第14話

 八月二十四日、水曜日。時刻は午前十時を過ぎた頃。花畑に行ったときのように、家の前で合流した僕とヒナは並んで駅までの道のりを歩いていた。昨日までと違うのは、僕たちの間にあった曖昧な距離感がなくなったことだろうか。くだらない話をするたびに、すぐ近くで花咲くように彼女が笑う。吹っ切れたような混じり気のない笑顔こそ彼女の一番の魅力だと思う。記憶が戻ったことを隠していたときとは比べ物にならないほど、夏の道を行く彼女の表情は眩しかった。


 僕は、一晩のうちに決意を固めていた。何があっても、夏が終わるまでの一週間をヒナの生前すら覆すほど鮮やかな時間にする。そうして、誰よりも綺麗な思い出を抱えて彼女は消えるのだ。それが彼女の願いであり、僕たちにとって一番最善な終わり方のはずだ。ただ残りの時間が彼女にとって少しでも幸せであるように僕は動くだけだ。そのためなら、あと数日で失ってしまう笑顔に感じる痛みも無視して笑い返すことができた。


「そういえば、結局ヒナって自分の名前も思い出したんだよね」


 葉擦れの音に聴き入りながら、ふと会話が途切れたときに僕はそう訊いた。重ねた手の感触だったり、過去を話してもらったり、昨日はあまりにも色々なことがありすぎて脳の容量が埋まっていたから彼女の名前を訊きそびれていたのだ。


「うん、思い出したよ。……下の名前は覚えてないんだけどね」


 事も無げに答えてから、彼女は肩を竦めながら自嘲気味に笑った。彼女が自分の名前を思い出せない理由は、昨日話してくれた生前を鑑みればなんとなく察することができた。


「私、百瀬ももせって名前だったんだよ」


 ヒナが生前の名字を口にする。ももせ、という音を口の中で復唱するも、それがどうにも目の前の見慣れた笑顔と結びつかなくて、僕は違和感を無理矢理呑み込みながら尋ねた。


「もしかして、呼び方変えたほうがいい?」


「んー、例えば?」


「……なんだろう。百瀬ももせさん、とか?」


「あはは、急に他人行儀になるのやめてよ。ちょっと寂しくなるから、それ」


 彼女は呆れながら笑う。それでも僕は、僕がつけた仮の名前に自信が持てないままでいた。呼び方を改めるべきか懊悩する僕の耳に、大きかったわけでもない彼女の声が確かに届く。


「別に、今までどおりヒナでいいよ。……ヒナって呼んでほしい」


 大切な感情にそっと触れるように、彼女は和やかに微笑む。部屋に飾ってあった花から取った名前は、既に僕にとっても彼女にとっても特別な意味を持っていたようで、僕の懸念なんて要らなかったみたいだ。その事実に少し頬が緩む。


「わかった。じゃあ、これからもそう呼ぶよ」


 夏の暑さも忘れるような胸の温かさを感じながらそう返す。彼女は満足気に笑っていた。


「……今は呼んでくれないの?」


「なんか恥ずかしいから呼ばない」


「あはは、そっか」


 素っ気なく呟くと、彼女はいつものように笑っていた。そうして、時折真面目なふりをしながら僕たちはゆっくりと夏の道を歩いていく。アスファルトの隅で生きる雑草に逃げ水。眩むほどの日射し。いつも以上に自分がちっぽけに見える遠くの入道雲。そんな普通の風景も、ヒナがいるだけでどうしようもなく特別に思えた。


「それにしても、今日の遊園地楽しみだね」


 しばらく歩いていると、思い出したようにヒナがそう口にした。


「……僕、遊園地なんて十年ぶりだよ」


 親に連れられた幼い頃の記憶に触れながら僕がそう零すと、今日の予定の発案者である彼女は早くも心を躍らせているのか浮き立った様子でこちらを向く。


「ずっと行ってみたかったんだ、遊園地。なんか、親しい誰かと行く場所の象徴って感じがしない?」


「まあ、ちょっとわかる気がする」


 これまでの僕の人生には連れ立って遊びに出かけるような親しい間柄の相手がいなかったが、だからといって遊園地のような人の賑わう場所を毛嫌いしているわけではないのだ。クリスマスのイルミネーションや、風船が浮かぶ遊園地、遠い町の夏祭りなど、子供の幻想の延長線上にあるような景色が僕はどうも嫌いじゃなかった。自分には手の届かない場所への、諦めを多分に含んだ皮肉めいた憧れのような感覚があるのだ。自分には縁がなさすぎて悪印象すら持てないだけかもしれないが、ともあれ僕は遊園地を少し楽しみにしていた。僕が遊園地に期待してしまっているのは、きっと隣にいる彼女の笑顔が一番の理由なのだろうけれど。


 そんなことを考えながらヒナを見るとちょうど彼女も僕を見ていて、意図せず視線が交錯する。少しの間が空いて「楽しみだね」と彼女が小さく笑う。


 ただ平和で穏やかな、夏めいた時間が流れていた。


◇◇◇◇◇


 僕たちが遊園地に着いたのはあと少しで正午になろうかというときだった。夢の中を再現したかのようなポップな外観の受付で、ヒナにバレないよう誤魔化しながらフリーパスを二人分購入する。余らせてしまった許可証代わりの使い捨てリストバンドをバッグの中に忍ばせて門をくぐり敷地内へ入った。律儀に僕を待っていた彼女に笑いかけて並んで歩く。普段よりも歩調が少し早くて微笑ましかった。


 最初に感じたのは、幻滅とまではいかないものの多少なりとも現実感を覚えてしまう失意だった。この遊園地には十年前に来たことがあった。この地域の名物というわけでもないし、特別繁盛しているわけでもないが、それでも昔はもっと綺麗だった。ジェットコースターはもっと長かったし、バイキングはもっと高くまで振れていたはずだし、それぞれのアトラクションにはもっと鮮やかに夢の色が塗られていたはずだ。学校の校舎より低い船も剥げた塗装も日に焼けたベンチも、鮮やかな記憶のメッキを剥がしていくだけだった。当然の話だが、この遊園地も十年分の劣化はしているはずだし、幼い頃とは違って僕の目も十年分曇ってしまったはずだ。僕もこの遊園地も、嫌な時間の経過を感じさせた。けれど、そんな落胆も隣を見れば一瞬で吹き飛んでしまった。


 ヒナはその瞳をどうしようもないほど輝かせながら、感嘆の吐息を漏らしていた。目の前に広がるいくつものアトラクションに心を奪われたように立ち尽くしていた。彼女にとっては生前の夢が一つ叶ったようなものなのだろう。彼女が笑っているだけで、寂しいものとしか思えなかった遊園地が次第に輝きを取り戻していくようだった。僕は、行儀の良い子供のように内心で感動する彼女をしばらく見守っていた。


「意外と平日の遊園地って空いてるんだね」


 少しの沈黙の後、僕の視線に気づいた彼女は平静を装ってそう言った。無邪気に喜ぶ様を見られたことで決まりが悪いのか取り澄ましていたけれど、そんな態度とは裏腹に彼女の視線は次から次へとアトラクションを移ろっていた。乗り放題のチケットを買っておいてよかった、と僕は少し安堵した。心行くまでヒナがこの時間を楽しむためには、どうやら今日はアトラクションを制覇するくらいの覚悟を固めておいたほうが良さそうだった。


「……何から乗ろうか」


 ヒナのポーカーフェイスの拙さに苦笑しながらそう促すと、余裕のある僕の態度に不服そうな顔をしながらも彼女は園内を見回し始めた。


「あ、ねえ。私あれ乗りたい」


 そうして彼女が熟考の末に指差したのは、かなりの傾斜があるジェットコースターだった。明らかに重力に逆らっている横向きのレールを車体が走り抜けていく。何度も絶叫が上がるそれを見て彼女は益々楽しげな顔をした。


「やっぱり遊園地と言ったらジェットコースターじゃない? ずっと乗ってみたかったんだよね」


 期待に胸を膨らませながらヒナはどれだけこの日を心待ちにしていたのかを語る。その明るい表情に反して、僕の脳裏には苦い記憶が蘇っていた。


 のうのうと遊園地まで訪れておいてなんだが、僕は絶叫系のアトラクションが大の苦手である。憶えているのは興味本位で絶叫マシンに手を出しては傍迷惑に泣いていたことくらいだが、ジェットコースターが僕にとって恐怖の対象であることはしっかりと脳に刷り込まれている。もっと長かった、などと偉そうに講釈を垂れてみたものの、僕は密かに安堵していたのだ。縦横無尽に園内を巡る鉄塊に足が竦む。無言で立ち止まる僕にヒナが不思議そうに首を傾げる。


「じゃあ、乗ってみようか」


 僕は喉からなんとかそれだけ絞り出した。


 平日の上に大した規模ではないため、ジェットコースターでも並ぶことはなかった。一番先頭の座席に案内され、隣に誰も座らないことを確認してヒナも座る。歩く際と同様、今は物体を擦り抜けないような状態らしい。発進を今か今かと待ち望んでいるのがありありと表情から見て取れた。係員の指示に従い安全バーを下ろす。僕はなんだか受刑者のような心境で座席に座っていた。そして、大した決意の時間も取れないまま、車体が徐々に動き出してしまった。恐怖を煽るようにゆっくりと視界が上昇していく。観念できていない僕とは別の理由で彼女もそわそわと身じろぎしていた。


 前を見るのも怖かったから、少しでも気を紛らわせようとその楽しそうな横顔を見ていた瞬間、途轍もない速度で視界がブレた。耳元で轟音が鳴り続けて、景色が物凄い速度で背後へ流れていく。体中を落下の感覚が支配しているのに、内臓だけがゆっくりと浮かんでいるような違和感が気持ち悪い。体内に風船でもあるかのように息がし辛い錯覚に襲われた。低く唸りながら身を縮こまらせて安全バーにしがみつき、なんとか降下に耐える僕とは対照的に、ヒナは両手を上げて喜色を帯びた悲鳴を上げていた。なんでその華奢な体躯でこのアトラクションに耐えて笑っていられるのか不思議でならなかった。


 どこか冷静な頭の片隅でそんなことを考えているとようやく最初の山場を越えたようで、車体の速度が緩やかになる。気力の大半を持っていかれてぐったりとしている僕に彼女は笑いかけた。


「柊汰も両手上げてみたら? すごく楽しいよ」


 朗らかな笑みから死刑宣告に等しい言葉が飛び出る。


「無理。たぶんそんな頼りない状態だと僕は心臓が止まって死ぬ」


「……怖いってこと?」


「そうとも言う」


 恥も外聞もなく僕はそう返す。


 少し意外そうな顔な顔をした後、解決策に迷うような顔で唸っていた彼女は名案でも浮かんだかのように「あ」と一言だけ零してから僕へと笑みを向けた。


「じゃあ、はい」


 そう言ってヒナが左手を差し出す。


「手、握っててあげるから」


 差し出された手を訝しがる僕を見て、苦笑しながら彼女は言った。彼女の中にはもう触れることへの躊躇いは残っていないようだった。優しい瞳の真意に気づかないふりをしながら、彼女の左手を握手のような形でおずおずと握る。ぶつけたら崩れてしまいそうな繊細な指先や手のひらは、白磁のような肌からは想像できないほど柔らかかった。少しひんやりとした手のひらから徐々に彼女の体温が伝わってくる。繋いだ両手を見て、満たされたようにヒナは笑った。


 これは不安を紛らわせるため。彼女が心残りなく今を楽しむため。僕を気遣わせないため。そう何度も自分に言い訳をして、変になってしまいそうな心を落ち着かせた。手を繋ぐことに特別な意味はない。そう言い聞かせる。


「これでもう大丈夫でしょ?」


 そう彼女が明るく笑う。そしてまた、唐突に視界がブレた。


 結論から言ってしまえば、手を繋げば怖くないなんて嘘だった。怖すぎて変な声が出るし、目だって碌に開けられなかったし、無様なくらい彼女の手を強く握ってしまったし、やっぱり絶叫マシンなんて散々だ。ただ、一瞬だけ開いた目の先にはどこまでも楽しそうに笑うヒナがいて、ジェットコースターも悪くないなと思ってしまったのが悔しかった。


◇◇◇◇◇

 

 それから、色んなアトラクションを回った。コーヒーカップを人目も気にせず思いっきり回してみたり、回転ブランコの空を飛ぶような感覚を気に入って何度も乗ってみたり、メリーゴーラウンドで一つの馬に二人で座ってみたり、再度ジェットコースターに挑戦して撃沈したりと気が済むまで遊びまわった。楽しそうに笑うヒナの表情を網膜に焼きつけるように、ずっと見ていた。


 少し空に茜が差し始めた頃、最後に僕たちが乗るのはこの遊園地の目玉でもある観覧車だった。足すら満足に伸ばせないほどの狭い空間で、対面の座席が空いているにもかかわらず右隣にヒナが座る。そうして適当に喋りながら待っていると、少し軋んだ駆動音を響かせながらも僕たちを乗せたゴンドラがゆっくりと地上を離れていく。遊園地の敷地内に敷き詰められたレンガタイルが遠ざかっていった。


 ゴンドラの中は静かだった。駆動音が小さく聞こえるくらいで、僕もヒナも何かを話したりすることはなかった。彼女の視線はずっと硝子の向こうに釘づけだった。昼間に散々乗ったアトラクションが柔らかく斜陽に照らされてどこか寂しげに見える。名前も知らない街並みの生活感ばかりがやけに想像できてしまう。彼女はその大きな瞳にこの景色の全部を映そうとしているようだった。その横顔が、何よりも脆くて綺麗に見えた。海を見に行ったときもそうだったが、反応が新鮮で素直なヒナとどこかへ行くと、僕の分まで彼女が感動しているようでなんだか救われた気になる。こんな世界も少しは良いものなのかもしれないと思ってしまう。僕は、彼女といることが好きなんだと改めて自覚する。右隣で息を吞んでいる彼女は、一人の人間の中にある世界の価値を変えていることなんて気づきそうにもなかった。


 たまらなく満たされた気がして、何か変なことでも口走ってしまう前に慌てて視線を手元へ落とすと、僕が座席に下ろしている右手のすぐ横に、夕空に見入っている彼女の無防備な左手があった。割れてしまいそうなほど薄い手のひらの柔らかさを僕は知っている。しなやかで細い指先の頼りなさを僕は知っている。もっと触れたい。自然にそう思ってしまった。吸い寄せられるように手を伸ばしそうになったところで、それまで黙っていたヒナが唐突にこちらを向いた。勢いよく僕は手を引っ込める。


「ねえ」


「ん?」


 ヒナの瞳が僕を映す。彼女は少しだけ寂しそうだった。


「夏休みが終わったら、私の本当の名前を知りに行きたい。……ついてきてくれる?」


 僅かに不安そうな彼女が僕に尋ねる。


「……もちろん。ついていくよ」


「そっか、じゃあよかった」


 安堵したように微笑むと、それっきりまた彼女は夕景へ目を向ける。どれだけ今日が楽しくても、夏の終わりを忘れたわけではない。僕たちは現実から目を逸らせるほど器用でもなくて、直視し続けられるほど強くもなかった。


「景色、綺麗だね。すごくて、高くて、優しい色してて。……ほんとに綺麗だね」


 夕空に目を向けたまま、ヒナがそう呟く。


「……確かに、綺麗かもね」


 今目の前にある景色が綺麗じゃなかったら、きっとこの世に綺麗な場所なんて存在しないような気がしたから、そんな言葉を返した。この期に及んで気の利いた言葉すら言えない自分が情けなかった。僕は、誰かに向ける本音には誠実でありたい。そんな無意味な矜持がいつも僕の邪魔をする。それにヒナは、吐息と聞き紛うほど小さく笑った。そして、こちらへと振り向く。熱を持った綺麗な瞳に真正面から見つめられる。彼女は笑っているはずなのに、なんだかとても悲しそうに見えた。彼女の唇がゆっくりと開かれる。


「……夏が終わったらさ、私の名前を呼んでよ」


 とても気軽に、彼女は言う。そのまま言葉を続けようとして、感情の波に言葉を流されたように少し息を吐いた。


「そしたら私、逝ける気がする」


 何よりも静謐に、何よりも丁寧に、そんな言葉が紡がれる。冗談でも気楽に言うことができないほど、彼女の言葉は重かった。


 夏が終わってほしくなかった。今日が終わってほしくなかった。真面目な話なんてしたくなかった。僕たちの終わりなんて見ないふりをしていたくて、全部から逃げ出したかった。そんな衝動は殺して、ヒナから目を逸らさずにしっかりと言葉を返す。


「うん。……わかった」


 それに彼女は薄く笑うと、促すように左手の小指を立てて、「約束ね」と囁くみたいに言った。


 これまで僕たちは、未来を語ることを避けていた。幽霊と人間ではどうしたって別れがあるだろうから、そんな話はどちらからともなく忌避していたのかもしれない。そんな臆病な僕たちの間に、彼女はたった一つの約束を作った。


「うん。……約束だ」


 その言葉の脆さを知りながらも、彼女がそれを口にしたことが嬉しかった。僕がヒナを相手にして躊躇いなく口にできたことも、嬉しかった。その儚さを二人で信じられたことが、幸福に思えた。


「ねえ、出す手が逆だよ。これじゃ結びづらいよ」


「……仕方ないだろ。指切りなんて初めてなんだから」


 左手の小指を立てる彼女に、間違って右手の小指を出してしまって、彼女が呆れるように笑う。ぎこちなさを繕いながら僕は彼女の手に自分の手を近づけて、くすぐったい空気の中、不格好に小指を絡ませた。千切れないように、確かに強く結びつける。


「僕は、ちゃんと君の名前を呼ぶよ」


 夕焼けに浮かぶ観覧車の中でそんな誓いを立てた。それを聞いたヒナは、一瞬だけ泣きそうな顔をしてからまたいつものように笑った。茜色の風景の中で見たその笑顔の美しさに、心臓が痛いくらい跳ねた。解くのが心細かったのか、彼女は結んだ小指を離そうとはしなかった。僕も離したくはなかった。観覧車が止まるまで、僕たちの小指は名残るように絡んだままだった。

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