第5話
五月三十一日、火曜日。今日も今日とて図書館を利用する人の客足は疎らだった。といっても、平日の午後なんてそんなものなのかもしれない。休日に図書館へ足を運ぶほど勤勉ではない僕には普段の賑わいがわからなかったが、なんとなくそこまで混雑してはいないのだろうと思っていた。
街中にあるこの図書館は、若者受けのいいカフェが併設されているわけでもなく、どこぞの名高い建築家が建てた目を引く外観をしているわけでもなかった。落ち着いた外観に、灰色を基調としたどこか事務的でシンプルな内装、ずらりと並ぶ書架と、ただ忠実に図書館としての役割を全うしていた。
そんな、図書に真っ当な興味を向ける人種しか訪れないこの場所は、僕にとって思いのほか心地いい場所だった。ここには傍迷惑な声量で騒ぐ学生もいないし、大量の記事を一人で漁っている僕に向けられる奇異の視線もない。それに何より僕はこの図書館の、愚直とさえ形容できるほど真面目に図書館をやっているところが気に入っていた。成功者ではないものの味方をすることで自分を肯定したかったのかもしれない。僕はそういった類の、報われない誠実さのようなものに弱かった。
放課後にいつも通っているせいか僕の顔を覚えたらしき司書の女性に会釈を返して、貸し出しカウンターを抜けてからパソコンのあるスペースへ向かう。見えていないことはわかっているであろうにもかかわらず、隣を歩くヒナも僕に倣って律儀に頭を下げていた。
定位置となりつつある一番右端のパソコンに陣取り、昨日読んでいる途中だった記事を通学鞄から取り出した。ヒナに関連していそうなキーワードを検索ボックスに打ち込み、ヒットしたものを片っ端からコピーしたためなかなか膨大な量になっている。その大量の紙束をヒナと二人で検めていき、めぼしい情報があれば再度パソコンで詳細について検索をするというのが、僕たちが連日行っている作業だ。自分の担当している紙の山を着々と崩しながら、時折彼女が目を通し終えた記事を回収して新しい記事を彼女の前で開く。今のところ有益な情報は見つかっていないが、僕たちに取れる方法はこういった地道なものしかなかった。
しばらくの間、そうして黙々とコピーした記事を調べていると、同じく隣でモノクロの紙面と眉をひそめて睨み合っていたヒナが、集中を切らしたかのように一際大きな溜め息をついた。そろそろか、と内心で相槌を打った僕は、記事を捲っていた手を止めてわかりやすく伸びをしてみせた。
「僕は疲れたから一旦休憩するよ」
「え? あ、うん。……じゃあ、私も少し休もうかな」
どこか沈んだ様子で険しかったヒナの表情がほっと安心したように緩むことを見届けてから、「ちょっと飲み物買ってくる」と言い置いて席を立った。
本当は喉が渇いたわけでも作業の継続が困難なほど疲労が蓄積したわけでもない。ただ、こうして僕も休んでいる姿勢を見せないと、ヒナが一向に作業の手を止めようとしないのだ。図書館へ来た初日、「幽霊である自分は疲れたりしない」と彼女は気丈に振舞っていたが、今の様子を見るにやはり肉体の疲労と精神的な苦痛は切り離して考えるべきだろう。長時間同じことを繰り返していたら誰であろうと気は滅入る。いくら幽霊とはいえ心まで死んでいるわけではないのだから。何より、あんなに曇った表情をしている彼女にずっと作業を続けさせるのも酷な話だ。
僕たちが調べているのはヒナの死亡理由だ。彼女は女子高生であり、僕たちの見解では事件や事故に遭って亡くなったという予想が立っている。ということは、検索をかけてヒットした記事もそれに類似したものが多くなってくる。僕が目を通した記事の中には、僕とさして年の変わらない女の子が悪意に塗れた凄惨な事件や不遇な事故に巻き込まれたという見出しのものがいくつもあった。博愛心も薄く人並みの共感力もない僕でさえしばらくすれば胸糞が悪くなってくるのだから、性善説を信じようとしている彼女のような人種には些か堪えるだろう。
僕は、落ち込んだ顔をしているヒナをあまり見たくなかった。明るい人間にはいつも明るく朗らかに笑っていてほしかった。彼女を通して、この世界のどこかには優しい人間がずっと笑っていられるような側面があるのだと信じたかったのかもしれない。僕のような灰色の世界の住人には見えないどこか遠くに、そんな場所があってほしかった。そんな独り善がりで押しつけがましい期待を裏切らないために、僕は今日も自動販売機の前で彼女が気分転換できるだけの時間を潰していた。
「あ、おかえり」
数分して戻ると、すっかり普段どおりのヒナが人懐っこい笑顔を見せる。
「うん。……戻ってきた」
おかえりという言葉には不適当な返事をして僕も席に座り、机の上に散乱していた記事を簡単に整理してから鞄の中へ放り込んだ。休憩を挟んだ後は不愉快な記事を見ない、というのがいつの間にか僕たちの間にできた不文律だった。わざわざ息抜きをしたのにまた気分を落とす必要もないという理由で、飲み物を買って戻ってきた僕が有無を言わさず書類を片づけているうちにそれが習慣化していた。僕が無言で紙束をまとめ始めても彼女は疑問を零したりはしなかったので、どうやら彼女も胸中で安堵しているようだった。
先程の作業によほど集中していたのか、気づけば図書館の閉館まで三十分ほどしか残っていなかった。放課後から十八時までという時間の短さを少し歯がゆく思う。世間の醜聞や無惨さを寄せ集めた紙切れを鞄へと詰め込んだ僕は、ヒナも覗きやすいように体を少し左へと寄せてパソコンへと向き直り、全国の高校の制服一覧を調べるべく適当な語句を検索ボックスへと叩き込んだ。彼女の生前の情報へのアプローチを変えて、死亡理由ではなく着用しているセーラー服から所属していた学校を突き止めようというわけだ。といっても、こちらはあまりに手応えを感じられないため、新聞記事のときとは打って変わって半ば惰性のように二人でパソコンと向き合っている。気の毒な事件や事故の情報を閉館時間まで見ずに済ませるための大義名分のようですらあった。
しかし、集中が削がれるのも仕方がないというものだ。何せ、日本を地方で分けて上から調べているのだが、三週間ほどこの図書館に通っているのにもかかわらずまだ北海道すら終わっていないのだ。少なくとも僕に限ってはそんな状態で身が入るはずもなかった。
ヒナは僕よりもよっぽど真面目に画面を注視していて、そんな彼女に見つからないようにあくびを嚙み殺していたそのとき、不意にぞわりと体の内側を這うような感覚が僕を襲った。
「ねえ、この制服、私が着てるものとかなり似てない?」
僕の肩越しに画面を除くヒナが、耳元で囁くようにそう言った。彼女の声は僕の耳朶を撫でるように柔らかく刺激し、電流を流されたかのような感覚に慣れていない僕は大きく姿勢を崩す。そんな僕の奇行に「わ」と間の抜けた声で彼女が驚く。僕たちの間には、互いが互いに驚く謎の沈黙が生まれた。
一人で突然大きな音を立てた僕に、ちらほらといた他の利用客からの訝しげな視線が刺さる。その気配を背中に感じながら僕は体勢を立て直した。
「びっ……くりした」
ヒナが耳元で喋っただけ、という事実を理解した僕は思わずそう呟いて抗議の視線を彼女へと送る。
そんな僕の意図にも気づかないまま、一切の毒気がない様子でヒナは首を傾げている。人の心臓に悪いことをしている自覚がないのか、純朴なその表情になぜか僕のほうが一人ではしゃいでいるような強烈な場違い感が募った。
「いや、なんでもない。えっと、制服だっけ。……うん、確かに似てるけど、ヒナが着てるのとは別の制服じゃないかな。ほら、ここ。襟にある線の数が違う」
いまいち釈然としない気持ちのまま、ヒナが指を差していた制服と彼女を見比べながら平静を装う。
「あ、ほんとだ。一緒だと思ったんだけどな」
僕の指摘を受けて自分でも制服の襟を確認してから、残念そうにそう呟いてヒナは再び画面に目を向けた。僕は未だに納得していないのに、彼女の中では何も起きていないかのように平然とモニターを眺めるその横顔に、一言くらい注意したいという不満が膨らんでいく。
「……ていうか、わざわざ耳元で喋る必要なかったんじゃないかな」
たまらずそう零した僕に「ん?」と疑問符を零した彼女は、ややあって書架に貼られたポスターを指さした後、その指を口に当てて「しー」と悪戯っぽく笑った。
「図書館ではお静かに、だからね」
そう言われてしまうと正論なので僕は何も言い返せなかった。
「……いや、まあ、確かにそうなんだけどさ」
微笑む彼女に「でも君の声は周りに聞こえないじゃん」と言おうとして直前でやめた。僕のその発言も至って正論ではあるのだけれど、彼女の笑顔を前にすると口にする気は霧散していった。なんというか、彼女は自分が幽霊だと実感するたびに、慣れた痛みに頬を強張らせるような顔をするのだ。それなのに、僕にはそういった素振りを見せまいとして酷く頼りない笑い方で誤魔化そうとするから質が悪い。どうせ隠そうとするなら完璧に隠しきってほしいものだ。
正直に言うと僕は、自分を蔑ろにしてしまうほどの彼女のどうしようもない優しさを今では好ましく思っていた。できるだけ彼女の意思を尊重したかったし、できるだけ彼女には笑っていてほしかった。だから、ヒナを普通の女の子として扱うためなら、正論だっていくらでも呑み込むつもりだった。ただ、それでも一つだけ言わせてほしいことがある。
「……耳元で喋るのはやめてください」
恥を忍んで懇願する僕の意思が伝わっていないのか、ヒナはただ不思議そうな顔をするだけだった。
◇◇◇◇◇
「あ、ごめん。忘れ物したから取ってくるよ。ちょっと待ってて」
閉館時間より少し前に図書館を出てすぐ、僕は神社へ向かおうとしていたヒナにそう声をかけた。
「え、また? 先週も何か置き忘れてなかった?」
不思議がる彼女に「もう老化が始まってるんだ」と適当なことを言って踵を返した。既に閉館準備に入っているのか、どこか慌ただしい雰囲気の館内を早歩きで目的の書架まで行くと、休憩から戻ってくる際に探しておいた本を持って貸し出しカウンターへと向かった。
「ギリギリですみません。これ、借ります」
かなり迷惑な行いをしているはずの僕に、嫌な顔一つもせず嫋やかな笑みを浮かべる壮年の司書の女性は、僕が差し出した書籍のタイトルに目を落として言った。
「はい。……あれ、また似たような本を借りるんですね。好きなんですか、オカルト」
「まあ、はい。そんな感じです。最近、幽霊と一緒にいるので」
僕が借りたのは『幽霊の歴史について』というタイトルの胡散臭い専門書だった。因みに、前回借りた本は『幽霊学・幽霊のメカニズム編』という題名だった。僕はオカルトに興味があるわけではない。しかし、今まさに非科学的な存在とともにいるので強ち馬鹿にできないということも確かなのだ。だから僕は期待しすぎないように、何か有益な情報があれば儲けものといった心持ちで週末に流し読みしているのだった。わざわざヒナの目を盗んでこうして借りているのは、彼女が休日や夜といった僕の時間を縛るのを嫌うからだ。
僕の冗談のような真実を聞いた司書のは薄く笑っていた。受け取った本を鞄の中へと入れてからヒナの待つ出入口へと向かう。
「忘れ物あった?」
「あったあった」
「そう、じゃあよかった」
言葉少なにそう言って、僕たちはいつもの神社へ向かって歩き始める。夕暮れの中で、チャイムが十八時を告げる。くぐもった音で『夕焼け小焼け』が響いていた。
「……そういえば、夕焼け小焼けの歌詞ってどんなのか覚えてる?」とか「さあ、覚えてないなぁ」とか、そんな会話をしながら、僕たちは微妙な距離を空けて神社へ続く坂道を歩いていた。誰かとすれ違うこともなく到着し、いつものようにサイダーを買って石段の頂に腰掛ける。
ふとそこから見える景色を、柔らかくて温かいな、と思った。けれど、それも当然かもしれない。明日からはもう六月なのだ。思えば、僕が入学した頃よりも日が沈むまで随分長くなったし、歩いていると散った桜を見ることもなくなった。いつの間にか春という季節が死んでいこうとしていた。僕たちは今日も、ポツリポツリと他愛もない言葉を交わしながら夕焼けを見ていた。ヒナと出会った五月も終わろうとしていた。
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