12月22日 海淵の大壁


 海の底を歩いて行った果てに、さっちゃんはとうとう大壁にぶつかりました。近寄ってみますと、壁はどうやら巨大な煙水晶で、本当に上下左右にどこまでも連なっています。煙水晶の中には様々の化石があり、それらがじんわりと光を滲み出していますから、壁はこんなに暗い中でも見えるのです。


 ひとくちに化石といっても、様々ありました。さっちゃんが化石といって思い浮かべるような、渦巻きの貝もありましたし、シダのひとひらもありました。魚と、それをついばもうとしている鳥の姿もありました。

 そうかと思えば、化石というにはとうていおかしなものたちも、埋まっているのです。たとえば、ちびたクレヨン。底に大穴の空いたブリキのバケツ。古びたカンテラ。ガラス製の天使のオーナメント。

 化石になるほど古い年代のものとは思えないものたちが、しかし化石らしく地層に圧し潰された平べったい姿で、そこにあるのです。そして七色であったり鈍色であったり、あるいは青白かったり金色であったり、それぞれの色に光っています。


 壁の前には、何人かの人影がありました。彼らはそれぞれ手につるはしやのみを持っていて、どうやら壁を掘って化石を取り出しているらしいのでした。暗闇に響いている、こつーん、こつーんという音は、その音だったのです。

「もしもし」

 発掘作業をひと段落させた人を見付けて、さっちゃんは話し掛けてみます。

「何を掘っているんですか」

 その人は、さっちゃんの声は確かに聞こえているはずでした。ところが何も言いません。さっちゃんの方を、まったく見ないふりをして、横目でちらっと見たのは分かりました。けれど、それっきり知らんぷりです。

 さっちゃんは、別の人にも声を掛けました。けれど結果は同じことで、さっちゃんの声は聞こえているのに、聞こえないふりをするのです。誰に話し掛けても、同じことでした。ここの人々は、化石を掘り出すのに大忙しで、ほかのことに構っているひまはないのかもしれません。


 ここの人たちから話を聞くのを諦めて、さっちゃんは、壁沿いに歩いてみることにしました。海淵に横たわる煙水晶の大壁は、右にも左にも続いています。

 取り合えず、左に向かって歩いてみます。右手で壁の表面を撫でながら、埋まっている化石をひとつひとつ、見て行きます。


 化石は、物にしろ生きものにしろ、だいたいがさっちゃんの見たことのあるものでした。ときどき、見たことのない形の生きものが埋まっていて、それはもしかしたら、さっちゃんの知らないミトラなのかもしれません。

 丸い目玉ばかりが埋まっている地層もありました。意外にもそれほど不気味とは思わずに、さっちゃんはころころまんまるの目玉をしげしげと見つめます。瞳は透き通ったアンバーで、それを見てさっちゃんは、りーちゃんが持たせてくれた非常食の中に、どんぐりがあることを思い出しました。

 ずいぶん歩いて疲れましたし、ここいらで甘いものを食べるのも良いでしょう。そこでハンドバッグの中から、細長いかたちのコナラをひとつぶ取り出しました。壁に埋まった瞳と同じ、澄んだアンバー色です。口に放り込みますと、優しいはちみつの味がいっぱいに広がりました。それを舌の上で転がしながら、さっちゃんはなおも歩きます。



 その地点を通ったとき、さっちゃんがよく耳を澄ましていたのは、まったく幸いといったところでしょう。幾人かの人々が壁の前に集まって、ひそひそ話していました。それがたまたま、さっちゃんの耳に届いたのです。

「やあ、今度はまた、たくさん流れ着いた」

「向こうの新しい地層に、まとめて埋まっているってよ」

「時期が時期だから。そりゃあたくさんあるだろうよ」

 それを聞いたとき、ぴんときて、さっちゃんは話に割って入りました。

「それって、どこの地層の話ですか」

 ひそひそ話をしていた人々は驚きましたが、しかし発掘作業に没頭する人々のように、さっちゃんを無視することはありませんでした。

「あっちだよ」

 と、そのうちの一人が、壁の先を指差しました。

「よく光っている部分があるだろう。流れ着いて化石になったものが、まだ冷えていないから、明るいのだよ」

 そちらを見ますと、彼の言う通りに、わずかですが周りの壁よりも明るく光っている場所があるのです。


 さっちゃんはそちらへ走っていって、壁を見上げました。そして、「あっ」と驚愕の声を上げました。ちょうどさっちゃんが見上げた、その正面の壁に埋まっているのは、人の姿なのです。そしてそれは、紛れもなくすーちゃんなのでした。


「すーちゃん」

 さっちゃんが呼びかけても、すーちゃんはぴくりともうごきません。平べったい化石になって、目を閉じたまま壁に埋まっています。

 さっちゃんが急に走り出しましたので、何事かとついてきた人々が、遅れてさっちゃんに追いつきました。そして、壁に埋まっている女の子と、壁を見上げて絶句しているさっちゃんとを、交互に見ました。


「これを掘り出しに来たの?」

 一人が、さっちゃんの様子を気づかいながら、恐るおそる尋ねました。

「化石になっているなんて、知りませんでした」

 さっちゃんが呆然と言いますと、人々は顔を見合わせて、気の毒そうに眉を下げました。

「ここに流れ着いたものは、ほとんど化石になるよ。そして少しずつ、放棄の海へ溶けていくんだよ。あっちで発掘をしている連中は、目当てのものが完全に溶けてしまう前に、なんとか取り出そうとしている。あんたも、そうするかね」

 さっちゃんがうなずきますと、その人々はまた何やらひそひそと話しまして、くたびれた革の鞄からつるはしを取り出して、さっちゃんに差し出しました。


 つるはしは、ずいぶん錆びていて、ところどころに欠けも見えます。きっとかなりの年月、使い込まれたものなのでしょう。さっちゃんはそれを受け取って、それから、その親切な人々を見ました。

「私たちにはもう、それほど必要のないものだよ。あとで返してくれればいい」

「そうそう。私たちの掘り出したかったものは、とっくに海に溶けてしまったから」

「だらだらと、ここに留まっているだけだから。あんたにこそ、それは必要だろう」

 つるはしは、二本。大きいのと小さいのがあります。さっちゃんはその人々に深々と頭を下げ、お礼を言いました。それから、すーちゃんの埋まっている壁に向き直ります。


「まずは大きいつるはしで、遠いところから掘っていくんだよ」

「傷つけないように、少しずつ」

「細かいところは、小さいつるはしで、丁寧に」

 横から、頼もしいアドバイスが入ります。さっちゃんは大きいつるはしを持って、すーちゃんから遠い部分の煙水晶に、こつーんと打ち込みました。煙水晶は大きく削れ、壁の周りを漂ってから、海へと溶けていきます。

 こつーん。もう一度、打ちました。壁はまた削れましたが、すーちゃんを掘り出すにはまだまだ時間がかかります。


 これは、大変な作業です。だけれどもちろん、さっちゃんは続けます。黙々とつるはしを振り、細かいところは小さなもので、丁寧に削ります。

 ハンドバッグの中に虫眼鏡がありましたので、指と指の間を掘るときなんかは、それも使って、決してすーちゃんを傷つけてしまわないよう気を付けました。

 虫眼鏡で煙水晶を除きますと、水晶を曇らせているものの正体が、熱的死を迎えた宇宙の残骸であることがよく見えました。ここには本当に、真実の終わりがあるのです。


 こつーん、こつーん。すーちゃんを掘り出す作業は続きます。

 これまでは、海の底の冷たさは、それほど気にならなかったのに、ここに来てさっちゃんの指先は冷え始めました。つるはしを持つ手がかじかんで、さっちゃんは何度もつるはしを起き、指先をこすり合わせました。

 冷たく孤独な作業の中で、化石になっているすーちゃんが、安らかに目を閉じていることが救いでした。痛かったり、苦しかったりはしないのです。すーちゃんはまるで温かなお布団の中で、多足の猫を抱えて眠っているかのように、穏やかで安心しきった表情をしています。

「すーちゃん、目を覚まして。一緒に帰ろう」

 それがすーちゃんを呼び起こす呪文であるかのように、さっちゃんは呟きながら、つるはしをふるいます。こつーん。ひとつふるうごとに少しずつ、しかし着実に、すーちゃんは煙水晶の大壁から切り離されていきます。



 そしていよいよ、すーちゃんの肩のあたりに、小さなつるはしを打ちこんだその時でした。

 ぴしりと音がして、煙水晶に亀裂が入ります。すーちゃんの肩が、背中が、壁から離されます。さっちゃんは慌てて、つるはしを置き、倒れるように壁から剥がれたすーちゃんを受け止めました。

 すーちゃんの体を覆っていた煙水晶が、本当の煙のようにすじを描きながら、海へと溶けていきます。


「早く、早く。光を与えなさい」

 そう言われて、さっちゃんは急いでマッチ箱を探しました。しかしここに来るまでに、マッチは使い切ってしまったのです。

 ですから次に、ホシウの羽から採った、水素の炎を取り出しました。炎は、いくらかすーちゃんに光を与えました。すーちゃんの髪の毛の、ほんの端の方が、化石らしさを失って、色を取り戻します。しかし、とても足りません。

 ほかに光を与えられるものは。探したときに、さっちゃんは、もう、たったひとつのものしか思い浮かびませんでした。


 腰に結われた命綱をたぐり寄せられるだけたぐり寄せて、大きなつるはしでひと打ちします。銀河フィラメントは相当丈夫な繊維ですが、終焉の煙水晶を打ち砕くつるはしには、敵わなかったようです。綱はほろほろとほぐされて、細い繊維となりました。

 さっちゃんはそれをかき集めて綿のようにし、すーちゃんの頬にそっと触れさせました。それから肩や胸や腹にも。手足の先にも。銀河フィラメントの光を与えます。

 光に触れるたびに、すーちゃんの体には色と生命が戻りました。そしてその分だけ、銀河フィラメントからは光が失われていきます。

 銀河フィラメントがすっかり暗い糸くずになってしまったあとで、まだ目を閉じたままのすーちゃんを抱きながら、さっちゃんは待ちました。光が、やがてすーちゃんの全てにいのちを吹き込むまで、じっと息を殺して待ちました。


 どれほど待ったことでしょう。腕の中のすーちゃんが、ほんの少し、温かくなったような気がします。さっちゃんは、すーちゃんを抱く腕に力を込めて、「すーちゃん」と呼びかけました。すーちゃんのまぶたが、わずかに動きます。

「すーちゃん」

 もう一度呼びかけますと、すーちゃんは「ううん」と確かに声を上げました。そしてとうとう翡翠色の瞳に、さっちゃんの姿を映したのです。


「ああ、さっちゃん。待ってましたよ」

 その掠れた一言が、目を覚ましたすーちゃんの、最初の言葉でした。

「待ってたの?」

 さっちゃんが問いますと、さっちゃんの腕の中で、すーちゃんはうなずきます。

「眠っている間、まぶたの裏に何度か閃光が見えました。雷が、手紙を届けてくれたんです。さっちゃんの声がしました。待っててね。きっと行くからねって」

「そうなの……」

 さっちゃんは言葉を失って、すーちゃんをぎゅっと抱きしめました。すーちゃんも、さっちゃんを強く抱きしめ返しました。


 前に手を繋いだときは、すーちゃんはさっちゃんよりも少し体温が高かったはずです。今、すーちゃんの体はずいぶん冷え切ってしまっています。それでも、もう冷たい化石ではありません。確かに、生きているのです。

 さっちゃんの後ろで、ひそひそ話の人々が、ずずっと鼻をすすりました。



 それからさっちゃんは、ひそひそ話の人々にお礼を言って、つるはしを返しました。そして、ただつるはしを返すだけでは、この溢れる感謝の気持ちを伝えきれないと思いましたから、さっちゃんはここでお茶休憩をして、その休憩に彼らも招くことにしました。

 なんにせよ、すーちゃんの体力を回復させなくてはいけませんから、休憩するのは必須なのです。


 煙水晶の大壁の前でお茶休憩をするというのは、なんとも珍妙な光景でした。保温ポットに入れたミカン茶は、まだ湯気をたてています。どんぐりを煮詰めて作ったシロップを溶かせば、体も温まるし、糖分も摂れて疲れも癒えます。

 ひそひそ話の人々に喜ばれたのは、ミカン茶よりも麦酒でした。泡立つ黄金の麦酒を注ぎながら、さっちゃんは、金の星落ちたの歌を歌います。それはひそひそ話の人々にたいへん好評で、彼らはほろ酔いになりながら何度も繰り返し、その歌を歌いました。


 すーちゃんは、休憩を始めてすぐは体力が戻っておらず、どこかぼんやりとしたままでした。しかしシロップ入りのミカン茶を飲み、干しブドウやナッツを混ぜ込んだクリームチーズをパンに塗って食べますと、たちまち元気を取り戻しました。

 さっちゃんが手帳を開き、トショ渓谷で書き留めたメモを見た時には、もう飛び上がらんばかりの大喜びです。

『トショ渓谷にてピクニック。銀の皿の上にご馳走を盛りつける』

「すーちゃんのために。って書いてあります。さっちゃん、ありがとう」

 銀のお皿に盛りつけられた、終わりのイブのご馳走を、すーちゃんは味わっていただきました。もうすっかり、元の食いしん坊のすーちゃんです。さっちゃんは安心して、目尻をそっとぬぐいました。



 お茶休憩は、ミカン茶と麦酒がなくなるまで続きました。休憩が終わりますと、酔っぱらってご機嫌の人々に、さっちゃんはもう一度丁寧にお礼を言って、そして壁の前で別れました。

 無事にすーちゃんを見付けはしましたが、これから、海の上へ戻らなければなりません。りーちゃんが、舟屋の主人が、さっちゃんが戻るのを、今か今かと待っているはずなのです。


「でも、命綱、切っちゃった」

 銀河フィラメントの命綱は、すーちゃんに光を取り戻すのに使ってしまいました。さっちゃんは今、手放しに、終わりの海の中に取り残されているのです。

 しかし、ちっとも心細くありません。それは何も不思議なことではなく、さっちゃんはすーちゃんと手を繋いでいますから、たとえ終焉の中をさまようことになっても、きっと大丈夫なのです。


「一緒に帰ろう、すーちゃん」

「一緒に帰りましょうね、さっちゃん」

 二人は手を繋いで、壁を背に歩き始めます。ひとつの明かりもない、真っ暗な海の底。二人は何も怖くはありません。


 ちょうど、日付が変わりました。

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