12月11日 ボタン商店街
今日、片付けに着手した段ボールには、小物類が山ほど入っていました。携帯裁縫セットに、靴磨きのブラシ。便箋と封筒、空になったインク瓶、そろばん、カメラのレンズだけ……。
どれも、もうぼろぼろに古びています。さっちゃんにとっては、何の価値も持たないものです。それでも、それらは全てひとつひとつ、それぞれの思い出を持っているもののはずです。
「私にも、物たちの声が聞こえたら良いのにな」
片付けの手を止めて、さっちゃんは呟きました。捨てるにしても、最後に聞いてやりたいと思いました。彼らがどんな一生を送り、どんな思い出を大切に抱いてここまで来たのか。
それとも、それを聞いてしまったら、余計に捨てづらくなるでしょうか。この物質世界では、終わったものは鳥や魚やハムシになることなく、ただ燃やされたり、埋められたりするだけなのです。
物質としての終わりがそうであるだけで、彼らのたましいは、ちゃんと自由になってどこかへ飛んで行くのでしょうか。それはもしかして、人間も同じでしょうか。
たくさんのことをとめどなく考えてしまって、さっちゃんの思考はこんがらがっています。今や徐々に片付きつつあるお部屋より、さっちゃんの頭の中の方が、よっぽど散らかっているのです。
今も、考え事をしながら片付けていたせいでしょうか。段ボールから出して積み上げていた雑貨の山に、うっかり肘をぶつけて、崩してしまいました。床いっぱいに散らばった小物類を、慌てて拾い上げます。
その中にひとつ、気になるものがありました。青いベルベットの布袋の、紐でくくられた口がゆるみ、中のものがこぼれ出しています。こぼれ出したそれらは、金色の粒でした。すーちゃんがバスに乗るときに使っている、すきま世界の通貨によく似ています。
金の粒をつまみ上げてみますと、それは思いのほか軽く、ちょっとだけ暖かく、日だまりのような匂いがしました。石鹸かと思いましたが、そうではないようで、どちらかというとガラスに似た質感です。
そういえば、すきま世界の冒険に必要なものは、地図も双眼鏡もたも網もみんな、この段ボールの中から出てきたのです。どうして、そんなことがあるのでしょう。さっちゃんには分かりません。
夜になると、いつもの通り、すーちゃんが現れます。今日のすーちゃんが、やけにほくほく機嫌が良くて、頬っぺたがまるまるりんごのように赤くなっているのは、きっと出発前に天の川の白湯を一杯飲んできたに違いないのです。
「さっちゃん、今日はどこへ行きましょうか。オオウズ通りに行ってケブリトンボを採ってもいいですし、ベッコウ原に行ってザラメムグリを捕まえてもいいですし……」
いつもであれば、さっちゃんは、すーちゃんが行こうという所についていくだけです。だって、さっちゃんはすきま世界のことを何も知りませんから、どこへ行きたいと望みようがないのです。
だけれど、今日は違います。さっちゃんは、さっき見付けた布袋の中の、金色の粒をすーちゃんに見せました。
「これって、お金?」
すーちゃんは、お口を「お」の字に開きました。そしてひと息置いてから「そうですね」と言いました。
「段ボールの中に入ってたんだけど、これを使えるところに、行きたいな」
「これが使えるところ、でしたら商店街が一番いいでしょうね。だいたい何でも、買えますから」
それでは決まりです。今日の目的地は、商店街。すきまの通貨をハンドバッグに入れまして、さっちゃんは、バスに乗り込みます。
『ご乗車ありがとうございます。このバスは、行先番号一二一一。すきま五番地経由、ボタン商店街行きです。整理券をお取りください』
バスは今日も、さっちゃんとすーちゃんを、目的地に運びます。
バスが走っている間、さっちゃんは、すきまの通貨がどれくらいの価値があるのかを、なんとなく教えてもらいました。さっちゃんの持っている通貨は、この袋に入っているぶんで「一晩だけ、ちょっと贅沢できる」くらいだということです。
「もちろん、その場所の物価によりますけど、今から行くボタン商店街だと、そのくらいですね。物々交換しかやっていないお店もありますが、何を買うつもりですか? 服も鞄も小物も、何でも買えますよ」
「うーん、食べるものかな。あんまり、物を増やしたくないし」
「なるほど。じゃあ、食べるものを買うのが一番ですね」
お喋りをしているうちに、バスのアナウンスが鳴り、終点が近いことを告げます。ここ数日、長距離バスに乗って移動していたせいでしょうか。目的地に着くまでが、やけに短く感じるのでした。
『次は、ボタン商店街。終点です。お忘れ物のないようご注意ください』
アナウンスと共に停車したバスから降りますと、人の気配がわっとさっちゃんを圧倒しました。
バス通りから直角に交わるかたちで、にぎやかな商店街が始まっています。バス停のすぐそば、商店街の入り口にはアーチがあって、たくさんの風船がアーチに絡まり、時おり吹く風に揺れています。アーチの先の道は、両脇にお店が立ち並び、どのお店も大盛況。人でいっぱいなのでした。
人といっても、人間そのものの姿をしている人は、かえって少ないようです。大きな鹿の角が生えている人がいたり、コートの裾から太い尻尾を引きずっている人がいたり、様々です。
「賑やかですね。クリスマス前だからかな」
すーちゃんが言いました。すきまの世界にも、クリスマスがあるのです。それを聞いて、さっちゃんは少し嬉しくなりました。なぜ嬉しいのだろうと考えても、よくは分かりませんが、たぶん、すきまの世界がただ暗くて静かなだけの世界ではないことが、嬉しいのでしょう。
二人は連れだって、まずは商店街を端から端まで、歩いてみることにしました。ボタン商店街には、面白いものがたくさんあります。
どのお店の看板も、ボタンで出来ている。というのが、最初の発見でした。二つ穴ボタンに四つ穴ボタン、くるみボタンにカフスボタン。種類は色々ありまして、どれもさっちゃんの顔よりも大きいボタンです。
それらにはお店の種類に応じた飾りがついており、そこが何を扱うお店なのか、ぱっと見ただけで分かるようになっています。
たとえば、四つ穴を取り囲むように銀色の魚が泳いでいるデザインのボタンは、魚屋のボタンでした。魚屋の店頭には、様々な種類の魚が並んでいます。銀色のもの、金色のもの、透明なもの。それから、いつかフルギモリで採ったホコリウオも、並べられています。
「これ、すーちゃんが採ったホコリウオ?」
さっちゃんが尋ねますと、すーちゃんは「まさか」と笑いました。
「私は、個人相手のお仕事ばかりですよ。こういうお店に卸しているのは、もっと大規模な漁をしている人たちです」
それから、淡い黄色地に白いヒナギクの模様が咲いたクルミボタンは、花屋のボタンです。それはそれはたくさんの花が並べられて、花屋の店先は、濃い春がどんと居座っているような華やかさです。
そして面白いのが、お花の売り方です。お客さんは店先のお花たちから、気に入ったものを選んで、お金を払います。そして、自分たちの持つ、鞄や服、ブローチなどを差し出すのです。
花屋の主人は、お客さんの選んだ花を手に持って、差し出されたものをさらさらと撫でます。そうしますと、無地だった鞄や服やブローチに、たちまち花の模様が写し取られるのです。
お店だけでなく、商店街を飾るものも、興味深いものばかりでした。
さっちゃんが一番気に入ったのは、商店街を照らす明かりでした。宙に浮かぶそのランタンは、よく見れば太った水どりの腹なのです。水鳥たちはさっちゃんたちの頭上にぷかぷか浮かび、その腹が光っているので、商店街はこんなに明るいのです。
たまに、商店街のお店の二階部分から、誰かがパンくずを投げます。そうしますと、水鳥たちはわっとパンくずに群がって、そのお腹をいっそう明るく光らせるのでした。
そうしてあちこちよそ見をしながら、さっちゃんは商店街の一番端まで歩ききりました。「何を買うか、決めましたか?」と、すーちゃんに尋ねられましたが、正直、何を買うか考えるどころではなかったのです。見るものが多すぎて、面白いものが多すぎて、さっちゃんの頭はパンクしそうです。美味しそうな食べ物を売っているお店も、たくさんありました。
「さっちゃん、何を買いますか?」
「えっと、そしたら、まずは甘いものが食べたいな」
左右を交互に見ながら、今来た道をゆっくりと戻ります。何が良いでしょう。ケーキ屋さんがあり、チョコレート専門店もあり、アイスクリーム屋さんもあり、キャンディとヌガーの量り売りのお店もあります。
そんな中で、さっちゃんの目に留まったのは、真っ白で柔らかそうなクルミボタンです。看板が低い位置にかけてありましたので、さっちゃんが思わず触ってみますと、指先がどこまでも沈んでいきそうなくらい、それは柔らかいのです。
なんのお店でしょう。さっちゃんが考えていますと、お店の奥から、真っ白な店員が出てきました。真っ白で、柔らかそう。ふかふかのお布団を人の形にして、服を着せているみたいです。
その人は、竹串に刺さったマシュマロを、さっちゃんとすーちゃんに差し出しました。
――ししょくです。どうぞ。
モノオキ沖の舟屋の主人がそうであったように、声や言葉ではなく、意味そのものが伝えられました。二人はありがたくマシュマロをいただき、ひとくちでぱくりと食べてみます。
その美味しいことといったら! 舌の上でふわっと膨らんで、優しい甘さが広がります。次の瞬間には、まるで泡のようにしゅわっと消えてしまって、甘い香りだけをお口の中に残すのです。
さっちゃんは、いっぺんにこのお店を気に入りました。そして、ほかの売り物も見せてもらいます。
このお店は、ふわふわで柔らかいものの専門店のようでした。マシュマロがあり、ムースがあり、シフォンケーキがあり、スフレもあり、それから綿菓子もありました。
――それが、このみせでいちばんふわふわです。
その綿菓子は、あまりにもふわふわなので、置いておくだけでふわふわと飛んで行ってしまい、ちぎれて流されていってしまいます。さっちゃんは、ふわふわの綿菓子を二人分、いただくことにしました。
「二人分も食べるんですか。よっぽど、綿菓子が好きなんですね」
「ちがうよ。綿菓子が好きなのは、そうだけど。でもひとつは、すーちゃんの分。いつものお礼」
「あら」
すーちゃんは驚いて、それから嬉しそうに「ふふふ」と笑いました。綿菓子のトッピングに、金平糖を細かく砕いて、星のかけらと混ぜたものをつけられるといいますので、それはすーちゃんが買いました。
袋いっぱいに満たされた、甘いふわふわの綿菓子は、星のトッピングをまとってかすかな燐光を帯びています。それをつまみながら、二人はまた商店街を引き返します。
綿菓子は甘くて、ときどき思い出したように、果物のような爽やかなあと味を残しました。星のトッピングは口の中で、青やピンクの光と共にぱちぱち弾けました。そして吐息や笑い声に混じって唇のふちを通り越し、さっちゃんの目の前でぱちっと閃光を放つのでした。
甘いものを食べると、次は塩っからいものを食べたくなります。何か塩っからくて美味しいものはないかと、さっちゃんはきょろきょろ探します。
すると目に入ったのは、うちわほどの大きさのある、えびせんべいのお店でした。そのお店のボタンは分かりやすく、おせんべいを模した桜色のボタンに、どんと大きなエビの姿が埋まっています。
「あ、オリオンアマエビだ」
すーちゃんが呟きました。聞いたことのない種類のエビです。オリオンというのですから、たぶん、地球には存在しない種類のエビなのでしょう。
「美味しいの?」
「美味しいですよ。オリオンアマエビは冬のこの時期が一番、甘みが乗っていて美味しいです。オリオン大星雲の裾の方でよく採れるんですが、あの辺りまでいけば新鮮な、生のオリオンアマエビを食べられるそうですね。いつか行こうと思っているんです。でも、生も良いですけど干してあるものも、甘みと旨味がぎゅっと濃縮されていて最高ですよ」
どうやらすーちゃんは、美味しいものの話になると、いやに饒舌になるようです。
さっちゃんはおかしくってたまらず、すーちゃんのために、一番大きなオリオンアマエビが埋まっているえびせんべいを、紙袋いっぱいに買いました。
それから二人は、たくさん買い食いをしました。さっちゃんの全く知らない食べ物も、食べてみました。
たとえば、ツキセミの殻。ツキセミは月の真似をするミトラで、月が満ちれば丸い形に、月が欠ければ細い形に変化します。細い月が徐々に満ち始めるとき、ツキセミは窮屈になった細い殻を脱ぎ捨てて、まるまるとした形になるのですが、その時に出た三日月型の抜け殻が、とても美味しいのです。
セミってつまり、虫の蝉でしょう。そう思うと、初めは抵抗があったのですが、塩で炒ったツキセミの殻はギンナンに似た風味があり、ぱりぱりと歯ごたえも良く、いくらでも食べられるのでした。
月といえば、月の光を煮詰めて作ったシロップを、サイダーで割った飲み物も、美味しいものでした。月シロップサイダーには、惑星ゼリーも入っていました。空に見える太陽系の惑星たちを、シロップの水面に映し込みますと、惑星の姿はビー玉のような丸いゼリーになって、シロップの中に浮かぶのです。
さっちゃんは、薄荷の香りがする水星のゼリーと、ベリーの味がする火星のゼリーを気に入りました。すーちゃんはカフェラテ味の木製のゼリーをたいへん気に入ったようで、家でも作れるかもしれない、やってみようと、しきりに話していました。
こんなにたくさん、こんなに何も考えずに買い食いをしたのなんて、初めてのことかもしれません。青いベルベットの小袋は、すっかり軽くなりました。
「ああ、お腹いっぱい。さっちゃん、おごちそうさまでした」
「ううん。すーちゃんには、ラーメンだって奢ってもらったし」
それに。と、さっちゃんは立ち止まります。ちょうど、商店街を往復したところ。入り口のアーチの真下です。
「それに、これは元々、私のお金じゃないから」
青いベルベットの小袋には、底の方に一粒だけ、輝く金色が残っています。段ボールから出てきたお金を、勝手に使ってしまったことに、少しの罪悪感があります。だけど、さっちゃんだって、考えなしにお金を使ったわけではないのです。
お金だって、物と一緒。使わないまま放っておけば、いつかあの暗い放棄の海に沈んでしまうでしょう。金色に光るこの粒は、さっちゃんの生きる世界では、決して使えないお金です。ここで使ってしまわなければ、この先使う機会などきっとなく、可哀想だと思ったのです。
「あの段ボールは、さっちゃんがもらったものなんでしょう。だったらそのお金だって、さっちゃんが自由に使っていいんですよ」
すーちゃんがそう言いましたので、さっちゃんは少しだけ元気を出して、最後の一粒を手のひらに出しました。最後に、これで何を買いましょう。さっちゃんは少し考えまして、そして、淡い黄色地に白いヒナギクの、クルミボタンの花屋へ寄りました。
「これ一粒で、買える花がありますか」
尋ねますと、お店の人は、スイートピーの花束を指差しました。赤にピンクに黄色に白、青やオレンジ、紫も。たくさんの色のスイートピーが、可愛らしく、小ぢんまりと束ねられたブーケです。
「じゃあ、それくださいな」
金の粒をひとつぶ手渡して、さっちゃんは、いつもすきま世界に持ってきているハンドバッグを差し出しました。花屋の店員は、スイートピーのブーケを持ちますと、花びらの先でそっと、ハンドバッグを撫でました。
そしてまばたきをすると、さっちゃんは、いつものクローゼットの前に立っていました。商店街の喧騒が嘘のようで、お部屋の静けさが今日はいっそう耳に沁みます。
もしかしたら、全部夢だったのではないかしら。すきまの世界には何度も行っているはずなのに、さっちゃんは今さら不安になります。
そうしてハンドバッグを見てみますと、すみの方に、刺繍が施されているのです。たくさんの色の刺繍糸をふんだんに使って、スイートピーのブーケは、ハンドバッグの上で、その可愛らしさを主張しています。それを見て、これで充分だ。と、さっちゃんは思います。
ちょうど、日付が変わりました。
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