第三章 翠の箱庭

第9話 温かい雨

 夜明けの光が、穏やかにたなびく雲を淡い紫色に染めていた。しかも不思議なことに水彩で滲ませたように徐々に空の色が変わっていき、彼方に至っては宵闇よいやみ色に塗りつぶされている。そこにちりばめられた、数多あまたの星がささめいていた。


 草花と水の清らかな香りを乗せた柔らかな風が、真桜の頬を撫でる。


「天渓谷……」

 震える声で、暁翔が教えてくれた言葉を口にする。


 目の前に広がる光景は、彼女がこれまで目にしたことのないものだった。


 空が不思議な色合いであることはもちろんだが、いろどりに満ちた花々が咲き乱れる丘、力強い緑が生い茂る草原、黄金色に輝く稲穂、霜の結晶がきらめく白き森――それらが一度に視界に飛び込んでくる。


「お日様とお月様が同時に出ているなんて……」

 驚きに満ちた真桜の声に、暁翔は微笑を浮かべる。


「ここは、妖や神が暮らす領域だ。現世のことわりとは違う。この天渓谷では、自然も時間も交わり、一つに結ばれている。三百年経っても変わっていないようで安心した」

 彼の声は穏やかで、どこか懐かしむようでもあった。


「変わっていないって……暁翔様、記憶が……!?」


「ああ。まだ体から完全に穢れが落ちたわけではないが、真桜の力のおかげですべて思い出したぞ。礼を言う」

 暁翔はそう言って目を細める。


(なんてまばゆい笑顔なのかしら――)

 夕焼けに照らされたみたいに頬が熱くなり、真桜は彼から目を逸らした。


 その目線の先に、一緒についてきた毛玉たちの姿がある。彼らは突然光に包まれたかと思うと、唐突に形を変えた。


「え!?」

 真桜が目を丸くすると、光が一層強く輝き、その中から現れたのは三人の童だった。


「真桜さま! やっとお話ができますね」

 一番に声をあげたのは黒い短髪に赤い目が印象的な少年だった。袖の長い黒装束を纏い、背には小さな漆黒の翼が揺れている。


「もしかして……くろ?」

 真桜が驚きながらも尋ねると、くろは嬉しそうに頷いた。


「わたしも、真桜さまにぎゅうってしてみたかったの!」

 続いて声をあげたのは、肩まで切り揃えられた雪の髪色をした少女だ。頭の上には大きな三角形の耳が生えている。真っ白な着物を身に纏い、ふさふさの尻尾を振る。


「しろなの?」


「そうだよ!」

 しろは暁翔に抱き上げられている真桜にぶら下がる。しかしその体には全く重さを感じなかった。


「あたしも、ちゃんと真桜さまに好きだって言いたかった」

 最後に話したのは、茶色の柔らかな髪の中から小さな二本の角を生やした、しろよりもさらに幼い顔立ちの女の子だった。


「あなたは、まる、ね」

 真桜が微笑むと、三人はにっこりと笑った。


 初めて聞く毛玉たちの声が、こんなにも温かく心に響くとは思わなかった。


「まだ幼い故、現世では人型にはなれないが、これならば真桜の世話もできるだろう」

 暁翔が微笑みながらそう言うと、三人が一斉に頷いた。


「真桜さま! これからは僕たちのこと、たくさん頼ってくださいね!」

 くろが目を輝かせて、翼をパタパタと自慢げに動かす。


「ありがとう。私もあなたたちとお話ができて嬉しいわ」

 真桜は花のように微笑んだ。


「では、地上へ降りるぞ」

 暁翔がそう言って、すうっと静かに高度を下げていく。


 翠の箱庭のように思えた大地が、徐々にはっきりしてくると大きな邸のような建物に向かって何かが集まり始め、遠くから次第に近づいてくるのが見えた。


 姿形はさまざまだが、すべてがこの地の一部であるかのように調和していた。

 その中には、真桜が退魔に関わった妖に似ている者もいて、胸がずきりと痛む。


(妖……にも、家族がいるのかしら。そうだとしたら、私は……今まで……)

 暁翔がそっと真桜を地面に下ろしたので、静かに自分の足で整地された庭に立つ。


「暁翔様のお戻りを切に願い、幾重の季節を巡ったことでしょう。この度のご帰還、ただただ嬉しゅうございます」

 一匹の妖が進み出て礼をとった。それに続き、他の妖たちも一斉に頭を下げる。


 だが、彼らの視線が真桜に向いた瞬間、空気が変わった。ざわつきが広がり、一匹の妖が口を開いた。


「暁翔様、その人間は……にえにするのですか?」

 その言葉を聞いた真桜の胸がきゅっと締めつけられる。冷たい視線が、一斉に自分に向けられているのを感じたからだ。


「違う」

 暁翔が静かに、しかし強く言い放つ。


「真桜は、俺の半身。花嫁だ」

 その声が響いた瞬間、妖たちは驚きと困惑に包まれた。


「花嫁? 今、暁翔様はそうおっしゃったのか?」

「人間ごときが暁翔様の花嫁だと?」

「暁翔様を禍ツ神にしたのは、その人間どもの欲深さではないのですか!」

 怒りを露わにする声が次々と上がる。中でも、鬼のような姿をした妖が前に出て、真桜を睨みつけた。


「暁翔様を禍ツ神にした挙句、その身を封じた人間を許すことなど、我らにはできません!」

「そうです! 身勝手な種族と縁を結ぶなど……っ」


「静まれ」

 暁翔が冷ややかな声を発すると、その場の空気が一気に凍りついた。


「真桜は俺をその封印から解き放った。穢れの浄化も協力してくれた。それ以前に、消えかかっていた俺を繋ぎ止めてくれた大切な存在。それ以上、侮辱することは許さない」

 その言葉に、怒りを露わにしていた妖たちが次第に声を潜める。それでもすべての妖が納得したわけではない。


「しかしながら、まだ穢れが残っておられる気配が……」

 不信感を拭いきれない者たちが後ろで密かに囁いている様子が真桜の胸を締めつけた。


「真桜さまは、僕たちの味方だよ!」

 突然、くろが真桜の前に躍り出て、胸を張って答えた。


「わたしが意地悪な人間に捕まった時も助けてくれたの」

 しろも一緒に彼女を庇うように両腕を広げる。


「こわがらずに、遊んでくれたんだよ」

 まるがにっこりと笑いかけると、明らかに妖たちの間に動揺の波が広がった。


「あなたたち……ありがとう」

 目の奥がつんと痛くなって、真桜の視界が滲む。


「私……どこまでできるかわからないですけど、暁翔様の穢れを払って、もう誰にも禍ツ神だなんて呼ばせません!」

 腹の底に力を込めて宣言すると、ふいに頬に冷たいものが当たった。


 ぽつ、ぽつ……やがて、それが大粒の雨に変わる。頭上に雲などないのに、どこから降ってきているのだろう。


「真桜……あまり嬉しいことを言ってくれるな」

 

 隣を見上げれば、暁翔が真珠のような頬を微かに染めて、憮然とした表情をしている。


(体に触れていなくても、天気を崩してしまう系ですか⁉)

 どうしたらいいのだろうと真桜が困惑していると、しろがニコニコと笑いながら真桜の腕を引いた。


「雨は、祝福の印。厄災ではないの」

 まるで心配していたことを言い当てたような言葉をもらい、真桜はくしゃりと笑う。


 ――それは、とても温かい雨だった。

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