12月23日 帰還
暗闇はどこまでも続いています。ここ数日で見飽きた光景ではありますが、昨日までとは違います。何と言っても今は、隣にすーちゃんがいるのです。
さっちゃんとすーちゃんは、たくさんお喋りをしました。とは言っても、話していたのはほとんどさっちゃんばかりです。すーちゃんがいなくなってから、起こったこと。見たもの。出会った人。考えたこと。話すことが多すぎて、暗い海底をどこまで歩いても、ちっとも歩き足りないくらいです。
二人は時々立ち止まって、コンパスを取り出し、方角を確認しました。コンパスには「帰り道を指して」とお願いしてあるのですが、これはなかなか難しい注文のようで、コンパスの針は来る時ほどにははっきりとしておらず、ふらふら左右に振れました。
では、すーちゃんの作業着のポケットに、何か迷子を解消するものが入っているかと思えば、そう簡単にもいかないようです。なにせ、すーちゃんのポケットに入っているものは、みんな水浸し。終わりの海の水を、たっぷり吸ってしまっています。
「これは、三日三晩吊るして乾かさないと、使い物になりませんね」
すーちゃんが、面倒くさそうに言いました。
後ろを振り返って、煙水晶の大壁が見えているうちは、まだ良かったのです。壁からひたすら遠ざかる方向に歩くのが、正解なのですから。問題は、壁が暗闇の向こうに消えてしまってからです。
「来たときは、テーマパークがあったはずなんだけど……」
自信なさげに、さっちゃんは言います。さっちゃんの予想通り、すーちゃんは首を横に振ります。
「たぶん、帰るときは、ないと思いますよ」
「そうだよね」
さっちゃんには分かっています。通ってきた場所はすべて過ぎ去った過去であり、そこをもう一度通って帰るというのは不可能なのです。さっちゃんたちは、どうしても、未来にしか歩みを進めていけないのですから。
「未来って、目印になるものが少ないんだね」
さっちゃんが不満げに言いますと、その子供っぽい口調が面白かったのか、すーちゃんがふふふと笑いました。
「そうですね。目印を見付けたと思ったら、ふいに消えてしまったりもするし。不確定要素だらけです」
「いやになっちゃう」
「ふふふ、そうですね」
文句を言いながらも、二人は歩きます。時々疲れたら、腰をおろして、暗闇の中でピクニックをしました。りーちゃんが非常食を準備すると言ったとき、迷う前提であることをおかしく思ったものですが、結局、彼女が正しかったのです。
非常食はたっぷりありますから、二人はひもじい思いだけはしませんでした。帰ったら、りーちゃんにお礼を言わなくてはなりません。
歩いて、休憩をして、また歩いて。それを何度か繰り返し、二人はとうとう、休憩でもないのに立ち止まりました。コンパスの針がぐるぐる回転したまま、どっちの方向も指さなくなったのです。
「コンパスも、疲れちゃったのかも」
すーちゃんが言いました。そうかも知れません。行きもずいぶん助けられましたし、帰りも頼りっぱなしでは、方位を示すのにも辟易するというものでしょう。さっちゃんはコンパスにお礼を言って、ハンドバッグの中にしまいました。
だけれど、そうしたら二人は、この暗闇の中を本当に手掛かりなしで歩かなければなりません。それはきっと無理なことだろうと、容易に想像がつきました。
このままむやみに歩いても、同じところをぐるぐる回ったり、もっと悪ければ大壁の方まで戻ってしまうかもしれません。かと言って、コンパスの疲れが取れるまでじっとしていては、暗闇と自分との境目が分からなくなって、自分の姿を保っていられなくなるかもしれません。
「そうだ、すーちゃん。これはどう?」
ひとつ思い付いて、さっちゃんは、ハンドバッグの中からいっぱいのどんぐりを取り出しました。ブナにコナラにクヌギにシイ。琥珀色のどんぐりたちは、かすかな光を放っています。それは行く先を照らすほどではありませんが、数歩先からであれば、ぼんやりと視認できるのです。
さっちゃんはクヌギの実を、足元に落としました。そして数歩行きましたら、シイの実を落としました。
「これだったら少なくとも、同じところをぐるぐる回ったり、元来た道を戻ってしまうことはないよ」
そうして、さっちゃんとすーちゃんは、どんぐりを落としながら、暗闇を進みます。方向は、当てずっぽうです。当てずっぽうではありますが、とにかく前には進めています。それで良いのです。
たまに後ろを振り返りますと、琥珀色のかすかな光が、闇の中に見えました。また少し歩いてから振り返りますと、数歩前に落としたどんぐりの向こうに、どんぐりよりわずかに明るい光が見えました。よく目を凝らしますと、それはどんぐりが芽吹き、可愛らしく開いた双葉なのです。
「私たちの通った道は、どんぐり並木になるかも知れませんね」
すーちゃんが、楽しそうに言いました。そうかも知れません。この暗闇にどんぐりが芽吹き、葉を繁らせ、やがてすずなりになったどんぐりが、闇の中に琥珀の道を敷くでしょう。あとから来る人々は、それでずいぶん、歩きやすくなるでしょう。
どんぐりはたくさんありましたので、二人はこのようにしながら、ずいぶん進むことができました。しかし、それにも終わりがきます。たくさんあると言っても、無限ではないのです。
やがてどんぐりは尽き、二人は再び、闇の中に取り残されます。コンパスはまだぐったりとして、疲れが癒えていないようです。
「どうしよう」
手を繋いだまま困っていますと、ふいに、さっちゃんのハンドバッグがぶるぶるっと震えました。何度か繰り返し震えまして、それはまるで何かが、ここにいるよ。と主張しているような動きです。
さっちゃんは、ハンドバッグの口を開いてみました。するとそこから飛び出したのは、一羽のうさぎでした。ピンク色をしていて、片方の耳がすり減っているうさぎです。うさぎは暗闇の中でも不思議とはっきり見ることができ、さっちゃんの目の前でぴょんぴょん跳ねました。
「ついてこいって、言ってるみたい」
さっちゃんは、すーちゃんの手を引いて、うさぎを追いかけます。うさぎは跳ねながら走り、ちょっと行ったら振り返って、さっちゃんがちゃんとついてきているか、確認します。
うさぎを追いかけているうちに、さっちゃんは、暗闇が暗闇でなくなっていることに気が付きました。
いつの間にかさっちゃんは、青白く光る草原の中を歩いています。それはちょうど、りーちゃんと一緒に乗った気動車の、その終着点によく似ている草原でした。
くるぶしにかかる程度の草丈の、みずみずしい柔草はどこまでも広がっています。ゆったりと丸みを帯びた丘陵の先に、かすかに、観覧車のシルエットが見えました。
もう二度と訪れることのない過去の場所は、遠景の中に青く霞んでいます。遠くの風景が見えますと、今、自分がどこにいるのかを把握するのが、ずっとたやすくなったように感じます。
「次の銀河へ漕ぎ出せり」
さっちゃんが、呟きました。りーちゃんが口にしていた一節を、ふと思い出したのです。そうしますと、前を跳ねていたうさぎが耳をぴくぴくっと動かしました。
風が吹き始めます。海底に広がる草原をざわざわと揺らし、草波を立てながら、風はさっちゃんの背を押すのです。
――次の銀河へ漕ぎ出せり。
風に乗って、そのような意味が伝わってきます。それはあるいは、揺れる柔草の立てる音でしかないのです。しかし、青い草原は確かに歌っています。さっちゃんには、歌われるその言葉が聞こえます。
次の銀河へ漕ぎ出せり。
ひとつの銀河の終わりの先に。
終わりの先には何もなく
何も生まれず何も死なねど
終わりも終わる。いつかは終わる。
終わりが終わる、その時に。
次の銀河へ漕ぎ出せり。
風はごうごう吹きました。さっちゃんとすーちゃんは、追い風にほとんど突き飛ばされるようにして、よろけながらうさぎを追いかけます。風はいつしか嵐となりました。ひとつの嵐が、生きもののように、草原を暴れ回っています。
――漕ぎ出せり。漕ぎ出せり。
――漕ぎ出せ! 漕ぎ出せ!
嵐の音は、声を揃えて怒鳴ります。そう、それはもう歌声などではないのです。怒声を上げ、うねり、草の葉を巻き上げながら、風は猛獣のように吹き荒れます。
すーちゃんの口が動き、何か言ったのが分かりました。けれど、何と言ったのかは分かりません。風の音があまりにすさまじいので、もう何も聞こえないのです。風の音と、風の声のほかは、もう何も。
もはや目を開けているのも難しいほどの暴風の中、さっちゃんは、前を行くうさぎが立ち止まったのを見ました。うさぎは振り返ってさっちゃんを見て、そして後ろ脚で立ち上がり、天を指差しました。その先には、煌めく北のひとつ星があります。
――いざ、次の銀河へ!
その一声と共に、嵐がひとつの塊になりました。そしてさっちゃんの元へ集まり、さっちゃんを取り囲んで渦を巻きます。暴風にもみくちゃにされながら、さっちゃんとすーちゃんは、手をしっかり握りなおします。
風はやがて輝く泡となりました。暗い海の底に生まれたあぶくは、その身のうちから光を輝かせ、その身にまとった浮力をもって、ものすごい速さで上へ上へと昇ります。さっちゃんとすーちゃんは抱き合うようにして、海面を目指すあぶくに身を任せました。
輝く銀河の中に溺れたような心地がします。あぶくたちに押し上げられながら、さっちゃんはその光の渦のすきまから、元いた海底を見ました。そこに立つピンクのうさぎが、さっちゃんに手を振って、それからちいさなひとつのあぶくになりました。
うさぎ一羽ぶんのあぶくが加勢して、さっちゃんとすーちゃんは、いよいよ目にも見えないスピードで、海を昇ります。上へ、上へ、上へ……。
そしてとうとう、あぶくがはじけました。
深い深い海の底から、光をまとった泡の粒が、海面を押し上げて夜に咲きます。大波が起きました。それは海底火山の噴火と見まごうばかりの迫力で、実際、舟の上でさっちゃんの帰りを待っていたりーちゃんは、始め、そう思ったのでした。
「いけない。火山が噴火した。さっちゃんは無事だろうか」
泣き出しそうになりながら、あわてふためくりーちゃんに、舟屋の主人は海の一点を指差してみせました。そこには光の渦があり、光の腕を四方へ伸ばしながら、ゆっくりと回転速度を落としつつあります。その中心に浮かんでいるのは、間違いなく、さっちゃんなのです。手を繋いで、一緒にぷかぷかしているのは、すーちゃんです。
舟屋の主人は、光の渦へと舟を寄せました。舟はいくらか渦の流れに押されましたが、制御を失うほどではありません。慎重に渦の中心へと寄って行き、さっちゃんとすーちゃんを船上へ引き上げました。
海の中はそれほど冷たくはなかったのに、濡れた体で舟へ上がったら、風のなんと冷たいことでしょう。がたがた震えながらくしゃみを連発する二人に、りーちゃんは吊りスカートのポケットから取り出したブランケットをかけました。それから、はちみつとブランデーを混ぜたホットミルクを一杯、手渡しました。
さっちゃんはお礼を言おうとしましたが、声すら凍り付いてしまっています。
「いいから、まずはお飲みよ」
りーちゃんに促され、さっちゃんはホットミルクをひとくち飲みました。甘くて、熱い。これまでに飲んだ、どんなホットミルクよりも美味しく感じます。マグカップの半分ほど飲んだところで、ようやくさっちゃんの喉の凍てつきが融けました。
「りーちゃん、ありがとう。ただいま」
まだ震える声で、さっちゃんが言いますと、りーちゃんはうつむいて、「うん」とだけ言いました。
「私も、ただいま。探してくれてありがとう」
すーちゃんも、りーちゃんにお礼を言いました。ところが今度はりーちゃんは、うつむいたりはしないのです。きりっとすーちゃんを睨みますと、「あのねえ」と声を尖らせます。
「ずいぶん手間だったんだからね。しばらく、ミトラは特別価格で売ってよね」
「分かった、分かった」
声と言葉は尖っているのですが、その裏に少し湿っぽいものを感じましたので、りーちゃんが後ろを向いたすきに、さっちゃんとすーちゃんは顔を見合わせて笑いました。
舟はやがて浜へ着き、皆は連れだって舟屋へ戻りました。やかんを乗せたストーブを囲み、天の川白湯を飲みながら、さっちゃんはこの旅の顛末を話します。アンとの別れ、おばあちゃんとの再会。そして、煙水晶の大壁で見たもの。
「そういうことだったのか」
話を聞いて、りーちゃんが半分呆れたように言いました。
「命綱が切れたから、一体何があったのかと思っていたけど、まさか自分で切ってたなんて。帰れなくなったら、どうするつもりだったの?」
たぶん、りーちゃんは少し怒っているのです。さっちゃんはそれを申し訳なく思いながら、しかし自分の選択が間違いだったとは思いませんから、少し笑いながら「ごめんね」と言いました。「いいけど」と、すねるりーちゃんの肩を、すーちゃんがつんつんつつきます。
「私がついているんだから、大丈夫に決まってるじゃないですか。まったく、心配性さんなんだから」
「そもそもおまえが、砂の海に落っこちたりしなかったら、こんな苦労はしなくて済んだんだからね。反省しなさいよ」
つつきあいながら言い合う二人は、本当に、仲が良いのです。さっちゃんはそれを見て、くすくす笑いました。舟屋の主人も、笑ったようでした。
「さて、でも本当に、帰って来られて良かったよね」
りーちゃんが、吊りスカートのポケットから取り出した懐中時計を見ながら、言いました。時計は時刻だけでなく、月の満ち欠けや潮の満ち引き、地球の日付も銀河の年齢も示しています。地球の日付は、どうやら十二月二十三日。
「これでゆっくり、クリスマスを過ごせる」
りーちゃんが呟きました。
「そっか。クリスマスか」
さっちゃんも呟きました。
そしてまばたきをひとつしますと――さっちゃんはいつの間にか、クローゼットの前に立っているのでした。
久しぶりの感覚です。電気がぷつんと切れるみたいに、唐突に、元の世界に戻ってきたのです。さっきまでそこにいたはずのりーちゃんも、舟屋の主人もいません。せっかく再会できたすーちゃんも、どこにもいません。
お部屋に帰るのは、ずいぶん久しぶりの気がします。ずっと、すきまの世界にいたのです。まばたきひとつでここへ帰されることが、以前は当たり前であったはずなのに、今日はそれをひどく寂しく思います。だけれども、仕方がないのです。元より、そういうものなのですから。
さっちゃんは、ハンドバッグからバスカードを取り出しました。真っ黒だったカードは、もうそのほとんどが銀河に埋め尽くされていますが、まだ一回くらいは使えそうです。
最後の一回は、あの人たちにお礼を伝えるために使おう。と、さっちゃんは決めました。すきまの世界に住む、あの親切で愛すべき人たちに、お礼とさよならを伝えるのです。
別れの決心をして、さっちゃんは、バスカードをローテーブルの上に置きました。その時です。
「わあっ!」
声と共に、誰かが突然、さっちゃんの目の前に現れたのです。
あっと驚いて、さっちゃんは床に尻餅をつきました。部屋に入って来た何者かも、同じように、床に引っ繰り返りました。ただひとり、すーちゃんだけが、優雅に着地を決めました。
「えっ、すーちゃん?」
さっちゃんはすぐに立ち上がり、その人の頬に触れました。それから、まだ床に転がったままのりーちゃんの頬にも、触れました。ぺたぺた触って、それが夢や幻ではないことが分かりますと、さっちゃんは、自分の頬にも触りました。もちろん確かに、さわれます。
「えっ、えっ? どうしてここに?」
りーちゃんが起き上がるのを待ってから、さっちゃんが尋ねますと、まずすーちゃんが、りーちゃんの脇腹を肘でつつきました。りーちゃんが、それを肘で押し返しました。肘で押し合いへし合いしている二人の間に、どうどうどうと入っていきまして、さっちゃんは「どうしてここに?」と、もう一度、同じことを尋ねます。
「だって、すーが行きたいって」
「違うでしょ。行きたいって言ったのは、りーちゃんでしょ。私は何度も来てるもん」
「何度も来てるけど、一緒に行きたいって言ったんでしょ」
「りーちゃんがね。そういうことなんですけど、私たちが寝る場所、ありますか?」
お部屋じゅうに満ちていた寂しさが、ひと息に吹き飛ばされて、消えてなくなってしまいました。さっちゃんはもう、大笑いしたいのをこらえながら、ベッドにありったけの毛布や布団を集めました。狭くはありますが、三人くっつけば寝られないこともないでしょう。
ささっと寝床を整えまして、しかし寝る前に、お風呂に入らなくてはなりません。
「シャンプーとかタオルとか、歯ブラシとかパジャマとかは、何も心配しないで。私のスカートのポケットに、何でも入っているから」
「私の作業着のポケットにも、何でも入っていますから。今はちょっと、水浸しだけど」
得意げな二人に、さっちゃんはまた、腹の底からこみ上げてくる大笑いを噛みしめました。そして湯舟にお湯を張りに、お風呂へ向かいます。
ちょうど、日付が変わりました。
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