12月19日 再び、モノオキ沖
このバスに乗っている人は、みんなモノオキ沖に行くのだ。その当たり前のことに、ふと、さっちゃんは気が付きました。
バスは長いこと、闇の中を走っています。乗客たちは黙ったまま、バスの揺れに合わせて頭を傾がせます。
以前、すーちゃんと一緒に訪れたモノオキ沖は、静かで美しい場所でしたが、同時にとても寒寒しい場所でもありました。実際、あの海の向こうには、終わったものたちの世界が広がっているのです。
今、このバスに揺られている人たちは、いったいどういう用事があって、終わりの淵へと向かうのでしょう。
『ご乗車ありがとうございました。次はモノオキ沖、モノオキ沖。終点です。お忘れ物のないようご注意ください』
アナウンスが流れますと、乗客たちはぽつぽつと降りる準備をします。さっちゃんたちも忘れ物のないように、それぞれの荷物を確認します。といっても、三人とも、持って行くべきものは少ないのです。さっちゃんはハンドバッグだけ持っていれば間違いありませんし、りーちゃんは吊りスカートのポケットの中に何だって入っていますし、アンに至っては手ぶらなのですから。
モノオキ沖に着きますと、ブザー音と共に扉が開きました。さっちゃんはバスカードを機械に通して、降車処理をしてから、再びモノオキ沖の浜に降り立ちます。
バスカードは今や一面に星の光が輝いており、銀河の渦巻く様子すらはっきりと見えるのです。有効期限がすぐそこまで迫っているであろうバスカードを、さっちゃんは、ハンドバッグの中に大切にしまいました。
モノオキ沖の浜の砂は、以前と変わらず白い炎を湛えており、打ち寄せる波に合わせて明滅しています。
「南十字のたもとは、海のずっと向こうだよ」
りーちゃんが、あぶくを立てる波の、向こう側を指差しました。真っ黒な海。あの海が黒い理由を、さっちゃんは知っています。終わりを待つ物たちが、波の下にひしめき合っており、その影が海を黒く塗り潰しているのです。
りーちゃんの指した先には、銀河の光と、それを一切反射しない真っ黒な海があるのみです。波はそれほど激しくはありませんが、舟で漕いで行って、いったいどれくらいで、南十字のたもとへ着くでしょうか。
「あなたたち、本当に、海に漕ぎ出すつもりなのね」
アンが、呆れたような感心したような調子で言いました。そして彼女の真っ白な瞳を、さっちゃんへ向け、海の方へと向けました。海は音もなく波打っており、その裾を浜へと伸ばします。さっちゃんの足元を、翡翠のカニが横切りました。
モノオキ沖の浜を歩きますと、ほどなくして、舟屋が見えてきます。りーちゃんもどうやら、舟屋の主人とは知り合いのようでした。しかし、どうやらあまり折り合いがよろしくないようです。
「悪いけど、交渉はさっちゃんがやってよね」
なんて、言っています。りーちゃんはこの旅の中、いつだって気さくで積極的でしたから、さっちゃんはこれを意外に感じました。ところがまだ付き合いが浅いはずのアンだけが、納得したようにうなずいています。
「二人の気が合わないの、分かるわ。ここの舟屋の主人といったら、物をきちんと終わらせるのが仕事でしょう。あなたは全く、反対だものね」
「どういうこと?」
分かっていないのは、さっちゃんだけです。「つまりね」と、アンは細い人差し指を唇に添え、秘密ごとを打ち明けるように話します。
「りーちゃんは、何かが終わることが嫌いでたまらないんでしょう。吊りスカートのポケットに何でも詰め込んで、何でも所有して、何でも捨てたくない性分でしょう」
そうだったでしょうか。さっちゃんは、思い返します。りーちゃんのポケットには、何だって入っています。ちょっと休憩する時だって、ポケットの中からポットもコップも取り出して、すぐにお茶の準備を済ませてしまうのです。
りーちゃんが使うのはいつだって、使い捨ての紙コップでした。けれどそういえば、りーちゃんが紙コップを捨てたところを、さっちゃんは、一度だって見たことがないのです。何でもかんでもポケットから取り出して、何でもかんでもポケットにしまいこむ。それが、りーちゃんなのでした。
自分のことを指摘されると、りーちゃんは気まずそうに、唇をとがらせます。
「これでも、我慢している方だよ。私の手の届かない何かが終わることは、許容しているんだから」
「それって、この海に浮かんでいるもののようなこと?」
さっちゃんが尋ねますと、りーちゃんは「うん」と短く答えました。すねている子供のようです。そしてその様子を見つめるアンは、りーちゃんの母親か姉のような慈しみ深い眼差しをしているのでした。
「なんだって、いつかは終わってしまうのに、それが許せないのね」
アンが、その真っ白でなめらかな手を、りーちゃんに差し出しました。りーちゃんはその手を取り、反対の手をさっちゃんに差し出します。もちろんさっちゃんも、その手を取りました。
三人は手を繋いで、水晶の浜辺を歩きます。水晶の粒の中で白金の炎が燃え上がり、その後にゆらめくプラズマの光が、三人の軌跡を示します。
舟屋の扉を叩きますと、人の気配がしたあとで、舟屋の主人が顔を出しました。さっちゃんは丁寧に挨拶をして、自分のことを覚えているかと尋ねます。舟屋の主人は、もちろん覚えているといった意味のことを、さっちゃんに伝えました。
それから、さっちゃんの背後に立っているアンを見て、ちょっと驚いたような顔をしました。次に、その更に背後に立っているりーちゃんを見て、嫌な顔をしました。
それがあんまり露骨でしたので、さっちゃんは思わず笑ってしまいます。舟屋の主人は朴訥で気の好い人ですが、その彼がここまで嫌そうな態度を隠さないのは、二人は本当に気が合わないのでしょう。
ともあれ、気が合わない相手がいるからといって、遥々やってきた知人を寒空の下に待たせるほどには、舟屋の主人は気難しくはないのです。さっちゃんたちは快く、舟屋の中へと招き入れられました。
部屋の隅には、二羽のミトリズクが休む鳥籠が置かれています。畳六枚の広さしかない舟屋は、客人を三人も招き入れましたら、たいへん手狭になりました。舟屋の主人は、狭い中を器用に動き回り、ストーブの上で沸かした天の川白湯をふるまってくれました。
「まあ、おいしい」
アンが白い頬を白く上気させながら、白湯をほめました。舟屋の主人は黙ってうなずいただけでしたが、実はとても喜んでいるのではないかと、さっちゃんはそんな気がしました。
さて、あまり長居をしても迷惑になってしまいます。さっちゃんは、白湯をふたくちほどいただきますと、さっそく本題に入ります。
「舟を出してほしいんです。実は、すーちゃんが行方不明になりました」
そうしますと、舟屋の主人は、壁にかけてあるラジオを指差しました。
――ニュースで聞いて、知っていた。漁に出る時に、何度も海を探したが、見付けられない。
なんということでしょう。舟屋の主人は、さっちゃんが頼むまでもなく、舟を出してモノオキ沖の沖を捜索してくれていたのです。
――あの子は以前にも、あの海に落ちた。あの時はすぐに助けられたが、今回は、もっと深い場所へ落ちたのかもしれない。
「そうですか……」
それ以外に言葉が継げず、さっちゃんは黙り込んでしまいました。
ここへ来れば見付けられると、確信していたわけでは、もちろんありません。けれどどこかで、期待もしていたのです。あらゆるものが波間に浮かんでいるこの海であれば、すーちゃんだってきっと、流れ着いているはずだと、そう思っていたのです。
さっちゃんに差し出せるものであれば何だって、差し出すつもりでした。さっちゃんはお金は持っていませんから、ほかに価値がありそうなものでしたら何だって渡して、舟を出してもらうつもりだったのです。
さっちゃんのハンドバッグに入っているものでも、さっちゃんの段ボールの中にあるものでも、さっちゃんのお部屋にあるものでも、なんでも。対価になるものがあれば、何を失っても構わないと思っていました。そして舟を出してもらって、すーちゃんを探すつもりでいたのです。
けれど、もうその必要すらなくなってしまいました。この海を知り尽くした舟屋の主人が、何度探しても見付けられないのに、さっちゃんが見付けられるとはとても思えません。
だけれどさっちゃんは、諦めたくありませんでした。どうしても、どうしても諦めたくなかったのです。
「海に潜る方法はありますか」
さっちゃんが尋ねますと、舟屋の主人はぎょっとしたように身をすくめました。アンも、りーちゃんですら驚いて、石像のように固まって、信じられないものを見る目で、さっちゃんを見つめます。
海の上から探して見付けられないのなら、もっと深い場所へ落ちたというのなら、海に潜って探せば、もしかしたら、見つかるかもしれません。
――ないことは、ない。
舟屋の主人がそう伝えますと、りーちゃんが「ちょっと!」と声を上げて、それを遮りました。
「それはあまりに、危険すぎる。さっちゃんは物質世界の人間だ。すきま世界のどこにいようとも、最後には元の物質世界へ引き戻されるだろう。だけど、あの海だけは、分からない」
「それは、元の世界へ戻れなくなるかもしれないってこと?」
「終わるかもしれないってことだよ」
終わる。その言葉を、さっちゃんはぎゅっと奥歯で噛みしめました。理由も手段もなく、まばたきひとつでクローゼットの前に戻れていたような、あの曖昧さが、モノオキ沖の海には通用しないのです。あの海には絶対的な終わりがあり、それは物質的な肉体を持っていようといまいと、関係のないことなのです。
ああ、それでもさっちゃんには、恐れはないのでした。
すーちゃんに無事でいてほしい。すーちゃんにもう一度会いたい。その清らの祈りは、この旅を始めたときから、まったく変わらないのです。
「どうしても行くっていうなら、命綱を伸ばして行って。お願いだから」
りーちゃんは、なんだか急に弱気になって、さっちゃんに頼み込みました。どんなに危険な場所へ行くとしても、さっちゃんだって、無事に帰ってこられるにこしたことはありません。りーちゃんを不安にさせるのも忍びなく、さっちゃんはりーちゃんの手を包み込むように握って、「もちろん」と励ましました。
ストーブの上で、やかんがシュウシュウ噴いています。舟屋の主人が、壁かけのラジオを付けました。知らない言語、けれど意識の端で聞けばぼんやりと意味が分かるような、そんな音声が流れ出します。
ラジオを聞きながら三人は、さっちゃんの命綱を編みました。すーちゃんがブラウン砂丘に呑まれたとき、クルミの舟の上に残していった投網が、まさかこんなふうに役立つとは、思いもしませんでした。銀河フィラメントは細くて丈夫で、なにより銀河の光を纏っていますから、真っ黒な海の中でも多少は目立ち、道しるべの代わりになるでしょう。
命綱を編みながら、誰も何も話しません。舟屋の主人は、明日もまた漁があります。海に出る準備をしなければなりませんから、舟につきっきりです。水漏れを防ぐ松脂を塗ったり、櫂の調子を見たりと、大忙し。
その物音と、やかんが湯気を吐き出す音が、心地良く混ざり合います。時々、籠の中のミトリズクが、くああと鳴いてあくびをします。ラジオからは音楽が流れています。音質はそれほど良くなく、ノイズ混じりのひび割れた音が、美しい旋律を奏でています。セトモノ市で、燃える木に祈りながら、人々が歌っていた歌です。
あらゆる音の中で、皆は沈黙を守り、手だけを動かしました。銀河フィラメントの命綱は、着実に紡がれ長く伸びていきます。
投網をほどききり、その全てを綱として編み終えたとき、ようやく顔を上げたさっちゃんは「あ、」と小さく声を漏らしました。舟屋の窓に、夜が切り取られています。結露に曇ったその向こうに、またたく星のように落ちていくあの白は、きっと雪でしょう。
――今夜は冷えそうだ。早めに、寝よう。
舟屋の主人が呟きました。彼は本当に親切で、狭い六畳の舟屋の中に、三人が体を休めるための場所を確保してくれました。
舟屋の隅っこで、りーちゃんがポケットから引っ張り出した毛布にくるまって、さっちゃんたちは三人、身を寄せます。
ストーブの火を落とし、部屋の明かりも消しますと、訪れた暗闇の中で窓だけがくっきり切り取られます。雪が降っているのですから、空は曇っているはずです。それなのに窓の外がこんなに明るいのは、浜辺の水晶の中で、白い炎が燃えているためでしょう。
「おやすみなさい」
さっちゃんが言いますと、りーちゃんとアンが口々に、おやすみを言いました。舟屋の主人も、部屋のどこに横になっているのかは分かりませんが、どこかから「おやすみ」の意味を発しました。
おやすみを言っても、さっちゃんはしばらく、寝付けずにおりました。窓を見たり、部屋を包む闇を見たりして、その中に未来を見透かそうとしました。
明日、さっちゃんはどうなるでしょう。モノオキ沖の沖へと向かい、終わりを待つ物たちでひしめく海に飛び込んで、いったいどうなるのでしょうか。闇の中には、何も見えません。
熱を失って冷え始めたストーブが、カチンと物音をたてまして、りーちゃんが「ううん」と身じろぎをします。
ちょうど、日付が変わりました。
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