第10話 ひとときの休息
静かな湯気が濃紫の空に溶け込むように漂っていた。
「まるで心まで
あの後、真桜は暁翔の邸だという大きな建物の中に招かれた。さらに案内されたのは竹垣に囲われた場所――大きな岩をくりぬいた湯殿だった。その湯の中に身を沈め、そっと肩を丸める。
立ちのぼる湯気が、肌を温かく包んでいた。
目を閉じると、ここに招かれた時のことが思い返された。
『母の無事を確かめる方法はありますか?』
鳥籠から羽ばたいたものの、思いがけず遠いところまで来てしまった。母が今どうしているのかが気になって暁翔に尋ねてみる。
『すぐに母親を探しにいってもいいが、その見目ではかえって心配をさせてしまうぞ』
彼は優しく言葉を投げかけてきた。
言われて真桜は自分の体を見下ろす。袖が擦り切れて薄汚れた着物、泥だらけの足袋と鼻緒が切れそうな草履。髪の毛先はもつれて絡んでいる。
『あ……』
彼に指摘されるまで、自分がどれほどひどい有様なのか気づいていなかった。
『たしかに、これじゃ……』
母が住んでいるはずの帝都にこんな格好で出向いたら、悪い意味で注目を浴びてしまいそうだ。小さく呟いたその時、極めつけと言わんばかりに、お腹がぐうと鳴った。
そういえば、昨日から何も食べていない。いや、正確には、それより前からまともな食事を口にしていなかった。
『決まりだな』
暁翔は片眉を軽く上げ、真桜の肩を引き寄せる。笑みの端に見えるのはどこか親しみのある温かなものだった。
『あ、あの、体に触れるのは……』
『俺から触れる分には大丈夫だと言っただろう?』
なんとなく、ずるいなと真桜は頬を淡く染める。
大きな温かい手は、小さな子供の姿とは違って力強く、否が応にも彼を成人男性だと意識させた。
こんなふうに壊れ物を扱うみたいに、優しく触れられたことがないので戸惑ってしまう。
(暁翔様と一緒にいると安心するのに、鼓動が落ち着かないみたいに逸るのはどうしてなのかしら?)
首をかしげると、また真桜のお腹が食べ物を欲したので、暁翔に促されて庭に面した大きな建物に招かれた。
『ここが俺の住まいだ』
古風な日本家屋だが、かなり広そうだった。白月家の家がいくつも入りそうなほどの奥行きが見てとれる。
玄関から入ると、そこには一人の人型の妖が三つ指をついて迎えてくれた。
『暁翔様、おかえりなさいませ』
薄緑色の着物を身にまとった女性は、青みがかった髪を一つにまとめ上げており、ゆっくりと顔を上げて柔らかく笑む。
『ご苦労だった、
暁翔が言うと、彼女は「当然のことでございます」と誇らしげに答えた。
『反発する妖たちもいるが、水琴は信頼できる者だ。今日から真桜の世話をしてもらう』
暁翔が真桜の方を向いて、妖を紹介してくれる。
『よろしくお願いいたします、真桜様』
水琴は恭しく
『あ、あの、こちらこそ、何もわからないので、どうぞよろしくお願いします!』
真桜も慌てて深くお辞儀する。
『では、早速だが、湯殿に案内してやってくれ。俺は天渓谷に変わりがないか見て回ってくる。戻るまで、真桜を頼むぞ』
こうして真桜は彼の言葉に逆らえず、今に至るのだった。
ふと我に返り、真桜は目を開けた。
湯面に映る月明かりが静かに揺れている。ひと息ついて肩の力を抜くと、ゆっくりと湯から上がった。
すると、どこに控えていたのか静かに水琴が現れ、手際よく体と髪を拭いてくれる。なんだか自分が子どもにでもなったみたいで気恥ずかしいが、水琴の慈しむような笑顔に
「お湯加減はいかがでしたか?」
水琴がそう尋ねながら、絹の肌襦袢を身につけさせてくれる。信じられないほどなめらかな肌触りに真桜は感動した。
「はい。今までは桶に湯を汲んで拭くだけでしたので……とても気持ちよかったです」
梅と桜、そして山吹が描かれた淡い桃色の着物に着替え、帯を締め終える頃には、ずいぶんと自分が人らしい姿に戻った気がした。
「この着物は……」
「暁翔様のご伴侶――真桜様のために用意されたものですから、どうぞお受け取りください」
品よく焚きしめられた香が鼻腔をくすぐり、真桜は思わずはにかむ。
(伴侶、かあ……。どうにかして
二人に結ばれた赤い糸は幽世に来る頃にはすでに見えなくなっていたし、特に霊力が増したような感覚もない。
(あとで暁翔様に伺ってみよう)
広い座敷に入ると、大きな座卓に朱色の膳をはじめ、さまざまな料理が並べられていた。
彩り豊かな野菜のお浸しが盛りつけられた小鉢には、菊の花が乗っている。膳とは別に置かれた大きな皿には鮮やかな桜色をした鯛の塩焼きが、パリッと香ばしく仕上がっている。
他にも胡麻が振られた瑞々しい豆腐、栗と小豆の煮物など、まるで何かの祝い膳だ。
(――あ、婚礼のお祝いということかしら?)
そうでなければ、こんな大層な料理は白月家でも見たことがない。
「暁翔様の分はないのですか?」
「お戻りがいつになるかわからないので、真桜様には先に召し上がっていてほしいとのことでした」
水琴がそう言って、椀の蓋をそっと取ってくれる。
ほわりと立ち上る湯気が上品な出汁の香りを運んだ。
暁翔がいなければ、祝いの意味がないような気もしたが、彼は神の務めがあるのだろうし、一緒に食事をしたいなど我儘を言う資格は自分にはない。
少し残念ではあるが、出来立ての食事は母と暮らしていた子供の頃以来で、自然と手が箸に伸びていた。
「いただきます」
そう言って真桜は汁椀を手に持ち、静かに口をつける。
「ああ……とってもおいしいです」
温もりが喉を通ってお腹に落ちていくと、安堵で涙が出そうになった。
「おいしいごはん! おいしいごはん!」
歌うようにやってきたのはしろたちだ。盆に急須と湯飲み茶椀を載せている。
「わあ、真桜さま、お着物よく似合ってる。お姫さまみたい!」
まるの言葉に、真桜は「ありがとう」と言って照れ笑いを浮かべた。
「僕たちもごはん作るの手伝ったんだよ」
「ありがとう。あなたたちは働き者ね」
真桜が褒めると、しろたちはきゃっきゃっと声を上げて喜んだ。
「あたしたち、えらい! 暁翔さまと真桜さまのためにがんばる!」
「お手伝い大好き!」
「まあ、あなたたち、そんなにはしゃいだら真桜様がゆっくりお食事できませんよ」
水琴が静かに
その姿に思わずくすっと笑ってしまい、真桜は彼らの純粋さに心が温まるのを感じた。
今までこんなに
「天渓谷の恵みがお口に合いまして、よかったです」
「どれもおいしいです、ありがとうございます」
恥ずかしながら、空腹も手伝って箸が止まらない。やっぱり暁翔はこの場にいなくてよかったかもしれないと、心の中で照れながら食事を進めた。
「……こんなに豪勢なものを食べるのは初めてです」
震える声で告げると、しろたちは嬉しそうに体を揺らす。
「真桜さま、いっぱい食べてね!」
「お腹いっぱいになれば元気になるよ!」
彼らの言葉に真桜は微笑み返し、静かに感謝を込めて食事を続けた。
一人ではないことの幸せを噛みしめながら――。
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