12月18日 トショ渓谷
バスの中には、少し人が増えたようでした。セトモノ市から乗った人でしょうか。
『ご乗車ありがとうございます。次は、トショ渓谷、トショ渓谷です』
バスは真っ暗な下道を走ります。さっちゃんはまた、かぎ編みに興じながら、しかし今度はあまり集中せずに、窓の外や隣に座る同行者たちの方ばかりよそ見していました。りーちゃんと、アン。二人の同行者も、それぞれの方法で暇を潰しています。その横顔をちらちら見ながら、さっちゃんは二人に分からないように、口の端だけで笑います。
アンが旅路に加わったこともそうですが、何といっても、りーちゃんの呼び名がようやく分かったことが、さっちゃんにはこの上なく嬉しいのでした。
あの子、この子、あなた、彼女、女の子。そりゃあ呼び方に困りはしませんでしたが、だけど、唯一の名前が決まるというのは、嬉しいものです。
終わりのりーちゃん。だけどりーちゃんは、呼び名を決めることにあまり乗り気ではないようでした。なぜかしら。と、さっちゃんは考えます。すきまのすーちゃんも、好き勝手に呼んで良い、と言いました。すきま世界の人々は、自分の名前というものにあまりこだわらないのかもしれません。
今日は、あまり編み物に集中していなかったせいでしょうか。昨日のように、すきま時間がとことん引き伸ばされることもなく、バスは間もなく速度を落とし始めました。
『お降りの方はお知らせください。トショ渓谷での停車時間は、二十彗時です』
おや、またずいぶん長く停車するようです。
「トショ渓谷は何度か来たことがある。食べ物を調達できるし、降りようか」
りーちゃんが言いましたので、さっちゃんとアンは降車ボタンを押しまして、降りる準備をします。
ブザー音を立てて扉が開きますと、バスの外はやはり夜。そして、空には大きな月が出ているのでした。
いえ、あれは本当に月でしょうか? ここは、恐らく地球上ではないはずです。地球ではないどこかからも、こんなふうに、大きな満月を見ることが出来るものでしょうか。それともあれは、月に見えて月ではない、何かなのでしょうか。
「さっちゃん、行くよ」
満月に見とれているさっちゃんを、りーちゃんが急かします。セトモノ市とは打って変わって、トショ渓谷は大自然のど真ん中といった様相です。
バス停には、申し訳程度の掘立て小屋があり、時刻表を風雨から守っています。けれど、建物はそれだけ。人工物らしきものは他にはなにもなく、無骨で黒っぽい岩壁がいくつもそびえ立っているだけです。バス停は、トショ渓谷の底にあるのでした。
岩壁の合間に見える夜空は、その大部分を銀色の満月が占めています。そのおかげで足元は明るく、歩くのに不自由しないのには助かりました。
「あたくし、ここに来るのは初めてよ。なんだか寂しげなところね」
アンが、澄ました顔で渓谷を見上げながら、言いました。それに釣られてさっちゃんも、渓谷の岸壁を見上げます。てっぺんが見えないほど高くもありませんが、ずっと見上げていると首が痛くなってくる程度には、高く険しい岸壁です。
「渓谷っていうから、川なんかあって、緑がたくさんある場所かと思ってた。本当に、ちょっと寂しい場所だね」
さっちゃんが言いますと、前を歩くりーちゃんが、肩をすくめました。
「こんな、終点のさらに向こう側で、寂しくない場所なんてありはしないよ」
「終点の、さらに向こう」
りーちゃんの言ったことを、さっちゃんが復唱します。
さっちゃんはバスに乗って、様々な終点へ行きました。そこは、洋服や宝石や写真など、さっちゃんのお部屋の段ボールに詰まっているようなものたちが、物として終わる時に到達する、終着点でした。では、終点のさらに向こうだというここは、いったい何の終着点だというのでしょう。
「ほらほら、あんまり考え込んでいたら、足元がおろそかになるよ。もう少し行ったら川があるから、こけて川に落ちないようにね」
そこから三人は、慎重に進みました。大地は、さっきまでいくらかごろごろ礫が転がっていたものの、おおむね平らでしたが、川に近付くにつれ凹凸が増え、歩きにくくなってくるのです。いくら月の明かりが手助けになるとはいえ、ぺちゃくちゃ喋っていてはとても集中できないので、みな、無言になるのでした。
いくらか歩きますと、やがてざあざあ水の音が聞こえてきました。それはただの水音というには不思議なもので、ふとした時には人の囁き声にも聞こえ、あるいはラジオのノイズのようにも聞こえ、紙に鉛筆の擦れる音のようにも聞こえるのです。
ざあざあ。音は段々大きくなってきて、ぱっと視界が開けたときには、もう目の前に川がありました。
川は岸壁を抉るように、渓谷の中を流れています。流れはまっすぐでなく、小さな滝を何度も連ねた急流です。そしてこんなに月が明るいのに、川面はちっとも光っていません、流れているのは、真っ黒な墨なのです。
「さて、ここで食べるものを調達して、休憩していこうか。バスはたぶん、トショ渓谷の次にはモノオキ沖に停まるからね。今のうち、体力をつけておかなくちゃ」
りーちゃんは確かに、ここで食べるものを調達すると言いました。しかし、こんな墨の川に、果たしてさっちゃんたちが食べられるようなものがあるでしょうか。
さっちゃんにはさっぱり見当もつかず、ちらりとアンを見ましたが、やはり彼女も困惑しているようです。
「りーちゃん。ここで、何が採れるの?」
さっちゃんが尋ねますと、りーちゃんは「なんでも」と簡単に答えます。「いいから見てて」と言って、吊りスカートのポケットから、柄杓と桶を取り出しました。そして急流へ柄杓を差し出し、墨を一杯、掬い取りました。
桶の中に注がれた墨は、じわっと沁みるように広がります。そしてさっちゃんは、墨の川の正体を知りました。
川を流れているのは、無数の言葉なのです。墨やインクで書かれた言葉たちが、ざあざあざわざわと音を立てて、渓谷を流れて行っているのでした。言葉たちは、渓谷の岸壁を成す層の中から染み出しています。その層は高く積み上げられた本であり、紙でありました。また、小型ラジオやテレビの成れの果てと思しきものもありました。
言葉を失った記録媒体は、やがて固くかさかさに乾燥し、地層となって積み重なるのです。そして流れ出た文字は川となり、渓谷の合間を抜けて、更に向こうへと流れていくのです。
りーちゃんに掬い取られた言葉たちは、行き場をなくして桶の中を漂っています。りーちゃんは、そのひとつ、『ライ麦パン』という言葉を指でつまんで、口元へ持って行きました。そして、吐息で吹き飛ばしてしまわないよう注意しながら、「ライ麦パン」と、その言葉を口にしました。
そうしますと、墨で書かれた『ライ麦パン』という言葉は、たった今、ようやく自分が何者かを思い出したというような安堵の溜め息と共に、黒くどっしりとしたライ麦パンに変わったのです。
「ここはね、あらゆる言葉が最後に流れ着く川だよ。書かれ、話された言葉は、いくらかの時間は記録や記憶のために役立つけれど、それにもいつか終わりが来る。終わりを迎えた言葉たちは、川となってこの渓谷に流れ着くんだ」
桶の中には、ほかにもたくさんの言葉たちが揺れています。それは、いつか誰かが書いた走り書きのメモや、日記や、書類の言葉たちでした。あるいはひとり言や、ラジオのお便りコーナーや、演劇のセリフとして口にされた言葉たちでした。
かつて必要とされ、今はもう必要なくなって、誰に見られることも聞かれることもなくなったありとあらゆる言葉が、ここには流れているのです。
『冷蔵庫にオムライスがあります』『明日ちゃんと謝ろうと思う』『赤ワインを多めに入荷すること』
『ああ、寒いなあ』『きっと大丈夫ですよ』『みんないつまでも、友達だね』……
りーちゃんはまた、桶の中から『赤ワイン』という言葉をつまみ上げ、その言葉を口にします。そうしますと、言葉は赤ワインとなるのです。ただし、りーちゃんがそれを受け止める器を用意していませんでしたので、赤ワインはあえなくこぼれ、墨の川に混じって流れていってしまいました。
「あら、失敗した。まあとにかく、こういう具合に、食べるものを調達できるから」
りーちゃんは柄杓を桶、さっちゃんはキーリングに下げていたお玉とお鍋、アンは自分の両手でもって、言葉の水を掬います。
水は冷たくも温かくもなく、手を濡らすこともなく、服に染みこむこともありません。ときどき、やけにひやっとしたなと思えば、『氷』という文字を触っていたり、やけに重いなと思えば『アフリカゾウ』という言葉を掬っていたりしました。
バスの出発まで、まだまだたっぷり時間があります。アンは「休憩するなら、まず、ゆったり座れる場所がなければね」と言って、手のひらに掬った墨の中から『絨毯』という言葉をつまみ上げました。アンの真っ白な唇が、その言葉を発しますと、分厚いペルシャ絨毯が広がりまして、さっちゃんたちは固い地面に座らなくてもすむようになりました。
さっちゃんは、お玉で掬った墨の中から、『クリームシチュー』だけを抜き出して、お鍋いっぱいにためました。そして、お鍋に向かって『クリームシチュー』と囁きますと、たちまちお鍋いっぱいのシチューが出来上がるのです。
ただしそれらは同じクリームシチューと言いましても、できたて熱々のものと、どうやら冷蔵庫で保管されていたものとまちまちだったようです。温度が違うものたちを一緒くたに混ぜましたから、ぬるくなってしまいました。
そこでさっちゃんは、『火を通して温めてから』という一文をつまみ上げ、それを口にしました。そうしますと、お鍋の底に青いガスの炎が現れて、お鍋をことこと温め始めるのです。
ここで最もはりきっていたのは、なんといってもりーちゃんでした。友達のすーちゃんに負けないくらい、食いしん坊のりーちゃんは、パンやらワインやらブドウやら、美味しそうなものは手当たり次第口にして、絨毯の上に並べていきます。
たちまち、絨毯の上にはご馳走が溢れました。世界いち豪華なピクニックです。さっちゃんたちはふかふかの絨毯の上に座り、「いただきます」と手を合わせました。
クリームシチューはお鍋の中で煮えていますし、ライ麦パンも白パンもあります。ローストチキンには甘酸っぱいオレンジのソースがかかっており、鮭とポテトのパイはこんがり焼けていて、果物だってたくさんあります。
アンは飲み物しかいらないということでしたが、それだって、何を飲むか迷ってしまうくらいあるのです。紅茶やコーヒーはもちろん、マシュマロの浮いたココアもありますし、とろ火で温められた赤ワインを、シナモンスティックでかき混ぜながらいただいてもいいのです。
「クリスマスの晩餐のようね」
と、アンが言いました。クリスマスにはまだあと七日ほど早いのですが、確かにアンの言う通り、こんなに豪華なご馳走は、クリスマス・イブの夜にふさわしいでしょう。
「まあ、イブと言えばイブだ」
そう言ったのは、りーちゃんです。
「ここは終わりの一歩手前だからね。終わりの前の晩。終わりのイブのご馳走だね」
三人は言葉の川を眺めながら、終わりのイブのご馳走を味わいました。ここからひとつ夜を抜ければ、そこはもうモノオキ沖です。全ての終わりを迎える海が、もうすぐそこにあります。すーちゃんは、そこにいるでしょうか。すーちゃんに、会えるでしょうか。
すーちゃんは、トショ渓谷で豪華なピクニックをしたことを、きっと羨ましがるでしょう。自分も行きたかった、イブのご馳走を食べたかったと、残念そうにしょぼくれるかもしれません。
すーちゃんにお土産がいるかな。と、さっちゃんは考えました。そこで、銀のプレートにパンやチキンや果物なんかを飾り付けて、それからハンドバッグから手帳を取り出し、開きました。
手帳を開いたまま、さっちゃんは、右手のひらを銀のプレートの上にかざします。そうしますと、撫でたものがキーホルダーになるのと同じ要領で、銀のプレートは文字になり、手帳に記されました。
『トショ渓谷にてピクニック。銀の皿の上にご馳走を盛りつける』
黒いインクで、そのように記録されます。さっちゃんはそこに一文、『すーちゃんのために』と書き加えました。これで、すーちゃんも喜ぶでしょう。
ご馳走に舌鼓を打ち、いっぱいにふくれたお腹を休ませますと、やがて二十彗時が経過します。三人は遅れないようバスに戻って、また一番後ろの席に並んで座りました。セトモノ市でいくらか増えた乗客数は、トショ渓谷ではほとんど変化していないようでした。
扉を閉めて、バスは再び走り出します。
『ご乗車ありがとうございます。次は、モノオキ沖。終点です』
いよいよ、終点のアナウンスがありました。高速道路を通った時より、いくらか時間はかかりましたが、それでもようやく到着するのです。
舟屋の主人は、さっちゃんのことを覚えているでしょうか。すーちゃんを探すのに、手を貸してくれるでしょうか。南十字のたもとに、すーちゃんが流れ着いていることを前提に、ここまで来てしまいましたが、本当にそこにいるのでしょうか。不安だらけです。
けれど、お腹がいっぱいだからか、抱いている不安ほどには不安になりません。出来ることをやるだけだ。と、さっちゃんはもう、腹をくくったのです。
さっちゃんの持つバスカードは、ずいぶん銀河のきらめきも強く美しくなりました。きっともうすぐ、有効期限を迎えるでしょう。すきまのバスに乗れるのも、すきまの世界を旅できるのも、あと少しです。
この旅路を懐かしく振り返っていますと、さっちゃんは、ある重要なことに気が付きました。そういえば、りーちゃんに借りた、気動車の運賃を返していません。
「りーちゃん。お金のことなんだけど」
隣に座るりーちゃんに話し掛けますと、りーちゃんは既に座席に沈んでうとうとしており、どうやら耐えられないほど眠たいらしく、「あとでね」と軽くあしらわれてしまいました。
りーちゃんは、暇が出来れば寝るか食べるか本を読むかしている。と、さっちゃんは思います。
「かならず、返すからね」
さっちゃんが耳元で囁きますと、りーちゃんは聞こえているのかいないのか、半分以上寝たままで、「うん」と返事をします。
ちょうど、日付が変わりました。
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