第11話

 八月十日、午後三時。図書館へ向かう道のりをヒナと並んで歩いていた。一歩足を動かすたびに真夏日の外気と蝉の声が生気や活力を根こそぎ蒸発させていく。先程までエアコンを存分に効かせた室内で彼女と喋りながら課題をやっていた僕には夏の猛暑が些か堪えた。ぐったりした猫のような渋面を作る僕とは対照的に、気温の影響を受けない彼女は普段どおりのまま、散歩を楽しむように緩んだ顔をして鼻歌を歌っていた。


 少し間延びしたフレーズを繰り返す彼女に、焼けたアスファルトを踏みしめながら同じくらい呑気な声で僕は訊いた。


「そういえば、ヒナが鼻歌を歌うときっていつも同じ曲だよね」


 暑さに呻いていた僕の思いつきの問いに、ヒナはちらりと僕の目を見てから道の向こうにある入道雲へと目を向けた。


「ん、確かにそうだね。この曲ばっかりかも。……まあ、これしか覚えてないからなんだけどね」


 こちらへと向き直り、小さな失敗談を語るように彼女は頬を掻いてはにかんだ。


「その曲のタイトルとか思い出せたりしないの?」


「うーん、わかんないかな。……でも、歌詞とか題名とかは少しもわからないけどメロディだけは頭に強く残ってるから、たぶん好きな曲だったんだと思うよ。……結構良い曲だと思わない?」


 そう言ってヒナはまた鼻歌を歌う。耳を澄ませて、周囲の雑音に紛れてしまいそうな彼女の声を拾う。元の曲を僕は知らないけど、彼女はきっと音痴だった。リズム感が抜群とは言い難いし、時折音を外すし、メロディも段々とズレていくことが多い。そして、その拙さがまた、僕は好きだったのだ。


「確かに、良い曲かもね」


 正しい音程とか正確なリズムとか、そんなのはどうでもよかった。僕はヒナの少し下手な鼻歌が好きなんだ。心地いい音楽に浸っている彼女が、とても楽しそうだったから。


 夏風が青葉を揺らす音と蝉の鳴き声ばかりが耳に響く。時計の秒針を意味もなくじっと見つめるような心持ちで蝉の声に聴き入りながら、僕とヒナは言葉も交わさずに道を行く。玉の汗が額から流れ落ちて頬を伝い首元へと入っていく。「あっつ……」と漏らした僕に彼女が苦笑していた。学生服のズボンが黒いことを呪いながら、呪詛とともに生まれた反骨心でこの夏を制服で乗りきる決意を固めた。少なくとも、ヒナがいる間は制服で過ごすことに決めているのだ。


 今日の午前、僕と彼女は作戦会議をしていた。未練を解消できそうな場所を訪れようという名目で、ただヒナと遊びたい僕の我が儘につきあってもらうための作戦会議だ。課題をしたり、映画を観たり、海で撮った写真を見たりと何度も脇道に逸れながら僕たちは次に向かう場所の候補を絞った。今日はこれから図書館へ行き、実際の景勝地や施設を調べて具体的な予定を立てるのだ。早くも胸を躍らせている彼女とは対照的に、僕の意思は夏の猛暑のせいで早くも決壊間際だった。このままでは図書館へ辿り着く前に干からびてしまう、なんて思ったときだった。


 十字路を曲がった先の空き地に自動販売機を見つけた。さらに、その古びた自動販売機は飲料を揃えたものではなくアイスを売っているものだった。僕を唆す何かしらの意思を感じずにはいられなかった。オアシスを目前にした砂漠の遭難者のように、僕の足は自然と自動販売機へと誘われていた。


「柊汰?」


 無言で道を逸れていく僕を不思議がる彼女の声で我に返る。


「ちょっと暑すぎるからアイス買ってきていい?」


 よほど僕がアイスを食べたそうにしていたのか、彼女は呆れるように口元を綻ばせた。


「うん、いいよ。すぐそこだし、ここで待ってるね」


 そう言うヒナに適当な言葉を返し、抗い難い誘惑に負けた僕は自動販売機の前まで移動した。少し錆びついた投入口へ五百円玉を入れる。安っぽい色をしたアイスの並ぶ色褪せた商品パネルが宝石箱のように見えた。少し迷ってからソーダ味のシンプルなアイスを買った。取り出し口にアイスが落ちたのを確認してから、細かくなったお釣りを搔き集める。


 五枚、六枚と小銭を数えてその中から百円玉を見繕っていたところで、ようやく僕はヒナの分もアイスを選ぼうとしていたことに気がついた。百円玉を二枚持って投入口へと伸びていた手が止まる。


 彼女は幽霊で、僕は生きている人間で、僕たちの関係には大前提としてその隔たりがあったはずなのに、僕の頭の中からは彼女が幽霊であるという認識が抜け落ちていた。いつからだろうか。僕の中でヒナが、誰かの助けを求める幽霊からただ笑顔のかわいいだけの女の子になったのは。僕は、彼女は幽霊だからと割りきることができているのだろうか。僕はちゃんと、やれているのだろうか。行き場のなくなった小銭を財布へと戻す。手の中には硬貨を握り締めていた感覚が残っていて、妙な気持ち悪さを覚えた。


 きっと夏の暑さで頭がやられてるんだ。そうに違いない。ヒナが幽霊じゃなければいい、なんて思えば思うほど苦しいだけだろ。考えるな。この先のことなんて、何も考えるな。


 白昼夢に襲われたような現実感を振り払って、アイスが溶けてしまう前に彼女の下へ戻ることにした。屈んで取り出し口から買ったアイスを手に取る。


 そうして立ち上がろうとしたとき、突然体に力が入らなくなる感覚に襲われた。思わずよろめく。ああ、またか、と僕は思った。薄めた墨汁越しに世界を見ているかのように、一斉に視界から彩度が失われていく。普段、何気ない瞬間に起きるそれよりも遥かに程度の重い立ちくらみがした。なんとか自動販売機に手をついて体勢を保つ。そのまま呼吸が何十倍も苦しくなった感覚に喘いで耐えていると、しばらくして血が巡ったのか次第に体は正常に戻っていった。不調が去った安堵から一つ息を吐いて、アイスのラベルを剥がしてゴミ箱へ捨てる。何事もなかったかのように、僕はヒナが待つ十字路へと踵を返した。


 生まれつき血行が良くないせいで突発的な眩暈や立ちくらみには慣れていた。隠し事をするのには慣れていなかったから、ヒナに気づかれないといいな、と思った。


 自分が誰かに害を与えることを酷く嫌う彼女がふらつく僕を見たら、きっと自罰的な思考に陥って、自分よりも他人を優先するようになっていく。この夏の予定だって延期してしまう。「景色はまた今度見に行けばいいから」なんて柔らかく笑って、どこか叱るように僕を労わるのが想像に難くなかった。僕には、もし彼女が本当にそう言ったとして素直に頷ける自信がなかった。今度というその言葉を、僕は信じられなかった。


 梅雨が明けた頃だっただろうか。夏の匂いを感じてから今日まで、ヒナと夏を過ごせるのが一度だけなのだと根拠のない確信を抱いていた。きっと来年の今頃、僕の隣に彼女はいないんだろうという予感が胸に残り続けていた。彼女の笑顔が少し寂しげなものだとか、僕らの先行きが不透明なことだとか、きっと理由はいくつもある。幸せの来訪とは、その瞬間からいつか幸福を失うことが決定するのと同義だ。それらが表裏一体だということを僕はどこまでも正しく感じ取っていた。


 だから僕は、二度と来ないかもしれない夏を少しでも無駄にしたくなかった。別に、どこか綺麗な景色を見に行くことだけが有意義だと思っているわけじゃない。ヒナと同じ場所にいるなら、それが景観の良い場所でもいつもの神社でも、どこでもよかった。結局僕が価値を感じているのは素晴らしい眺めなどではなく彼女の隣なのだから、本当にどこでもよかったんだ。そんな価値ある時間が立ちくらみだなんてつまらない理由で減るなんて、そんなの馬鹿みたいじゃないか。


 すぐそこの曲がり角で、ヒナは僕を待ち惚けていた。空の高さに目を見張るように、流れる雲の遠さに心惹かれるように、彼女は澄んだ瞳で夏の青天井を見上げていた。心ごと遠くの空に置いてきたようなその横顔や穏やかな表情を、僕なんかのために翳らせてほしくなかった。僕はヒナの楽しんでいる顔だけが見たい。ヒナの安らいだ顔だけが見たい。だから、彼女に心配されるようなことなどあってはならない。


 アイスを手に曲がり角の手前まで戻ってきた僕にヒナが気づく。人に懐かない猫がゆっくりと傍に寄ってくるのをじっと待つかのように彼女は優しく目を細めた。漠然と、許されている、と思った。彼女が何かを拒絶しているとか、普段彼女に何かを禁止されているとかそういうわけではないのだけれど、とにかく僕は受け入れられていると強く感じた。それがなんだか嬉しくて、僕は思わず緩む頬も気に留めないまま少し早足で歩いた。ヒナの分のアイスを選ぼうとしたことを話して、悪戯っぽく笑う彼女に揶揄われて、どこかくすぐったい気持ちのまま、また二人で夏の道をゆっくりと歩いていこう。


 そう思った矢先のことだった。


 車通りが少ない住宅街だからと油断していた。ふとした瞬間の何気ない笑顔に見惚れていた。眩暈のせいか体が重くて反応が遅れた。その日僕の身に起きたのは、そうしたいくつもの要因が重なった結果の不運だった。


 十字路を渡ろうとした僕の視界の右端から、黒い何かが猛スピードで迫っていた。僕がそれに気がつくと同時に、道路の端にいたヒナが逼迫した様子で僕へと手を伸ばして駆け出す。必死に僕の名前を呼ぶ彼女の金切り声と、黒い塊から響く切り裂くようなクラクションが、どこか遠くからただ事じゃないと警鐘を鳴らしていた。自分の身に何が起こっているのか理解が追いつかない僕は焦ることすらできなかった。現実の肉体と意識が切り離された走馬灯のような感覚の中で気づいた。黒いそれは自動車だった。子供の夢を壊すみたいに冷たくて硬質なクラクションを鳴らす鉄塊が、今にも僕を醜悪な肉の塊に変えようと迫っていた。


 いまいち状況が呑み込めなかった。どうにもこの状況が嘘みたいだった。命の危機を突きつけられても、僕はなぜか他人事のように落ち着いていた。無意識のうちに理解を拒んでいたのかもしれない。僕だって一端の悲観主義者だ。自殺するほどの勇気も不幸もないから、僕の命をなるべく一瞬で奪ってくれる何かに期待していたこともある。でも僕は生きることから逃げたかっただけで、自分が本当に死ぬことなんて想像すらしたことがなかった。今にも僕を轢こうとする黒い車両は僕の命を終わらせるリアルな質感を伴っていて、僕はそこで初めて鮮明に自分の死を思い描いた。喉が引き攣って、場違いな乾いた笑いが口の中で小さく響く。


 これはきっと悪い夢だ。真夏の陽炎が見せた、質の悪い冗談だ。


 最後の最後までそんな言い訳のような思考が脳をよぎり、今もなお現実を受け入れられない僕が目を瞑ろうとしたそのとき、僕の肩に強い衝撃が走った。


 諦めかけた僕の思考を現実へと引き戻したのはヒナだった。血相を変えて、その瞳に戸惑っている僕を映す彼女が、僕を突き飛ばしたのだ。その白い細腕で両手いっぱいに力を込めて押された僕は、後方へ大きく体勢を崩す。その時点で、僕が自動車に轢かれる未来は彼女の功績によって潰えた。そして同時に、前へ身を乗り出したヒナが自動車の進路に重なってしまう。


 悪い予感がした。


「……ぁ」


 後ろに倒れていく僕の体は動かなくて、なんの役にも立たない嗄声だけが口を衝く。ほんの僅かにヒナが安堵したように見えて、僕はようやく彼女が僕を庇ったことを理解した。僕の手から零れたソーダ味のアイスがちんけな音を立てて地面に落ちる。


 その瞬間、世界の速度が一気に戻った。


 声を上げる間もなかった。僕が地面に倒れ込むよりも早く、黒光りする鉄の暴威がヒナを無慈悲に襲おうとするのが見えた。それはなんというか、ひっそりと咲いていた小さな花がクレーンによって土ごと抉り取られていくような、理不尽という言葉がよく似合う光景で、僕は驚きに目を見開くことしかできなかった。


 僕はその瞬間、今すぐにでも訪れる最悪な未来像を思い描いた。くぐもった鈍い音がして、鉄の塊がヒナの細い体躯をぐしゃりと壊す。華奢な彼女がボロ切れのようにアスファルトを転がる。そんな想像に、思わず目を瞑りたくなった。


 けれども、それはいつまで経っても現実にはならなかった。ヒナが自動車に轢かれることは終ぞなかった。


 黒塗りの車は、何事もなかったかのようにヒナの体を擦り抜けて走り去っていったし、彼女は僕を押した勢いのまま、尻餅をついた僕に覆い被さるように倒れ込んだ。身を竦めて痛みを直視しないように彼女ぎゅっと両目を瞑っていて、その体重が僕に預けられる。


 放心したようにそのままにしていると、しばらくして急な出来事に麻痺していた感覚が戻り始め、思い出したように蝉の合唱が耳に届く。アスファルトの熱でアイスが溶けだしていた。僕はゆっくりと時間をかけて、ヒナも僕も無事だという現実を理解した。


 日常の脆さを露呈させるように訪れた命の危機はヒナのおかげで免れたようだった。今更ながら早鐘を打ち始めた鈍間な心臓に呆れながら立ち上がろうとした僕は、まだ僕に覆い被さったままの彼女に声をかけた。


「ありがとう、ヒナがいなかったら僕は死んでたかもしれなかったよ。……ヒナ?」


 僕がそう微笑みを向けても彼女は反応を見せなかった。何かに縋るように、僕の制服の裾を掴む両手により一層の力が入る。


「ヒナ、大丈夫?」


 体勢を直してから、どこか虚ろな目をして俯く彼女に再度呼びかける。彼女はその端正な顔を蒼白に染めて、不規則で小さな呼吸を繰り返していた。いつも景色に向けられる澄んだ瞳が動揺で酷く揺れていた。埒が明かないため、仕方がなく彼女の華奢な両肩を掴んで正面から目を合わせながら名前を呼んだ。


「ヒナ」


「え、あ、私? ……あ、うん。大丈夫、だと思う。私は、大丈夫」


 初めて触れる彼女の肩は、僕が彼女に抱く憧れとはかけ離れたように頼りなくて、ヒナが普通の女の子なんだと痛感させられる。ようやく僕の声が届いたかのように彼女の焦点が僕に合った。どこかぼんやりとした生返事のような声音は自身に言い聞かせているような色を含んでいて、彼女が強がっているのは明らかだった。無理もない。傷の有無が違うだけで、轢かれたことに変わりはないのだ。目の前に車が迫る恐怖も、明瞭に浮かぶ死のイメージもきっと彼女の脳裏には焼きいている。


 なるべく優しい声音を心掛けながら、蒲公英の綿毛に触れるような繊細さで彼女の手を取り立ち上がらせる。


「ごめん、大丈夫なはずなかった。一旦僕の家に戻ろう。ヒナ、だいぶ青ざめた顔してるから少し休んだほうがいいよ」


「いや、大丈夫だよ、ほんとに。……轢かれそうになったのは全然大丈夫だから」


 その言い方が少し気にかかったものの、きっと気が動転しているせいだと思った僕は改めてヒナをまっすぐ見据える。


 この期に及んでも、彼女は優しかった。優しくあろうとしていた。弱々しい声と少し震える手で朗らかに笑おうとして、誰が見てもわかるくらい失敗していた。こんな状況でも自分以外を優先しようと思ってしまうのは、もはや一種の呪いのようでもあった。その強張った笑顔が僕には痛かった。世界はどこまでも、ヒナという女の子に優しくできてはいなかった。


「ヒナ」


 せめて僕にくらいは彼女が感じる苦痛を吐き出してほしくて、懇願するように彼女の目を見た。珍しく彼女が視線を逸らしても、僕は彼女を見つめ続けた。ここで僕が先に折れてしまえば、彼女は二度と僕を頼ってくれないと思った。根気強くそうしていると、少ししてから「ほんとに大丈夫のつもりなんだけどなぁ」とヒナは諦めたように呟いた。同時に、その強がりが緩やかに溶けていって、彼女は弱さを隠さず安堵したように力なく笑った。


「……やっぱり大丈夫じゃないかも。ごめんね、柊汰の部屋でちょっと休んでいってもいいかな」


「……うん。好きなだけいていいから。ほら、行こう」


 あまり事故があった現場に彼女を残したくなくて、僕はヒナを先導するように歩いた。本当は手を引いて歩きたいくらいだったのだけれど、僕がそうしてもいいのかと迷っているうちに機を逃してしまって、彼女のために何もできないもどかしさを持て余すだけだった。


 十字路を離れるとヒナはようやく落ち着いたのか、抑え込んでいた涙がぽろぽろと零れ始めた。張り詰めていた虚勢が剥がれて優しさの奥に隠された年相応の弱さが顔を出す。生前から素直に泣いたことがないのだろうと思うくらい、不器用な泣き方だった。何度も涙を拭いながらゆっくりと歩く彼女の隣を、僕は黙って歩き続けた。どんな言葉をかけたらいいのか、僕が歩んできた人生から正解は見つからなかった。ただ、少しでも誰かが近くにいることを感じてくれたらいいと淡く願いながら、家までの道をいつもよりずっと長い時間を掛けて歩いた。


 僕の部屋に着く頃にはヒナもいくらか楽になったようだった。もう涙も流していないし、気丈に振舞っているようにも見えなかった。


「もう私はほんとに大丈夫だよ。それより、柊汰は? どこも怪我してない?」


「僕は大丈夫だよ。ヒナが庇ってくれたから」


「そう、そっか。……良かった」


 彼女は心底安らいだようにそっと息を吐いた。彼女が僕の無事を噛み締めるように喜んでくれる分だけ、僕の不注意が起こした出来事の重みは増していく。遅まきにそれを実感して、僕は頭を下げた。


「僕のせいで怖い思いさせて、本当にごめん」


 机の向かいに座るヒナは、僕の謝罪を聞くと少しの間を空けて「頭、上げて」と柔らかく言った。徐に顔を上げると、諭すように優しい表情をした彼女と目が合った。


「別に、柊汰のせいとか思ってないよ。気にしないで、っていうのもおかしな話だけど、私は大丈夫だよ。それより、柊汰こそもっと気をつけて歩いてね」


「……うん、ありがとう」


 小さな子供相手に窘めるように彼女はそう言葉を括る。その冗談のような調子に感謝しながらしみじみと返すと、彼女は照れくさそうに笑った。


 僕の部屋に到着してしばらく話していると、ヒナはかなりリラックスしたかのようにいつもの笑顔を見せるようになった。それに一入の安堵を感じつつも、ふと会話が途切れたタイミングで、僕は彼女の様子を窺いながら言った。


「……しつこいかもしれないけど、ヒナ、本当になんともないの?」


「ん? いやいや、ほんとに大丈夫だよ。ちょっと怖かったけど、轢かれたわけじゃないんだし」


 恐々と尋ねる僕とは対照的に、気安い笑みを浮かべる彼女は事も無げに答えた。


「でも……」


 泣くほどの恐怖が少し話した程度で拭いきれるだろうか。そう口にしようとしたものの、自分の泣いている様に言及されるのは気分のいいものではないだろうから、僕は途中で言葉を濁した。そんな僕の心情を正確に汲み取り、彼女は気まずそうにはにかみながら弁明した。


「泣いちゃったのはなんていうか、いつもどおりちゃんと柊汰がいてくれて安心しちゃっただけだから」


「そっか、ならいいけど」


 僕は平静を装ってそう返した。


 誰かの存在を近くに感じるだけで安堵するだけといういじらしさがいかにもヒナらしいと思った。弱さと紙一重のその優しさが無駄にならないよう、せめて僕だけは彼女が穏やかに笑える存在であるべきだったから、何か支えになることを言いたかった。脳裏をよぎったのは「僕でいいならいくらでも隣にいる」なんて綺麗なだけの言葉だった。それが僕の口を衝いて出ることはなかったけれども。


 いつ終わるかわからない関係の僕が彼女に伝えるには、それは頼もしすぎたし、確かすぎた。それはきっと言葉に対して不誠実だ。自分が陶酔するだけの言葉なんて僕には言えない。もっと何か、相応しい言葉を。ヒナが心から笑えて、僕が心から信じられる、そんな言葉を探していた。


 結局僕は、何気ない会話を始めた彼女に何も言うことができなかった。


◇◇◇◇◇


 僕の部屋を出ていく頃には、ヒナは概ね普段の明るさを取り戻していた。部屋の窓から茜色に染まり始めた夕空へと出ていこうとしている彼女が言う。


「じゃあ、また明日ね」


「……うん、また明日」


 いつもなら日が暮れるまで神社で時間を潰そうと言えたのだろうけれど、今日に限っては僕はその提案をできなかった。どこか名残惜しそうに笑うヒナのほうからも、そう誘ってくることはなかった。お互いに視線が絡んで、雄弁な沈黙が場を満たす。


「じゃあ」


「うん」


 どちらからともなくそう別れを告げて、ヒナは僕の部屋を後にした。それを見送った僕はベッドに倒れ込んだ。体力的に問題はないがかなり気疲れしていた。彼女と話をしていてこんなに気を揉んだのはとても久しぶりな気がした。


 春の終わりにヒナと出会ってから今日まで、僕は彼女に触れたことがなかった。関わり始めてしばらくして、触れられるのだろうか、という疑問は生まれたものの、そのときには既に僕は臆病になっていた。ヒナに触れられるか試してみてそれが不可能だったとき、きっと心に刻まれるであろう存在としての致命的な違いを僕は恐れていたのだ。それはたぶん、彼女も同様だった。成仏できる方法を模索しているのに、彼女は確かめようとしなかった。そんなことしなくても十分すぎるほど今の関係に満足していたから、心地いい関係が崩れてしまうかもしれないリスクを冒す理由がなかったのだと思う。少なくとも僕はそうだった。


 しかし今日、その不文律が事故によって破られた。この世の全てを透過するヒナに、僕は触れることができる。それを知ってしまった。もし彼女が許してくれるなら、その綺麗な髪を撫でられるし、手を繋げばその手指の細さを感じられる。もう僕には、ヒナが幽霊だという定義がわからなくなりそうだった。彼女に触れられるならどうしたいという具体的な欲望があるわけではないが、それでも好ましい存在に触れたいという気持ちは少なからず僕の中にあった。


 ヒナと話している間、僕は動揺する心を隠すのに必死だった。そんな僕の努力も虚しく、端々から醸し出される違和感や拙さで彼女にはお見通しなのだろうけれど。そして僕の痛々しい勘違いでなければ、彼女も少しぎこちなかったように思う。ふとした瞬間に視線を落としてどこかをじっと見つめたり、昼間を想起させる会話に過敏な反応を見せたりと、明らかに彼女も何かを意識していた。別れ際のやり取りが何よりもそれを物語っていた。


 思い返すだけでも頭がやられてしまいそうで、一際大きな溜め息をついた僕は目を閉じた。


 夏休みが終わるまでまだ二十日以上残っている。どうせその大半をヒナと過ごすのだろうから、ずっとこんな調子でいるわけにもいかない。明日の僕はうまく笑えるだろうか。今までのように、振舞えるだろうか。大丈夫だと言いきる自信の持ち合わせは今の僕にはなかった。明日が楽しみでもあり、少し怖くもあった。


 この日を境に、僕とヒナの関係は少しずつ、けれども確かに変わっていくことになる。

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