第6話

 六月に入り、最初の休日が明けた月曜日。その日は午後から天候が崩れ始め、ずっと柔らかな雨が降っていた。先日までの微睡むような春の陽気はすっかりと鳴りを潜め、蒸し暑く重い空気が窓の外に広がっていた。その空気が伝播したかのように、今日は教室の雰囲気もどこか落ち着いものだった。いつの間にか世間は梅雨入りしていた。


 僕は雨が好きだった。それも、叩きつけるような勢いの雨ではなく、どこか諦めを促すように降る静かな雨を好んでいた。街が鈍色になって歩く人もみんな傘を差していると、人同士の心の距離がより明確に分かたれたような気がして、僕のような暗い人間もそうあることが正当化された気分になる。その点でいえば、今日の天候は僕の好みにかなり合致していた。今日の僕は、どんな人も少し憂鬱になるという後ろ向きな理由で前向きだった。


 僕が職員室への用事から教室へと戻ってきた頃には既に大半の生徒が教室を後にしていて、最後まで残っていた男子生徒とすれ違うようにして教室に入った。


「おまたせ。用事も終わったから、そろそろ僕たちも帰ろう」


「……うん、そうだね」


 どんよりとした灰色の空に目を向けていたヒナは、随分と気の抜けた声でそう生返事をした。怪訝に思って彼女の顔を見上げると、珍しく活力のある僕とは正反対に、その表情には色濃い憂慮が浮かんでいた。普段からよく笑っている分、浮かない表情をしている彼女はまるで知らない人のように印象が違って見えた。そのギャップになぜか心が落ち着かなくて、「何かあった?」と口に出しかけて寸前で躊躇する。


 浅葱鼠色の空模様が彼女にどんな感傷を与えているのかはわからないが、尋ねたところで彼女は「なんでもない」と寂しげに笑うだけで、きっと素直に教えてはくれないだろう。僕とヒナには、本心に近い言葉を交わすだけの信頼がない。知り合って一月が経ってもなお、僕たちの間にはお互いに触れてはいけない領域のような空間があった。


 僕は従来の閉鎖的な性格故に、ヒナはその自己犠牲的な他者優先の気質故に、僕たちは完全に相手を信用したり許容することができなかった。僕たちは、神社で夕陽を眺めながら他愛ない会話は飽和するほどしているのに、お互いの本質に踏み入った話は一切してこなかった。心の上澄みばかりをどこまで許されるか確かめるように触れて、安全な線を引いたその後ろから話をしていた。少なくとも、彼女はそういった姿勢で僕と関わろうとしているのだと感じていた。


 だから僕も、彼女が憂いや懊悩を抱えていることを察していても問い質すなんて真似はしなかった。僕にできたのは彼女の悩みを受け止める心の準備くらいだ。けれども、そんな受動的な態度ではいつまで経っても何も変わらないだろうということも僕は悟っていた。


 ヒナは僕に対して、偏執的といっていいほど頑なに気苦労を背負わせまいとしていた。僕としては独りで抱え込みながら隣でずっと沈んだ顔をされるよりも、彼女が感じる不安を話してくれたほうが気楽だったのだけど、それでも彼女は僕が窺うような視線を送る都度、笑顔に哀の色を滲ませるだけだった。


 なんとなくだが、当人にとって不都合なくらい優しすぎるヒナの心根は、生まれ持ったものではなく本人が意識的に選び取った末に獲得したものだと感じていた。そうするしかなかった、そう矯正しなければいけなかった者特有の淡い諦観のようなものがふとした瞬間の何気ない仕草に覗くのだ。彼女の場合は、何かを誤魔化そうとして寂しげに笑みを作るとき、それが顕著に表れているような気がした。自分の現状が望んで得たものではないという点では僕も同じだったから、その心境は漠然と理解していた。


 僕はもう自分の人生がまともな方向へ軌道修正することを諦めている。それでも、幸せな人達の笑顔に打ちのめされたときや、目が冴えて眠れない夜に思考の縁を掠めるんだ。なんで僕の人生はこうなんだろう、と。霊感さえなければ僕も普通の人みたいに笑えていただろうか。そんな可能性が何度も脳裏をよぎって、ありもしない運命なんてものを呪いたくなってしまう。


 けれど、僕がそんな人間だからこそ、おそらく僕と同じように不本意な成長を強いられたヒナが素直で優しい人間であることに、僕は強い憧れと尊敬の念を抱くのだ。僕が成長とともに擦り減らして失ってしまったものを持っているから、だから彼女が眩しいんだ。僕にはこの世界で彼女のようにまっすぐに生きることはできないから。


 僕が机の中身を鞄に詰め込み終わった後も、ヒナは窓を伝う水滴をぼんやりと目で追っているようだった。その横顔にどう声をかけていいのか僕にはわからなかった。


「ほら、行こう」


 結局今のヒナに見合った言葉など見つからないまま、心ここにあらずといった彼女をそう促して、僕たちはまだ生徒が散見される校内を黙ったまま歩いた。僕が昇降口で靴を履き替えているうちに、彼女は先に正面玄関を出ていた。置きっぱなしだった傘を持って彼女に追従する。正面玄関には、誰かを待っているのか雨足が弱まるのを待っているのか、雨宿りをしている女子生徒が一人いるだけだった。物憂げに佇むヒナの視線は、雨粒ではなくその女子生徒に注がれているようだった。


 僕たちが普段通っている図書館は月曜日が休館日だ。図書館で得た情報の整理という口実は既に形骸化しているが、お互いそれには触れないまま毎週月曜日は早めに神社へと足を運んでいた。今日もその流れに沿って神社へ向かうのだと思っていた。いつもどおりの石段には座れないけれど、雨を凌げるベンチが併設されているからそこでいつものように話をするものだと思っていた。けれど、今日の彼女は一向に動こうとしなかった。足が地面に縫い留められたようにただ呆然と立ち尽くしていた。


 昇降口からもう一人女子生徒が出てきて、ヒナが眺めていた生徒に声を掛けた。二人はほんの二言程度交わした後、遅れてきた女子生徒が持っていた傘に二人で入って、姦しく話しながら学校を後にした。その光景を目で追っていたヒナは、焦がれるようにとても痛そうな面持ちをしていた。地面を叩く雨音がやけに大きく聞こえる。


「ヒナ?」


 僕がそう声を掛けると、彼女は肚に溜まった緊張を吐き出すように長く弱く息を吐いた後、やっぱり無理して顔を笑みの形に歪めてから長らく閉ざしていた口を開いた。


「ごめんね。……ちょっと、怖くて」


「……雨が?」


 無神経な言葉を口にしないよう慎重に尋ねると彼女が「うん」と短く肯定する。彼女の憂鬱が崩れた天気に起因していたことに納得した僕は、開きかけていた傘を再び閉じた。もうしばらく歩き出すことはなさそうだった。


「……僕に会う前から雨の日はあったんじゃないの? そのときも今日みたいに……その、元気なかったの?」


 言葉を選ぶ僕に、ヒナはより一層自信を失くしたように俯いていく。


「そういうわけじゃ、ないんだけどね」


「じゃあ、なんで今日は……」


 僕が零した疑問に、彼女は口を噤んだままでいた。物体をすり抜けて髪が風にも靡かないヒナに雨がどう作用するのかはわからない。彼女はそのせいで自分が幽霊だと強く実感してしまうことを嫌がっているのだろうが、少なくとも半年以上は幽霊として彷徨っていた彼女が雨を経験していないはずがないのだ。僕には、わかりやすく暗い顔をしている彼女の胸中を見透かせなかった。


 灰色の雲が立ち込める空を見る。街中の音を殺すように静かな雨が降っていた。見ているだけで空気が重苦しい。例年より高い気温も相まって、濃密な雨の匂いがした。僕はこの匂いが好きなはずだ。人がみんな気落ちするという褒められたことではない理由で雨が好きなはずだ。それなのに、今日はなぜだか降る雨全部が不快だった。普段なら意地の悪い愉悦に浸っているはずなのに、喜んでいいのか迷ってしまうような違和感が胸に張りついていた。


 どこか心が落ち着かないまま、僕はしとしとと地面を濡らしていく雨を見ていた。そんな僕の耳に、意を決したかのような息遣いが届いた。


「柊汰、待たせてごめんね」


 そう告げるヒナの表情に先程までの雰囲気はなかった。痛さに耐えるよう決意を固めたかのように彼女は笑っていて、そこに他人が心配するような不安定さは微塵も見えなくて、僕はそれがどうにも嫌だった。悩みを打ち明けることくらい、僕の重荷になったりしない。彼女のような人間は、もっと人に頼って頼られるべきなのに、なんでそれがわからないんだ。そう口に出したい衝動を堪えて、焦れったさを隠しながら言葉を返した。


「いや、大丈夫だけど。もういいの?」


 僕が訊くと、うん、と小さく彼女は言った。


「私、雨に濡れないから。傘を差す必要がなくなったことと……もう傘すら差せないことが、ちょっと悲しくなっちゃっただけだから」


 痛々しい笑い方をする彼女を僕は見たくなかった。素っ気なく目を逸らした僕に、彼女は観念したような表情で「それに」とつけ足した。


「雨に降られてるところ……あんまり見られたくなかったから」


 ぽつりと呟かれた彼女の言葉は、ただ弱々しかった。今にも崩れてしまいそうな虚勢を張って微笑む彼女の健気さが、痛いくらい心を揺さぶった。彼女が素直に弱さを見せてしまったことにも、あまりに心細そうなその面持ちにも、僕は心底驚いていた。同時に、心のずっと奥のほうで自分でもよくわからない感情が渦巻いていた。雨に濡れないなんて、そんなこと些細な事なんだと言いたかった。僕はその瞬間、自分の人生の虚しさも全部忘れてヒナの笑顔を願っていた。そんな悩みは杞憂なんだと彼女に安心してほしくて、年相応の繊細な弱さと、それを覆い隠すほどの優しさの上に成り立っているあの笑顔が見たかった。


 ヒナの笑顔が見たい。そう思っていることを素直に認めたのがきっかけだった。

 気づけば僕は、傘も鞄もその場に放って走り出していた。


「え、え? ねえ、柊汰?」


 背後で困惑するヒナの静止も聞かず、僕は雨の中に飛び出した。途端に降り頻る雨が物凄い勢いで制服を湿らせていく。何年ぶりかもわからない全力疾走だ。大きな水溜まりを踏み抜いて靴がぐっしょりと濡れた。けれど、そんなものは全部無視して、叫び出したい衝動を晴らすように雨の中を走った。


 今すぐ世界中にヒナのことを喧伝したい気分だった。こんなにも健気で寂しい普通の女の子がここにいるんだ。僕にはそれが嬉しかった。彼女のいじらしさを世界の誰も認識できないなら、僕が盛大に喝采を送ってやればいいと思った。薄情な世界への馬鹿馬鹿しい反抗をしてみたくなった。


 後ろから追いかけてくるヒナの声も無視して、息が切れることも気に留めず走った。運動不足が祟ってすぐに肺が悲鳴を上げる。けれど、そのもっと奥から横溢する感情に任せて夢中で走り続けた。顔面を打つ水滴も、どうでもいい。張りつくシャツも、どうでもいい。すれ違う誰かの視線も、全部どうだっていいんだ。ヒナが心置きなく笑えるならそれだけでいいんだ。


 結局、僕が足を止めたのはいつもの神社への石段を登りきった後だった。薄く水が溜まっている地面に躊躇いもなく腰を下ろした。既に全身びしょ濡れなので今更な話だ。清々しさすら感じつつあった。髪から次々と滴り落ちる水滴を大きく拭って息を整える。鈍色の曇天一色だった空が、少し白みを帯び始めている。空の向こうに薄ら日が射していた。


 僕がちぎれんばかりに走り続けたとて、世界はこれっぽっちも変わらなかった。せいぜい雨足が少し弱まったくらいで、あまりの自分のちっぽけさに乾いた笑いが出そうになった。虚しい爽快感とでもいうのか、まだ手に入れてすらいないこれから得るはずだった何かを一斉に失ったような感覚が少し心地よかった。


 石段の下から少し遅れてヒナが登ってくる。彼女は心境の読み取れない複雑な表情のまま長い階段を登りきると、少し迷ったような間の後に僕の隣へと膝を抱きかかえるようにして座った。


「……何やってるの?」


 二人揃って雨に包まれる街並みへ目を向けたまま言葉を交わす。


「自分でも……何がしたかったのか、何が言いたいのかよくわかってないんだ」


 こんなにも衝動的に何かをしたのは初めてだった。人生のどこかで既に一度心が死んでいるような感覚があって、無気力が体中に浸透している他人事のような日々を生きていたから、感情に任せた自分の行動に我ながら驚いているくらいだ。伝えたい言葉なんてまとまっているわけがなかった。ただそれでも、ヒナが抱える暗い不安を僕が少しでも払えるのならそうしたいと思った。少しだけでもいいからそれを伝えたくて、必死に感情の欠片を形にしようとしていた。


 隣に座るヒナを見る。彼女に降りかかる雨は、果たして彼女の髪を濡らすこともなく体を透過して地面をひたすらに濡らしていった。まるで不透明度が百パーセントの精緻なホログラムかのように、彼女は歪にこの世界に存在していた。僕の視線を感じ取った彼女が僅かに自らの身を抱き竦める。隔絶するような、固く守るようなその仕草に、僕は言葉を探すことをやめた。


 僕は別に、自分の言動はヒナのためだと言えるほど綺麗な人間じゃない。僕は僕が思ったことを一方的に伝えようとしているだけだ。僕のエゴを満たすためにこうしているんだから、彼女を気遣って言葉なんて選んでみたって、それが混じり気のない本音じゃないなら意味なんてないんだ。適切な語彙を選ぶその濾過の過程すら不純物だ。心だけでいい。ただ胸に浮かぶ言葉をそのまま口に出せばそれでいいんだと、そう感じた。


「確かに、雨が体を通り抜けてるのは変かもしれない」


 僕の言葉に、ヒナは覚悟していた痛みを我慢するように唇を引き結ぶだけだった。反論の意思や非難の素振りを見せるでもなく、僕が次の言葉を口に出そうと息を吸う気配にも目を瞑るだけだった。怒ったっていいのに、彼女は受け入れてしまうことに慣れているようだった。


 そんなどこまでも優しい彼女だから、笑っていてほしいと思ったんだ。


「確かに変だけど……でも、僕だって変だ。この雨の中傘を捨てて全力疾走してるんだから、もしかしたらヒナより変かもしれない」


 そんなことを言う僕に、ヒナは予想を裏切られたように口をぽかんと開けて少し目を見開く。自分の口からこんなに柔らかい声音が出たことに少し驚きながら続ける。


「雨が降ってるからって、必ずしも傘を差さなきゃいけないなんてことはないんだ」


 呆気に取られた彼女の顔が微笑ましくて、そんなことにさえ驚いてしまうヒナがやけに尊かった。


「僕には、君が傘を差せるようにすることも、雨が降らないようにすることもできない。……でも」


 僕には、自分が他人に何かの施しを与えられる人間だと思い上がることはできない。僕はそんな高潔な人間じゃないし、人徳に溢れた人間でもない。僕自身が何も持っていない人間なのだから、誰かに何かをあげることができないのは当然の話だ。けれど、そうだとしても。


「雨の中を、ヒナと一緒に歩くことくらいはできるんだ」


 ヒナの孤独を僕は変えられない。けれど、同じ立場に立って「寂しいね」と笑い合うことはできる。ヒナの苦悩を僕は解決できない。でも、一緒に頭を悩ませることはできる。それくらいはできるんだ。救いの手は差し伸べられないけれど、同じ位置に立って、同じ景色を共有することなら僕にもできるはずなんだ。


 自分でも歪んでいると思う。でも、僕たちの関係もどこか歪ではあったから。自信を失くしながらも、せめて彼女の気分が少しでも晴れたらいいなと思った。


「だから、なんていうか……こんな雨に、君が寂しさを感じる理由なんてどこにもないんだよ」


 ヒナは戸惑うように僕を見ていた。雨に濡れるはずがないのに潤んでいるように見える瞳だけが、信じられないものを目にしたかのように揺れていた。こんな僕の言葉なんかで大層驚愕する彼女につい笑ってしまった。こんなことでいいなら何回だって言えるのに。


 何か言いたそうな目で僕を見て、徐に俯いた後もう一度顔を上げてから、ようやく彼女はどこか拗ねたかのような表情で口を開いた。


「……それを言うためだけに、こんなに濡れたの?」


「そういうことになる」


「風邪とか引いたらどうするの?」


「考えてなかった」


「……なんで、私なんかのために。何やってるの、ほんとに」


「……自分でも馬鹿だと思ってるよ」


「……ねえ、柊汰。一つだけ言ってもいい?」


「何?」


「……ありがと」


 そう言ってヒナは屈託なく笑った。彼女と出会ってから散々笑顔は見ているくせに、初めてその笑顔を見たような感覚が僕を襲った。心臓の奥のほうがやけに熱い。思わず頬が緩みそうになって彼女から顔を背けた。


「あれ? そういえば雨が……」


 そう言ってヒナが空を見上げる。いつの間にか街を覆っていた雨は止んでいた。冷たい灰色だった雨模様の空に、温かい色が戻っていた。雲の切れ目から夕方になろうとしている日が射して、段々と澄んだ空が姿を現していく。僕らが揃って天を仰いで呆けているうちに、あっという間に雨雲はどこかへ行ってしまった。雨上がりの空が頭上に広がる。


 こんなに都合よく晴れるなんて、偶然にしては少しできすぎかもしれない。好きだったはずの雨空がどこかへ行ったというのに、僕は胸がすくような気持ちだった。ヒナを取り巻く状況は何も進展していない。雨にも濡れないままだし、彼女が孤独を感じることに変わりはない。それなのに、胸のつかえが取れたようだった。


 雨が止んだことに気づいたきり、彼女はいつものように視界に広がる景色を目に収めていた。その透徹したような目に惹かれて、当てもなく空へ目を向けた。諦念の色をした雨空が好きなのは変わらない。それでも、雨上がりの空は少し心地よかった。


「柊汰ってさ」


 ぽつりとヒナが言った。


「かなり変な人だよね」


「……何、いきなり」


 まじまじと僕を見る彼女の口から唐突に不躾な言葉が飛んできて、僕は思いがけず粘度の高そうな視線を返してしまう。


「初めて会った日は優しくて真面目な人なのかなって思ったんだけど、実際は誰にでも優しいってわけじゃなかったし、それどころかすごく捻くれた人だったから」


「ヒナみたいな人からしたらみんなどこかしら歪んでるようなものだよ」


 言い訳がましくそう言い募ると、彼女は幼子を相手にするかのように余裕たっぷりに笑った。「あはは、別に悪い意味で言ってないよ」と区切ってから、彼女は目を閉じて言葉を探すように考え込む。


「なんていうか、他の人が気にも留めずに通り過ぎちゃうものを大事にしてるって感じ。言葉っていうか、心っていうか、変なところで誠実なんだよ、柊汰は」


「……そりゃ、僕みたいな人生を送ったら変にもなるさ」


 茶化しながらそう自嘲する僕の耳に「でもね」と彼女の声が響く。内緒話をするかのように優しく小さなその声音がやけに耳に残った。


「私、柊汰の言葉に誠実なとこ、結構好きだよ」


 少し揶揄うようにヒナは笑った。僕の内心の動揺に気づくこともなく、なんの作為もなさそうな無害な顔で笑っていた。僕はその表情を、心の底から綺麗だと思った。喉の奥から生まれた安心が小さな笑い声となって僕の口から飛び出た。


 噎せ返りそうな雨の匂いがどこか爽やかだった。

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