第2話
僕の目の前、渋々押し入れから引っ張り出してきた座布団の上に一人の少女が座っていた。どこか落ち着かない様子の彼女が身動ぎをするたびに、鎖骨辺りまで伸びた濡羽色のセミロングが揺れる。
「……それで、君はどうして僕の部屋までついてきたんだ」
「えっと……あはは。ついてきちゃったのは君が逃げるみたいに離れていくからで……その、勝手に部屋に入っちゃったのは悪いと思ってるの。……ごめんなさい」
僕が訊ねると、その幽霊は申し訳なさそうに頭を下げた。
彼女の言葉どおり、僕は公園で彼女が幽霊だと判明した際にすぐさまその場を後にしようとしたのだが、幽霊の特権を最大限活用されては逃げ果せることはできなかった。僕が閉めた扉の悉くをすり抜けてきた彼女に文句の一つくらい言いたかったのだけど、こうも礼儀正しく謝られてはそれ以上非難するのは憚られた。
「……少しだけ、話を聞いてもらいたくて」と彼女がとても言いづらそうにつけ加える。全身から「込み入った事情があるんです」という気配が漂っていた。いかにも心の穏やかな苦労人然としたその雰囲気に、なんとなく僕の苦手な類の人なのだろうなと思った。
「……いいよ、別に。気にしてないって言ったら噓になるけど、怒ってるわけじゃないんだ。何か事情があるんだろうし。……とりあえず話を聞かせてくれたらいいから」
なるべく棘のない声音を意識してそう促すと、彼女は強張っていた表情をいくらか和らげた。そして、言葉を整理するような間を空けた後、決意を表明するでも使命感に燃えるでもなく、ただ短く呟いた。
「私ね、成仏したいの」
成仏。死んで、この世に未練を残さず仏になること。僕の解釈が正しければ、それはつまり一度死亡しているはずの幽霊にとっては再び死ぬということと同義のはずだ。この世から意識がなくなる感覚なんてわからないが、一切の意識の消失が恐ろしいのは生者も亡者も共通することのように思える。あるいは、本来は存在しないはずのイレギュラーである幽霊にとって、成仏を希うのは当然の帰結なのだろうか。成仏という概念が彼女にとっての幸か不幸かは知る由もないが、どちらにせよ彼女の願いの行き着く先が僕の退屈な日常の延長線上にないことは確かだった。
「でも、私一人じゃどうしても成仏できなくて……それで、よかったら君に成仏を手伝ってもらいたんだけど……駄目、かな?」
期待の眼差しで彼女は僕を見る。僕は持て余すように成仏という言葉を呟いた。
彼女の頼みに対して、迷うまでもなく結論は決まっていた。僕には大したこともできなければ、出会ったばかりの相手を憂い慮るような博愛心や親切さを備えていない。それに、成仏というのは一生命体の存在を揺るがすようなことだ。そんな一大事に僕のような人間が半端な心構えで手を出すべきではないだろう。もっと彼女の願いに本気で寄り添えるような、そんな誠実な人が彼女を助けるべきだ。僕では到底背負いきれない。
無難な伝え方を模索したのも束の間、そういった迂遠な誤魔化しもよくないだろうと思ったから、僕は淡々と事実を述べることにした。
「……駄目というか、君を成仏させるなんてたぶん僕には無理だよ。期待されているところ悪いけど、残念ながら僕はただ幽霊が見えて話せるだけだ。成仏させる特別な力や経験だってない。……困ってるなら他を当たったほうがいいよ」
「でも、私のこと見える人も君が初めてだったんだよ。本当に、今まで会話どころか誰にも気づいてもらえなかったから。それって、君がすごいからじゃないの?」
「霊感なんてただの欠陥だ。生まれつき、生き物として間違ってるだけだよ」
「……そうなの?」
思ったより自虐的な言い方になってしまって、彼女の表情が少し曇るのがわかった。出会ったばかりの相手によくそんな顔ができるな、と偉そうに感心してしまった。決定的に間違った人間だという自己認識がある僕には、誰かと心の底から何かを共有することができないから。何も欠けていない人間に僕の気持ちがわからないように、僕もずっと健全な人の感性がわからないでいた。
「まあ、僕の話はいいんだ。とにかく、僕じゃ君の力にはなれない。そもそも、本当に君は自分一人じゃ成仏できないのか? 誰かの手を借りなきゃ成仏ができないならこの世はもっと幽霊で溢れかえってるはずだ。少なくとも僕は、ここ数年では君以外の幽霊を見たことがない」
「きっと普通の人ならそうなのかもね。未練の解消とかして、一人で成仏できるんだと思う。……でも、どうも私は普通じゃないみたいでさ。迷惑だってことはもちろんわかってるんだけど、それでも君に頼るしかないんだよ」
ごめんね、と力なく笑う幽霊が、僕の目にはとても痛々しく映った。負け犬として人生を歩んできた僕には、そんな顔をしているときの心境が痛いほどわかった。もしかすると彼女は、僕と会う以前からかなり長い時間を成仏に行き詰って打ちのめされていたのかもしれない。きっと彼女にとって、他人に頼るのは苦渋の決断だったのだろう。彼女の心苦しそうな振る舞いを見ていれば、その誠実な性根は嫌でも伝わってきていた。
ふとした瞬間に彼女の境遇を想像してしまって、途端に僕は後ろめたさでいっぱいになった。自分ができた人間じゃないことは自覚しているが、あくまで僕は排他的なだけで、他人の願いを無下にしたいわけではないのだ。せめて事情くらいは聞いて、僕じゃ役に立たないことが判明してから断ったほうが後腐れはないのかもしれない。
そんな胸中の葛藤を溜め息とともに吐き出した僕は、落としていた視線を再度微笑んでいる彼女へ向けてから気安く肩を竦めて言った。
「ごめん、事情を詳しく知らないのに断る理由ばかり探しすぎた。あんまり人に期待されるのが得意じゃないんだ」
「……こっちこそ、詳しい事情も話せてないのにこんなお願いしちゃってごめんね。……どう打ち明けたらいいか、わかんなくて」
そう言って俯く彼女は、彼女の抱える状況が深刻すぎて言葉を選べないというよりは、その情報が僕に与える影響を苦慮しているようだった。彼女の目には僕が他人に同情して心を砕くほど情の深い人間のように映っているのだろうか。顔に出さないままそう不思議がる僕の視線に気づいた彼女は、「あ」と何かを思い出したように零してから人好きのする笑みを浮かべた。この短い会話の中だけでも強く印象づいてしまうくらい、よく笑う女の子だった。
「そういえば、さっきから君って呼んでばっかりでまだ君の名前知らなかったね。名前、訊いてもいい?」
少し首を傾げる彼女がそんな風に尋ねてくる。そこに互いの距離感を鑑みない強引さなどはなく、僕が拒めばきっと追及はしないのだろうなと思った。いっそ無神経に問いや頼みを押しつけてくる相手であれば僕も気兼ねなく突っぱねられるのだけれど、あくまで僕に判断を委ねるその心配りがとてもやりづらかった。
「……柊汰。高倉柊汰」と僕は返した。彼女の頼みを断る腹積もりなのだから本当は教えたくなかったのだけど、翳りのない瞳でまっすぐ見つめられては答えるほかなかった。
「じゃあ、柊汰って呼んでいいかな。それとも、柊汰くんのほうがいい?」
「どっちでも、呼びやすいほうでいいよ」
「わかった。柊汰って呼ぶね」
結局、彼女の名前は訊かなかった。
「じゃあ、柊汰に改めて頼むんだけど……私の成仏、手伝ってくれないかな」
姿勢を改めた彼女がまっすぐ僕を見る。その時点で僕は既に彼女に対してある程度同情していたのだけど、僕の心情が少しばかり彼女の願いに沿ったからといって、依然として僕が成仏のノウハウを持ち合わせていない事実は変わらない。足手まといになるのは僕の本意ではなかった。
「じゃあ仮に僕が君を手伝うことになったとして、具体的に僕は何をしたらいい?」
僕は切り口を変えて彼女の頼みを断ることにした。例えば、遺族に心残りを伝えるとか、生前経験できなかったことをやるとか。彼女の求めていることにどれだけ僕が見合っていないか伝えるつもりだった。欠点だらけの僕のことならいくらでも駄目出しできるだろうから、僕の無能さを説いて彼女の要望を一つずつ潰して、そうして円満に拒否しようと思ったのだ。
けれど、そんな僕の想定は瞬く間に破綻した。
「んー、例えば……図書館に行って新聞のバックナンバー調べてもらったりとか、私が読みたい本開いてもらったりとか?」
「……それだけ?」拍子抜けした僕が間抜けな声でそう訊き返すと「今はそれだけかな」と彼女は頷いた。
「私、何にも触れないから、誰かに頼まないと本も読めないんだよ。けど、誰も私を見つけたり話したりできなくてね。……それでずっと困ってたから、柊汰にはぜひ私を成仏させてほしいんだよ」
はにかむ彼女は、真剣な頼みごとに反していやに気安くそう言った。
「ぜひ、ね。……そういう冗談みたいな言い方はよくないんじゃないかな。君にとっても僕にとっても、気分のいいものではないだろうし」
口から飛び出た言葉が思いのほか険のある言い方だったと気づいたのは、彼女が一瞬だけ痛みを呑み込むような表情を見せてから、すぐさまそれを苦笑いの奥に覆い隠したときだった。
「あ。うん、そうだよね。ごめん。その、あんまり深く考えすぎないようにと思って……」
「いや、もちろん君が僕を気遣ってくれてるのもわかるし、あんまり自分を軽く見積もらないようにって言いたかっただけなんだ。僕のほうこそ、なんだか嫌味みたいになっちゃってごめん」
わかりやすく消沈する彼女に今更そう弁明したとて、先程の言葉がなかったことにはならない。消え入るような声音で俯いた彼女にどんな言葉をかけたらいいのかわからなくて、僕は口を噤んだ。壁にかけられた時計の秒針が僕たちの気まずい沈黙を強烈に意識させた。
これだから善人は苦手だ。心ない人との会話が一過性の痛みなら、善人との会話は毒だ。こちらばかりが無遠慮に相手を傷つけてしまうし、その善良さ故に嫌いという感情すら抱かせてくれない。僕の心根が綺麗ではないから、じんわりと自分の醜さばかりが残り続ける。
「あ、そうだ。そういえば僕、まだ君の名前訊いてなかったな。……名前、訊いてもいいかな」
お世辞にも人との交流に長けていない僕の口から出たのはそんな言葉だった。本来は彼女の名前を訊くつもりはなかったのだけど、互いに押し黙っているよりはずっといいだろうから、背に腹は代えられなかった。
「名前、か。えっと……その、あはは」
てっきり、すぐさま返事が返ってくると思っていた。しかし、僕の予想に反して彼女は複雑そうな顔で歯切れ悪く笑っただけだった。その意外な反応にふと違和感が募った。
その振る舞いの端々から、彼女は誰かとの交流に積極的、あるいは好意的な人なのだと思っていた。そんな人間は喜んで互いに自己紹介をしたがるだろうな、とも。しかし実際はどうだ。彼女に名前を訊かれた際、僕は意図的に彼女の名前を尋ねなかったが、彼女のほうから名を明かそうとすることもなかった。現に今も、僕が尋ねてみても曖昧に言い淀むだけだ。もなく一方的に名乗らないのは彼女の人柄にそぐわないような気がしたから、きっと想像以上に込み入った秘密があるのかもしれないと思った。
何か名前を言えない理由でもあるのか、と僕が尋ねるより少し先に、迷いを振り解いて諦めをつけるように彼女がはにかんだ。彼女は、僅かに心苦しさが混じったような眼差しで僕を見ていた。
「私ね、わからないんだ、自分の名前」
そんな彼女の呟きを耳にして、最初に訪れたのは強い困惑だった。え、と思わず掠れた声が漏れる。そんな僕をよそにして、薄く笑みを浮かべる彼女は努めて冷静を装っているように、茶飯事の出来事を語るように、滔々と話す。
「記憶がないの。生きてたときのこと、なんにも覚えてなくて。気づいたら幽霊になってたんだ、私」
理解が追いつかなくて、咀嚼が追いつかなくて、僕は二の句を継げずにいた。彼女の言葉は、彼女の事情を漠然としか知らなかった僕にとって、冷や水を掛けられたかのように僕を現実に引き摺り込むものだった。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。記憶がないって……自分の名前すらも覚えてないのか?」
「うん。覚えてないよ、残念ながら」
自分の情けなさに呆れながら彼女が言う。
しばしば不明瞭だった彼女の様子が紐づいていって、パズルが揃っていくように状況を理解する。言葉を失いながらも、呑気に稼働していた思考がグルグルと加速していく。自分の名前を教えなかったのも、幽霊が視えるだけで他に取り柄のない僕さえ必要としているのも、成仏が特段に難しいと感じている理由も。不可解だったそれら全てが腑に落ちた。そして、たっぷり数秒の後、ようやく彼女の真意を全て知ったとき、最後に感じたのは手詰まりな状況に対する無力感だった。
未練があるため成仏できず、記憶がないから自分の心残りすらわからず、何にも触れないから記憶を探す手段がない。まさに八方塞がりというやつだ。猫の手と同じくらいの効力しかない僕にだって頼りたくなるのも頷ける。
そんなの一人じゃどうしようもないだろ、と言いかけて、自虐的に肩を竦めて苦笑する彼女と目が合った。
「……完全に詰んでるね」
「あはは……面目ない」
事情を汲み取ってもらえたことに安堵したのか、一人で抱えていた秘密の共有に彼女は他人事のように薄く笑った。彼女の事情を何も知らずに猜疑心を露わにしてしまった無神経さに今更ながら気づいた僕は、もういっそ罵倒されてしまいたいほどの自責の念に駆られた。彼女に向けた棘のある言葉や薄情な対応の罰が下っているようだった。
「……君の事情を知らなかったのに疑ったりしてごめん。無神経だった」
「……ううん、いいよ」
彼女の返答に少しの間があったのはおそらく僕を気遣ってのことだった。彼女が僕の言葉を気にしていないことなんてその朗らかな表情を見れば一目瞭然だ。彼女は僕の謝意を優先してくれたのだ。彼女の他者優先の気質は至るところに散りばめられていた。
「でも、そんな事情があったなら最初から説明してくれればよかったのに」
居心地の悪さから逃れるべくそんなことを言った僕に、彼女は少し考え込むような素振りをしてから呟くように言った。
「……最初はね、全部話そうとしてたんだよ。でも、途中でやめたの。記憶がないことを柊汰に言ったら、本当は嫌でも私のこと手伝ってくれると思ったから」
僕の目を見て、彼女は言う。
「だって、たぶん柊汰って本当は優しい人でしょ」
道端に花が咲いていた、くらいの気軽さで紡がれたその一言は、僕にとってとても縁遠い言葉だった。唐突な評価に惑う僕をよそに、「たぶんだけどね」と彼女は茶化しながらつけ加えた。
僕は、優しいという言葉があまり好きではなかった。僕が今まで見てきた優しさというのは、偽善や自己満足に無自覚なだけだったり、生活の端に覗く生々しい人の醜さを耳触りのいい言葉でコーティングしただけのものだったから、本当の優しさというのは存在しないのだと割りきっていたのだ。実際に世界がそうであるかは関係なく、そう考えるのが楽だった。僕はいつも、優しさを否定したかった。僕が素直に優しさという概念を信じられない人間だから、優しさを信じられる住みよい世界の住人を僻んでいたのだ。
それなのに、彼女の言葉があまりにも何気なく紡がれたからか、僕は自然とその言葉を許容できていた。彼女が口にする優しさはただ純粋なもののように思えた。
「僕はあんまり優しくないよ。僕なんかにその言葉を使うのは本当に優しい人に失礼だ」
その言葉は僕を装飾するにはあまりにも綺麗すぎたから、僕はそんなことを言った。
「そうかな。じゃあ真面目な人なんだよ、きっと」
柔らかく目を細めて彼女が言った。
「私が勝手についてきただけなのに座布団出してくれたし、嫌そうな顔しながらもちゃんと話聞いてくれてるし。それになんていうか、気を悪くしないでほしいんだけど、生きづらいくらい律儀な人なのかなって、話して思ったよ」
彼女は漠然とした疎外感を共有するように、どこか寂しげに笑った。僕が真面目かどうかはまだ議論の余地が残っていたが、執拗に自分を貶す理由もなかったから「そんなこと初めて言われたよ」と僕は適当に返した。なんとなく、生前の彼女も他人に気を遣ってばかりで生きるのが下手だったのだろうと思った。僕と彼女の本質は似ても似つかないけれど、その一点だけは共感できる部分があった。
「……とりあえず、君の事情はわかったよ。改めて、何も知らなかったのに邪険に扱ってごめん。僕でよければ手伝うよ、君の成仏」
「うん。……ありがと」
とりあえず結ばれた協力関係に満足したように彼女が頬を緩める。安堵からか胸を撫で下ろす彼女に僕は尋ねた。
「それで……僕はさ、君のことをなんて呼べばいい?」
今日限りで二度と話さないつもりだったから彼女の二人称は「君」で通していた。しかし、彼女の成仏を手伝うことになった今、本来の名前が思い出せないのならせめて仮称くらいは定めておくべきだろう。彼女はそれを失念していたと言わんばかりに「あ、そっか」と呆けた相槌を打った。そしてしばらくの間思案顔で唸ると、やがて名案が浮かんだようにぱっと表情を一転させて悪戯っぽい笑みを作った。
「あ、じゃあさ、柊汰がつけてよ」
え、と戸惑う僕に、揶揄い半分本気半分といった塩梅で彼女は繰り返した。
「私の名前、柊汰がつけて」
「いやいや、僕にそんな重要なことさせないでくれよ。第一、僕がセンスのありそうな人間に見える?」
「だって自分の名前を自分でつける人っていないでしょ? 私のこと見えるの柊汰だけだし、柊汰に考えてもらうしかないかなって思って」
反論の余地など微塵もなく、ぐうの音も出ない僕は恨みがましい視線を送るしかできない。
「……わかったよ」
本当に心の底から気乗りしなかったが、いつまでも駄々を捏ねていても仕方がない。「あんまり期待しないでくれよ」と保険をかけて、せめてもの反抗として渋々従っているという雰囲気を全面的に出しながら熟考する。
そして、僕が彼女の名前を考え始めてから十分ほどが経過した。僕が黙っている間、彼女はずっと姿勢を正して僕を見守っていて、それが余計に僕を真剣に悩ませた。女の子らしさとか、名前の意味とか、そういった諸々に配慮をしながら脳内で次々と案を出しては自分で却下していった。結局、思いついたのは捻りなどない至って普通の名前だった。
「決まった?」
黙考していた僕が顔を上げたことに気づき、期待の眼差しを向けてくる彼女に首肯する。
確かな感触を得て最終案を決めたものの、いざ口に出して彼女に伝えようとすると途端に自信が消え失せていった。自分の感覚を他人と共有することに慣れていなかったからかもしれない。それでも僕と目が合った彼女の微笑みがとても穏やかだったから、僕はその名前を呼べた。きっと彼女は僕がどんな名前を口にしても優しく笑うのだろうな、とそう思った。
「ヒナ、とか……どうかな」
「……ヒナ」
感心ともつかない神妙な顔で彼女が「ヒナ」という名前を呟く。果たして僕の考えた名前が彼女のお眼鏡に適うのか、と今更ながら僕は焦り始めていると、音の感触を確かめるように何度か反芻していた彼女は僕を見た。少なくとも、僕の名づけが彼女の気分を害したということはなさそうだった。
「なんでヒナって名前にしたの?」
彼女が素朴な疑問を投げかけてくる。
「特に理由はないよ」と僕も簡潔に返した。
本当は、ヒナという名前は僕の部屋にある花から取った。僕の部屋の窓辺には、花があった。世話焼きな母が味気ない僕の部屋を少しでも彩ろうと、いつも花を花瓶に生けて飾っていくのだ。数日前に母が置いていったその白い花は、ヒナギクというらしかった。別に、名づけに用いたいほどその花に大層愛着があったわけでも、彼女との共通項を見出したわけでもないのだけれど、疲れたときや何も考えたくないとき、僕はよくその花を見た。自分が人間であることを忘れて、ただ花を眺めるだけの時間を僕は好んでいた。平たく言えば、僕はヒナギクという花を気に入っていたのだ。そんなロマンチックな理由は、僕のような人間には不相応すぎて口にはできないけれども。
それに、ヒナギクはただのきっかけにすぎない。ヒナという名前がいいと思ったのは、もっと単純な理由だった。自分の感覚を素直に伝えることに少し迷ったが、僕はおずおずと口を開いた。
「特に理由はないんだけど……なんていうか、ヒナって名前の響きがさ。なんとなく好きなんだ」
ヒナ、という音が持つ柔らかさや温度のイメージが、彼女に似合っていると感じたのだ。僕の感性を除けば大仰な由来も関連もない、なんとなくという言葉で片づく程度の名づけだった。彼女からしてみれば、その場で適当に思いついたものを採用したように見えてもおかしくない。怪訝な反応が返ってくると思った。
けれど、僕の予想に反して、彼女はほんの少しだけ呆れ交じりに小さく笑った。
「……うん。柊汰の言いたいこと、なんとなくわかるよ。私も良いと思う、ヒナって響き。なんかしっくりくる」
「……それはよかった」
まさかそんなに明け透けに感覚を肯定されるとは思っていなくて、どんな顔をしたらいいかわからない僕はそんな返事をした。戸惑って言葉に迷うその感覚は、不思議と居心地の悪いものではなかった。
ヒナという名前を馴染ませるように何度か口にしていた彼女が、満足そうに「よし」と小さく零してから僕に向き直った。
「じゃあ、晴れて私の名前も決まったことだし。……これからよろしくね、柊汰」
そう屈託なく笑う彼女は、やっぱり僕のような人間には眩しすぎて少し目を細めた。
これからの日々で、ヒナと関わることで僕は変わっていくのだろう。そんな予感があった。ヒナの眩さに当てられて少しは真人間に近づけるのかもしれないし、逆に清さを妬んでより卑屈になるかもしれない。どちらにせよ、何の変化も起きないというのは考えにくかった。その受動的な変化が少し怖くて、楽しみでもあった。
こうして、ヒナを成仏させるために、彼女の終わりを迎えるために関わり合う僕たちの歪な関係は始まった。
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