12月15日 終点のお家
気動車が終点に着いてから、さっちゃんとおかっぱの女の子は、少し歩きました。
終点は草原の広がる丘の上で、舗装された道はなく、二人は柔草を踏みしめながら進みます。草原には生きものの影はなく、頭上に広がる銀河を反射してか、かすかに光っているように思えます。
歩きながら、おかっぱの女の子は右手を上げて、人差し指を空に向けました。そして呪文のように、あるいは歌のように、ふしをつけて呟くのです。
みそらの端の舟場には 象牙の舟がわづかにや
次の銀河へ漕ぎ出して 事象の地平へ消えにけり
百四十憶のくるみのうちに 燃える水素とヘリュームが
熱と光をおまえに与え 事象の地平へ落ちてゆく
おまえは銀の櫂を持ち 一羽の可愛いかなりや連れて
次の銀河へ漕ぎ出せり 次の銀河へ漕ぎ出せり
そうしますと、空に広がっていた銀河の光が、尾を引きながら彼女の人差し指についてくるのです。すーちゃんがフルギモリで、終わりたがっている洋服たちを集めたのと、よく似た光景でした。
銀河の光のひとひらが、女の子の人差し指にそっと触れますと、光はぱちりと弾けてガラスの粒になり、柔草の上に落ちました。さっちゃんがそれを拾い上げますと、ガラス粒はしばらく銀河の光を放っていましたが、やがて暗くなり、ただの小石になってしまいました。
女の子のお家は、草原が終わるちょうどきわの位置に建っていました。お家を境目にして向こう側には、黒々とした森が広がっています。近付いて分かったのですが、その森の木々はほとんどがブナ科の木で、透き通ったアンバーのコナラやクヌギやシイの実が、あっちこっちに落ちているのです。
「あるだけ拾っていって良いよ」
と、女の子は言いました。
「庭に植えたどんぐりの木から、どんぐりが落ちてあんなに増えて、森になっちゃったんだ。これ以上あってもどうしようもないから、いくらか持って行ってくれると、ありがたいな」
とはいえ、どんぐり拾いはまた後にしましょう。まずはお家に入って、体を休めて、すーちゃんを助けに行く作戦を立てなければなりません。
女の子は、吊りスカートのポケットから、キーリングを取り出しました。
それはさっちゃんが持っているキーリングによく似ているのですが、ぶら下がっているのはキーホルダーではなく、鍵ばかりです。そして何と言っても、驚くべきはその数の多さなのでした。キーリングには、もうこれ以上はつけられないほどたくさんの鍵がつけられています。金の鍵に銀の鍵、鉄の鍵、真鍮の鍵。ガラスの鍵もあり、緑色の鉱石で出来た鍵もあり、木製の鍵もあり、おもちゃみたいなプラスティックの鍵もありました。
その中からお家の鍵を見つけ出すのに、女の子はたっぷり悩みました。そしてようやく、ラピスラズリの鍵を手に持ちますと、お家のドアを開きました。
「どうぞ、上がって」
お邪魔しますを言ってから、さっちゃんは、女の子のお家に上がります。お家の中は、まるで昔あこがれたドールハウスのように、小ぢんまりとして可愛らしい内装でした。玄関から入ってすぐにリビングとダイニングキッチンがあり、隅にある薪ストーブが部屋の空気を暖めています。
ストーブの前でゆらゆら揺れている安楽椅子の上には、猫に似た生きものが、すうすう寝息を立てていました。それは猫によく似ているのですが、ぱっと見ただけでも脚が八本以上あるようでしたので、たぶん、さっちゃんの知る猫とは違う生きものなのです。
「疲れたね。寝るか食べるか、どっちにする?」
さっちゃんは、それほど眠気を感じていませんでしたので、食べる方を選択しました。
女の子は「オーケー」と言って、さっとキッチンに立ち、ミルクを鍋に注いで火にかけます。何か手伝えることはないかと訊けば、「じゃあ、お鍋をゆっくりかき混ぜておいて」と言われ、木製のレードルを手渡されました。
さっちゃんはその通りに、レードルでお鍋をかき混ぜます。さっちゃんがかき混ぜている間に、女の子は横から手を出して、角切りにしたパンやら、削ったチーズやらを鍋に放り込みました。それから、ビー玉ほどの大きさもあるクヌギの実を取り出して、はかまを外して水でさっと洗い、ふた粒、鍋に放り込みました。
琥珀色の実は、しばらく鍋の中で浮き沈みしたあと、とろりと溶けてなくなってしまいました。すると鍋からはちみつの香りが立ち上り、そうして、甘いミルクパン粥が完成したのです。
「飲み物は、どうしよう。カフェインの摂りすぎは良くないから、コーヒーはやめておいて……」
そう言って、女の子が差し出したティーカップには、橙色の飲み物がなみなみ注がれていました。ソーサーにはコナラの実がふたつ、添えられています。
「ミカン茶だよ。お好みで、甘くしてね」
さっちゃんはひどく疲れていましたので、甘味がほしく、コナラの実をふたつとも入れて、ミカン茶をいただきます。溶けたコナラのカラメルの風味と、ミカン茶の爽やかな香りが混じり合い、さっちゃんの疲れを癒していきます。
次に、ミルクパン粥もいただきました。甘くて、柔らかくて、ミルクとチーズのこくもあり、優しく、それでいてしっかりとお腹を満たしていきます。
ダイニングテーブルを挟んで向かい合って座り、食べている間、二人は何も話しませんでした。さっちゃんの正面、女の子の後ろの壁には窓があり、空いっぱいに広がる宇宙を望めます。
多足の猫が安楽椅子から飛び降りて、さっちゃんの足元に体をすり寄せたあと、女の子の膝に飛び乗りました。猫がくつろいで鳴らした喉の、ごろごろという低い音に合わせて、窓の外の宇宙に紫電がいくつも閃きました。
お腹を満たしたあと、女の子はさっちゃんに、ベッドで眠るよう勧めました。けれど、ちっとも眠くありません。すーちゃんをどうやって探し出し、どうやって助け出すのか、まだ何も決まっていないのです。眠るにしても、すーちゃん救出計画を少しでも立ててから、それからにしたいのです。
そう言いますと、女の子は、困ったように笑いました。
「あなたは、あなたのおばあさんによく似ているね」
「おばあちゃんを、知ってるの」
すーちゃんが驚いて言いますと、女の子は「うん」とうなずきました。
「あなたのおばあさんも、誰かを助けるためとなると、食べるのも寝るのも忘れて頑張るような人だった。なつかしいなあ。あれから、もうどれだけ時間が経ったろうか」
女の子の瞳は、遠く遠くをみつめています。さっちゃんのおばあちゃんと目の前の彼女とが、同じ時間を過ごしたのは、本当に遠い遠い過去なのでしょう。もしかしたら、さっちゃんが思うよりももっと長い時間が、そこには横たわっているのかもしれません。それこそ、何千年、何億年という時間を、彼女は懐かしんでいるのかもしれません。
今、すぐ隣にいるこの女の子は、本来は決して越えられない隔たりの向こうにいるのだと、さっちゃんは思いました。そしてそれは、すーちゃんも同じなのだと分かり、急に、たまらなく寂しくなりました。さっちゃんと彼女たちとの間には、ほんのわずかな、けれど決して埋まることのないすきまが空いているのです。
そしてそれでも、すーちゃんはさっちゃんの友達なのでした。
どうしても眠くならないし、先にすーちゃん救出計画の目途を立てたいと言うさっちゃんの要望に、結局、女の子の方が折れました。
ダイニングテーブルの上を綺麗に片付けまして、そこにさっちゃんの持っている、すきま世界の地図を広げます。そうしますと、多足の猫がのっしのっしとやって来て、広げた地図の上にどっかりと居座りましたので、作戦会議はまず、猫をどけるところから始まりました。
すきま世界の地図は、相変わらずさっちゃんにはちっとも分かりません。ぐるぐる動き回る幾何学模様を指しながら、女の子が説明する言葉を、しっかり聞くほかありません。
「私の家はこの辺りにあって、すーが消えたブラウン砂丘は、この辺だね。四元ベクトルの流れを考えると、流れ着いている先は……」
女の子の指先が、地図の真ん中を指しました。そこには無数の数字や図形がひしめき合っており、ほとんど真っ黒に塗り潰されたようになっています。
「ここだ。えーと、さっちゃんにも分かりやすく言うと……南十字のたもとあたりかな」
それが果たして分かりやすいといえる表現なのかは微妙ですが、さっちゃんには、心当たりがありました。ネガタテハの群れに呑まれたとき、すーちゃんは自力で戻ってきたのですが、その時もたしか、南十字の方まで押しやられたと言っていたことを思い出したのです。それを伝えると、女の子は「そうか」と顎を撫でました。
「最近になって四元ベクトルの流れが変わったなんて話も聞かないし、前にもそこに流れ着いたんなら、今回もそうである可能性は高いね。よし、希望が見えてきた!」
女の子は、吊りスカートのポケットから木炭を取り出しました。そして、さっちゃんに許可を得てから、目的地を丸で囲みました。そうしますと、地図上を動き回っていた数字や数式や図形の動きが、ほんの少し緩やかになりました。
「目的地はここだって、きちんと記録することが大事なんだ。そうそう、さっちゃんはちゃんと、記録は取っている?」
さっちゃんはうなずいて、ハンドバッグの中から手帳を取り出しました。初め、すーちゃんに言われたとおり、さっちゃんは日記をつけています。物質世界で起こったことも、すきま世界で体験したことも、それほど詳細にではありませんが、逐一記録しています。
「よろしい。錨さえ降ろしていれば、放棄の海で迷うこともないだろうからね」
「放棄の海って、一度近くまで行ったことがあるよ。モノオキ沖という場所で、舟に乗ったの」
「へえ! じゃあ今回も、そこでなんとか舟を借りて、海を捜索しようか」
そして二人は顔を突き合わせて、すーちゃん救出計画の相談をしました。準備するもの、持って行くものをリストにして、バスの路線図も確認します。
そこでひとつ、問題が発覚しました。以前、モノオキ沖へ行った時は、高速道路を使うバスに乗って行きました。ところがそのバスは本数が少なく、この冬はもう、一本も走らないといいます。そういえば、サービスエリアのラーメン店の主人が、高速道路を経由するバスが減って困っていると言っていました。
「だったら、時間はかかるけれど、下道を通っていくほかないね」
「別の交通手段はないの? お金なら、なんとかして稼ぐから」
「うーん。気動車はここが終点だし、舟はあるけど、たぶんもっと時間がかかっちゃうよ」
そう言われてしまえば、やはりバスに乗って行くのが、一番現実的なのでしょう。
さっちゃんはうなずいて、銀河の光がきらめくバスカードを見つめました。有効期限内に、モノオキ沖まで行けるでしょうか。分かりませんが、きっと行けると信じるしかありません。
すーちゃん救出計画は、そのようにして、つたないながらも形になりました。あとは準備をして、体調を整えて、バスが来るのを待つだけです。
すーちゃんを助けにいく目途が立ったためでしょうか。さっちゃんは急に体じゅうの力が抜けてしまいました。そして、猛烈に眠くなってきたのです。
「さっちゃん、寝る?」
女の子の言葉に、さっちゃんは何とか意識を保ちながら、うなずきました。もう、ちょっとでも気をぬけば、今すぐにでも床に倒れ込んで眠ってしまいそうです。
さっちゃんは女の子の誘導に従って、お家の二階へと上がりました。そして廊下突き当たりの寝室の、柔らかなベッドに倒れ込みました。ボタン商店街で食べた、ふわふわの綿菓子を思い出します。
「おやすみ、さっちゃん。よくお眠り」
横たわったさっちゃんに分厚い羽毛布団をかぶせ、女の子は愛おしそうに、さっちゃんのおでこを撫でました。
さっそく寝息を立て始めているさっちゃんを起こさないよう、女の子は音を立てないように注意しながら、部屋を出ます。そのとき、わずかに開いた部屋のドアのすきまから、多足の猫がするりと入り込み、お布団のすきまに潜りました。そして、さっちゃんのお腹のあたりで丸くなり、ごろごろ喉を鳴らしました。
その、猫のごろごろのせいでしょうか。さっちゃんは浅い眠りの中で、夢を見ました。まぶたの裏を、紫電がぱちぱち弾けます。
すーちゃん、今、迎えに行くからね。さっちゃんの言葉を乗せて、稲妻は、闇の奥へと閃いていきます。ぱちっぱちっと音を立てながら、闇を割り、遥か遠くへと伝導していく紫色の光。
夢とうつつのすきまで、さっちゃんは何度も、何度も呼びかけます。すーちゃん、待っててね。きっと、行くからね。
夢とうつつとお布団のすきまに、ごろごろ、遠雷の音が響きます。
ちょうど、日付が変わりました。
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