第4話

 翌日の放課後、十八時の閉館時間を迎え図書館を後にした僕たちは、情報をまとめるための会話場所として神社へと足を運んでいた。サイダーを買って石段に腰を下ろした僕は、初めて図書館を利用して戸惑ったことや、有用な情報を得られなかったという徒労感を吐き出すように小さな溜め息をついた。


「お疲れ様。あと、ありがと」


 僕の懊悩に目敏く気づいたヒナが僕を気遣って労ってくる。その細やかな気配りは、もはや彼女の人格の根本を構成していると言っていいほど仕草の至るところで見られた。少し他者優先の意識が行きすぎているようにも感じるほどだ。


「色々任せちゃってごめんね。利用者カード作ったり、コピー取ってもらったり、思ってたよりやってもらうこと結構多かったね。大丈夫? 無理してない?」


 覗き込むようにヒナが尋ねる。


「いや、それに関しては特に問題ないよ。……これ見よがしに疲れた態度取ってたらごめん。わかってはいたんだけど、道のりが遠いことを実感したからちょっと気分が沈んでたんだ。まさかどう検索したらいいのか悩むとは思ってなかったな」


 図書館でパソコンに手をつけた僕が真っ先に検索したのは、ヒナの身元を割り出すための手がかりがありそうな情報媒体ではなく、そういった記事などの調べ方だった。必要がなかったためスマホすら使ったことがない僕はネットの海を前にかなり無力だった。


「確かにどこから手をつけていいかわかんなかったね」


 僕の無様さを思い返しているのか苦笑しながらヒナが言う。


「うん。まあそれに関しては時間をかけて地道に調べていくしかないから、嘆いても仕方ないんだけどさ」


「あはは、そうだね。……なんていうか、真剣に悩んでくれてありがとね」


 なんの外連味もなくありがとうと言えるその素直さは彼女の美徳だと、言葉を交わせば交わすほど強く思う。


「……まあ、成仏させるって言っちゃったから」


 純粋な謝意が気恥ずかしくて、茶化しながら僕はそう言う。


「もしかして後悔してる?」


 少しの間を置いてから同じく茶化した雰囲気でヒナが問う。


「あんまりかな」


 そう答えた僕に「そっか」と相槌を打ったきり、ヒナは物憂げにも見える表情で茜色の街を見下ろしていた。釣られて僕も夕空を見ることに努めた。僕は風景の良し悪しにはあまり興味を持てないが、暮れ行く空を見ていると成仏への遠さで憂鬱になっていた心が少し楽になった。苦悩を忘れるほど眼前の景色に見入ったわけではない。人の作為が少しも介入していないありのままの空を見ていると、世間の柵から逃れられたように錯覚して、自分が現実を生きているという実感が少し希薄になったような感じがしたのだ。悩みや不安が少し遠のいていく。彼女のように素直な心で感動できるならそれが一番良いのだろうけれど、残念ながら僕には少し捻くれた堪能の仕方しかできなかった。


 そうしてしばらく僕はぼんやりと目に映る景色を半ば放心したように見やっていた。群れになって空を飛ぶ鴉を目で追って、少し遅れて孤立したように見える鴉に親近感を覚えた。緩やかに空を流れる奇妙な形の雲を眺めて、視界の端にいった頃には元の形を忘れた。鳶の鳴き声が思ったよりも擬音のようだったことに少し感心した。


 それから、隣で同じように景色を見ていた彼女に問い掛けた。


「そういえばヒナに言われてここまで来たけど、何か話したいことでもあったんじゃないの?」


「あ、そういえばそうだったね」


 すっかり失念していたとばかりにヒナがそう口にする。一度僕へちらりと微笑みを零して彼女は正面へと向き直った。


「……うーん、何話そっか」


「……話す内容決めてないの?」


「図書館で調べてわかったことを整理する会にしようかなって思ってたんだけど、よく考えてみたら何もわからなかったんだよね」


 情報を整理するという発想は、多かれ少なかれ情報を持ち得る者にしか浮かばないものだ。なんの足掛かりもなく図書館から退散した僕たちにその論理は適用されない。つまり、彼女の発言は明らかに嘘だった。そして、僕に嘘だと見抜かれることも悟っているかのようにどこか白々しさが滲んでいた。思わず訝るような視線を送ると、彼女は悪戯がばれて残念がっている子供のように、どこか幼い表情で哀しげに笑った。もうちょっとだけ茶番につきあってほしい、とでも言いたげなその面持ちにあまり強く問い詰める気も起きず、僕は彼女の言葉に対して言い募るのを諦めて冗談を返した。


「何もわからなかったのに情報整理って……ヒナ、優等生っぽいのに案外抜けてるね」


「うわ、酷い言い草だ。私はただ……ただ、うん。ここからの景色を眺めながら楽しく話したかっただけだよ」


 脳裏に浮かんだ本音をそのまま口に出したみたいなその言い方からするに、彼女自身もなぜ自分がこの神社へ訪れたかったのかを明瞭に自覚しきれていないようだった。後から思い返してみれば、彼女はただ普通に生きている人のように夕暮れの中で時間を潰したかっただけなのだろう。しかしこのときはまだ、幽霊であるが故の彼女の孤独や淋しさを、他人である僕も当事者であるヒナさえも曖昧にしか捉えていなかった。ヒナに関しては、成仏への義務感のようなものが寂しいと感じることを妨げていたのかもしれない。


「まだお互いのこと何もわからないんだし、せっかくだから親睦を深めてみるのはどうでしょうか」


 ぱん、と柔らかく手を打ちながら彼女が微笑む。それから、僕たちは笑ってしまうくらい退屈で呑気な話をした。


「いつも何してるの?」


「え? なんだろ、寝てるか……散歩? あとは暇潰しに映画見たり」


「そっか。じゃあ、どんな話が好きなの?」


「面白いと思うものは結構あるんだけど、好きって条件だと思い浮かばないな」


 そんな煮えきらない問答が何度か続いて、ヒナは言葉に迷ったように苦笑した。


「そんな申し訳なさそうな顔しなくていいよ。こんな人生のつまらなさとは長いつきあいなんだ」


 深刻な雰囲気にならないように僕は肩を竦めておどけてみせた。実際、僕の人生は無意味なものだが、悲嘆に暮れているというわけでもないのだ。大事なものも叶えたい夢も僕にはないけど、特定の何かに対する執着がないということは挫折や喪失の苦痛もないということだ。皮肉なことに、落伍者として生きている僕の心の平穏は落ちこぼれ故の諦念によって保たれていた。敗北と劣等感さえ受け入れてしまえば、世界は案外苦しいものではなかった。残っているのは、人生に対して未だに抱いている未練とまったく同じ形をした虚しさだけだった。


 だからそんな閉鎖的な穏やかさで凪いだ僕の世界に入り込んできたヒナという異物には、未だに接し方を決めあぐねていた。今すぐ目蓋を閉じてしまわないと、彼女の眩しさに失明してしまいそうだった。手を引かれて強制的に外の世界に引っ張り出されているようで、自分の世界以外での振舞い方が僕にはわからなかった。


 僕の憂鬱が伝染したのか、ヒナも沈んだ表情で夕方の街並みを見やっていた。どこか遠くからクラクションが小さく響いていた。


「……そういえば、僕のほうからもいくつか訊いていいかな」と僕は呟く。


「うん、いいよ。何?」


 彼女が僕にしたように趣味嗜好を尋ねても生前の記憶がない彼女から答えが返ってくるかわからないので、必然的に僕の問いかけの内容は幽霊であることによる普通の人間との違いになってくる。


「ヒナは僕が家にいる間はどうしてたの?」


「……なんだ、私に興味出てきたってわけじゃないんだ。何訊かれるかちょっと身構えてたのにな」


 意図的に僕の発言の中身には触れず、彼女は姿勢を崩して真上の夕空を眺めた。彼女は何かを誤魔化そうとしていて、それが僕にも丸わかりなくらい下手くそだったというその事実に、僕は人知れずほんの少し頬を緩ませた。


 質問をはぐらかそうとしていた彼女は僕がつきあわないことを悟ると、しばらく空を仰いでから「まあ、好みを訊かれてもわからないんだけどね」と皮肉めかして呟き、少し寂しさを孕んだ表情で笑った。


「わかったよ。ちゃんと答えるから、そんなに難しい顔しないで。……先に言っておくけどね、柊太が何か気に病む必要はまったくないんだから、あんまり悩んだりしちゃだめだよ」


 困ったように破願しながらそう前置きして、彼女はようやく僕の問いに答えた。


「私、当然何も食べられないし、眠くもならないから、夜はいつも街の中を歩いたりして時間を潰してるよ」


 僕には、絶えず意識が覚醒していて誰にも認識されないままずっと独りでいるその状態をうまく想像できなかった。ただ、途方もなく心細いであろうことは、思い返しているヒナの表情からわかった。


「知ってる? 一日ってね、結構長いんだよ」


 その言葉には、気安い笑みとはかけ離れた重い実感があった。独りで過ごす夜の分だけ、自分は他人と違うということを嫌でも理解してしまうのだろう。彼女の笑みの節々に切なさが混ざる理由の一端を覗いた気がした。僕には、彼女が感じる疎外感を百パーセント理解することはできない。それでも、何百倍にも希釈したその孤独を僕も常日頃から感じていることは確かだった。物心ついたときからもう何年も、世界に対して肥大した疎外感を抱え続けている。どこまでいっても僕は他人とは違う人間でしかなくて、最近ではそれを悲しむこともなくなった。僕も彼女も、感覚が麻痺するくらい独りに慣れていた。


 だから僕には、そんな暗がりにいてもなお他人を慮る彼女の姿がとても眩しいものに見えた。明るく笑っていられるその心根が澄んだものに見えた。この世界に優しさなんて信じたくないのに、どこまでいっても僕とは違う人間である彼女の優しさに憧れのようなものを抱いてしまう。


「柊汰が悩むことじゃないんだけど、一応釘を刺しておいて正解だったね」


 僕の顔を見たヒナはそう言いながら明朗に笑っていた。


 それから、彼女についていくつか質問をしていった。いつから幽霊だったのかという質問に彼女は「わからない」と答えた。記憶の境目が曖昧で明確に期間は把握できないが、少なくとも半年以上は霊感のある人間を探していたらしい。記憶の欠落に関しては、単純な知識や言葉の意味などに問題はなかったので意味記憶は無事なようだ。鼻歌を歌っていたことから手続き記憶も同様だろう。ただ、自身の体験に基づくエピソード記憶が丸ごと抜け落ちているようだった。


「気にかけてくれるのはありがたいけど、柊汰がいるおかけで私は今あんまり困ってないからさ。だから、今はそんな話やめて一緒に景色でも見てようよ」


 途中から尋問のように根掘り葉掘り問い質す僕に、彼女は微笑みながら言った。ヒナの気分を害してまで追求するつもりもなかったので、僕も大人しく正面に広がる夕景を眺めることにした。やっぱり景色に感動はできなかったけど、彼女がこの時間を欲しているならこうしてぼんやりと茜色の空を見ているのも悪くないなと、そう思った。


◇◇◇◇◇


 そうして最初に図書館へ訪れたその日の内に有意義な話題がなくなった僕たちの間に残ったのは、ヒナが気紛れに振ってくるくだらない会話だけになった。こうして時間を潰して日が暮れると、彼女は独りで夜を過ごす。僕にはどうすることもできないから、せめて少しでもこの夕暮れの中で話す時間が彼女にとって安らかなものになればいいと願っていた。


 こうして過ごすことにも少しは慣れたのに、僕とヒナは意味のある話なんてまともにしたことがない。彼女は、お互いの口から言葉さえ出ていれば脈絡や意義なんてどうでもいいとさえ思っているようだった。言葉の空白を埋めるように「数学の先生の顔、ちょっと怖いよね」とか「ねえ、あの雲見て。ね、人の顔みたいだね」とか「それにしても、柊汰って変な人だよね」なんて笑って、今日も僕たちはまるで普通の学生みたいな話をしていた。


「なんで僕は今いきなり変な人って言われたんだ」


「だってこの前『当番をサボったやつが罪悪感を感じたらいい』とか言って小難しい顔しながら教室の掃除一人で丁寧にしてたし。なんか急に思い出しちゃって」


「……変な人で悪かったね」


「悪い人じゃないんだろうなって思ったよ。……変な人だけど」


 そうやって軽口を交わし合って存分に時間を浪費して、やがて言葉が尽きると夕焼けに目を向けて次に話したいことが浮かぶのを待った。彼女は、浅いところで他愛もない言葉を交わすこの時間を楽しめているようだった。ヒナがふと笑うたび、その変わらない笑顔に僕はどこか満足していた。


 思いがけず僕の人生に生まれた他人との交流は、存外に不快なものではなかった。心地よい距離感を探り合うような日々の緩やかさを、夕暮れの神社に流れる空っぽな時間を、だからこそ僕は気に入っていたのだ。二言三言交わして時折楽しそうに笑うヒナの横顔を見るのが好きだ、なんて到底彼女には言えなかったけれども。

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