12月20日 ショーウインドウ


 さっちゃんが目を覚ましたとき、窓の外は相変わらずぼやりと白んでおり、今が果たして朝なのか、ちっとも分かりませんでした。すぐに、そもそもここは宇宙の果てで、朝も夜もないのだと気が付きますと、さっちゃんは耐え難い寂しさを感じました。

 なんて遠くまで来てしまったのでしょう。さっちゃんは、これから、もっと遠くへと行くのです。


 りーちゃんもアンも、まだ眠っています。さっちゃんは二人を起こしてしまわないように、そっと毛布を抜け出しました。そして、ミトリズクの籠の脇をすり抜けて、そっと舟屋の外へ出ます。


 刺すような寒気に首元を襲われて、さっちゃんはぎゅっと肩をすくめました。足首もまた冷気に掴まれまして、さっちゃんの体はぶるぶる震えます。震えながら、さっちゃんは、モノオキ沖の浜を歩きました。

 水晶は、朝も夜もないこの場所で、朝も夜もなく光っているのです。その透明の中に燃える炎は、どこかの星が終わった瞬間の光であり、さっちゃんが足をどけたあとに揺らめくプラズマは、その終わりのあとに漂う墓標のようなものでした。


(ここは終わりの淵。この先にあるのは、本当の終わりなんだわ)

 考えながら、さっちゃんは、何億もの墓標の上を歩きました。さっちゃんの足音を聞き付けまして、翡翠のカニが、慌てて砂の中に潜り身を隠します。足音が通り過ぎますと、やれやれといった調子で顔を出し、真珠のような泡をぶくぶくやりました。


 水晶の浜を、三角標の立っている辺りまで歩きまして、さっちゃんは回れ右をして舟屋へ戻りました。

 もしりーちゃんたちが起きていたら、さっちゃんがいつの間にかいなくなっていますから、心配しているかもしれません。そう思って急いだのですが、さっちゃんが舟屋の戸を開けたとき、まだみんな眠っていました。籠の中のミトリズクだけが、うすぼんやりと瞼を開き、ぐうう。と、いびきのような声で鳴きました。


 再び毛布に潜り込みますと、毛布の内側にこもった熱が、さっちゃんの手足をじんじんうずかせました。さっちゃんの体は、すっかり冷え切ってしまっていたのです。

 その痺れを心地よく感じながら、さっちゃんは目を閉じて、二度寝を決め込みます。眠気も疲れもなく、さっちゃんの意識は、ただ心地良さの中に沈んでいきました。



 皆が起き出したというのが、つまり、朝が来たということなのです。舟屋の主人は、体を縮めたり伸ばしたりして、朝の体操をしました。そして、ここにいる全員のために、天の川白湯を温めてくれました。

 さっちゃんとりーちゃんは、保温缶に入れて持って来た、野菜スープをいただきました。アンは飲み物だけで良いと言いますから、天の川白湯をたっぷり二杯飲みました。舟屋の主人は、いつもこればかり食べているのだという、茹でたとうもろこしの輪切りをひときれ食べました。


 食事をしながら、りーちゃんはやけに、饒舌でした。まるで昨日の沈黙を忘れたかのように、今日の宇宙天気や潮の満ちる時間のことなどを話しました。

 りーちゃんは怖いんだわ。と、さっちゃんは思います。りーちゃんは、ここにいる全員のために、今日の続きの明日が当たりまえに用意されているのだと、信じ込もうとしているのです。その証拠に、りーちゃんはひとつ、未練を口にしました。

「ねえ、さっちゃん。本当に、あの海へ潜る? きっとずっと待っていれば、いつかすーちゃんは浮かんでくるよ」

「あなたたちにとってのいつかは、私にとっては永遠に来ないかもしれない。そう言ったのは、りーちゃんじゃないの」

 そう言いますと、りーちゃんは「そうだね」と言って、傷付いたような心細いような顔をします。さっちゃんは、急にりーちゃんが愛おしくなり、また同時に、この人を置いて終わりの向こうへ行こうとしていることを、心底申し訳なく思いました。

 ――今日は、海が穏やかだ。

 舟屋の主人が、唐突にそんな意味のことを伝えてきました。それは誰が見てもすぐに分かることだったのですが、もしかしたら彼は、りーちゃんを慰めようとしたのかもしれません。


 朝ごはんを簡単にいただきましたら、三人はいよいよ舟に乗り、モノオキ沖の沖へと漕ぎ出します。舟屋の主人は、すっかり懐いたミトリズクを肩にとまらせて、歌を歌いながら櫂を漕ぎます。


 ホオウ、ホウ

 たがねを打てば あかがねはぜて

 兎が飛ぶ飛ぶ お月様


 報せも知らぬ 便りも絶えぬ

 いざきざはしを断ち切らん

 ホオウ、ホウ


 歌を聞いて舟へと集まってきたものたちに、それぞれの終わりを与えながら、舟屋の主人は沖へ沖へと漕いでいきます。

 しばらく行きますと、水平線の向こうから、銀河に負けず劣らず明るい光が姿を現しました。赤っぽいその光の現れたあとに、更に漕いでいきますと、青白い光が二つ。そしてもうひとつ、青白い星。空に輝く巨大な十字。あれが、南十字に違いありません。


 さっちゃんは舟の上に立ち、腰に銀河フィラメントの命綱を固く結びました。結び目は、りーちゃんが何度も何度も確認しましたので、きっとほどけることはないでしょう。

 海はどこまでも黒く、しかし不思議なことに、南十字の光だけは、穏やかな波間に反射しています。水面に映る十字の星は、波の動きにゆらめいて、時々大きく歪みました。さっちゃんは舟のへりに立ち尽くして、しばらくその光を見つめていましたが、やがて決意を固めました。

「じゃあ、行ってきます」

 そう言ったさっちゃんの手を、りーちゃんが握りました。なにか話したそうに口を開いたものの、結局言葉を見付けられずに、りーちゃんは「行ってらっしゃい」とだけ言いました。そして、吊りスカートのポケットから、非常食として持ってきていたたくさんのものを取り出しますと、ありったけ、さっちゃんのハンドバッグにつめこみました。


 さん、に、いち。心の中で数を数えて、ゼロ。と共にさっちゃんは、海へ飛び込みました。水面にゆらめく十字の光が、ちょうど交差するその地点に、白くあぶくが立ちました。


 どぼん。最初の音は、さっちゃんが海に飛び込んだ音です。どぼん。音は二回、鳴りました。あぶくの中で、さっちゃんが上を見ますと、なんとアンも海へと飛び込んでいたのです。

「ど、どうして」

 驚愕の言葉は、ごぼごぼという水音になって、水面へと昇っていきます。

「ほら、さっちゃん。きちんと足元を見て潜らなければ、溺れてしまうわよ」

 アンは相変わらずの、つんと澄ました顔で、さっちゃんの隣に並びました。そして、ダンスのエスコートをするように、さっちゃんの手を取ります。


 海へ潜ったはずなのに、さっちゃんの足元には、階段がありました。それはサボン温泉で、湯舟の中に階段が続いていたのと同じことなのでした。

 足を踏み外し掛けたさっちゃんを、アンが優雅に支えまして、姿勢をしゃんと取り戻させてくれます。上へ上へと引っ張られる浮遊感に抗いながら、さっちゃんは一段ずつ、階段を下ります。


 ようやく階段に足がしっかりついてきたとき、「どうして」と、さっちゃんはさっきの疑問の続きを口にしました。

「どうして来たの。命綱をつけているのは、私だけなのに」

 アンは澄ました表情を崩すことなく、「だって、もとよりそのつもりだったのだもの」と言いました。

「あたくしが、ただ見送りのためだけに、舟に乗ったとお思いでしたの? あたくしも、海へ潜ろうと思っていたのよ」

 それはつまり、終わるということです。絶対的な終わりの中に身を置くということです。アンは、そのことをちゃんと承知していて、さっちゃんと一緒に海へ飛び込んだのでした。


「以前にも、モノオキ沖へ向かう高速バスで一緒になったでしょう。本当はあの時に、終わるつもりだったのよ。トリドリ公園でねえさんが終わるのを見送って、それからあたくしも、終わるつもりでいたの」

 アンの真っ白な横顔は、真っ黒な海の中にあって神々しく輝いています。さっちゃんはその白さに見とれながら、アンの話の続きを聞きます。

「ねえさんは、きちんと捨ててもらえたのね。あたくし、ねえさんの思い出話を聞いたわ。もうどうしようもないくらい、割れてしまったんですって。それで、真っ白な鷺になって飛んでいったわ」


 そのときちょうど、階段が終わりました。上を向いても水面は見えず、ずいぶん深いところまで来たようです。ここが、海の底でしょうか。

 さっちゃんとアンは、ひとまずお喋りをやめて、海の底を歩きます。あんまり暗かったので、さっちゃんはハンドバッグからキーリングを取り出して、マッチとろうそくのキーホルダーを外しました。左手で撫でて元の大きさに戻し、マッチを擦ります。

 ここは海の中ですから、果たして火が点くのか心配ではありましたが、マッチはシュッとかすかな音をたてて、小さな明かりを灯しました。その火をろうそくに移し、足元を照らしながら、二人は進みます。


 今、歩いている方向が、正しい方向なのかはちっとも分かりません。たぶん、階段を降りてから真っ直ぐ前方に進んでいるはずですが、それも確かなものではありません。

 ろうそくは二人の足元を照らしながら、次第に短くちびていきます。そしてとうとうろうそくが燃え尽きてしまったとき、二人は、足元が灰色の石畳になっていることに気が付きました。

 そういえば、もう、ろうそくが必要なほど暗くもないのです。石畳の先に、温かい色の街灯が見えました。その先に、建物も見えました。


「あっ!」

 アンが、ぱっと白い服のすそをひるがえして走り出します。街灯を走り過ぎ、建物の前まで行きますと、手を振ってさっちゃんを呼びました。さっちゃんも小走りで、アンに追いつきます。

 アンが食い入るように見ているのは、お店のショーウインドウです。上品なワインレッドの絹の上に、アンティークの品々が並べられています。真鍮製のゴブレット。繊細な彫刻が施された、ウォールナットの万年カレンダー。青いガラスの薬瓶。万華鏡のようにきらびやかな模様のモザイクランプ。

 どれも気品があり美しいのですが、それらの中央に、ひときわ目を引くものが飾ってあります。白磁のティーポットです。


 一点の曇りもない、透き通るような白。その中にきらりと光る金色は、どうやら初めからある装飾ではなく、一度割れたものを金接ぎで修復したもののようでした。アンは目を細めて、望郷の眼差しで、ティーポットを見つめます。

「彼は、あたくしだけは絶対に売ろうとしなかったわ。毎日手入れをして、まるで道行く人みんなに自慢するみたいに、ショーウインドウに飾っていたけれど、でも決して売ろうとはしなかった」

 アンが、さっちゃんに話しているというよりは、ほとんどひとり言のように呟きました。

「買い手がついて、よそへ行く友達を羨ましくも思ったけれど、彼に大切にされることは、それ以上に嬉しかったわ」


 橙色の街灯に、アンの髪飾りが、金色にまたたきました。あんまり顔を近付けすぎて、ショーウインドウにさっちゃんとアンの吐息が白く残ります。「だけどね」と、アンは続けます。

「あたくしは、正しく終わることが出来なかったの。彼が終わったあと、彼の集めたものは、ほとんど処分されてしまったわ。そんな中で、あたくしだけは売られも捨てられもしなかった。絶対に売らないように、絶対に捨てないようにと、彼が言いのこしていたのね。だから、あたくしは物置きの奥へしまわれた」

「しまわれて……どうなったの?」

 さっちゃんが尋ねますと、アンは笑いました。それは寂しげで、何もかもを諦めたような笑みでした。

「どうもならなかったわ。使われることも捨てられることもなく、誰かに見てもらえることもなく、あたくしは忘れ去られたの。忘れ去られたまま、物置きは戦争で焼けてしまって、あたくしは燃えた柱に潰されて、がれきになったわ」

 アンは、弾けるようにショーウインドウから顔を離し、叫びました。

「探されることもなく! 惜しまれることもなく!」


 その叫びの一端は、真っ白なあぶくとなって、水面へと昇っていきます。さっちゃんは何も言えず、アンの手を握りました。

 アンが、その手を握り返してくれたことだけが、この場所における唯一の救いのように思えました。



 しっかりと手を繋いだまま、二人はショーウインドウに背中を預け、人通りのまるでない石畳の通りを眺めました。きっと長いこと、眺めていたでしょう。ここでは時間の流れも停滞しているようで、いったいどれくらいそうしていたのか、さっぱり分かりません。

 たくさんのことを考えて、たくさんの感情を受け止めている間、アンはひと粒の涙も流しませんでした。そしてつないでいた手をほどいた時には、アンはすっかり、いつもの澄まし顔に戻っていたのでした。


「ありがとう、さっちゃん。あたくしの終わりが、ひとりぼっちでなくて良かったわ」

 その時、ショーウインドウの中で、カチャリと陶器の触れ合う音が聞こえました。さっちゃんが見てみますと、さっきまでそこにあった白磁のティーポットが、すっかり消え失せているのです。

「アン、見て。ティーポットが……」

 さっちゃんは驚いて、アンの肩を叩こうとします。しかしそこには誰もおらず、橙色の街灯は、さっちゃんの影だけを石畳に伸ばしていました。


 さっきまでつないでいた手の中に、まだ、ぬくもりが残っています。さっちゃんは、自分の右手と左手を、強く結びました。そのすきまに、アンの記憶をつなぎとめておくために、強く強く、結びました。


 さっちゃんの腰の命綱が、青白くぼわりと光りました。さっちゃんもまた、海の上で待つ人に、強くつなぎとめられています。


 ちょうど、日付が変わりました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る