第7話

 蒸れるような暑さに耐えきれず目を覚ました。籠った熱を逃がすため被っていた布団と毛布を捲ると、もう六月だというのに途端に寒気がした。今日も窓の外の天気は生真面目に梅雨という季節を全うしており、ぱつぱつと軒先を叩く雨音が聞こえる。閉めきった遮光カーテンから漏れる光が僕の部屋を温かい灰色に照らしていた。


 額に貼っていた冷却シートはすっかり常温に戻っており、温い感触を気持ち悪く感じてゴミ箱へと放り捨てた。壁に掛けられた時計を見るとちょうど正午を過ぎた頃だった。正確に時間を刻んでいく秒針の音がやけに無慈悲なものに思えた。


 少し空腹は感じていたけれど、レトルトのお粥を用意するのも億劫だった。汗で湿った衣服を着替えて再びベッドに入る。肋骨の裏側にカイロでもあるかのように体の中心は熱を持っているのに、いくら毛布を被っても鳥肌が立ちそうなくらい肌寒かった。喉に違和感を感じて軽く咳をする。すぐに控えめな雨音に掻き消された。まるで咳をすることすら許されていないようだった。


 静かな部屋で、僕は一人だった。部屋には黴の生えた寂しさが充満していた。


 雑念を振り払うべく目蓋を閉じた。けれど、それがかえってよくなかった。目に映る景色を見えないようにしてしまうと、今度は視界に映らない情景ばかりが次々と脳裏に浮かんできた。


 僕は幼い頃から体調を崩しやすかった。僕のランドセルにはいつも頭痛薬が常備されていたし、季節の変わり目になると必ずと言っていいほど寝込んで学校を休んでいた。体を冷やした翌日なんてまともに過ごした記憶がない。あまりの病欠の多さに、両親が会社を休んで看病をしてくれることが後ろめたくなった僕は、小学二年生になる頃には風邪を引いても軽微な症状を装って両親を会社へ送り出していた。そんな日はいつも、午後の静かな部屋で退屈と高熱の間でぼんやりと天井ばかり眺めていた。


 僕だって本当は、霊感もなくて体調も崩さない普通の子供がよかった。どこまでも他人と違う自分が幼いながらに嫌いだった。熱に浮かされた頭で、そんな寂しさを数え続けていた。


 子供部屋に満ちた静寂は、一人だけ世界に置いていかれるような心細さと疎外感を僕に与え続けて、幼子に物事を一から教え込むかのような緩やかさで優しく絶望を刻んでいった。秒針の音が響くたび、世界から致命的に切り取られていくようだった。たとえ嫌われていたとしても誰かが傍にいてほしかった。そのほうが、まだ自分が何かに属しているという感覚がしたから最低限の安堵があった。集団での孤立より、周囲に誰も居ない真っ白な孤独のほうが何倍も恐ろしかった。


 そして皮肉なことに、僕が衒いも見栄もなく真っ当に弱い子供になれたのは、風邪を引いて学校を休んだ日の自室だけだった。当時はまだ他人への期待を捨てきれていなかったから、感情の発露が怖かったのだ。無関心な今とは違って、関心が強すぎるが故に失敗を酷く恐れていたのだ。風邪は普段よりずっと僕を弱くした。


 だからだろうか。中学に上がって病欠をしなくなってから数年が経った今でも、この部屋にはあの頃の寂しさが染みついているようだった。今日に限っては身に纏った諦念や言い訳を全部引き剝がされたように心細かった。高校生になっても、僕にはこの静けさが僕を蝕んでいく遅効性の毒のように感じられた。


 風邪を引いたのは明らかに昨日の雨が原因だった。びしょ濡れになって走った後、濡れた体のまま日が沈むまで神社で座っていたのだから、今日の高熱は至って自業自得だった。僕がやりたくてやったことなのにヒナが気負ってしまわないかが心配だった。


 ふとそこまで考えて、僕は自分の失敗に思い至った。


 普段彼女は、僕の登校に合わせて玄関の前で待っている。僕が少し朝の支度に遅れたときも彼女は律儀に待っていてくれるのだが、そんな彼女の生真面目さは「もしかして」と僕に思わせるには十分だった。


 重い体を引きずるようにして玄関へと向かう。今朝の僕は目が覚めたときからかなり体調が悪かったから、体温を測って早々に薬を飲んで布団に入っていた。もちろんそんな状態では外に出ようとする理由もなく、玄関へも顔を出していない。つまり僕は、ヒナになんの連絡もなく待ち合わせをすっぽかしてしまったようなものなのだ。言い訳のようだが、頭が朦朧としていて彼女が待ちぼうけている可能性を失念していたのだ。雨の中で佇みながら「勝手に人様の家に入るわけにはいかない」なんて考えて未だに僕を待っている様子が容易に想像できた。


 逸る気持ちのままサンダルを突っ掛けて、謝罪の言葉に迷いながら玄関のドアを開いた。


 しかし、僕の想定とは裏腹に、そこには誰もいなかった。人気のない住宅街に雨が降っていただけだった。湿ったアスファルトをさらに雨滴が叩いていく。雨樋から絶え間なく雨水が吐き出される。今日一日窓越しでしか聞いていなかったためか、ぱちぱちという雨音がやけにクリアに聞こえた。そのせいか、ヒナが待ちぼうけをしていなかったという現実がすんなりと認識できた。妙に温い梅雨の空気が肌を舐める。


「けほ」と僕は小さく咳をしてから玄関のドアを閉めた。


「……よかった」


 僕は、怠い体に鞭打って再び階段を登り自室へと戻った。彼女なら本当に玄関先に立って僕を待っていてもおかしくなかったから、そうでなかったことに僕は安堵していた。


 けれど、冷静になって考えてみるとそれは当然の話だった。ヒナだって、僕が何時間も家から出てこなければ今日は学校を休むことくらいわかるだろう。そんな状況であれば、単なる協力者である僕を待つ必要なんてない。それは至って自然なことだ。意味もなく時間を浪費するより効率的だし、何よりその優しさが彼女にとって不利益に働くこともない。ヒナにとっても、彼女にできるだけ辛い思いをしてほしくない僕にとっても、彼女が玄関先にいなかったことは喜ばしいことだった。ヒナがいなかったのは当たり前だ。


 そう自分に言い聞かせながら天井を眺めていた。咳が一つ、部屋に響く。雨音も秒針の音も、全部が遠くから聞こえる。玄関先を覗く前と状況は何も変わっていないのに、なぜだか先程よりも寂寞を色濃く感じた。


 僕はこの静かな部屋で、このまま誰にも知られずにひっそりと死んでいくんじゃないか。そんなあるはずもない未来を想像してしまった。早く眠ってしまいたかったのに、振り払おうとすればするほど孤独は僕を逃がしてはくれなかった。寂しさも哀しさも感じていたけれど、僕の心境はそれらを通り越してしまっていて、どこまでも静かだった。


 きっと孤独というのは、誰にも理解されない夜にベッドの中で蹲って傷心のままいるということではない。清潔な白い部屋で、乾いた心のまま咳をして朽ちていくことなんだと思った。もし諦念に色があるならたぶん、曇り空のような色をしているのだと思う。


 しばらく経っても眠れなかった僕は、いっそのこと薄暗い部屋に光を取り入れることにした。変に薄暗いから人恋しくなるんだ。まだ誰かといたい願望を諦めきれていないからこんなに心細いんだ。静かな部屋を明るくして、それでも何も変わらなかったとき、ようやく僕はちゃんと一人でいる現実を受け入れられると思った。


 そうして頭に鈍い痛みを感じながら立ち上がった。これでやっと、幼い頃から続く寂しさが捨てられる。あの日恐怖した絶対的な白い孤独が僕を塗りつぶしてくれる。そう思いながらカーテンを開けた。


 彼女と目が合ったのはそんなときだった。


 雨にも濡れないままの綺麗な髪。セーラーの裾から覗く折れそうなほど華奢な腕。濡れそぼった大きな瞳。それらを僕は無意識のうちに求めていたのだと動揺する心が告げていた。彼女がそこにいることを理解した僕は、その驚いた表情に自分の感情が攪拌されるような感覚に陥った。酷く心が搔き乱される。


 彼女がここにいるということはこの雨の中辛抱強く僕を待っていたということで、それは彼女の時間と優しい心根を僕が台無しにしたということだ。僕はそうならないことを望んでいたはずだ。もうこれ以上ヒナが悲しむことも、落ち込むこともなければいいと思っている。どうか世界が僅かでも彼女に優しいものであってほしいと思っている。だというのに、彼女が色んなものを無駄にして僕を待っていたことが無性に嬉しかった。


 きっとこんな感情は間違っている。尊重したい相手が損をしているのに、それが自分のためだとわかった途端に喜ぶなんて、とてもじゃないが歪んでいる。僕は粛々と彼女の行動の不必要さを説くことこそすれ、それを受け入れるべきではない。ましてや喜んでしまうなんて論外だ。残った理性はそう必死に叫んでいたのに、それでも僕は嬉しかった。熱で頭が回っていないのかもしれない。どこか目の前がぼやけて見えるように現実味がなかった。


「ヒナ」


 溢れた感情のまま、思わず震える声で名前を呼んでしまう。目を丸くして数秒僕と見つめ合っていた彼女は、窓越しに届いているわけもでないのに、僕の声が聞こえたかのようなタイミングで花が咲くように笑った。


 それだけで僕は、寂しさがどういった感覚だったか一瞬だけ忘れてしまっていた。きっと、今喉の裏に押し寄せる透明な液体のような感情を安心というのだろう、とそう思った。


◇◇◇◇◇


 窓をすり抜けて僕の部屋へと入ってきたヒナは、僕の様子を間近で見るなりそれまで笑みの形に歪めていた表情を険しいものにした。内心で浮き立っていた僕とはかけ離れたその面持ちに不安が募る。


「ヒナ?」


 様子を窺うべく普段どおりに声を出したつもりが、まるで自分の声ではないような異常に嗄れた声が部屋に小さく響く。喉に鋭い痛みを感じると同時にまずいと思ったのも束の間、彼女も僕の状態に気づいたようだった。


「……風邪、引いてるの?」


 眉根を寄せていつもより平淡な口調で問い詰められる。わざわざ心情を察するまでもなく優しい彼女が怒っていることがわかった。けれど、そこに僕への憤懣や攻撃的な感情は見受けられなくて、引き結んだ唇からは僕を心配していることがありありと読み取れた。


 僕が風邪を引いたのは決してヒナのせいなどではなく自分勝手な行動が理由なのだけれど、僕がそう御託を並べて理屈を捏ねてみたところで、そんな浅い言葉の羅列で彼女が納得するとも思わなかった。僕が見てきたヒナはそんな物分かりのいい女の子じゃない。彼女は自分のことには無頓着なくせに人の痛みには過敏なのだ。そんな彼女が、僕の風邪に引け目を感じないはずがなかった。


 体調を崩したことは隠したかったが、嗄れた声も学校を休んでいることも熱を持った体も、雄弁に僕の不調を物語っていた。今の僕は傍から見て模範的な病人だった。決定的に状況証拠が揃いすぎているこの場を嘘でやり過ごせるとも思わなかった僕は、精一杯の抵抗として彼女の問いに黙秘を貫いた。


 こちらを見据える彼女の視線から逃れようとそっぽを向く僕に「やっぱり」と小さく呟いたヒナは、溜め息をついてから叱るように言った。


「……横になって」


 唐突にそう言った彼女に「え」と僕は戸惑う。


「早く横になって」


「いや、僕は」


「いいから、とりあえず横になるの」


「……はい」


 有無を言わさぬ口調で一歩も引かないヒナに気圧された僕は、大人しくベッドへと入り首元まで布団を引き上げた。従順に従う僕を見届けると、彼女は「座るね」と断りを入れてからベッドに腰掛けた。マットレスはほんの少しも沈むことはなかった。彼女は、言われるがまま布団に入り困惑している僕に目を向け、何かを口走るわけでもなく考え込むような表情で見下ろしていた。


 それから一分ほど経った頃、僕は口を開いた。沈黙に耐えられなかったわけでも、気を利かせたわけでもない。毎朝の待ち合わせを無断で放棄したことを謝らなければいけないと思った。


「あの、ヒナ。その……ごめん」


「……なんで柊汰が謝るの?」


 どこか焦点のズレていた視線が今度はしっかりと僕を捉える。


「今日、何も言わずに、君を待たせたから」


 途切れがち僕の謝罪を聞くと、彼女は呆れを含んだような顔で微笑んでから柔らかく言った。


「あのね。……そんなこと、謝らなくていいんだよ」


 そう言ってしまえる彼女の優しさを無駄にしたことが余計に心苦しかった。そんな僕を見兼ねたように、ヒナは目を細めて苦笑した。一呼吸置いてから自分の胸の内を確かめるように目を閉じた後、彼女は丁寧に感情を掬っていくように話し始めた。


「私もね、本当は謝るべきだと思うんだよ、柊汰に風邪引かせちゃったこと。体調悪くしちゃったの、昨日の雨が原因だよね?」


「……たぶん」


 渋々ながら正直に答える。だと思った、と彼女が呟いた。


「……なんていうか、私が原因で雨に濡れたことはわかってるし、申し訳ない気持ちももちろんあるんだけど」


 適切な言葉を探すように少し間が空く。僕はそっと相槌を打った。


「でも、柊汰にごめんって言うのはなんか違う気がして」


 そう口にするヒナの表情は目一杯申し訳なさそうで、けれどもどこか微笑のようでもあった。「ちゃんと伝わるかわかんないんだけど」と前置きしてから彼女は穏やかに続ける。


「私が『そんなことさせてごめん』って謝ったら、昨日柊汰がしてくれた行動が間違いみたいになっちゃうでしょ。それが嫌だったの」


 そう口にするヒナは、謝らないという選択に対して少しだけ迷っているようだった。


「傘を差さずに隣で歩いてくれたこと、本当に嬉しかったから」


 自分の胸に手を当てながら、心臓が脈打つのを感じているかのような表情で彼女が言う。昨日の雨上がりの神社での会話を思い返しているのかもしれない。その瞬間が彼女の中の正義や道徳を覆すほど強く彼女の心に残っていることに僕は驚いていた。同時に、開いてしまいそうになる口をなんとか閉じることに必死だった。そうでもしないと、経験したことのないような感情が風船のように膨らんでいって、碌に理性を通さず丸裸の心を喋ってしまいそうだった。


 僕が傘を捨てて濡れたのは自分がそうしたかったからだ。ヒナのためだとか、万が一にも恩着せがましくならないように何度もそう言い聞かせていた。それでも、彼女が嬉しかったと言ってくれたことで僕は心底心が揺れていた。心から震えるような喜びと、木漏れ日の中で目を閉じたときのような凪いだ喜びがぐるぐると中和されているような感覚があった。僕にも何かができたという自己肯定や自分の行動が徒労ではなかったという安心などではない。もっと純粋な視点で、僕という主観の存在を除外したときに初めて見えるような、彼女がただ幸福であることに対する安堵だ。午前の日射しと同じ色をした穢れのない祈りのような、そんな感情が僕の中にあった。


「……よかった」


 思わずそう口にしてしまう僕に、ヒナは悪戯っぽく微笑みを返した。


「それとも、柊汰は私に謝ってほしかった?」


「……いや、あれは僕がやりたくてやったことだから。ヒナが謝る理由なんて何もないよ」


「じゃあ、私もそうだよ。柊汰を待ちたかったから待ったの」


 気恥ずかしさから真面目に徹しきれていないかのような、そんな調子でヒナが言う。


 少し潤んだような瞳に見つめられて僕は言葉に迷ってしまう。その柔らかい視線が僕へと向けられていることが恐れ多くて、それと同じくらい「待ちたかった」なんて言われることが照れくさくもあった。


「ね。だから、謝る必要なんてないんだよ」


 なんてことのない当たり前の真理に気づかせるようにヒナは言った。その和やかな声音に、凝り固まった罪悪感が解かれるように溶けていった。


「……確かに、そうかもしれない」と僕が呟くとヒナは「でしょ」と普段どおりの雰囲気で言った。それにうん、と短く返してから、体を起こして彼女に向き合う。


「じゃあ……待っててくれてありがとう。本当はヒナが窓の外にいたとき、すごく安心したんだ」


 平常な僕なら絶対に言わないような、そんな言葉が心のままに口を衝いて出た。ヒナはほんの少し目を見張った後「どういたしまして」と半分茶化しながら返した。それが彼女なりの照れ隠しなのだということは僕にも一目瞭然だった。


◇◇◇◇◇


 それからしばらくの間、労りと戒めが混ざった説教を受けた。凛とした表情で僕を諭していたかと思うと、こそばゆそうに感謝を伝える彼女の忙しない態度に、注意されているはずの僕までくすぐったかった。僕も彼女に対して曖昧に頷いてばかりで、昼下がりの部屋にはなんともむず痒い空間が広がっていた。


 風邪を引いている状態で普段より少し話し込んだからか、やがて僕の喉が悲鳴を上げた。喉が裂けるかのような痛みとともに、僕の喉から到底咳嗽とは思えない異音が飛び出る。その一際大きな咳が、ポツポツと緩やかに続いていた僕たちの会話を打ち消すように響いた。


「大丈夫?」


 ヒナはそれまでの姿勢を崩して、ベッドに横たわる僕を覗き込んだ。


「うん。ちょっと喉が痛い」


 大仰に症状を訴えるでもなく取り繕って平静を装うでもなく僕がそう言うと、ヒナは「そっか」と短く息を吐いた。


「じゃあ、風邪引いてるのに長居するのもよくないから、今日はこれでお暇するね」


 僕にそう告げてヒナは立ち上がった。未だに窓の外に降り続けている雨へと目を向ける彼女の横顔には、やっぱりまだ雨への忌避感のような躊躇いの色が見えていたから、そんな彼女の背を押せたらと思った。


「改めて、今日は待っててくれてありがとう。……雨、止むといいね」


 その僕の言葉を聞いた途端、ヒナは弾かれたようにこちらを振り向いた。その瞳には微かに驚きが滲んでいるように見えた。その視線の意図がわからず首を傾げる僕に、彼女は目の前の状況を整理するような沈黙の後、何かに思い至ったかのように口を開いた。


「……柊太、もしかして寂しいの?」


 それを聞いた僕はたぶん、素っ頓狂な顔をしていたと思う。この場を去ろうとするヒナの胸中に、後ろ髪を引かれる気持ちが残らないよう励ますつもりで声をかけたのに、まさか真逆の印象を与えるとは思っていなかった。


「……なんでそう思ったの?」


 そう不思議がる僕よりも僕の心を理解しているように彼女は言った。


「今の柊汰、すごく寂しそうな顔してるよ」


「そう、だったんだ。気づかなかったな」


 確かに、独りで咳をしているときは昔に戻ったように心細かったし、硝子越しにヒナと目が合ったときは安堵が募った。出ていこうとする姿に一抹の寂寞を感じたのも事実だ。けれど、それらの胸懐はおくびにも出さないようにしていた。少なくとも、自分の中だけに押し込めているつもりだった。僕は振舞いの端々から悟られてしまうほど無自覚のうちに寂しさを感じていたのだろうか。


 僕がそう自問している間に、部屋を出ていこうとしていたヒナはいつの間にか再びベッドに腰を下ろしていた。口に出さない僕の願望に沿ってまだここにいてくれるようだった。その魅力的な展開に抗えず、僕は「気にしないでいい」という一言を言いそびれた。


 彼女は何も尋ねてくることなく座っていた。僕に話しかけるでもなく、過剰に僕を意識から排除するでもなく、ただそこにいてくれた。


「なんでそんなに寂しいのか、とか訊かないの?」


 僕のために時間を使わせてしまうのだから、僕には理由を説明する義務があると思ったのだ。それなのにヒナが一向に何も尋ねてこないから、つまらない昔の話しかできないのに思わずそんなことを口走ってしまう。そんな僕に、彼女は小さく笑みを零した。


「別に、柊汰がどうして私にいてほしいのか、今は説明してくれなくてもいいよ。楽しい話ではないだろうし、いつか話したくなったら話して。……今は理由とか、そんなの関係ないよ」


 優しく言葉が紡がれる。


「柊汰が寂しいなら、私はここにいるから」


 それは陽だまりのような、純粋な優しさだった。言葉で語れば語るほど純度を落としていくような、純粋な優しさだった。


「……ありがとう」


 その言葉にどれだけ僕が救われたか、きっとヒナにはわからないだろう。彼女にとってありふれたことをちょっと喋っただけでこんなにも心が晴れるんだから、僕はずっとヒナには敵わないんだと思う。彼女の眩しさに抱く憧れの分だけ胸が温かくなるようだった。


 僕の呟きに、彼女は慈愛に満ちた表情を切り替えるようにして年相応に笑ってみせた。


「さっきも思ったけど、今日の柊汰、素直だね」


「風邪で弱ってるからね」


「こうして素直な柊汰と話すのも案外悪くないかもね」


「じゃあ僕はまた雨にでも降られてこようかな」


「嘘に決まってるでしょ、早く体調治して」


 そう言って僕たちは小さく笑い合った。お互い口に出す言葉は軽口といっても差し支えがないほどいい加減で、普段の神社での会話のようにそれ自体にあまり意味はない。ただ、そのやりとりを通して、言葉よりもっと遠い場所で抽象的な感覚そのものを共有しているようだった。


 完全に寂しさを感じなくなったわけではない。今でもまだ、幼い頃から感じ続けていた孤独の残滓がこの部屋にはこびりついている。それでも、決定的にあの頃とは違っていた。


 午後一時、薄曇りの空の光が漏れる部屋で眠る僕の傍らに、息衝く気配が一つ。静かな部屋の中で、薄い呼吸の音や身じろぎの音が僕の耳に届く。隣にヒナがいる生活には十分慣れたつもりでいたが、普段の何倍も強く近くに彼女の存在を感じていた。物心がつくよりずっと前、安心しきって夢を見ていたときのような、そんな心地よさとともに目蓋を閉じた。


 静かな部屋に、僕は独りじゃなかった。

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