第8話
カーテンの隙間から漏れる薄い朝日で目を覚ますと同時に、酷く郷愁に駆られるような感覚があった。たぶん僕は夢を見ていたのだろうな、と寝惚けた頭で思った。どんな夢だったかはまるで覚えていないが、どうせ五年前の記憶に縋っていたのだろう。いつもそうだ。水を掴もうとするような無力感が、微睡みの中であの笑顔に焦がれていた感覚だけが残っている。意識の覚醒につれて、ただでさえ朧気だった夢の内容はその輪郭を失っていった。
疼痛のような懐かしさだけが胸に残ったまま洗面台で顔を洗った。冷えた水が身を引き締めてくれるなんてことはなく、鏡には濡れた野良猫みたいに惨めな僕が映った。
コップ一杯分のまずい水道水を喉に流し込むと、もっと栄養のある物を入れろと胃が騒いでいた。最後に何か食べてから丸一日以上は経っている。生憎と冷蔵庫は空っぽのため買い物へ行こうかとも思ったが、三歩歩いた途端に馬鹿らしくなってやめた。別に、今すぐ食事をしなければならないというわけでもない。餓死する手前くらいになると欲に負けて自ずと外へ赴くだろう。空腹をどうにかするのは明日以降の僕に任せた。結局のところ、死ななければいいのだ。
小さく鳴り続ける胃を無視して僕は無地のカーテンを開けた。味気のない部屋が惜しげもなく曝される。日の光はいい。白くて清潔な感じがして、ちゃんと僕は独りなんだと思える。自分の人生から目を逸らさないでいる気になれる。
滑りの悪い窓を開けてベランダへ出ると、生温く重たい空気が頬に触れた。どうやら僕が起きる少し前まで雨が降っていたようで、アスファルトが普段より濃い藍鼠色に変色していた。ほんの少し光沢のある道路を一台のトラックが走り去っていく。名の知れた引っ越し業者のトラックだった。
僕は顔も知らない誰かの新生活へと思いを馳せた。新天地への希望と少しの不安をバッグに詰めて自分の足で人生を決める、そんな人を想像した。そんな普通を、僕は羨むこともしなかった。ただ人並みの人生が遠いものだと強く認識しただけだった。これ以上誰かの生活感を視界に入れたくなくて遠くの空へと目を向けた。
息を吸った。息を吐いた。もう一度深く息を吸った。
雨の残り香を含んだ空気が喉の奥に広がる。春にも秋にも冬にも感じることのない匂いがした。生まれたその瞬間から終わりの予感を孕んだ若々しさとでもいうのだろうか。永遠と一瞬を奇跡的な割合で共存させた何かが始まるような、そんな夏の匂いだ。
なんとなく、これで今年の梅雨は終わるのだと思った。決定的に梅雨が息絶えたことを僕は感じ取っていた。
もうすぐ、夏が来るのか。
夏は嫌だ。何を聞いても何を見ても何をしても何を感じても、全部が五年前を思い出させる。陽炎の立つ道路を歩いていると夏がいつまでも続くように感じるのに、ふと目を離した隙にあっけなく終わってしまう。どうしたって哀しくなるから、夏は嫌いだ。
ヒナと過ごしたたった一度の夏が僕の人生を埋めている。五年前の今頃、僕はどうしていただろうか。夏の気配に何を感じて、ヒナに何を言っていただろうか。全部は憶えていないけれどもきっと楽しかったんだろう。それを失ってしまった今の僕がこんなにも息苦しいんだから。
今の人生を嘆くほど、五年前の全部が鮮やかに彩られていく。思い出があんなに綺麗だったから、人生の余白を全て費やした今の僕はどこまでも褪せている。
彼女のいない夏にも、いい加減諦めがついてほしいものだ。
◇◇◇◇◇
六月十三日、月曜日。結局、風邪をこじらせた僕が学校へと登校したのは週が明けてからだった。休んでいる間はヒナの成仏を手伝えないことがもどかしかったが、「自分を大事にしなさい」と彼女に念を押されたので、体調が快復するまで大人しく自室で安静にしていた。見舞いは丁重に断ったため、ヒナは空いた時間でどこかへ赴いているようだった。「私が部屋に居なくていいの?」と悪戯っぽく彼女は笑っていて、その冗談を少しでも真面目に検討した自分が恥ずかしかった。
約一週間分の課題が入って少し重くなった鞄を背に、放課後の雨の街をヒナと並んで歩いていた。多少の逡巡はあったものの、僕の迷いを察した彼女の指示により今日は傘を差している。学校付近の大通りは人の通行量が多くすれ違う人もみんな傘を差しているため、ぶつからないように彼女はいつもより体一つ分ほど僕の近くを位置取っていて、僕は間違っても肩が触れないよう心を砕いていた。
やがて人通りの少ない住宅街に差し掛かると、ヒナは押し黙っていた分の声を開放するように大きく息を吐いた。
「ねえ、なんか今日やけにすれ違う人達がこっち見てなかった? いつもは感じないのに、今日はすごく視線感じたんだよ、私幽霊なのに」
「そう? 僕は全然気づかなかったけど。気のせいじゃないかな」
そう返す僕に「えー、そうかな。絶対見られてたのに」と少し拗ねた様子の彼女が言う。気楽な会話をしたのが随分と久しぶりに感じて少し頬が緩みそうになった。
「で、なんで今日は僕の家に行くわけ? 話すだけならいつもの神社でよかったんじゃない? ほら、あそこ屋根つきのベンチもあるし」
「ふふ、よく訊いてくれたね」
説明を求める僕に含みのある顔でヒナが言う。
月曜日の今日は図書館も休館日のためいつもの神社へと足を運ぼうとしたのだが、そんな僕を半ば強引に家路へと就かせたのが彼女だった。
「柊汰、今日の授業どうだった?」
「どうって……そりゃ、一週間も休んだから全然ついていけなかったよ。予習とかしてるわけでもないし」
「やっぱり。そうなると思ってたよ」
傘を差す僕の右隣で彼女はしたり顔をしていた。なんらかの秘策でも隠し持っているかのような、そんな表情だった。
「勉強会しよ、柊汰の部屋で」と彼女は言った。
「勉強会?」と僕は訊き返す。
「そう。実は私、柊汰が休んでる間学校の授業を聴いていたのでした。授業内容はばっちり覚えてるから、私が勉強教えてあげるよ」
ヒナは得意げに笑っていた。僕の脳裏には「そんなことしなくていいのに」とか「僕に気を遣いすぎなくていい」とかそんな言葉も浮かんだけど、そのどれもが僕の口から出ることはなかった。僕のために何かしてくれたことへの純粋な嬉しさが勝っていたのだ。彼女に弱さを見せた日の記憶が、幾分か僕の心を素直にしていた。
「……言いたいことが色々あるけど、ありがとう。正直すごく助かるよ」
「うん、どういたしまして」
眩しいくらい満面の笑みでヒナが言った。その曇りのない表情に、遅まきながら彼女がかわいい女の子だということを実感した。
「でも、勉強教えてくれるのはありがたいんだけど、僕なんかに時間使っていいの?」
彼女が素敵であればあるほど引け目を感じてしまう僕に、小走りでヒナが少し先を行ってから振り返る。セミロングの髪が遅れて追従し、その向こうに彼女の笑顔が見えた。その仕草がとても様になってるな、と呆けたように思った。
「前も言ったけど、していいとか駄目とかじゃないよ。私がそうしたいからするの。いつも柊汰に色んなことしてもらってて、本当に感謝してるから。私も柊汰のために何かしてあげたかったんだよ」
雨の中で彼女は明るく笑っている。それだけで、錆色の雨の街中が晴れやかに見えてしまう。
「……もうたくさんしてもらってるよ」
本当に貰ってばかりだ。彼女と出会ってから、毎日が少しだけ鮮やかになった。古今東西で使い古されたそんな月並みな言葉も、今の僕には共感できる部分がある。それが嬉しかった。嬉しいはずだった。
ヒナの存在が僕の中で大きくなるたび、居心地のいい時間に水を差すかのように不安が思考を掠める。今もそうだ。なんでもない朗らかな彼女の笑顔が途端に儚く見えてしまう。
いつか来るこの関係の終わりを、僕は少しだけ恐れていた。
考えないようにすればするほど想像はつき纏ってくる。元からそういう前提で関わり始めたのだとは理解している。それでも、完全に割りきることはできなかった。僕たちの関係の終着には決定的な別れがあって、僕はただそれを考えないようにしていた。
それからしばらく歩くと自宅に到着した。鍵を回しても手応えがなく、玄関には母の靴があった。「先に僕の部屋行ってて」と小声で耳打ちすると、ヒナはこくりと頷いてから室内ドアを擦り抜けていった。少し遅れて僕も母がいる室内へと向かう。
「ただいま」
「あれ、おかえり」
どうやら母も帰宅して間もないようで、仕事着のままキッチンに立っていた。花瓶に水を注ぐ傍らには見慣れない花が置かれていた。
「それ、どこに置く花?」
「あんたの部屋に置こうと思ってたけど」
「じゃあ僕が持ってくよ。……これ、なんて名前の花?」
興味本位でそう尋ねると、母は意外そうな眼差しでまじまじと僕を見ていた。
「……あんた、花に興味あったの?」
「……最近は悪いものじゃないなと思ってる」
それは僕の紛れもない本心だった。以前までは時間を割くだけ無駄だと思っていた花や景色も、一概に無駄とは言えないと知った。誰の影響かは考えるまでもなかった。感慨深げに僕を見る母の視線から逃れるように「じゃあ僕は部屋で勉強するから」と言って花瓶に花を挿して受け取る。自室へと踵を返す僕に母が声をかけた。
「待って、あんたその肩どうしたの。傘持ってたでしょ?」
肩越しに振り返ると、母は僕の左肩の辺りを示すようにジェスチャーしてみせた。それで僕は、夏服へと移行したばかりの制服が左肩から袖にかけてずぶ濡れになっていることを思い出した。ぱたぱたと母がタオルを取りに行ってくれる。
「傘は持ってたしちゃんと差してたよ」
お礼を言ってから受け取ったハンドタオルで水気を拭き取りながらそう返すと、母は濡れた僕の左肩へ訝るような視線を送った。母からしてみると、僕が見当違いな位置に傘を差していたように思えたのかもしれない。
「ふーん。あんた傘差すの下手なのかもね」
やがて興味を失くしたようにそう呟く母に曖昧に笑ってから僕はヒナの待つ部屋へと向かい、彼女と真面目に授業の遅れを取り戻した。一区切りがつくと張り詰めていた硬い雰囲気が緩和され、一瞬目が合うたびに彼女がはにかんで破願する。机に向き合う真面目な姿勢の一方で、僕は澄ました顔を心掛けることに苦心していた。
◇◇◇◇◇
ヒナが隣にいる日常が心地よいことを一度認めてしまえば、それからの季節は飛ぶように過ぎていった。僕が高校に入学してからの一月と梅雨に入ってから今日までが同じくらいの日数とは到底思えなかった。
七月十九日、火曜日。清々しい雨上がりの放課後に、僕は神社への石段をヒナと並んで登っていた。思い返せば、最近は成仏の手伝いという理由を抜きにしてもかなりの時間を彼女と一緒に過ごしていた。
雨が降っている日なんかは、図書館の閉館時間を迎えてから僕の部屋で過ごすのがお決まりになっていた。いつも僕が黙々と課題に取り組み、彼女は適当な映画を観ていた。勉強が終われば、碌に話の内容もわからないまま一緒になって僕も映画を観た。七月初旬にあった学期末テストの後からは、ヒナ指導の下で連日勉強会が行われた。入学した直後より少し順位が下がった答案用紙を見られてしまい、彼女の世話焼きな一面が遺憾なく発揮されてしまったのだ。それまで見ていた映画も放り出して机に向かいながら「柊汰は仕方ないね、ほんとに」とぼやく彼女は、それでもどこか嬉しそうだった。
晴れている日や雨上がりなどは今日のように神社へ訪れて夕空を眺めていた。日が落ちるのも遅くなり、それにつれて僕たちが神社で過ごす時間も同じように長くなった。そうしているうちに、いつの間にか夏休みがすぐ目前に迫っていた。あと三日ほど登校するだけでもう終業式だ。
長い石段を登りきり、まだ少し湿っている石段の頂上に腰を下ろした。隣にヒナが座る。気づけば梅雨も明けようとしていた。蒸し暑さで少し汗ばんだ首筋を夕風が撫でていく。涼しさを感じながら大きく息を吸うと、風に乗って濃密な夏の匂いが肺を満たした。他にも、雨露に濡れる紫陽花を見て、雨雲の切れ目から覗く夕空を見た。その全部が梅雨の終わりを告げていた。
長い間の雨で抑え込まれていた夏という季節が今にも訪れようとしていた。
「もう夏だね」
どこからか響く蝉時雨にヒナがそう呟く。
「そうだね」
それっきり、僕たちは喋ることもなく夕方の街並みに目を向けていた。沈黙を嫌って言葉を探すなんてことはなかった。それどころか僕は、今この瞬間に言葉なんて野暮だとすら思っていた。
隣で足をぱたぱたと遊ばせながら、ヒナがいつもの鼻歌を歌う。それは僕の知らない曲で、どんな題名の曲なのか訊いてもヒナは覚えていなかった。メロディだけが頭に残っていると、そう言っていた。ただ、鼻歌交じりに夕焼けを見つめる彼女の顔があんまりにも穏やかだったから、僕はその鼻歌が好きになっていた。気取られないように彼女の横顔を盗み見る。夕景を映すその瞳はとても綺麗で澄んでいて、少し見惚れた。死へのモラトリアムの最中である幽霊とは思えないほど、彼女は純粋に目の前の世界に身を任せているようで、自分との落差がいやに目立った。
「柊汰、どうしたの?」
ふと、こちらを覗き込むように彼女が言った。
「……え、何が」
「何がって……落ち込んでるように見えたから」
「いや、なんでもないよ。補習が面倒だなと思って」
考えていたこととは別の本音を話すとヒナは「そっか」と軽く笑っていた。
どうしたって言えるわけがなかった。「成仏できるよう頑張ろう」とも「ヒナが楽しいなら成仏しなくていいんじゃない」とも、口にすることはできなかった。そのどちらの選択の延長線上にも、なんの憂いもなく大団円で終わる未来が想像できなくて、僕はどうするのが彼女のためになるのかわからなかった。初めて神社へ訪れた日、成仏させると誓ったことに僕は迷いを感じていた。
そんな逡巡を吞み込んで僕は再び夕焼けを眺めた。隣のヒナも正面へと向き直る。ただこの関係の終わりが、少しでも彼女にとって痛みのない結末になればいいと、それだけを願っていた。
なんとなく、ヒナと夏を過ごすのはこの一度だけなのだろうと思った。根拠はない。ただ、確信めいた予感だけがあった。そう認識した途端に、胸が締めつけられるような感覚に襲われた。つい隣を見ると、ちょうど彼女もこちらを向いた。彼女が柔らかな笑みを零す。どうしてか、その笑みがたまらなく切なく見えた。些細な現実感一つで掻き消えそうなほど儚く見えた。
何かが終わってしまいそうな夏が始まろうとしていた。
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