第13話

「……いつから気づいてたの?」


 蝉の声だけが響く長い沈黙の後、ヒナは僕を見ないまま小さく言った。その横顔に真実を暴かれた動揺は見受けられなくて、彼女は世界の終わりを受け入れるように凪いだ表情のまま沈む夕陽を目で追っていた。優しい諦念を浮かべるその瞳に、自分の発言が正鵠を射ていたことを嫌でも理解してしまう。


「……あの事故の日に、ヒナは『轢かれそうになったのは大丈夫』って言ってたんだ。まるでそれ以外の何かがあったみたいな言い方で、やけに気になったから覚えてる。それでも、最初はただの言い間違いかと思ってた。次に引っ掛かったのは映画館だった。好きな歌のタイトルすら知らない君がホラーは得意だと言っていて、特別映画が好きというわけでもなさそうだったから、なんでそう言えるのか不思議だった。他にもふとした瞬間に生きてるときのことを覚えているような口振りだったり、気がかりはあったけどその時点ではまだ違和感の範疇でしかなかった」


 理屈を詰めて幼子の無邪気な理想を破綻させていくように、彼女の記憶が戻っているという考えに至った理由を並べていく。滔々と僕が言葉を続けるたびに、ヒナは痛みを感じるように少しだけ目を細める。たぶん僕も同じような表情をしているだろう。彼女の秘密を看破することがお互いを傷つけることを十分理解していながら、僕は言葉を止めなかった。一滴の不信さえ見逃してしまえば、僕たちの関係が本物ではなくなってしまうような気がした。彼女の笑顔に抱く憧れが少しでも濁ってしまうことが怖かった。


「その違和感が確信に変わったのは、ついさっきだ」


 不安に追い立てられて淡々とした言い方をしてしまう僕に、ヒナは裁かれるのを待っているかのような無抵抗さで僅かに頬を強張らせていた。ようやく自分の声音が固くなっていることに気づき、僕は一度そこで夕焼けを見た。息を吐いて、肩の力を抜いて、なんでもない夕景の感想でも述べるように努めて何気なく言った。


「ヒナはさ、重ねた僕たちの手を見て、こうやって誰かと手を合わせるのが初めて、って言ったんだ。それは、幽霊になってから誰かと触れ合えたのが初めてって意味じゃなくて、ああやって誰かと手のひらを合わせること自体が初めてって意味だったんだろ」


「どうして、わかったの?」


「ヒナの顔にそう書いてあったよ」


 僕は冗談めかして笑ってみせた。彼女は、心情を見透かされたことに納得がいかないような面持ちをしながらもどこか安堵しているようだった。やがて長い溜め息をついてから、彼女は悪びれるように力なく微笑んだ。


「黙っててごめんね。……柊太の言うとおり、生きてるときのこと、思い出したよ」


 それは僕たちが目指していた進展のはずだった。ずっと、彼女の記憶が戻ることを望んでいたはずだ。僕たちは成仏への大きな足掛かりを得たはずだ。それなのにヒナの言葉に対して、なんでこんなにも何かを失くしてしまうような感覚がするのだろうか。大切な何かが心から零れていきそうになって、彼女の記憶が戻ったことを素直に喜べないのはどうしてだろうか。


「ちゃんと隠せてるつもりだったんだけどな……」


 小さな失敗をぼやくようにヒナが呟いた。茶化しながら言ったその言葉が彼女の本音であることはすぐにわかった。「気づくに決まってるだろ」と、僕も薄く笑いながら言葉を返した。そうやって気楽なふりでもしていないと、精一杯保っている心が崩れてしまいそうだった。


 どれだけその笑顔を隣で見ていたと思っているんだ。いつもの夕焼けの中で笑うヒナのほうが何倍も綺麗だった。僕は不純物が混ざった彼女の笑顔を見たくなかった。彼女には、なんの憂いもなくただ幸せに笑っていてほしい。


「柊汰は、私のことちゃんと見てるんだね」


 困ったように眉を寄せながら、彼女は照れくさそうに笑った。


「……何か隠してるんだろうなとは思ったんだけど、今更ヒナが僕に隠すことなんて他に思いつかなかったから。だから記憶が戻ってると思ったんだ」


 そう言って僕はヒナを見た。今では、彼女の考えていることも少しはわかるようになった。それがこんな形で露呈したのは複雑だったけど、僕たちが一緒にいた時間は確かに無駄じゃなかった。この数か月は、彼女に嘘をつかせ続けないためにあったのだ。夕暮れを見ていた時間の分だけ、彼女が一人で抱えないよう、僕たちの終わりにちゃんと二人で向き合えるよう、僕は彼女に寄り添うことができる。彼女の心を預けてもらえる。


「何があったか、訊いてもいい?」


 少し寂しそうな顔をしている彼女にそう尋ねる。僕のものとは思えないくらい穏やかな声だった。目が合って、彼女がふっと柔らかく微笑む。きっと出会ったばかりの彼女だったら遠慮して話してくれなかったに違いない、と思うとなんだか場違いなくすぐったさがあった。


「……あんまり楽しい話じゃないけど、それでもよかったら」


 そう前置きをしてから、夕焼けを見つめる彼女はぽつぽつと話し始めた。




◇◇◇◇◇




 私が生まれて少ししてから、両親は交通事故で亡くなったらしい。閉鎖的な田舎から駆け落ち同然で都会へと飛び出した矢先の話だった。色んなものを放り出して片田舎を出た両親への風当りは冷たかったらしく、その娘である私は押しつけられるように親戚の家を回り、最終的には母の妹夫婦が暮らしている家に引き取られた。物心がつく頃には、叔母に疎まれながら自分の部屋で絵本を読んでいつもじっとしていた。叔母夫婦には私より二歳年上の娘がいて、他所の子供である金食い虫の私に愛情というものは注がれなかった。叔母は実の姉妹ながら私の母を嫌悪していたようで、その面影を色濃く残す私にも辛辣に当たった。叔母はいつも私のことを「あんた」や「お前」と呼んでいて、一向に私の名前を呼ぶことはしなかった。


 そんな幼少期を送ったものだから、私は幼いながらに自分が望まれていない子供なのだと強く実感していた。自分には愛される資格というものがないのだと本気で思っていた。きっと、私がもっと普通の子供だったらそんな感性が根づいてしまったことを嘆いていたのだろうけれど、私は悲嘆に暮れることもなかった。悲しまなかったのではなく悲しめなかったのだ。私は、私を取り巻く生活環境に対して期待することができなかった。


 だって、望まれてもいないのに生まれてきた私が悪いんだから。世の中にはもっと酷いことをされている子供もたくさんいる。それに比べれば私はとても恵まれているほうだ。六歳の誕生日に風邪を引いても誰も看病してくれなかったときも、二歳上の従姉の小学校卒業を祝う旅行の相談すらしてもらえずに留守番をしていたときも、寂しさこそ感じていたけれど叔母や家族を憎む感情は生まれなかった。『罪を犯したことのない者が石を投げなさい』という、どこかで聞いた偉い人の言葉が幼いながらに心の中に楔を打った。愛される資格を持たない欠けた私には、人並みに不満や悪感情を持つ権利がなかったのだ。


 十歳になる頃には、人に嫌われないための生き方というものが人生に染みついていた。率先して叔母の家事を肩代わりして、なるべく叔母を煩わせない存在になるよう努めた。従姉を立て、叔父を気遣い、模範的な良い子として振舞うのが私の自然体になっていた。そこまでしても叔母は私のことが目障りだったみたいだけど、従姉と叔父の対応は少しだけ柔らかくなり、環境への慣れもあって家にいるのが少し楽になった。


 学校ではいつも笑って過ごしていた。人の機微に臆病な私が辿り着いた結論は、自分の望みを一切主張しないことだった。誰かの話を聞いて笑ってみせて、誰かの頼みを快く請けて笑ってみせて、そうやっているだけで嫌われることはなかった。自然と私はよく笑う子供になった。私を都合よく利用する同級生の頼みにも嫌な顔をしたことはなかった。断って万が一にも嫌われてしまうのが怖かったから、そんな思いをするくらいなら少し苦労したほうがマシだった。数人の子達が与えられた罰を引き受けて、一人で空いた教室を掃除していたときは少し泣いてしまったりもしたけど、それでも嫌われてしまうよりずっとよかった。


 そうして学校生活を送っていく中で、私は周りの人から優しい人間だと認識されるようになった。いつも笑っていて、いつも頼みを聞いてくれて、誰の文句も言わない。直接言ってくる人はいなかったけど、誰かから見た私の顔にはそういったラベルが貼られていたのだと思う。私は、そんな無言の圧力のような期待にも応え続けた。自分の身の丈より何倍も優しい人間に見られるよう、誰にも弱みなんて見せないように、周囲から望まれる虚像に少しでも近づこうとしながら生きていた。そんな努力の甲斐あって、私は概ね平和な学校生活を送ることができていた。


 けれど、全部がうまくいっていたわけではなかった。私には、心の底から信頼できる友達というものがいなかった。


 ある日ふと、ありのままの自分を忘れてしまったことに気づいた。そのままの私に愛される価値がなかったのは私の人生が証明しているから、取り繕わない自分を見せるのが怖かったのかもしれない。そして、一度素の自分というものに意識的になってしまえば、疑念が疑念を生んでもう二度とそれは思い出せなくなった。だから私は、誰に対しても一歩遠のいた心の向こう側から笑うことしかできなかった。


 結局、数年が経っても私の根っこの部分には寂しがり屋な私がいた。誰かに愛されたいと思いながら、一人寂しく本を読んでいる幼いままの私がいるのだ。私の心を曝け出しても平然と受け入れてくれるような、そんな友達が欲しかった。周りの子達みたいに恋だってしてみたかった。そんな人並みへの羨望と強い無価値感を抱えたまま私は育っていった。


 中学生になって早々「誰にでも良い顔をするな」と嫌われそうになったり、叔母に高校の学費を出してくれるよう懇願したり、そんなことがありながらも私は高校生になった。高校生にもなると、私はそれほど学校で気を張らなくても普段どおり振舞えるようになった。笑っていることが完全に私の人生の一部になってしまったのか、小中学生ほど周りが直情的ではなくなったからか、たぶんどちらの影響もあるのだろうけど、私の高校生活は至って平凡だった。真面目に勉強をして、家事を手伝って、たまには友達と遊んだりと、そんな日々を過ごしていた。少し憧れはあったけど、部活には入らなかった。叔母が部活にかかる費用を出してくれるとは思えなかったというのもあるけど、私はよく頼まれごとを引き受ける以上、帰宅部であるほうが都合良かったのだ。私の放課後はいつも適度に忙しくて、その忙しさは人に求められているのかもしれないという充足と安堵を私に与えた。


 そんな日常に馴染みきっても、私はいつまで経っても他人に心を開けなかった。私は、歪なくらい私を受け入れてくれるような、特別な相手を心のどこかで望んでいた。それはきっと、無意識のうちに私にとっての救いが擬人化したような存在で、あまり顔触れの変わらない片田舎にそんな相手がいるはずもなかった。自然と、私はここよりもずっと離れた遠い地に憧れのような思いを馳せるようになった。私は、母と父が暮らそうとした街へ行きたかった。空ばかりが広い田舎から飛び出して、両親が望んだ場所へ私も行ってみたかった。


 幼い頃、嫌そうな顔をした叔母に連れられて親戚の集まりに顔を出したことがあった。私も行きたいわけではなかったけれど、お節介な親族の誰かがたまには連れてきたらいいと言ったらしい。結局退屈なその場に連れ出された私は誰にも相手にされなかったから、誰がそう言ったのかはわからない。同じくらいの背丈をした子供たちの間では既に輪ができていて、馴染めなかった私は大人達が盛り上がっている隣の部屋で静かにジュースを飲んでいた。多くの親族は田舎町を飛び出していった私の父と母を貶めて酒の肴にしていた。「無責任」とか「自業自得」とか、そんな言葉が飛び交ってはげらげらと下品な笑いが起こった。詳しい意味や事情まではわからずとも、両親が馬鹿にされていることは悲しいほどわかった。どうして両親が笑われているのかわからなくて、それがたまらなく悲しくて悔しくて、静かにその場から離れた。自分が馬鹿にされるよりずっと心が痛んだ。


 その後、遅れてやってきた母方の祖母が、家の隅っこでひっそり泣いている私を見兼ねて祖母の家へ連れ帰ってくれた。祖母は親族の中で唯一私にも普通に接してくれる人だった。体が弱く入退院を繰り返していたため私が祖母に引き取られることはなかったけど、祖母だけは私を案じてくれていたようだった。そんな祖母にも負担をかけたくなくて私は気丈に笑うしかできなかったけれど。


 親戚が両親を笑っている声は高校生になっても私の頭から離れなかった。母と父は確かに私を置いて死んでしまったけど、私は両親が好きだったのだ。祖母が母の話をしてくれるとき、私の胸には温かい懐かしさがあった。母の顔なんて写真でしか知らないし、記憶だって朧げなのに懐かしかったのだ。そんな母を、私は肯定したかった。母と父はただ幸せになろうとしたのだ。結果的に事故に遭ってしまっただけで、それが馬鹿にされることには思えなかった。


 両親を笑う大人たちを心のどこかで否定したかったのかもしれない。祖母が母のことを語るときの愛おしそうな表情が羨ましかったのかもしれない。とにかく、私は両親が掴もうとした幸福を確かめてみたくなった。もしかしたら、そこでなら私は生まれて初めて誰かに望まれるかもしれない。私の醜さも弱音も、全部まとめて受け入れてもらえるかもしれない。そんなまともな幸せがあることを密かに願いながら、いつかその地へ行けることを夢見ていた。


 そんな願望が叶ったのは、思っていたよりずっと早いある夏のことだった。高校二年生の夏、叔母夫婦と従姉は、従姉の誕生日祝いで旅行に行くらしかった。夏休みの時期になると毎年盛大に従姉の誕生日は祝われていたのだけど、その年は従姉が目指していた大学に合格したこともあり、例年よりも豪華な誕生祝いにするようだった。そして、従姉が望んだ旅行先は、奇しくもかつて両親が暮らした場所だった。


 私はその機を逃さないように、旅行に連れて行ってくれるよう無理を言って叔母と従姉に頼み込んだ。普段自分の意思を伝えない私の行動に、二人とも驚いているようだった。そして、旅先ではずっと別行動かつ最低限のお金しか使わないという条件で私は同行を許された。私服を持っていないからずっと学校の制服を着ていたし、行きの電車も叔母たちよりグレードを落としたものに乗っていたけど、そんなことは何も気にならなかった。両親が望んだ景色を確かめられる高揚と、迷いとも期待ともつかない淡い感情が胸を埋め尽くしていた。そこへ行けば、私も幸せになれるのだろうか。そう考えるだけで少し胸が高鳴った。


 どれだけの時間が経ったかはわからなかったけど、電車に揺られているといつの間にか目的地に到着していた。色んなお店が併設された駅を見るのも初めてだったから、外に出るのも一苦労だった。ようやく太陽を拝めた駅前の広場は、たくさんの人で溢れかえっていた。派手な髪の色をした若い人から、普通の恰好をしたサラリーマン、大きな楽器を背負った人に着物を着た人、多種多様な人がいた。その誰もが私なんて目もくれずに、当たり前のように歩いていた。その雑多さに私は少し救われていた。自分が生きていてもいい、とはっきり言えない私にはまるで赦されているようだった。こんなに人がいるのなら、私も誰かに望まれることがあるかもしれない。田舎よりも少しだけ薄い夏空の青さにそんなことを思った。


 それから、私は都会と田舎の違いを確かめるように街の中を巡り歩いた。友人が見せてくれるスマホの向こう側にしかなかったカフェに少し感動したり、道を行く人の歩く速さに取り残されたり、何もかもが窮屈な田舎とは違っていた。そうしてしばらくの間首をあちこちに向けながら、私は一枚のメモを手にして慣れない街を歩いていた。祖母がくれたそのメモには、生前の両親が住んでいた場所が書かれていた。一目でいいから、歩くことさえままならない頃の私はどんな街で両親と暮らしていたのか見てみたかった。少しでも両親との記憶に触れたかった。


 目的の住宅街まではもう少しだった。あと少しで両親が描いた幸せを見ることができる。そうしたら、ちょっとでいいから私も望まれて生まれたのだと思えるのだろうか。両親の幸せとして生まれてきたのだと思えるのだろうか。誰かに愛される資格があると、思ってもいいのだろうか。


 尻込みする心を抑えて信号を待っていた、そんなときだった。


 それはたぶん、トラックだったと思う。眠った運転手を乗せたトラックが、明らかに道路を逸れて信号を待っている私へとまっすぐに向かってきていた。


 あまりにもその光景が不思議で、避けることもしないで私は間の抜けた声を上げた。陽炎が立つほど暑い夏の日だったからだろうか。目の前にトラックが迫っていても私には現実感がなかった。


 直後、強い衝撃が訪れた。何が起こったかわからないまま、私の意識はそこで途切れた。


 次に意識が戻ったとき、不思議と痛みはなかった。強いて言えば、少しだけ息苦しかった。目を開くのもやっとで、射し込む白い光がやけに眩しかった。うっすらと目を開くと近くから緊迫した声があがる。そちらへ顔を向けようとして、ようやく私は体が動かないことに気がづいた。ピクリとも体を動かせなかった。私の意識が戻ったことに気づいた誰かが顔を覗き込んでいた。音もはっきりと聞こえなかったけど、どうやら何度も私の名字を呼んでいるようだった。返事を返そうとして、辛うじて掠れた音が喉から出る。私の体の機能は既に大半が死んでいるようだった。


 そんな体とは違って、私の思考はただ静かだった。ここが病院だということもわかったし、私が事故に遭ったこともわかった。私の体が致命的な状態であることも、わかっていた。


 それでも、死ぬことはそんなに怖くなかった。怖いのは、本当に自分に価値がないと知ってしまうことだった。私が搬送されてしばらく経っているようだったけど、一向に叔母や従姉は姿を見せなかった。私が重傷を負って命の危機に瀕していることよりも、従姉の誕生祝いのほうが重要だったのかもしれない。十年以上一緒に暮らしていても、やはり私は望まれてはいなかった。


 私はこのまま、誰にも愛されないで終わるのだ。頭を預けて誰かに寄りかかることもできず、弱い私を受け入れてもらうこともないまま、誰にも見向きもされずに死んでいくのだ。思えば、私は日々の中で誰かに名前を呼ばれることがなかった。特定の深いつきあいの同級生がいなかったから学校では名字で呼ばれていたし、叔母や従姉には「あんた」と呼ばれていたから。


 ずっと、優しく笑いかけてほしかった。弱った私を見て心を痛めるくらい、私のことを考えてほしかった。それが叶わないならせめて、名前くらい呼んでもらいたかった。そんな願いさえ叶わないのが、望まれていないのに生まれてきた私の価値だったらしい。そう思い知った私は、今更何かを望むことも諦めてしまった。ただ、慌ただしく動く救急医の人達に迷惑を掛けたことを謝りたかった。他にも色んな人に謝りたかった。叔母にも、友達にも、両親にも、トラックを運転していた人にも。必要とされていないのに生まれてきたことを謝りたかった。


 涙が目の端から零れていった。視界がぼやけたから、目に溜まった涙を溢れさせるように目を閉じた。そうしたらもう、目を開けることができなかった。ただ、目蓋が重くて。もう私は死ぬのだとわかった。


 これで終わるんだ。そう実感すると途端に悲しくなった。今までの人生で押し殺していた悲しさが全部溢れ出してきたようで、最期の最期に一つだけ、身の程も弁えないで思ってしまった。

『一度くらい、誰かに愛されてみたかったな』


 ただ、諦め交じりに淡く願ってみるくらいしか私にはできなかった。




◇◇◇◇◇




 ヒナは感傷的になるでもなく、目を逸らそうと努めて事務的になるでもなく、至って平常心のまま自分の短い生涯を話してくれた。悲観するわけでもなく乾いた諦めが滲み出る表情で滔々と語るその様が、僕にはとても歪で痛々しく見えた。


 ヒナという女の子の人生は、どこまでも世界に見放されていた。運命的でも劇的でもなく、ただ愛を注がれないままありふれた悲劇が降りかかって、誰にも気づかれないように世界の片隅でひっそりと終わっていた。帳尻を合わせる存在の目から外れたかのように、この世の不幸しか知らないまま彼女の人生は幕を下ろした。それは、年端のいかない少女が味わっていい仕打ちではなかった。彼女がどれだけ優しい人間であろうと、心の綺麗な人間であろうと、世界はそんなことを気にも留めなかった。あまりにも、彼女の人生は硬くて冷たかった。


 僕は、どんな言葉を掛けていいかわからなかった。半端な覚悟で投げる言葉は全部彼女の心を抉るだけのように思えた。


「それで、気づいたら幽霊になってたの。生きてるときのことはなんにも憶えてなくて、最初はほんとに困ってたよ」


 頬を掻きながらきまりが悪そうな顔をする彼女が言う。僕を見つけるまで、ヒナは完全に成仏に行き詰まっていたはずだ。彼女の人生は生前も死後も、僕なんかには計り知れない苦難が連続していた。それでも、彼女はいつものように薄く微笑んでいた。奇跡の上に成り立っているようなその明るさに胸が締めつけられるような眩しさを感じる。重い過去を携えてなお朗らかに笑っている彼女の底なしの優しさに、僕はどうしようもなく惹かれていた。


「今はもう、全部思い出したの?」


 ヒナの雰囲気に当てられて、いつもより穏やかな声音で僕はそう訊いた。


「全部ってわけじゃないけど、通ってた学校とか年齢とか、自分の名字も思い出せてるよ」


 彼女は思い出した情報を指折り数えて確かめていた。そして、不意にその動作が止まる。ゆっくりと綺麗な瞳が僕を捉える。


「だから、もう少しで成仏もできると思う」


「……そうなんだ」


 あまりにもヒナがあっさりと言うものだから、僕はすぐに実感が湧かなかった。遅れてその言葉の意味を咀嚼して、じわじわと理解が広がる。そんな僕に、駄目押しをするように小さな声で彼女が呟く。


「うん、そう。……そしたら、柊汰ともお別れだね」


 おわかれ。その四文字がやけに頭に残る。そんな言葉は聞きたくなかった。そんな少し先の現実は今すぐ見ないふりをしてしまいたかった。彼女はただ、柔らかな夕陽を受けて切なげな微笑を浮かべていた。


「……なんで、そんな顔するんだよ。僕たちはそのために、今まで一緒にいたんだから。それは……良いことだろ。良いことのはずだ」


「うん。……そうだね」


 その言葉がヒナに向けたものだったのか、自分に言い聞かせたものだったのか、僕にはもはやわからなかった。いつか彼女がいなくなることはずっと前からわかっていたはずだ。何度も、その瞬間を想像しては痛みに慣れるよう覚悟をしていたはずだ。それでも、いつまでも心は追いついてこなかった。


 もっと一緒にいられたらいい、なんて硝子細工よりも儚くて脆い希求がきっと叶わないことを知りながらも、僕はそれを望んでいた。幽霊と人間という違いが必ず彼女の心に影を落とすことを知っているから、心を言葉にすることはできないまま、僕は夕暮れの中で時間が止まることを願っていた。


 どれだけ夕焼けの一秒が惜しくても、斜陽は既にその半分ほどを地平の向こうに沈ませていて、確かに夏が過ぎていく。一度だけの夏が、ゆっくりと終わっていく。一つの季節をこんなに惜しんだのは生まれて初めてだった。


「ねえ、柊汰」


 ふと、囁くような不確かさでヒナが僕の名前を呼ぶ。隣を見ると、波立つ感情を映すように揺れる瞳と目が合った。


「……夏が終わるまで、騙されてるふりをしてくれないかな」


 蝉の合唱にすら消え入りそうなほど微かな声で彼女が言う。色んな感情を呑み込んだ彼女は、夕陽にすら溶けて消えてしまいそうなくらいとても綺麗に微笑んでいた。


「私がもうこれで消えてもいいって思えるくらい、幸せにして」


 それは、何も望まずに生きてきたヒナが願う、たった一つの小さな我が儘だった。それが彼女にとってとても大切な言葉だったことは僕にもわかった。


「夏が終わったら、私はちゃんと消えるから。だから、それまで……一緒にいたいよ」


 誰にも打ち明けないまま胸に秘め続けた許されない想いを告白するように、臆病に、弱々しくヒナが呟いた。その瞳が帯びる熱の意味がわからないほど僕は鈍感じゃなかった。ヒナの我が儘の意味も、その些細な祈りが彼女にとってどれだけ重いことなのかも、僕はわかっていた。夏の終わりがそう遠くないことも、ちゃんと全部わかっている。


「うん。一緒にいるよ……夏が終わるまで」


 どこまでも普通な女の子でしかない華奢なヒナを、今すぐ折れそうなほど抱きしめてしまいたかった。そんな衝動を握り締めた手のひらに押し込めて、どうにかそれだけ返した。「……ありがと」と安心したように彼女は夕焼けに向き直る。


 僕たちはその日、暮れる空の下で一つの魔法をかけた。記憶が戻らないという嘘を、嘘のままにしておくという魔法だ。想いを確かめていくほどに別れの哀しさは募っていく。今が美しいほど、別れを惜しんでしまうことも知っている。それでも、これからの数日が何よりも強く思い出として心に焼きつくことを祈って、夏の終わりには解けてしまう儚い魔法を僕たちは信じた。


 茜色の太陽が今までで一番鮮やかに見えた。ヒナの横顔を見ていると妙に心がざわついた。視線が合って、何気なく笑った彼女が再び正面へ目を向ける。こんなに素敵な笑顔を、僕はもう少しで失ってしまう。気づけば、もう随分と夜が空を覆い始めていた。


 僕たちに残された時間が、ゆっくりとなくなっていく。夏は確実に終わりへと向かっていた。

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