夏の終わり、僕は君に告白をする

@huhuhu-888

第1話

 五年前、一人の女の子とともに過ごした時期があった。花笑みという言葉がよく似合う女の子で、記憶の中の彼女はいつも笑っていた。朗らかながらもどこか寂しげにふわりと笑う少女だった。


 僕と彼女は、春の終わりに出会ってその年の夏の終わりに別れた。数えてみれば半年にも満たない時間だったけれども、どれだけ少しの間であったとしても、確かにあったその日々が僕にとっては青春時代の全てだった。こんなことを言うと女々しいと思われるかもしれないけど、僕は五年経った今でもその日々を忘れていない。ふとした楽しさや寂しさも鮮明に憶えている。


 きっとそれは、これからの人生でも変わらないのだろうと思う。僕はいつまでも失った時間を悔やんで、偲んで、焦がれ続けている。在りし日の追憶に縋っている僕の時間だけが止まったまま、僕を置き去りにして世界は回っている。


 寝ても覚めても僕には過去しかないんだ。呪いのように、目蓋の裏に褪せないままの思い出が焼きついている。


 ずっと。ずっとだ。


◇◇◇◇◇


 その日は午前中からずっと土砂降りの雨が降っていた。空腹に耐えかねてちょっとコンビニまで買い物をしようと思っただけなのに、まるで傘なんて役に立たない横殴りの風雨に曝されてあっという間にずぶ濡れになってしまった。久しぶりに言葉を発したせいで喉に強烈な違和感を感じたし、せっかく買ったホットスナックも衣がふやけてしまっていたりと散々だった。


 飢えも眠気も感じないで、凪いだ時間だけを過ごしていけたらいい。食感の気持ち悪いホットスナックを口にしながらそんなことを思った。真面目に生きるつもりがないのに生理的な欲求だけは収まらないので質が悪い。飢えた胃を満たすにはもう少しばかり食料を放り込まなければいけないらしかった。


 濡れた髪をタオルで拭きながら冷蔵庫を未練がましく確認するも、使いかけの麺つゆと全く減らない赤味噌以外には何も入っていなかった。わかりきっていたことだ。

 本来なら労働に精を出しているはずの平日の昼下がりも、今の僕にはすることがない。バイトは先日辞めてしまった。日々なんとなく息をするごとに、雀の涙ほどの貯蓄だけが擦り減っていく。そうしていつの日か貯金が尽きると僕は、やりたいことだって思い浮かばないのに、心を忘れるためにまた仕事を始めるのだろう。もう毎年のことだ。


 散った桜を踏んでしまったり、穏やかな陽気が一瞬でも暑苦しく思ったり、日常の節々に春の終わりを感じると、バイトを辞めて天井を眺めるだけの日々を送る。そうやって人生から逃げるのが高校を出てからの三年間でお決まりになってしまった。


 僕の部屋には必要な物以外何もなかった。普段は冷凍食品が詰め込まれている冷蔵庫の他には安いベッドと安いテーブルがあるだけで、人が住んでいるのか疑わしいほどの生活感しか感じられない殺風景な六畳間が僕の部屋だ。空腹からか人生の薄っぺらさにか、言いようのない欠乏感を抱えながら薄いベッドに寝転んだ僕は、何をするでもなく窓を叩く雨音に耳を傾けながら天井を眺めた。


 実に最低限の生活を送っていた。


 自分の生活がゴミみたいに質の低いものだという自覚はもちろんあった。なんとか一日をやり過ごすたびに寿命を一年削っているような感覚がずっとつき纏っていて、僕の人生は緩慢に終わりへと近づいていた。別に、現実が見えていないというわけではない。健康面でも経済面でもあまり長くは生きられないのであろうことも、ちゃんとわかっている。


 ただ、それでもいいんだと思っているだけで。


 空虚な目の奥で考え続けているのはずっと君のことだ。天井にも、窓を伝う水滴にも、目蓋の裏にだって、人生の全部に思い出が投影されている。無感動な日々を通して君のことだけを見ていた。ちっぽけな僕の人生を懸けて君を想っていたかった。想い続けたかった。


 六畳の閉じた世界で、このまま膿んで腐ってひっそりと死んでいくとしても、それでもよかったんだ。訪れる全ての好機をかなぐり捨てた。降り掛かる不幸を遍く受け入れた。幸せになる努力なんて一切しなかった。生涯全てを棒に振ってでも幸せになんてなるつもりは毛頭なかった。誰かとの会話だってただの音だ。そこに僕の心も意味も通ってはいない。


 言葉も心も、五年前に君と一緒に置いてきたような気がする。君のこと以外の全てが些細なことに思えて仕方がないんだ。君がいない世界で気楽に生きるなんて、酷く薄情なことだ。そんな背信ができるはずもなかった。僕を苛む苦しさも劣等感も馬鹿馬鹿しさも全部まとめて、僕の人生に君が必要だという証明なんだ。君と過ごした時間の価値の証左なんだ。


 誰に知らしめるでもないけど、そのためだったら僕はどこまでも惨めになれる気がした。僕の自尊心なんてどうでもよくなるくらい、君は僕の中で大きな存在だったんだ。僕には思い出しかなかった。


 もし仮に、今の僕の生活を君が知ると君は怒るかもしれない。呆れるかもしれない。「なにやってるの?」って真剣な眼差しで一頻り僕を注意するのだと思う。そして少しだけ哀しそうに、優しく微笑みかけてくれるんだ。


 そうだ。僕はずっと、ただ君にもう一度笑いかけてほしいだけなんだ。君の笑顔が見られればそれだけでいいんだ。どれだけ願ったってそんなことはもう叶うはずもないんだけれども、それでも君にいてほしいんだ。


 映像も音声も、何も残っていない。写真の一枚だってないんだ。もう、記憶の中にしか残っていない。


 目を閉じた。君がいた夏に縋るように、懐かしむように、脳裏に浮かぶ思い出の輪郭をなぞる。


 ひたすらに恋しいんだ。ずっと戻りたくて、悔やんでばかりで。こんな僕にも確かにあった、何よりも大切な時間だったんだ。忘れたくないはずなんだ。


 それなのに、ずっと苦しい。息苦しくて仕方がない。何もかも投げ出したい衝動が胸の奥で息衝いて、うまく息ができない。


 自分の感情さえ儘ならないまま、ぐちゃぐちゃになった心でただずっと願っていた。


「早く……もういいから。僕の中から消えてくれよ、ヒナ」


 これは、今はもう失くしてしまった思い出の話だ。




◇◇◇◇◇




 どうやら僕は生まれ方を間違えたらしかった。


 僕は、生まれつきとある欠陥を持っていた。欠陥というよりは無用の長物と述べたほうが正確かもしれない。形容が少し難しいが、肝要なのはどんな言い方をしてもそれは僕の人生においてデメリットにしかならなかったということだ。


 僕が周囲との差異に気づいたのは小学生の頃だ。よく話していた学校の友達に「気持ち悪い」と明確な拒絶の意思を持って言われた。自分が変わっているなんて微塵も疑っていなかった僕は、そこで初めて自分の異常を知った。思い返せば昔から人と話が噛み合わないことは多々あったのだが、幼さからくる全能感は自分が欠陥品だという想像をさせなかった。初めて向けられた異物を見るような嫌悪と猜疑の目はすっかり僕のトラウマになってしまい、僕は常日頃何かに怯えるように俯いて歩くようになった。


 それはもう、いるだけで場の空気を濁してしまう陰鬱な子供だっただろう。そんな人間がまともに成長するわけがなかった。人間一人を駄目にするには、幼い頃に拭えない疎外感を植えつけるだけでよかったらしい。枝分かれして育つ樹木のように、僕は普通から外れていった。そんな逸脱ばかりの僕が夜を好むのは至って自然なことだった。


 頼りない街頭の灯りの下で、家の前から蹴って運んでいた小石を一際強く蹴り飛ばした。意識を現実へと引き戻すように、静寂の中で僕の靴音が響いた。


 夜にはどこか欠けた人間を惹きつける何かがある、と僕は思う。人は皆寝静まって、まるで世界に自分しかいないような錯覚に陥る。真昼の間よりも空気が澄んでいて呼吸がしやすいように感じる。それに気づいたのは初めて夜中に出歩いた中学生のときだ。人の不在も、昼間の世界から反転したような街並みも、その頃の僕にとっては救いだった。一瞬で夜の虜になった僕は、それ以来夜を歩くのが日課になった。


 いつもの癖で見上げた夜空は仄かに緑がかった暗色をしていて、車の走行音や虫の音が遠くから聞こえた。まったくの無音よりも静かな夜だった。首元に蒸し暑さを感じて、そろそろ春も終わるのかもしれないと他人事のように思った。社会に適応できない人間には季節など関係ないのだ。


 ぼんやりと時の流れに思いを馳せながら、なんとはなしに児童公園へ寄った。砂を踏み締めて敷地へ入り、錆が浮いた金具を掴んでブランコを漕ぐ。吊り具が擦れて甲高い音がした。付近の電柱の蛍光灯は傷んでいるのか不規則に明滅していて、完全に消灯するよりも不安を煽るようだった。敷地の周囲を囲う植え込みはただ真っ暗だった。


 たぶん、誰も知らない。誰も気づいていない。誰も気に留めていない。子供の声に紛れるブランコの音が意外と耳障りなことも、夜の電柱の灯りが少し不気味なことも、夜の公園に僕がいることも。誰も知らない世界に来たような、そんな錯覚。得体の知れない何かから逃げきったような達成感と安心があった。


 孤独というのは、受け入れてしまえば案外居心地がいいものだ。全てが手中にあるかのような感覚に少し心躍る。夜の公園なんて、お行儀のいい常識から逸脱した最たる例だ。こうして一度普通の人生というものを諦めてしまえば、緩やかに破滅を待つだけの日々は気楽だった。何も望まなければ少しだって渇くこともない。全て望まないことと全て満たされることは、表裏が違うだけで本質的にはきっと同じだった。


 ふとベンチの付近に設けられている時計を見ると、既に一時を回っていた。時間の経過を認識すると同時に腹の虫が空腹を訴えかけてくる。すっかり失念していたが、僕が散歩をしようと思った一番の理由は食事のためだ。


 実は今日、といっても既に日付が変わって昨日の話だが、五月九日は僕が通っている高校の登校日だった。今年のゴールデンウィークは例年より長く、当然ながら僕の生活リズムは大きく乱れた。昨日目を覚ますと既に一限目の授業が始まっている時間だった。早々に登校を諦めた僕は仕事から帰ってきた両親の叱責や落胆から逃れるため日が暮れてくる頃には狸寝入りしていた。しかし、やり過ごすための横臥はいつのまにか熟睡に変わっていて、再び僕が起きたときには既に両親は夕食を済ませた後だった。そうしてお腹を空かせた僕が出歩く今に至る。


 半日以上栄養を投下されていない胃の訴えに従い、僕は最寄りのコンビニへ向かうことにした。僅かに金具の音を立てるブランコを背に公園を後にする。


 そのとき、僕の視界の端で白い何かが揺れた。ほとんど無意識にそちらへ顔を向ける。他の遊具とは隔離されたようにポツリと佇むジャングルジムの上にそれはあった。というか、いた。


「なんだあれ……何やってるんだ、あの人」


 ジャングルジムの頂点に一人の少女が動く気配もなくただ立っていた。視界の端を掠めた白いものは、普通の学生が纏うようなありふれたセーラー服だった。ゴールデンウィークが明けたばかりなのに夏服を着用しており、淡い照明のせいもあってか制服から伸びる白い手足がやけに不健康に見えた。立っている場所の高さも距離も離れているので定かではないがおそらく僕より小柄だろう。肩の下ほどまで伸ばされた髪は人工光で溢れた街の夜空よりも濃い黒色をしていた。


 僕に背を向けているので表情や顔立ちはわからないが、服装や華奢な体躯から鑑みるに未成年だろう。こんな真夜中に出歩いているうえに一人で遊具の頂点に立っている未成年なんてわけありか変人の二択だ。わけありで変人の僕が到底言えたことではないが、そんな人間とは関わらないよう距離を取るに限る。


 万が一にも気づかれないように、無駄に息を潜めて児童公園を離れる。足早に去る僕の背中に、じっと睨めつけられているような悪寒が走った。


◇◇◇◇◇


 付近のコンビニで買ったホットスナックが入ったレジ袋を片手にぶら下げて少し遠回りしながら家路を辿っていると、先程訪れた児童公園に差し掛かった。連想するのは当然ながらセーラー服の少女だ。果たして彼女はまだあの遊具の頂点で漫然と立ち尽くしているのだろうか、と野次馬根性が首をもたげた。


 興味に誘われるまま公園を見回したが、ブランコや滑り台、その他の遊具のどこにも、彼女の姿は見当たらなかった。その事実をどこか残念がっている自分がいて、何を期待してるんだ僕は、と少し自嘲した。


 それから、小さく溜め息をついた僕はいつもより少し長い散歩を終え、ゆっくりとした足取りで家へ向かった。相も変わらず夜闇の静寂は少し心細くて、どこか落ち着く。呑気に鼻歌なんて歌っても聴くのはきっと鈴虫くらいしかいない、そんな夜。


 だから、そんな静まり返った中で唐突に背後から聞こえた声は僕の心臓を痛いくらいに鼓動させた。


「ねえ」


 鈴が鳴るような声だった。予想だにしていなかった意識外からの声に、僕の体は驚きで芯から震えた。ガサリ、と右手にぶら下げていたレジ袋が滑り落ちた。買った食料は潰れていないだろうか。硬直した体に反して、やけに冷静だった頭の片隅はそんなことを考えていた。


「ねえ、聞こえてる?」


 痺れを切らしたのか、再度声が投げかけられる。どうやら声の主は僕に質問をしているらしかった。先程の声に比べて不安の色が加わっている気がする。


 僕は発条仕掛みたいに軋んだ緩慢な動きで振り返った。そして、目に飛び込んできたのは白一色の景色だった。それはつい先刻思い浮かべた白色に似ていて、理解したと同時に僕は飛び退ることになった。


「やっぱり聞こえてるよね?」


 呟くような声が耳のすぐ真横で放たれる。


「わっ」という僕の小さく間抜けな悲鳴は夜の住宅街によく響いた。思わず後退りする。胸に手を当てると心臓が痛いくらい鼓動しているのがわかった。


 一度間を置き、正面へ目を向ける。


 落ち着いて見ると、僕を驚かせたのはさして歳の変わらないような少女だった。僕の振り向き方が悪かったのか彼女の距離感がおかしいのか、きっと後者だとは思うが、先程僕の視界を埋めた白色は彼女が身に纏っているセーラー服だった。濃紺の襟、赤いリボン、同じく紺のスカートと、没個性と言ってもいいほど普通のデザインだ。ただ、付近の高校の制服は大半がブレザーのためセーラー服というのは少し物珍しかった。


「えっと、僕に何か用かな」


 状況が呑み込めないままそう尋ねると、彼女は僅かに目を見開いて周囲に人がいないか確認するように辺りを見回し、少し興奮気味の声で訊き返してきた。なぜだか彼女は少し喜んでいるようだった。


「君、私のことちゃんと見えてる?」


「え、見えてるけど……」


「本当に? 本当にちゃんと見えてる?」


「何急に……見えてるけど」


 そんなやり取りが数度繰り返され、鬱陶しく感じてつい適当に言葉を返した。彼女はそれを気にも留めずなぜか一人で喜んでいて、罪悪感に駆られた僕は視線を泳がせて彼女を再確認することにした。


 目の前の少女は整った顔をしていた。通った鼻筋、柔らかそうな頬、不思議な引力を持ったように見える瞳。全体的に愛嬌のある顔立ちをしていたが、それでも絶世の美女というわけでもなく、あくまで一般人としての範疇に収まる程度のものだった。今この瞬間はかわいいと思っても、たぶん明日の僕は少しも顔を思い出せないだろう。


 そして、彼女の目線は僕より少しだけ高かった。細くて白い腕や華奢な体躯からは想像しづらいが、足がマッチ棒のように細長くなっているのだろうか。やけにアンバランスな印象を抱いた。けれど、違和感のままに足元へと視線を落とした僕の目には、小柄な体格に釣り合った細い足しか見えなかった。


 そしてもう一つわかったことがあった。彼女は僕より身長が低いということだ。体格に見合った足の長さをしているのだから当然の話だが、ではなぜ僕より目線が高いのか。答えは単純、彼女が立っていなかったからだ。


「え、ちょ……は?」


 より正確に言うなら、彼女の足は地面から浮いていた。何度目かもわからない惑乱が言葉にならない音となって口から漏れ出た。驚愕が強すぎてぐらぐらと地面が揺らいでいるかのような酩酊にも似た感覚に陥る。


「どうしたの?」


 当の本人は極めて純な表情で首を傾げていた。どうしたの、なんて僕が訊きたい。摩訶不思議との遭遇に僕はもう力なく笑うしかできなかった。本来ならばもっと慌てふためく場面なのだろうけれど、僕にとってこの体験は既知のものだった。僕は彼女が浮いていることに驚いたのではない。浮いている人と再び出会ったことに驚いたのだ。


 忘れかけていた幼い頃の記憶が鮮明に蘇ってくる。苦々しい失敗の遍歴。僕が、欠陥品である今の僕になってしまった忌まわしい過去の再来だ。数年間、鳴りを潜めていたはずの欠陥がけたたましく二度目の産声を上げる。


 それは、なんてことない平凡な僕が生まれ持った一つの欠陥。


「もしかしてさ、君って幽霊だったりする?」


 僕には霊感があったのだ。

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