第10話

 八月九日、火曜日。今日の空はいっそ現実感がないほどに清々しく晴れ渡っていた。昨夜、今日の天気が崩れないことを祈っていた身としては喜ぶべきなのだろうけれど、僕はじりじりと首筋を焼く猛暑に早くも気が滅入っていた。げんなりとしながら打ち水されたアスファルトを歩いていく。誰かの家の塀の向こうから顔を覗かせる青葉の若々しさばかりが目についた。


 僕は今、普段は近寄りもしない最寄り駅へと向かっていた。今日から僕とヒナの新しい試みが始まる。角度を変えて成仏への道のりを辿ろうと心機一転した僕たちが最初にするのは、海を見に行くことだった。週明けである昨日、僕の部屋で雑談混じりに相談した結果そう決まった。


 僕は最初、海へ赴くという案が出たとき、諸手を挙げて賛同できなかった。ヒナは、掬った水が手のひらから零れていくのを感じられないし、海が目に飛び込んできたときに胸を満たす潮の香りを感じられるわけでもない。わざわざ海まで足を運んでも、景色を望むことしかできないのだ。けれども、彼女は迷わずに「海を見に行きたい」と口にした。曰く、そういった綺麗な場所に誰かと行くだけで十分すぎるほど嬉しい、と。そんなことを言われてしまっては僕も頷くしかない。僕が微かに感じた杞憂は、彼女の楽しげな表情を前にすると瞬く間に瓦解していった。そして、彼女の提案により駅前で集合することに決まった。


 思い返してみれば、外を一人で歩くのは随分と久しぶりだった。ヒナがいない休日の間、特に用事もない僕は基本的に家から出ないし、日課にしていた夜中の徘徊も自重している。平日の外出時はいつも彼女と一緒にいたから、一人で喧騒の中にいるのがやけに新鮮だった。ぼんやりと視線を移ろわせながら街を行く。


 僕は歩くのが人より遅い。それは生来のものではなく、生きている中で癖になってしまったものだ。雑踏の中をゆっくりと歩くと、酷く緩慢なタイムラプスの中に取り残されたみたいに、自分と世界の速度がずれたように感じる。世界に置いていかれるようなその感覚を僕は好んでいた。変に人生に希望をちらつかせるよりも、しっかりと孤独を痛感させられるほうが僕は生きやすかったのだ。熱中していた趣味に冷めた瞬間のような、自分への自嘲と妙な現実感を含む安堵があった。


 けれど、今こうして街を歩いていても僕が以前と同じ感覚を抱くことはなかった。僕の隣に誰もいないことに違和感と僅かな喪失感ばかり感じていた。そのことをほんの少しだけ嬉しく思う。


 ヒナがいなくなったら、きっと僕はまた一人に慣れるんだろう。彼女に会うまでの人生よりもずっと強い欠乏を抱えながら日々を過ごすのだろう。いつか訪れるそんな未来に僕は、先が思いやられるような心持ちで苦笑して前を向いた。


 自然と、駅前へと向かう僕の歩みは軽やかなものになっていた。


◇◇◇◇◇


 ヒナがやってきたのは、駅前の広場にある時計の針が午前十時を指した頃だった。小走りでこちらへ駆け寄ってきた彼女は、駅の片隅にあるベンチで座っていた僕の隣に腰を下ろした。


「おはよう。ごめんね、待たせちゃったかな」


「いや、いいよ。僕が早めに来ちゃっただけだから」


 澄んだ空の青さと真夏の日射しに辟易としながら僕がそう返すと、ばつの悪さを笑みで誤魔化していた彼女の表情が少し晴れる。


「次に集合するときは私のほうが早く着いてるようにするね。……時間どおりとはいえ、誰かを待たせるのあんまり得意じゃないみたい、私」


 まるでそうするのが当たり前かのように、明るい表情のまま彼女が言う。その健気さは確かに彼女の美徳ではあるけれど、僕はやっぱりその自分への無頓着さが少し引っかかっていた。ヒナにはもっと自分を大事にしてほしくて、僕のことくらいは多少なりともぞんざいに扱えるような、そんな関係を望んでいた。だから、返す僕の言葉は意地の悪いものになった。


「じゃあ僕は、ヒナが集合場所に来るよりも先に着くよう努力するよ。僕も待たれるより待つほうが気楽だから。というか、僕はヒナを待ちたい」


 語調と視線と表情で「僕に気を遣いすぎ」という意思をたっぷり含ませながら口にする。それはしっかりと伝わったようで、窓辺に射し込む陽光のような穏やかさでヒナは優しく目を細めた。


「えー、それじゃ意味ないのにな……」


 くだらない冗談に呆れるかのように彼女は柔らかく微笑む。


「じゃあ、やっぱりこれからは集合場所まで一緒に行く?」


 言葉に反して彼女の声に問い掛けの色はなかった。


「……それでいいんじゃないかな」


 予定調和のやりとりが照れくさくて不愛想にそう返す。


「だね。じゃあ次からは柊汰の家の前で待ってるから、一緒に行こっか」


 どこかぎこちなくはにかむヒナがはにかむ。改めて一緒に行くことを言葉にすると言いようのないくすぐったさがあった。


 こんな会話も続けていけば、彼女がもう少しだけでも自分を省みるきっかけになってくれるのだろうか。僕に対して迷惑をかけていると感じなくなるほど、彼女の隣に居ることを自然に許されるのだろうか。あと何度同じような言葉を交わせるのかわからないけど、いつか来る最後の日に何もかも忘れてぽろりと本音を零してしまうくらい、ヒナが僕よりも自分を優先してくれたならと願うばかりだ。


 僕たちが乗る電車までは少し時間があった。暇を持て余していた僕が背もたれに体を預けてぼんやりとしていると、隣で鼻歌を歌っていた彼女が思いついたように僕に尋ねた。


「あれ。そういえば柊汰、今日も制服なの? 今日くらい私服でも良かったのに」


 夏休みに入る前も、夏休みが始まってからも、僕は制服で図書館へと通っていた。学校に寄った帰りであったり補習終わりであったりと理由はあるが、一番は図書館が公共施設であることに起因していた。そういった公の場では所属を明確にしていたほうが何かと面倒は少ないという判断からだ。けれど、僕たちがこれから行くのはレジャーや観光の側面が強い海辺だ。ヒナが僕の制服を不思議がるのも無理はなかった。


 例えば、服を選ぶのが面倒だったとか、いつもの癖で私服を着るのを忘れていたとか、当たり障りのない理由はすぐに浮かんだ。けれど、僕はしどろもどろになりながらも心から言葉を拾い上げて話すことを選んだ。


「あー……いや。だって、ヒナは制服だし。だったら僕も制服のほうが……その、それっぽく見えるでしょ」


「……それっぽくって?」


「……一緒に来た人っぽく」


 ヒナが僕に友達という言葉を言わせたいのはその悪戯っぽい瞳から見え透いていたから、僕は頑なにその言葉を避けた。友達なんていう僕自身が信じられない言葉に、僕たちを当てはめたくはなかった。


「一緒に来た人っぽく、か」


「うん」


「……誰にも見えないのに?」


 ちょっとしたお茶目を見逃すみたいに笑うヒナと目が合う。


「……僕たちがわかってればそれでいいよ」


 僕たちはささやかな悪事を共有するみたいに、少し卑屈に秘密めかして笑った。


◇◇◇◇◇

 

 それから僕たちはしばらくの間電車に揺られた。平日だからか下りの電車はあまり混んでおらず、少し懸念していたヒナの座席についても問題はなかった。僕たちは何か言葉を交わすでもなく、肩が触れてしまいそうな距離で並んで座っていた。僕は電車があまり好きではない。無音の騒々しさとでもいうべき、他人の気配が充満している空間がかなり苦手なのだが、今日に限っては滅多に乗らない電車の車内がいつもよりずっと落ち着いたもののように感じた。


 電車を乗り換えて目的の駅まで着き、バスに乗ってからさらに歩いた。そうして僕たちがお目当ての海岸を望むことができたのは、あと少しで正午を回る頃だった。


 住宅街を貫く道路に沿って歩いて視界が開けたとき、真っ先に感じたのは強い懐かしさだった。


 澄んだ夏の空と、それよりも深い青色をした煌めく水面が水平線のずっと向こうまで続いていた。引き裂かれたような薄い雲と太陽に灼かれる眩い白浜が痛いくらい目に飛び込んできた。親に手を引かれて最後に海へ訪れたのがいつだったかは定かではないが、あの頃に感じた、強く海に引き寄せられるような感覚はもうわからなくなっていて、僕は妙に納得したような心持ちでいた。やっぱり、もう僕には景色の良さとかがわからないみたいだ。自分の乾いた人生を少し寂しく思う。


 けれど、僕が落胆することはなかった。僕の隣に、僕の分まで胸を打たれている人がいたから。


 隣を歩いていたヒナが感嘆の吐息を漏らす。その吸い込まれるような瞳に海を映しながら、彼女は世界に感動していた。素晴らしいものを目にしたとき、喜びを表現するよりも先に息を吞んでしまうのがなんだか彼女らしいなと、僕はこっそり笑った。


 海水浴場には既に多くの利用客が足を運んでいた。色とりどりのビーチパラソル、方々から上がる楽しげな歓声や笑い声、ソースの香りをばら撒く海の家と、ここにいる人々はみな一様に夏の海を満喫することに余念がなかった。そんな常夏の雰囲気に取り残されたような僕たちは、浜へと続く石の段差に揃って腰掛けた。水を掛け合って悲鳴を上げることも、複数人で馬鹿笑いすることもできない僕たちは、やっぱりいつものように並んで景色を見ていた。


「海、来てみたけどさ。他の人がたくさんいるせいか、思ってたより雰囲気ないね」


 何気なく僕がそう口にすると、こちらへ振り向いた彼女は恨めしげに僕を見た。


「私は純粋に景色を楽しんでたのに……」


「ごめん、野暮なこと言った。……一応訊いておくけど、未練の解消とか、成仏とかできそう?」


「……できそうに見える?」


「いや、あんまり」


 肩を竦めながら悪びれなく返す僕に、はあ、とヒナが溜め息をつく。それでも彼女の目線は揺れる海面へと向いているようだったから、成仏はできなくとも景色は気に入ってくれたらしい。


「よし、じゃあ今日の確認終わり。あとはもう気兼ねなく海を楽しむ時間ってことで」


 先程は人の多さにぼやいていた僕が手のひらを返しながら軽い調子でそう言うと、呆れたように流し目で僕を見ながら彼女は「そうだね」と相槌を打った。


「何かしたいこととかないの? ヒナの未練を解消するために来たんだから、僕にできることなら大抵のことにはつきあうけど」


 僕がそう言うとヒナは少し目を閉じて考えた後、ふっと柔らかく笑いながらその瞳に僕を映した。


「じゃあ、ちょっと歩こう? もっと近くで海見に行きたい」


 屈託なく笑う彼女に「うん」と短く返して、段差を飛び降りた彼女の後を追う。楽しげなはしゃぎ声がどこか遠く聞こえる。肩身の狭さと、僕たちだけこの場に馴染めていないことにほんの少しのくすぐったさを覚えながら、二人で当てもなく海沿いを歩き出した。


 時折変な形をした貝殻を拾って笑ってみせたり、転がってきたビーチボールを返して、向こうへ歩いて行く人達を少し羨んでみたりしながらふらふらと海辺を歩いた。その後は、海に面した町並みの中をゆっくりと散策していた。観光地の何気ない素朴さや素顔を見つけようと二人して躍起になったり、木々で隠されているようなこじんまりとした神社を見つけて意味もなく参拝したり、見知らぬ住宅街を歩いているだけでもヒナといるなら時間を忘れた。


 そうして少し遅めの昼食を済ませて、再度町を歩き回っていた僕たちが海岸へと戻ってきたのは随分と日が傾いた頃だった。海水浴場の利用時間を過ぎたからか、昼間に大勢いた利用客はいなくなっており、遠くの浜辺にポツポツと人影が見えるだけだった。


 砂浜に僕の足跡だけを残して、僕たちは夕凪の中で佇んでいた。この世で一番澄んだ色をした夕陽が今にも海の向こうへと沈もうとしていて、僕たちの後ろの空から夜が優しく帳を下ろし始めている。揺らめく海が、その全景でどうしようもないほどの夕焼けの切なさを伝えようとしていた。ちゃんとこの社会で生きている人達が思い浮かべる夏のイメージを忠実に再現したような昼間の光景よりも、どこか寂しげな夕暮れの海のほうが僕にとってはずっと良いものに感じられた。いつも夕焼けの中で過ごしていたからだろうか。半ば刷り込みのように、僕は夕方に居心地のよさを感じていた。


 海に言葉を吸い込まれたかのように、透き通った目でただ景色に見入っているヒナを微笑ましく思いながら、僕は背負っていたバッグの中からあるものを取り出した。


「あれ。柊汰、それ……カメラ?」


 僕が手に持った一眼レフへと彼女が目を向ける。


「うん、そう。家にあったやつを持ってきたんだ。どうせ見栄えのいい場所に行くなら写真撮るのも悪くないかなって」


 このカメラは昔父が興味本位で購入したものだった。やたらと高価だったにもかかわらず父は碌に使わなかったので、母に雷を落とされていたことを覚えている。折角品質の良いカメラなのだから誰にも使われずに燻っているのも勿体ないと思い、棚の中に眠っていた物をこっそりと拝借してきたのだ。家を出る前に軽く説明書を読んできたから、写真を撮るくらいは難なく熟せるはずだ。


「試しに一枚撮ってみようよ」


「あ、いいね」


 カメラストラップを首に掛けた僕の思いつきに、彼女が気軽に応える。電源を点けてレンズを覆っている蓋を外すと、少ししてから液晶に足元の砂浜が写った。カメラを覗き込みながら辺りを見回して、問題なく景色が写ることを確認してから、カメラをいじる僕を他人事みたいに見ていたヒナへとレンズを向けた。「え?」という呆けた声が上がる。


「え、私を撮るの?」


 まさか幽霊の自分が被写体になるとは思っていなかったのか、鳩が豆鉄砲を食ったような顔でヒナが困惑していた。「私みたいな幽霊なんて写しても面白くないよ」とか「そもそも撮っていいって言ってないんだけど」とか、往生際の悪い言い訳や文句を聞き流して無言でカメラを構えていると、観念したのか彼女は溜め息を一つついてから照れくさそうに笑った。僕はカメラ越しに満足気な表情で頷いてみせた。


 僕がヒナよりも風景を撮りたいなんて思うはずがないだろう。そう内心で自慢げに呟いて、不格好に構えながらカメラを向けて液晶モニターを覗く。どことなく不安そうに、頼りなく笑う彼女が写っていた。


「私のこと、カメラ越しに見えてる?」


「うん、見えてるよ。……どんなポーズ取ればいいかわかんなくて変にもじもじしてる両手もばっちり見えてる」


「……ねえ」


 珍しく僕に揶揄われてヒナが不満げに呻く。


「ほら、笑って」


 夕凪と海を背負った彼女を画角に収めながら待っていると、彼女は最初こそ戸惑っていたものの、次第に年相応の普通の女の子みたいなあどけない笑みを見せた。


 ふと、カメラを構えながら、彼女は夕焼けの中にいるのが様になってるなと思った。夕方が少しでも長引けばいいとどれだけ願っても刻々と夕陽は沈んでいくように、他愛もない時間をどれだけ大切にしようとしたって彼女もいつかはいなくなるからだろうか。胸を締めつけられるような寂しげな気配がよく似ていた。


 きっとそのいつかはあまり遠くないことを、僕もヒナも肌で感じている。ぼんやりとした感覚ながらも、確かにその瞬間の到来を理解している。いつか終わってしまうことを、少しだけ恐れている。


 だから、とても綺麗に笑うヒナを少しでも切り取れたらなと、そう思いながらシャッターを押した。カシャ、と軽い駆動音が鳴るその瞬間まで、僕はカメラ越しに彼女の笑顔を見ていた。


「撮れた?」


「うん、撮れたよ。……風景は」


 こちらへ駆け寄ってきて僕の手元を覗き込む彼女にカメラを見せる。液晶には斜陽を受けて煌めく海とつまらないほど澄んだ夕陽しか写っていなくて、僕が一番切り取りたかったものは致命的なまでに気配すら写っていなかった。


「……やっぱり写らないね、私」


 自嘲気味に呟くヒナの表情がわかりやすく感傷的なものに変わる。


「でも、これはこれでいいよ」と僕は気楽に言った。


「……どうして?」


 そう尋ねる彼女に僕は気安い笑みを返した。自分でも意外なほど自然に笑えていたと思う。


「ここにヒナが写ってたこと、僕は知ってるから」


 少しの沈黙の後、彼女が目を細めて笑い返した。この写真を見るたびにきっと僕は笑っているヒナのことを思い出すだろうから、この写真が持つ意味はそれだけでよかったんだ。

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