第9話

「あー、もう。……何もわかんないよ」


 八月五日、金曜日。今日も今日とて図書館の閉館時間を迎えた僕たちはいつもの神社へと足を運んでいた。サイダーを喉に流し込んでいた僕の横で、鬱憤を晴らすようにヒナは珍しく少し大きな声をあげた。


 僕の補習が終わって彼女の成仏に丸一日を費やせるようになってから、早くも一週間が過ぎていた。ヒナに関連していそうな記事を調べるのも、全国の高校の制服を総当たりで検めるのも、今のところ全て徒労に終わっていた。


「本当にいつか私の記憶戻るのかな……」


 むやみな励ましではかえって気を遣わせるだけにも思えて、僕もサイダーを半分ほど飲んでから見慣れた景色へと目を向けた。日中の責め苦のような日射しとは違って、この時間帯の太陽は目に優しい色をしていた。ぺったりと空を茜色に塗り潰した夕陽はあともう少しで地平の向こうへと沈もうとしていて、涼やかな夕風が頬を撫でていく。僕たちしかいない神社の境内に、少しの寂しさを感じさせる蝉時雨が響いていた。


 隣に座るヒナはそわそわと頻りに体勢を変えては悩ましげな表情を浮かべ、溜め息をいて肩を落としていた。そんな彼女を横目に、僕は呑気にこれまでのことを振り返っていた。


 僕たちが図書館に足繁く通い始めてから、既に三か月が経っているのだ。たぶん、僕の人生の中で一番濃い三か月だったと思う。僕の捻じ曲がった性根も、手の届かない憧れで在り続けるヒナによって多少なりとも和らいだのではないだろうか。僕の十六年があっさりと薄れてしまうほど、彼女といた日常は僕にとって劇的だった。そんな変化の多かった期間だからこそ、これだけ手間と時間を掛けても手応えがないことに彼女は不貞腐れているのだろう。


 未だに隣で気を揉んでいる彼女に苦笑しながら僕は楽観的に言った。


「深く考えすぎだよ。ここに来たときくらいは景色を楽しもうって、ヒナが言ってたんだよ」


「それは……そうなんだけど」


 自分の発言を掘り返されたヒナがやりづらそうに力なく呟く。先程からずっと何かに追われるような面持ちをしている彼女の心が少しでも解きほぐれることを期待しながら僕は言葉を続けた。


「別に、そんなに急ぐ必要もないんだから。今くらいは何も考えないでいいよ」


「でも、何もわからないのに柊汰の時間だけなくなっていくのはやっぱり申し訳ないよ」


「……そうかな。僕はあんまり気にしてないけど」


 負い目を感じてほしくなくて、僕は事も無げに応える。


「柊汰が良くても私が気にするの」


 ちゃんと現実を見るとどうしたって悲観が顔を出すから、真面目な雰囲気を払拭するようにヒナは冗談めかして言った。それに僕は「そっか」と短く答えた。それっきり、彼女は自分の頭の中に憂いを閉じ込めたまま、何を語るでもなく再び斜陽へと目を向けた。


 僕たちの間に満ちる沈黙を冷やかすように、場違いな鴉の鳴き声が遠くの夕空で響いていた。僕は漠然と何かを探すような心持ちで、暮れ行く夕陽にじんわりと目を灼かれるままにしていた。きっとこの世のどこかに転がっているはずの、ヒナが少しでも前向きになるような名案を見落としてしまわないようにしていた。


 そして、一匙の悪意で簡単に手折られてしまいそうな優しさを湛えた彼女の横顔を見た途端、僕の口は勝手に動いた。


「じゃあ、いっそのこと探し方を変えてみようよ」


 脈絡もない僕の言葉に、ヒナが警戒心の欠片もない顔で僕を見る。隣にいることが当たり前かのようなその純な表情に、心のどこかが満たされるのを感じた。


「図書館で記事を調べるのはいつだってできるけど、一日丸ごと使えるのは夏休みだけなんだし。今のうちにできそうなことは色々と試してみようよ」


「一日使うって……例えばどんなことするの?」


 そう問い返されると、僕自身も確固たる考えがあるわけではないので歯切れが悪くなってしまう。諳んじるように何もない空中を見やりながら僕は必死に頭を捻った。


「え、うーん。なんだろう。未練を解消できそうなことだから……どこかの綺麗な景色を見に行くとか、学生らしく青春っぽいことをする……とか?」


 自分の発言が的を射ているか不安になヒナを見ると、彼女はくすくすと控えめに笑っていた。


「……柊太もよくわかってないの?」


 呆れるように目を細めながら彼女が言う。


「まあ、思いつきで言ったからね。でも、今言ったことをやってみるのも案外悪くないんじゃないかな」


 いつも恰好がつかないことに若干のきまりの悪さを覚えながらもなんとか取り繕ってそう口にする。僕の案を吟味するようにヒナは少し考え込んでから、ゆるゆると首を振って和やかに笑った。


「青春っぽいことがいまいちよくわかってないけど、私の我が儘みたいな未練探しに、柊汰がそんなにつきあう必要はないんだよ」


 優しく僕を突き放すようにヒナは言う。彼女は諦めからくる凪いだ顔をしていた。


「どうしても記憶が戻らなかったときに、私一人でゆっくり色んなことを試してみるから」


 一人で、という努めて軽い調子を装った声が耳に残った。


 癪に障った、とでも形容すべきだろうか。健気な笑顔で僕を遠ざけようとする彼女に、僕の中で沸々と感情が湧いてくる。勝手に諦めようとしている彼女に説教でもしたい気分なのに、彼女のそれが優しさに由来するものだと知っている僕の口元は綻んでいた。僕はやっぱり、どこか寂しく見えるヒナの笑顔が好きなんだと今更ながらに思う。


 目に物を見せてやろう。救いようのない僕の馬鹿馬鹿しさを甘く見るんじゃない。君はもっと大事にされるべき女の子なんだ。世界がそうしないなら、僕がそうするだけだ。


 誰にでもなく不敵に笑って僕は言った。


「なんだか……綺麗な風景が見たくなってきたな」


「え?」


 突然そう言った僕に置いてけぼりを食らったように、状況が掴めていない彼女は間の抜けた声を出した。キョトンとした表情に頬を緩めながら、間髪を入れずに重ねる。


「でも、一人で行くよりも誰かと一緒に行ったほうがもっと楽しめるんだろうな」


「柊汰……?」


「それに夏だからか、僕も一度くらいは青春っぽいことがしてみたいなぁ」


 努めて平淡な声音を意識してそう口にすると、あからさまな僕の態度にヒナも気づいたようで、妄言を吐き始める僕を訝りながら、駄目人間でも見るかのような眼差しでこちらを見ていた。芝居がかった大袈裟な口調で僕は続ける。


「でも僕は友達いないから、どこかにつきあってくれる人がいたらとても助かるんだけどな」


 僕は茜色の空を仰ぎながらこれ見よがしにそう独り言ちた。隣から嘆息のような、笑い声を抑えようとしているような、そんな吐息が漏れる。ちらりとヒナへ目を向けると、彼女は心底くすぐったそうに微笑んでいた。


「柊汰って本当……変」


 僕の言わんとしていることはしっかりと伝わったらしい。途端に襲う羞恥を堪えながら僕は笑いかけた。


「まあ、そういうことだから。ヒナ、僕の我が儘につきあってよ」


「柊汰、それ……すっごくズルいよ。そんな言い方されたら断れないじゃん。ほんとに、ズルいな」


 僕たちを照らす夕陽の温かさをそのまま音にしたような、そんな優しい声音で彼女は呟いた。


「知らなかったかもしれないけど、実は僕、かなり卑怯だし捻くれてるんだ」


「あはは、それは知ってる」


 楽しげにヒナが笑う。それだけで僕はよかった。


「……それにしても、いくらなんでも棒読みすぎるよ。とんだ大根役者だね」


 あえて拗ねてみせて余裕を演じるように、彼女は揶揄いながら言った。


「……知ってる。あんまり柄じゃないんだから、こういうことやらせないでくれよ」


 それが喜びを持て余してしまった際の彼女なりの照れ隠しだと僕はわかっていたから、大人ぶって返す彼女と同じく、僕も少し不愛想に苦笑してみせた。たぶん、僕の素っ気なさが照れ隠しだということも彼女にはバレているのだろうけれど。


 居た堪れなさと居心地のよさが綯い交ぜになったまま、どちらからともなく景色へと目を向けた。今日ここに来たときとは違って、夕焼けを映す澄んだヒナの瞳はいつもどおりの素直さでこの瞬間を感じているようだった。


「ねえ、柊汰」


「うん?」


 名前を呼ばれて隣へ振り向く。


「景色、綺麗だね」


 ヒナは混じり気なくそう言って僕に笑いかけた。日々の生活の中であった小さな幸せを報告するみたいなありふれた笑顔のようでもあり、今後何十年も記憶に残り続ける特別な笑顔のようでもあった。


 こうして街並みを眺めていると時折、彼女は思い出すように「綺麗だね」と呟く。街並みに目を向けている時間に比べてそう口にする頻度が少ないのは、言葉にするのもつい忘れてしまうほど綺麗だという感覚が彼女に根づいている証拠だ。無自覚なのだろうけれど、心の深い場所にある大切な感覚を共有しようとすることに僕はいつもむず痒さを感じていた。だから、僕も偽りなく本音を返す。


「……僕はまだ綺麗とかわからないよ」


「……まだ?」


 少し期待するように尋ねるヒナに、僕は小さく頷く。


「うん、まだ」


「じゃあ、柊汰がそれをわかるようになるまで、こんな幽霊でよければ一緒にいるよ」


 翳りなく笑ってヒナがそう言った。その未来が来るのはそう遠くないのかもしれない、と僕は思った。だって、今目の前にある花咲くような眩しい笑顔を僕は既に何度も綺麗だと感じているのだから。


 こうして彼女と他愛のない言葉を交わす時間を、僕は躊躇いもなく楽しいと言える。言葉を介さない瞬間すら心地がいい。言葉でも、景色でも、空気でも感覚でもいい。ヒナと同じ何かを共有していることが僕は好きだった。


 彼女が成仏に行き詰って困っていることは十分に理解している。けれど、この時間が少しでも長引けばいい、なんて自分勝手で最低なことを、心の中で思うことくらいは許されないだろうか。ずっと続けばいいなんて言わない。例えば、彼女がいなくなるその直前に少し夕陽を眺めていられるくらいの猶予を貰えればそれ以上は何も望まない。それくらいの僅かな時間でもこうしていられることを僕は願っている。


 どれだけ僕が切にそう祈ったとて、夏は確かに過ぎていく。今日もまた、日が沈もうとしていた。

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