12月16日 暇つぶし
目覚めても、まだ窓の外は夜のままでした。たぶんここは宇宙ですから、昼も夜もないのかもしれません。
自分がどれくらい眠っていたのか分からず、さっちゃんはとにかく部屋を出まして、一階へと降りていきます。布団の中から熱源が出ていったことに抗議するように、気難しげにひと鳴きしてから、多足の猫も、さっちゃんの後を追います。
「おはよう、さっちゃん。よく寝られた?」
女の子は、キッチンに立って食事の準備をしていました。目玉焼きとウインナーソーセージが、フライパンの上でジュージュー音を立てています。そのメニューを見るに、もしかしたらまだ朝なのかもしれません。目玉焼きの黄身はまあるいお月様のようで、よく見ればその表面に、本当にお月様のような模様があるのです。
「ベッドを使わせてもらって、ありがとう。あなたは、どこで眠ったの?」
「温室に、ハンモックがあるんだ。ここ最近は使ってなかったんだけど、久しぶりにそこで眠ったよ」
なるほどそれで、女の子の宇宙色の髪の毛に、モルフォ蝶が一匹とまっているのです。植物と虫がたくさん育っている温室から、ついてきてしまったのでしょう。
それを指摘しますと、女の子は今気が付いたというように驚いて、手でしっしっと蝶を払いました。モルフォ蝶は優雅に飛び立って、多足の猫に捕まってしまわないうちに、窓のさっしのすきまから、外へ出ていってしまいました。
朝ごはんは満月の目玉焼きと、ウインナーソーセージと、それから角砂糖を溶かしたホットミルクです。いただきますと手を合わせてから、さっちゃんは、目玉焼きにナイフを入れます。とろりと山吹色の黄身が流れ出し、それは濃い月光のように光っています。
「今日は一日、出発の準備に費やそう。今日の夜に出るバスがあるから、それに間に合うようにね」
女の子が言いましたので、さっちゃんは目玉焼きを頬張ったまま、うなずきました。準備は念入りにしなければなりません。いざ目的地に着いたとして、準備不足が原因で、すーちゃんを助けられないなどということになれば、後悔だけでは済まないのですから。
腹ごしらえをしたら、二人はさっそく、家の裏の森へと繰り出しました。どんぐりを拾うためです。
「まず旅に必要なものは、地図とコンパス。それからなにより、非常食! 食べ物と飲み物さえ充分にあれば、どこへ行くにもどこで迷うにも安心というわけ」
迷う前提なことがやや引っ掛かりますが、ひとまず気にしないことにします。
まずは足元に落ちている、コナラやクヌギやシイの実を、あるだけ拾いました。これらのどんぐりは、溶かせばはちみつやカラメルになりますし、舐めれば飴玉、噛めばヌガー、砕けばざらめの、万能などんぐりなのです。
どんぐりはそこいらじゅう、いたる所に落ちてはいるのですが、虫食いのないものを選ばなければなりません。さっちゃんと女の子は、どんぐりを拾っては銀河の光にかざし、虫食い穴が空いていないことを確認してから、ハンドバッグやポケットに詰め込みます。
「半分は煮詰めて、シロップにして持って行こう。それからサイダーも瓶に詰めていって、干しブドウとナッツもいるよね。クリームチーズの缶と、鱒の燻製に香草を何種類か、あとは梅干しなんかもあった方がいいな」
夢を見るようなうっとり顔で、女の子はぺろりと舌なめずりをします。さすがは、すーちゃんの友達。なかなかの食い気の持ち主のようです。
充分な量のどんぐりを拾いましたら、しばらく宇宙の冷たい水にさらしてあくを抜き、それからとろ火で煮詰めていきます。鍋の中の黄金の蜜を、焦がしてしまわないように慎重にかき混ぜながら、女の子は歌を歌います。
金の星おちた 金の星おちて雨になった
畑に雨ふった 雨ふって麦みのった
麦ひいて粉にした 粉にしてパンやいた
白いパンたべた パンたべて麦酒のんだ
麦酒のんで踊った 夜どおし踊ってころんだ
麦酒こぼれた こぼれた麦酒が星になった
金の星おちた 金の星またおちた
歌に合わせてどんぐりシロップは、黄金色の中に気泡をぷくぷく立たせました。それはまるで、ジョッキに注がれた麦酒のようです。そうして歌いながら、女の子は何か良いことを思いついた顔をしましたので、たぶん麦酒も、旅に持って行くもののリストに加わったのでしょう。
さっちゃんはといいますと、非常食の準備は女の子に任せまして、家事のお手伝いをします。銀の燭台を磨いたり、お布団を干したり、シャツにアイロンをかけたりしながら、女の子の歌に耳を傾けます。
まったく初めて聞く歌にもかかわらず、女の子の口ずさむメロディはどこか懐かしく、さっちゃんの中に沁みわたってくるのです。
「金の星おちた。金の星おちて雨になった」
モップで床を拭きながら、さっちゃんも呟きます。ずっと、ずっと昔から、この歌を知っていたような気がします。
非常食をこしらえ、家のことも終わらせまして、ようやくひと息ついた時には、もう夜になっていました。宇宙のただなかで、今が夜だとなぜ分かったのかといいますと、多足の猫の目が真ん丸になっていたためでした。
「朝は、もっと細かったでしょう。朝、昼、夜で、瞳孔の大きさが変わるんだよ」
女の子は得意げに言いますが、猫の目の大きさというのは、光の強さで変わるんじゃなかったかしらと、さっちゃんは思います。
それで、多足の猫を薪ストーブの前に連れて行き、炎の明かりを見せたのですが、目は真ん丸のままでしたし、猫はいやがってシャーといいました。
夜になれば、間もなくバスが到着します。二人は出発の前に、夕食をいただきました。夕食のメニューは、ポーチドエッグの入った野菜スープとマカロニグラタン。それから、オリオン大星雲の光を冷やして作ったシャーベットです。オリオン大星雲は、ラズベリーに似た味がしました。
お腹いっぱい食べまして、夕食の残りの野菜スープを保温缶に流し込みましたら、いよいよ、出発の時間です。
「よし、忘れ物はないかな。じゃあ、行ってくるね」
女の子は、安楽椅子の上でくつろいでいる、多足の猫の背中を撫でました。猫は面倒くさそうに尻尾をひとふりして応えました。
さっちゃんと女の子はお家を出まして、お庭の方へ回ります。お庭には、一本のどんぐりの木が、真っ直ぐ空に伸びています。これが、裏の森の大元になった、最初のどんぐりなのです。
「バス停は、どこに?」
さっちゃんが尋ねますと、女の子は「ここ」と、簡潔に答えました。それ以上は何の説明もありませんでしたので、さっちゃんも何も言わず、女の子の斜め後ろに立ち、バスが来るのを待ちます。
やがて、かすかにエンジン音が聞こえたような気がしました。それはどの方向から聞こえるというわけでもなく、遠くから段々近付いて来るというわけでもなく、風に乗ってかすかに届いた、囁きのような音でした。
バスが来たかしら。そう思って、さっちゃんがまばたきをひとつした瞬間、バスはすぐ目の前に停車していたのです。
その唐突さには、覚えがありました。すーちゃんが初めてさっちゃんのお部屋に登場したときも、このように前触れのない出現だったのです。バスは、プーと高いブザー音を立てながら、扉を開きました。
『ご乗車ありがとうございます。このバスは、行先番号一二一六。モノオキ沖行きです。整理券をお取りください』
女の子は整理券を取り、さっちゃんはバスカードをカードリーダーに通しました。この一回の乗車で、またバスカードには、ひとつの星が輝くでしょう。さっちゃんがすきまの世界にいられる時間も、星のひとつぶん、短くなります。
「どの席に座ってもいいけど、どこがいい?」
女の子が言いましたので、さっちゃんは迷わず、一番後ろの席を選びました。ここが一番、落ち着きます。
終点のお家を出発し、すきまのバスはしばらく宇宙を走っていましたが、やがて窓の外には星がなくなりました。あるのは、ほんの少しだけ赤みを帯びた闇ばかり。
乗客の姿は、ちらほらありました。しかしどの人も、シルエットがいやに曖昧で、どんな人なのかぼやけてよく分からないのでした。
『次は、セトモノ市、セトモノ市。お降りの方はお知らせください』
車内アナウンスを聞いて、さっちゃんは、おやと思いました。セトモノ市といえば、いつだったか一緒のバスに乗った真っ白な人が、そこから来たと言っていました。
「セトモノ市って、どんなところ?」
すーちゃんに聞いてみますと、すーちゃんは「さあ」と首をかしげました。
「行ったことないから分からないけど、なんだか壊れ物が多そうな街だね。どうせいくらか停車しているだろうから、気になるなら降りてみるといいよ」
そう言って、女の子は、吊りスカートのポケットから本を取り出して読み始めました。バスの中は暗くはありませんが、本を読めるほど明るくもありません。
目を悪くしてしまわないかと、さっちゃんが女の子の手元を覗き込みますと、油を流したような虹色に光る雲が、本の上を漂って、ページを明るく照らしているのです。
「それ、なに?」
「恒星の卵だよ。出先で本を読むのに便利なんだ。次のバス停に着くまで結構かかると思うから、さっちゃんも何か暇をつぶしているといいよ」
暇をつぶすといっても、何をすればいいでしょう。バスは真っ暗の中をどんどん走っており、確かに、まだまだ次のバス停には着きそうにありません。
ひと眠りしようと思っても、それほど眠くはありませんし、困りました。暇つぶしになりそうなものがないかハンドバッグを探りますと、さっちゃんは、ひとつ良いものを見付けました。
キーリングを取り出して、毛糸玉とかぎ針のキーホルダーを外します。左手で撫でて、元の大きさに戻しますと、ちょうどいい暇つぶしがそこに現れました。
「さっちゃん、編み物できるんだ」
本を読んでいたはずの女の子が、今は興味深げに、さっちゃんのすることを見ています。
「ちょっとだけね。昔、おばあちゃんに教わったの」
「何を編むの?」
「何にしようかな」
次のバス停まで、どれくらいの時間があるかによります。編み物というのは、ひとつの作品を作るのに、たいてい時間がかかるものなのです。マフラーやポーチを作ろうとすると、かなりの時間を要しますが、小さな編み飾りでしたら、バスに揺られている間に編むことができるでしょう。
バスは闇の中を走ります。次のバス停に着くまでの時間、乗客たちはおのおのの手段をもって、暇をつぶします。ある者はすきま世界の新聞を読み、ある者はひたすらに窓の外を眺め、女の子は読書をし、さっちゃんは編み物に興じます。
今、この空間で、きちんと働いているのは、バスとバスの運転手だけ。そのほかの者たちはただバスに揺られ、やらなくても良いことに黙々と集中しているのです。怠惰でありながら勤勉でもいられるその時間を、暇といいます。
さっちゃんはまず、赤い毛糸で、お花の編み飾りをいくつか編みました。何に使えるというものでもありませんが、カーテンに縫い付けたり、糸を通してストラップにすると、可愛いのです。
それから、バスはまだまだ走っていますので、もう少し大きなものも編めるかと思い、コースターと付け襟も編みました。
さっちゃんは黙々と、暇つぶしに集中します。いっそもっと大きなものも編もうと思って、野菜スープの入った保温缶にぴったりの、毛糸のカバーも編みました。帽子も、ポーチも、マフラーも。
途中で、赤い毛糸玉は使い切ってしまいましたが、さっちゃんのキーリングには、いつの間にかたくさんの色の毛糸玉が下がっていましたので、けちけちせずにいくらでも編めるのです。たくさんの色を使い、たくさんのものを、さっちゃんは編みました。
バスが、宇宙クジラの尻尾を乗り越えたとき、がったんと大きく揺れまして、さっちゃんの集中はようやく途切れました。
「あ、いけない」
膝の上だけでなく、座席いっぱいに溢れ出した編み物を見て、さっちゃんは思わず口元を押さえます。さっちゃんの作品たちは文字通り山積みになっており、さっきは新聞を読んでいた乗客が、いったい何事かとちらちらさっちゃんの方を見ています。
さっちゃんは慌てて、編み物たちを回収しました。右手で撫でてキーホルダーにして、キーリングにぶら下げます。キーリングはじゃらじゃら鳴って、もうこれ以上はキーホルダーを付けられないほどです。
「たくさん作ったね。何かを作り出せる手は、美しい」
女の子が、惚れ惚れと言いました。
「ちょっと、作りすぎちゃった。バスはまだ着かないの?」
ポーチも編んで、マフラーも編んだのに、バスはまだ暗闇の中を走り続けているのです。とんでもなく長いこと走っているのかと思いきや、女の子いわく、そんなことはないと言います。
「まだ、日付も変わっていないくらいだよ。すきまの世界では、すきま時間は驚くほど長く引き伸ばされるからね。そんなに不思議なことじゃないよ」
そう言って、読みかけの本に栞を挟み、吊りスカートのポケットに詰め込みました。ほかの乗客たちも、新聞を畳んで鞄にしまったり、脱いでいたコートを着たりと、次々に降りる準備をし始めています。
「ほら、そろそろ着くよ。すきま時間の有効活用が出来て、良かったね」
バスは速度を落とし、前方の窓に街の明かりが見えました。さっちゃんは、まだよく納得のいかないまま、「うん」と返事をします。
ちょうど、日付が変わりました。
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