼ばれ方のほうがしっくり来ちゃったらどうしようね」


「あー……確かに、違和感くらいはあるかもしれないな」


 考えても仕方がないようなその言葉を一度は真剣に考慮してみようとしたものの、すぐにやめて言葉を返した。それはきっと、あの流れる雲は一体どこへ行くんだろう、みたいな答えの要らない問いかけだったし、彼女も真面目な返答を求めていなかった。だから、何かふざけたことを言うつもりだった。真面目な話をするのが馬鹿らしく思えるような、そんな冗談を言おうとした。


 あまりにも彼女が冗談みたいに言ったからか、彼女とこうしている時間を自分が思うよりずっと大事に感じていたからかはわからない。ただ口が滑ったと言うほかなかった。


「まあ、そうなったときはいっそのこと成仏しなくてもいいよ。ずっと、こうしていようよ」


 そんな甘い未来がつい口を衝いた。一瞬だけ呼吸が止まったかのようにヒナが硬直する。自分が何を口走ったのかすぐには理解できなくて、碌に考えないまま飛び出した自分の意外な言葉に猛烈な後悔が募る。けれど、音になってしまった言葉が今更引っ込むはずもなかった。


 僕の言葉に、彼女は驚いたように瞬きを一つした。そして、諦めるような顔で柔らかく言った。


「そういうわけにもいかないよ」


 まっすぐその目を見ると、ただ胸が痛くなった。


「……言ってみただけだよ」と僕はそれだけ返した。


 それから僕たちはいつものように二人で夕焼けを眺めていた。いつものような体勢で、いつもと同じひぐらしの鳴き声がして、いつもとは違う沈黙が流れていた。謝ることもできないまま、僕は黙るしかなかった。成仏しないでいい、なんて言うつもりはなかった。むやみに放ったその甘い未来がヒナを傷つけることもわかっていたし、僕の決意が揺らぐことも理解していた。それなのに、なぜそんな言葉が出たのかもわからない。その言葉は僕の口から出ていいものじゃなかった。いたずらに心を搔き乱すだけのその言葉は、許されるものではなかった。


 けれど、そう思う一方で、その言葉の響きがどうしようもなく魅力的に感じて胸が騒めくのもまた事実だった。ヒナと過ごせば過ごすほど、本音と理性が解離していく。どうしたらいいのかわからなくなっていく。


 最近、どうにも心がおかしい。

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