第12話
僕たちの間にあった何かが変わったあの事故から、既に十日以上が経とうとしていた。車に轢かれかけたショックで涙を零していたヒナも、今では曇りなく笑えている。それに僕は安堵するとともに強く葛藤していた。
今まで、僕の中には彼女に対して明確に引いた一本の線があった。いつかヒナがいなくなるという諦めだったり、幽霊と生身の人間である僕たちが抱える決定的な違いだったりが綯い交ぜになった、そんな線だ。いつか独りに戻るなら望むほどに苦しいだけだろう。そう言い訳をして、どれだけ彼女の笑顔が魅力的であろうと、どれだけ彼女と同じ日々を重ねたくなろうとも、僕の心がその線を越えてしまわないよう抑えているつもりだった。
事実僕は、何気ない瞬間に垣間見えるとびっきりの笑顔を見ても、いつか来る別れを受け入れられていたと思う。どこまでも眩しい憧れが消えてしまうことも理解していた。未練がましく未来なんて想像しなかった。彼女と深く関わりすぎてはいけないという理由があったから、僕は自分の感情になんとか歯止めをかけることができていた。
けれど、あの事故の日に、そんな僕の予防線はいとも簡単に取り払われてしまった。
例えば電車で隣に彼女が座るとき、今までなら気にならなかった息遣いを意識してしまうようになった。並んで道を歩くとき、少し距離が空いてしまうようになった。夕焼けを穏やかに見つめる彼女の頬に手を伸ばしてしまいそうになった。そんな些細な違和感が、日常の端々にいくつも浮かんでいた。普段は明け透けにものを言うヒナも妙によそよそしかった。時折様子を窺うように視線を向けると、結構な頻度で彼女も僕を見ていた。そのたびに彼女が小さく苦笑するから、僕は毎回自分の本心を包み隠さず話してしまいたくなった。
そんな風にお互いを多少なりとも意識しているのが筒抜けのまま、僕たちは事故のせいで延期してしまった予定を取り戻すため、カメラを手に色んな場所へと足を運んだ。
最初に訪れたのは、どこまでも続くひまわり畑だった。そこに行って一番最初に感じたのは、自分なんて消し去ってしまいそうなほどの空の広さだった。目に痛いくらい澄んだ青空に、風に吹かれる薄い雲が無限の奥行きを与えていて、ひまわりがその遥かさに応えるように眩しい太陽へと背を伸ばしていた。その花畑はどこまでも爽やかだった。それが人の手によって整えられた景観ということはわかっていたけれど、僕にはその景色が、地球がふと見せたありのままの光景のように思えた。
ヒナが楽しめているかどうかなんて訊く必要はなかった。ひまわり畑へ向かう道のりでのむず痒い沈黙も忘れて、彼女は壮大なひまわり畑が持つ目に見えない素晴らしさのようなものを、なんとかその綺麗な瞳に収めようとしていた。やがてその遠さに参ったように感嘆の息を漏らしてから、僕へと振り返って笑った。セーラー服の白さや瑞々しさが無垢なひまわりに映えていて、数日ぶりに見た混じり気のない笑顔がただただ綺麗で、僕はひまわりの気持ちが少しわかった。こんなに明るくて優しいならずっと見ていたくなるのも頷ける。その綺麗な表情をどうしても何かに残したくて、僕は懲りずに何度もシャッターを押した。相も変わらず撮れたのは、そこに誰かが写っているべきだという感覚ばかりを刺激する風景写真だけだったけれども。
花畑をいたく気に入ったヒナの要望で翌日も別の花畑を見に行った。小さな丘を絨毯のように埋める鮮やかな桃色吐息の中で、木陰に並んで座った。そこにいる間は、僕を悩ませる葛藤も夏の終わりも全部忘れてただ爽やかな夏の風に身を任せていた。結局、写真が好きというわけでもないのに二日間で二十枚ほども撮ってしまった。
他にも、湖畔を歩いたり、空が近い丘で星空を仰いだり、初心に帰っていつもの神社から街並みを指差しながら適当な言葉を交わした。行く先々で心を動かす景色を見て楽しそうに笑う彼女へカメラを向けた。僕が写真を撮ろうとするたび、彼女はどこか申し訳なさそうにしていた。
「僕が撮りたいと思ってるから撮るんだよ。もちろん、ヒナが嫌ならやめるけど」
そう言う僕に彼女は首をゆるゆると振った。「そういうことじゃ、なくてね」と寂しそうに呟くヒナが何を言いたいのか、僕はなんとなく察していたけどそれには気づかないふりをした。
やがて見たい景色の候補が尽きると、幽霊であるヒナも楽しめる場所を次々に回った。
二人分のチケットを買って、誰にも見咎められない端っこの席で映画を観た。全く共感ができないくらい甘いだけの恋愛映画からド派手なアクション、コメディにホラーと、僕たちは平日の映画館に朝っぱらから居座り続けた。ホラーが得意だと豪語していた彼女が終始ビクビクしていたり、映画で笑ったことがないと断言した僕が笑い声を堪えるのに必死だったり、お互いに意味もなく張った見栄が呆気なく剥がれることすら楽しかった。ホラーを見ている最中、驚いた猫のように体を震わすヒナがかわいくて僕が碌に映画を見ていなかったのはきっとバレてはいなかっただろう。映画を観ている最中よりも、夕方の神社であれこれと感想を話し合っていたときのほうが僕は満たされていた。
平日で人のいない小さな水族館を二人で何周も見て回ったり、最寄りの動物園の規模に気落ちしてから開き直って楽しんでみたり、静かな植物園を思いのほか気に入ったり、どこへ行ってもヒナは本当に楽しそうに笑っていた。ひまわりに見入る笑顔も、ホラーに強がる笑顔も、変な海洋生物へ向ける笑顔もその全部が少し違っていて、そしてどれも一様に僕はその笑顔が好きだった。未練は解消できそうか、なんて建前を口にするのも忘れて二人で夏を過ごしていた。
そうして日々様々な場所を回っていた僕たちだったが、遂にその予定に空白が生まれた。それだけ節操もなく遊び倒していれば当然なのだが、次第にヒナも楽しめる場所の案は出尽くしていき、残す予定は二十八日の花火大会が控えているのみとなってしまった。「次はどこに行くか、神社で相談しようよ」と誘う彼女に僕は一も二もなく頷いた。
八月二十三日、火曜日。少し日が赤みを帯び始めた頃、僕たちはいつもの神社に訪れていた。お決まりのサイダーを買って、石段の定位置に座っているヒナの隣へ腰を下ろす。それから、しばらく黙って彼女と同じ景色を見ていた。飽きることもなく夕景に目を向ける彼女と違って、僕はそれほど夕陽の街並みに夢中になれるわけではなかったけれど、それを見る彼女の横顔が好きだったから少しも退屈しなかった。
豊かな感受性を示すように、彼女の瞳は夕方を映して煌めいていた。ヒナはこの場所へ来ると普段より口数が減るのだが、最近は特にそれが顕著だった。夕焼けを見る彼女は、世界に対して静かに嘆いているようにも見えたし、世界の素晴らしさを噛み締めているようでもあった。その表情を見ているとどうにも心が落ち着かなくて、無性に安心を得たくなってしまう。日が暮れ行く中で蝉の声を聞いていると、途端にこの場所が不確かなものに感じるのはどうしてだろうか。どうして最近は、ヒナの笑顔がこんなに切なく感じるのだろうか。
もどかしさと仄かな焦燥を誤魔化すために、結露して温くなったサイダーを半分ほど飲む。喉で弾ける炭酸が心地よかった。
「ねえ、柊汰」
ちょうど僕のほうから話しかけようとしたとき、少し先にヒナが僕の名前を呼ぶ。
「夕陽って、綺麗だね」
何度も眺めた景色を彼女はそう口にする。ありふれた日常を丁寧な心で大切に掬い上げる。きっと彼女の心に一番近いその言葉へ何も偽りたくなくて、僕はいつもどおりの言葉を返す。
「……いいものだとは思う」
「やっぱり、綺麗とは言わないんだね」
「なんていうか、今この瞬間を総合すると綺麗なんだけど、夕陽だけじゃ綺麗とは思えないんだ。もっと別の何かがないと、どうも僕は景色を綺麗だと思えないみたいだ」
抽象的な言葉と余裕ぶった鉄仮面で幾重にも煙に巻きながら、ずっと前から感じていた本音を彼女に伝える。僕の理解しづらい返答を聞いたヒナは「あはは、何それ」と苦笑していたが、やがて言葉の意味を咀嚼するような間の後、密かに通い詰めていた空き地に花が咲いていたときに見せるような、驚きが微かに混じった表情を作った。何かに報われたみたいに柔らかく彼女は破願する。
「……私の勘違いじゃなければいいんだけど、もしかして柊汰って今、結構恥ずかしいこと言った?」
「さあ、なんのことかわかんないな」
つまらない夕焼けを眺めて彼女の意地悪な質問をやり過ごす。彼女の頬に朱が差して見えるのも、僕の心がやけに温かいのも、全部あの夕陽のせいだ。
「……じゃあ、いつか綺麗に見えるものができたら教えてね」
小さな声で、柔らかく彼女が言葉を紡ぐ。
「……うん」
陽だまりのような優しさはまるで僕の心を見透かしているようで、その感覚から逃れるために僕はもう一度サイダーを呷った。
いつか。そんな言葉が僕たちの間ではとても朧げな形しか保てないことをわかっていながら、僕は彼女の言葉に軽く頷いた。叶わない約束や果たせない夢にも意味があるように、僕たちの間でいつかという言葉を交わすことが何より大事に思えた。
「……それにしても、次はどこに行こうか」
「あ、そうだね。それを決めなきゃね」
居た堪れなさを誤魔化すように話題を切り替えると、便乗するように取り澄ましたヒナがそう返す。急に揃って真面目ぶった顔つきになるのが少し可笑しかった。
「ヒナは他にどこか見に行きたい景色とか行ってみたい場所とかないの?」
元来余暇を自宅で過ごす人間の僕は娯楽や観光の知識に乏しいため、脳漿を絞るのは早々に諦めて彼女の意見に耳を傾ける。
「うーん、そうだね。夏祭りは今度行くし、夏に行けそうな場所って他にあるのかな……」
正直なことを言ってしまえば僕にはそれほど積極的に候補を挙げる理由がなかった。今後何年も心を慰める記憶であったり鮮明に蘇る感覚であったり、それらの総称を思い出と定義するならヒナに出会ってからの全部が思い出になる。だから、この夏が彼女にとっての思い出になるのなら、僕はどこへ行っても、何をしてもよかった。
それからしばらくヒナは「うーん。夏、夏かぁ」みたいな呟きを何度か零しながら頭を悩ませていた。その間、僕は考えることを放棄して心を夕陽に置いていた。少ししてから、何か思いついたような声が聞こえた。
「ねえ。行きたい場所じゃなくて、やりたいことなら思いついたよ」
視線を向けて、僕は続く言葉を待つ。少し迷ってから彼女は言った。
「二人乗り、してみたい」
「二人乗り?」
突飛な提案に思わず復唱してしまう。それに彼女は「うん」と頷いてから続けた。
「自転車の後ろに乗って、坂道を下って、一緒に笑って。……それがやりたい」
ヒナが望んだのは、そこらの学生が普段の生活でしているようなことだった。もっと我が儘になっても罰は当たらないのに、彼女はまるで特別なことを望んでいるかのように俯きながら小さな声で言った。そんな些細な願いさえ大切に胸に仕舞おうとするのがやけに尊かった。彼女の脆すぎる優しさを、その全部を僕は肯定したかった。
「いいね、それ。確かに青春っぽい」
正しい青春なんてなんにもわからないのに、僕はそう笑ってみせた。
「……でしょ」
憂いのなくなった表情で彼女が返す。どうにもうまく世間に馴染めない僕たちは、人の来ない夕方の神社で一から青春というものを確かめていくように笑い合っていた。
それから少しして、すっかり炭酸も抜けて常温に戻ったサイダーを僕が飲み干したとき、僕が手持無沙汰になるのを待ち構えていたようにヒナが言った。
「じゃあ、早速だけど二人乗りしてみようよ」
そのとき僕はちょうど、二人乗りをする日程や場所について緩く考えを巡らせている最中だった。てっきり日を改めるものだと思っていたからその性急さに少し驚いてしまう。
「え、今やるの?」
「……駄目?」
「いや、駄目ってわけじゃないけど」
自然と語尾を濁してしまう。別に、今二人乗りをすることに反対する理由はない。自転車は自宅まで一度取りに帰ればいいだけだし、この神社は長い階段を登った先に建っているだけあって近くには十分な坂道もある。完全に日が暮れるまであと二時間程度は残されているはずだ。二人乗りをするには十分すぎるほど環境は揃っていた。整っていないのは、僕の心の準備だけだった。
「でも、そうなるとヒナは、僕が運転する自転車の後ろに乗るわけだよね」
「そうなるね」
「なんていうか……いいの? その、色々と」
あの事故の日から、触れたことは口にしない暗黙の了解があった。それまでのように振舞おうとして、逆に少しぎくしゃくしていた。数日間経ってようやく普段の調子が戻るくらい、あの日の出来事は僕にとっても彼女にとっても変化を齎すものだった。ヒナに至っては未だに時折物憂げな表情を見せることもあるのだから、その胸懐に訪れた衝撃は僕より強かったのかもしれない。けれど、二人乗りをするとなればそんなことは言っていられない。安全性を鑑みても物理的な面でも、後部座席に乗りながら一切触れないなんて不可能だ。それを加味したうえでも彼女は二人乗りをしたいと言うのだろうか。
そんな風に逡巡する僕を、胸の内が読めない表情で見つめた後、彼女は唐突に言った。
「ね、柊汰。ちょっと手、出して」
脈絡のない言葉に窺うような視線を送るも、それに気づいた彼女は少し微笑むだけだった。意図が呑み込めないまま、僕は言われるがままに右手を上に開いて右隣の彼女に差し出す。そんな僕の手に、ヒナは躊躇いもなく自分の左手を重ねた。
「柊汰に触るの、あの日以来だね」
重なり合った手に視線を注ぎながら彼女は呟いた。同じ手とは思えないほど彼女の手は柔らかくて、少し冷たい手のひらからじんわりと体温が伝わる。全ての神経が右手に集まったかのように手の感覚が鮮明になる。
「あの日は、ちょっといっぱいいっぱいで深く考える余裕がなかったんだけど」
そう前置きして、ヒナは重なった手のひらの感触を確かめるように瞠目してから僕を見た。
「私はこうして柊汰に触れられることが知れて嬉しかったよ。……柊太は、どうだった?」
「……僕も嬉しかったよ」
うまく回らない頭で辛うじてそれだけ返した。それを聞いた彼女は「よかった」と小さく笑って、滑るようにそっと手を離した。恥ずかしさと嬉しさと、もっと触れていたいという欲求でぐちゃぐちゃになっていた僕は、言葉を繕ってみることすらできなかった。
「こうやって誰かと手を合わせたの、初めてだけど……なんか恥ずかしいね。どきどきしてきたかも」
僕にそうはにかみながら、ヒナは先程まで重ねていた自分の手をまじまじと見つめていた。ようやく僕も右手に残る感触から回復して、そんな彼女に問いを返す。
「僕以外の誰かとか、物に触れるわけじゃないの?」
「あ、うん。そうだよ。細かく言うと、浮いてないときは地面も歩けるし一応触れるんだけどね。だからって何かを動かせるわけではないし、花を触ったところで、柔らかさも頼りなさも感じないから」
そこで言葉を区切って、ヒナは再び僕の手の上に自分の左手を重ねた。
「私がこうして温度を感じられるのは柊汰だけだよ」
誰かを感じられるのが何よりも嬉しいのだと、彼女の瞳が雄弁に語っていた。僕も重なった手に視線を落とす。ヒナの手は僕より少し小さくて、ヒナの指は僕より少し細くて、ヒナの肌は僕より少し色が薄かった。女の子の手だな、と強く実感して、危うく握ってしまいそうになった。視線を上げると、僕と同じような表情をしていた彼女と目が合った。
「なんか、触れてみたら呆気なかったのに、あんなに変な空気になってたのが馬鹿みたいだ」
照れくささを誤魔化すように僕はそう言った。「そうだね」と彼女も返す。ぎこちなかったままならなさも今では楽しかったように思えて、口角が上がってしまうのを隠すために正面の夕焼けへ向き直った。ヒナも同じく夕陽を見ていて、その間僕の手に彼女の手は置かれたままだった。置いた手を動かしてしまうのが少し名残惜しかった。
それから、僕たちは二人乗りをするため、普段使わない自転車を取りに自宅へと帰った。久しぶりに使うので念のため空気を入れ直してから、自転車を押して人通りの少ない坂道を彼女と歩き、神社の石段の下まで戻ってきた。あとは二人で自転車に乗るだけだった。僕が先に跨り、後からヒナも自転車に乗る。どういう理屈なのか、自転車越しだと彼女の重みは少しも感じなかった。密かに心配していたバランス制御も大丈夫そうだったから、残りの問題は僕の心臓についてだった。後ろに座るヒナの両手は僕の腰の少し上に回されていて、こそばゆさと距離の近さで到底運転に集中できそうになかった。
「あの、あんまりくっつかないでくれるかな」
「ん、なんで?」
僕の動揺なんて気がづかなかったかのように彼女は純朴な顔をしていた。僕はもうヒナに感情を隠すのも今更な気がして、紛れもない本心をそのまま言葉にした。
「……このままじゃ、うっかりヒナのこと好きになりそうなんだ」
ヒナから言葉が返ってくるまで少し間が空く。
「……まだなってないの?」
「なってない」
「……なっちゃえばいいのに」
端から僕に聞かせる気がないような声量で彼女が拗ねてみせるように呟く。素直にそうなってしまえたらどれだけいいだろうか。僕の体を掴む彼女の手に、ほんの少し力が入る。
「……忘れられなくなったら困るんだよ、僕が」
関係を築いて、心に触れても肌に触れても、どうしたって僕たちの間には終わりが横たわっている。
「……あはは、そっか、ごめん。じゃあ離れなきゃだね」
健気に笑うヒナの顔はとても哀しそうだった。
結局、彼女は後部座席に横を向いて座り、僕の肩をしっかりと掴むという体勢で落ち着いた。彼女が肩に手を置くのを待ってから僕はゆっくりとペダルを踏み出した。
「わ、なんか、自分で運転してないと変な感じする」
慣らすために近くを周っている間、ヒナは悲鳴とも歓声ともつかない反応を繰り返しながら楽しんでいるようだった。周囲を一周していよいよ坂道に入る。速度が出すぎないよう少しブレーキを掛けながら、長い坂道を爽快に走りだした。オレンジの景色が次々と視界を流れていく。首を撫でる風が心地よかった。
「おー、あはは」
楽しくなってきたのか、誰にも聞こえないのをいいことに彼女が大きな声で笑い始めた。感情が自然と口から零れているような、そんな笑い方だった。彼女の表情は見えないけれど、今どんな顔をしているのかは容易に思い描くことができた。釣られて僕の口からも笑みが漏れてしまう。傍から見ると一人で笑いながら自転車に乗る僕へ、すれ違う人の奇異の視線が向けられる。そんな煩わしいものは全部無視して、僕はさらに自転車をかっ飛ばした。僕の後ろで彼女が笑っているだけで、それ以外の全部がどうでもよかった。
当然ながら僕たちは誰にも見咎められることなく緩やかな坂道を下っていった。禁止されている二人乗りをしながらヒナと二人で街を駆け抜けていく。ささやかな悪事で、ささやかに世界に逆らっていた。それがたまらなく痛快だった。傾斜もなくなり勢いが死に始めた自転車を漕ごうとしたとき、後ろから響く笑い声にふと、これが青春というのかもしれない、と思った。
◇◇◇◇◇
そうして、僕たちは合計して四度坂道を下った。下りは良かったものの、上りが想像以上に僕の体力を奪っていったため、四往復目が終わったところで自転車を適当なスペースに留めて、神社に続く長い石段を登り始めた。何が楽しかったとか、何があったとか、そんな感想を話しながらゆっくりと一段一段を踏み締めていく。やがていつもの場所に腰を下ろして、二人乗りをする前よりもかなり沈んだ夕陽を見て一息ついた。
「言いたいこと、というか……話したいことがあるんだ。聞いてもらっていいかな」
澄んだ茜色をした夕陽が地平に触れた頃だっただろうか。僕はヒナにそう尋ねた。
「うん。……何?」
ヒナは僕のほうを見ないまま、柔らかくそう答えた。
「最近さ、毎日が楽しいんだ。どこへ行くかを一緒に考えて、二人で色んな所に行くのが、すごく楽しいんだ」
「うん」
「僕は今までずっと一人で生きてきて、自分から周りを諦めてるような奴でさ」
「うん」
「そういう人間は、人間不信が行きすぎて精神的に潔癖になってくるものなんだ」
「うん」
「僕も例に漏れずそうでさ。性格の良い人がいたとしても、僕に見せてない一面があるかもしれない、っていう可能性があるだけでどこか許せないんだ。今だから言えることなんだけど、実は僕、ヒナのこと苦手だったし」
「うん」
僕の言葉に、ヒナは丁寧に相槌を打っていった。とても穏やかに、優しく、静かに、僕が語る言葉に聴き入っていた。核心に触れるのをどうにか避けるように、ゆっくり、ゆっくりと僕は心を言葉にしていく。
「でも、今はこうして一緒にいるし、ヒナの性格とか仕草とかも結構好きなんだ」
「うん」
「ヒナといることで、どうしようもない僕でもちょっとは変わったと思うんだよ。少しくらいは素直になったと思うんだ」
「うん」
次に続く言葉を喉の奥に用意して、少し躊躇う。彼女に伝えるのが怖かった。それでも、これまで過ごした時間で彼女が僕を受け入れてくれることを知っていたから、僕は言うことができた。
「でも、やっぱり僕は嘘が嫌いだ」
「……うん」
ヒナは、悟ったように、諦めたように、弱々しく笑った。そんな笑みを作らせてしまったことでずきりと痛む胸を無視して、僕は彼女を見る。
「ヒナ、記憶が戻ってるんだろ」
僕の言葉を聞いたヒナはただ寂しそうに笑っているだけで、途方もなく何かが終わってしまう予感がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます