12月10日 モノオキ沖


 夢を見ました。

 さっちゃんは、今はもうなくなってしまったはずの、テーマパークに来ています。チケットを買う券売機も、入り口のアーチも、やたらと背が高く、大きく見えます。

 チケットは、幾らだったかしら。ポケットを探りますと、小銭が三枚、入っていました。

 小銭を握りしめた手が、小さくまるまるとしていましたので、それでようやく、さっちゃんは気が付きます。

 今のさっちゃんは、まだほんの子供なのです。券売機やアーチが大きいのではなく、さっちゃんが小さくなっているのです。


 券売機に手が届きませんでしたので、さっちゃんは入り口に立っているキャストさんに、直接小銭を手渡します。キャストさんは小銭を受け取らず、さっちゃんを見下ろして「だめでしょう」と言いました。

「だめでしょう、さっちゃん。もう帰る時間なんだから」

 キャストさんだった人は、いつの間にか、さっちゃんのおばあちゃんになっていました。そうです、さっちゃんはこのテーマパークには、いつもおばあちゃんに連れてきてもらっていたのです。

 おばあちゃんはにこにこと笑って、泣きべそをかくさっちゃんをなだめます。楽しかったね、また来ようね。そう言って。


 だけど、さっちゃんは知っているのです。このテーマパークが閉園してしまうこと。

 あの花壇だって。あのローラーコースターだって。それから、テーマパークの一番奥にある、あの観覧車だって。みんななくなってしまうこと。

 帰りたくなくていやいやをするさっちゃんに、おばあちゃんは、マグカップを握らせました。

「お土産も、買ったでしょう。わがまま言わないのよ、さっちゃん」

 テーマパークのロゴが入ったマグカップを、さっちゃんは、ぎゅっと握りしめます。握りしめたはずだったのに、マグカップはつるりと手のひらを滑り落ちました。そして、アスファルトの地面にぶつかって、粉々に割れてしまったのです。


 マグカップの破片は、無数の鳥たちになって、さっちゃんの視界いっぱいに広がりました。慌てて、おばあちゃんを見上げます。マグカップの鳥たちの向こうに、おばあちゃんの姿は、もうありませんでした。

「おばあちゃん」

 呼んでも、返事はありません。さっちゃんはいつの間にか、坂道の途中に立ち尽くしています。


 ここは幽玄坂。さっちゃんは、坂を上ります。少し上って、それから回れ右をして、今度は下ってみます。上っても下っても、坂は坂。さっちゃんの坂道は、いつ終わるのでしょう。

 夢幻坂ではないのだから、いつかは、終わるはず。さっちゃんは、坂道を行ったり来たり、右往左往して終わりを探します。そしていつか疲れ果てて立ち止まり、ふと顔を上げますと、坂の向こうに、観覧車の影がかすんで見えるのでした。


「さっちゃん」

 誰かが、さっちゃんを呼びました。おばあちゃんかと思って、さっちゃんは辺りを探します。けれど、誰の姿も見当たりません。

「さっちゃん、さっちゃん。起きてください」

 おばあちゃんではないようです。この声は、誰の声だったかしら……。



「さっちゃん、おはようございます」

「おはよう……すーちゃん」

 すーちゃんに挨拶をしてから、さっちゃんは、背伸びをしました。毛布代わりにかぶっていたコートが、膝の上にずり落ちます。

 ずいぶん、ぐっすりと眠ってしまっていたようでした。バスの座席は、お部屋のベッドほどは快適とは言えず、体のあちこちが軋んで痛みますが、眠気はさっぱりなくなっています。

 バスは走るのをやめ、どこだかに停車していました。とても暗く、静かな場所です。耳を澄ましますと、バスの外から、波の音が聞こえます。モノオキ沖に着いたのでしょう。二人はさっそく、ここまでの運賃を支払ってから、モノオキ沖に降りてみました。


 モノオキ沖は、名前からある程度の予想は出来ていましたが、やはり海でした。

 砂浜の砂はみんな、細かく砕けた水晶です。それはあまりにも澄んでいるので、宇宙の黒と星の光とをいっぺんに映し込み、一粒ひとつぶの砂がひとつの銀河に思えます。

 さっちゃんが一歩足を踏み出しますと、足の下の砂粒の中に、白い炎が燃えました。足をどけますと白金の炎は失われ、砂粒の中には玉虫色のプラズマが、さっちゃんの足跡をゆらゆらと示すのでした。


「さて、では舟屋へ行きましょう」

 すーちゃんは、水晶の浜を歩き出します。二人の足跡は玉虫色の光となり、浜辺をしばらく彩りました。

 水晶は、真空の冷たい波にひと撫でされますと、ふっと暗くなり、そしてまた波が去れば、元の白い炎を燃やします。水晶の浜は波の動きと合わせて明滅しており、遠くから見れば、銀河が呼吸しているように見えるでしょう。



 しばらく歩いて、二人は、舟屋に着きました。

 舟屋には明かりがついており、中には人の気配があります。すーちゃんは「こわもてですが、悪い人ではありませんので」と、さっちゃんに耳打ちをしてから、舟屋の戸を叩きました。

「ごめんください」

 そのあとにすーちゃんは、恐らく彼女の名前を発音したのですが、さっちゃんにはよく聞き取れない、難しい音でした。しかし、舟屋の中の人には伝わったようです。どす、どす、と大股で歩く音がして、それから、舟屋の戸が開かれました。

「こんばんは」

 すーちゃんが挨拶をしましたので、さっちゃんも「こんばんは」と言って、小さく頭を下げました。


 戸の向こうから出てきたその人は、背丈は三メートルもあろうほどで、肩幅も背中も桁外れに大きな、まさに巨人でした。腕なんて、さっちゃんの胴体の倍も太いのです。

 すーちゃんが「こわもて」だと言ったのは、おそらくこの体格のことでしょう。黒いローブを深くかぶった顔は、どこまでも影になっていて、顔が怖いかどうかなんて分からないのですから。


「ミトリズクが入りましたよ。ご覧になりますか」

 すーちゃんは、作業着のポケットから籠を引っ張り出しました。中には、トリドリ公園で捕まえたミトリズクが二羽、今は羽根を畳んで眠っています。

 舟屋の主はうなずいて、すーちゃんを舟屋へと招き入れました。それから、続いて舟屋へ入ろうとしているさっちゃんに、太い人差し指を向けました。これは誰か。客人か。と、訊いているようです。

「私の助手です」

 すーちゃんが簡潔に説明します。それで納得してもらえるのかと、さっちゃんはひやひやしたのですが、舟屋の主はあっさりとうなずいて、さっちゃんも舟屋へと招き入れてくれました。



 舟屋の中は、畳六枚の和室でした。部屋の真ん中に灯油ストーブがあり、空気をほこほこ温めています。ストーブの上にはやかんがおいてあって、白い湯気を吐き出しています。

 舟屋の主は、やかんから注いだ熱いお湯を、湯飲みに入れて少し冷まし、さっちゃんたちに出してくれました。畳の上に座り、出されたお湯を飲みます。なんの味もついていない、ただのお湯なのですが、とても美味しく感じます。


「天の川の水をろ過して沸かした、特別性の白湯ですよ」

 すーちゃんが、なぜかちょっと得意げに、説明してくれます。

「天の川の水をろ過するのって、とても骨が折れるんですよ。普通に汲んできたら、あれは水というより乳に近いものでしょう。ここまで澄んだ水にするには、あらゆるスペクトルの波を除いて、本当に静かな水面にする必要があるんです。全ての波を除くだなんて、ずいぶん難しいことなんです。ですからこの白湯は、本当に貴重で、珍しくて、手のかかっているものなんですよ」


 こんなにぺらぺらと喋るすーちゃんも、珍しいものです。いつもとは違う一面を見ているようで面白く、さっちゃんは相槌を打ちながら、すーちゃんの顔をじっと見つめます。すーちゃんの頬は紅潮しており、それは美味しい白湯のせいなのか、白湯の素晴らしさに興奮しているせいなのか、分かりません。


 ひととおり、天の川白湯のすばらしさを説いてから、すーちゃんはようやく本題に入ります。ミトリズクの入った籠をそばに引き寄せ、舟屋の主人に、状態を確認してもらいます。

「そっと捕まえましたから、羽根に傷なし。腕に欠けなし。いかがです?」

 人の声に目を覚ましてしまったのでしょう。ミトリズクは籠の中で、まだ少し眠そうな目を眩しげに細め、自分を見る人間たちをじっと見つめ返します。

 ゆっくりとまばたきをするその瞳には、さっちゃんが一生かけても理解できないような哲学が秘められているようです。きっとたくさんの陶磁器たちの、最後の言葉を聞いてきたのでしょう。楽しい思い出も悲しい思い出も全て聞き、陶磁器たちの終わりに立ち会ってきたのでしょう。


 舟屋の主人は、色んな方向からミトリズクを観察し、籠のすきまから指を差し込みました。差し込まれた指先を不思議そうに見て、ミトリズクは、羽根の間から伸びる人間の手で、その指先を包みこみます。

 まるで、目の前に現れたものが看取りを求めているならば、精一杯、それに応えようとでもするように。


 それを見て、舟屋の主人は購入を決めたようでした。商談成立。ミトリズクを二羽とも、籠ごとすーちゃんから受け取って、代わりに通貨と思われる光の粒と、天の川の白湯を詰めた一升瓶を一本、すーちゃんに持たせました。


「まいど、ありがとうございます。そうそう、今日はひとつ、お願いがありまして」

 すーちゃんが、舟屋の主人と握手をしながら、さっちゃんの方を振り向きました。

「助手が、ミトリズクがどう使われるのか、見たいと言っているんです。今日、漁に出るなら、ついて行ってもいいですか」


 返事をしかねている舟屋の主人に、さっちゃんは「お願いします」と、深く頭を下げました。舟屋の主人はちょっと考えていましたが、人差し指で天井を指して、次に海の方を指して、それからゆっくりとうなずきました。

 ――今日は、天気が荒れていない。だから、海も穏やかだ。三人で沖へ出ても、問題ないだろう。

 そういった意味を、さっちゃんははっきりと感じ取りました。それは言葉ではなく、意味そのものとして、伝わってきたのです。


「ありがとうございます。お手伝いできることがあったら、言ってください」

 さっちゃんが申し出ますと、舟屋の主人は、ミトリズクの籠を指し、部屋の隅に畳んで置いてある黒い布を指しました。

 ――沖へ出るから、鳥が寒くないように、籠に布をかけてやってほしい。

 そんな意味が伝わりましたので、さっちゃんは布を広げ、ミトリズクの籠にかぶせました。



 舟は粗末な木製で、こんな宇宙の暗い海へと漕ぎ出せば、波に砕けてしまうのではないかと思われました。それに、三人も乗り込むのです。三人のうち一人は、三メートルもある巨人ですし、もう一人は、こんな舟には一度も乗ったことがないしろうとなのです。

 大丈夫なのでしょうか。乗り込んだ舟はさっそく波をかき分けて、すいすい沖へと漕ぎ出します。不安ではありますが、さっちゃんは、ミトリズクの籠を胸の前にぎゅっと抱きしめて、不安な気持ちを押し込めます。


 海は、どこまでも真っ黒でした。空にはこんなに星が煌めいているのですから、ひとつくらい、海に映っていてもいいはずです。しかし海は、いかなる星の輝きすらも飲み込んでしまって、墨汁のような黒さなのです。

 海面に星が映らないわけは、波があまりに激しすぎるから、というわけではないようでした。だって、舟はそれほど揺れないのです。波は、それほど激しくないのです。


 では、いったい何が、この海から光を奪っているのでしょう。その答えは、すぐに分かりました。

「あっ、人がいる」

 さっちゃんが叫びました。波の向こうに、人の姿が見えた気がしたのです。さっちゃんが騒ぎますので、舟屋の主人は、くだんの波間に舟を寄せてくれました。果たしてそこを漂っていたのは、古びたフランス人形でした。


 フランス人形だけではありません。分厚い本に、万年筆。黒電話に革の鞄。毛糸のセーター、ガラスの文鎮、ネクタイピン、化粧筆。波間から現れては消える様々なものが、波のすぐ下にひしめき合って、海が星の光を反射するのを妨げていたのです。

 舟屋の主人が、櫂から決して手を離さないままで、海の向こうの方を指差しました。

 ――この海をずっとずっと沖へ行けば、やがて放棄の海に着く。モノオキ沖は、廃棄と放棄のすきまにある。


 伝えられたその意味以上の意味を知りたくて、さっちゃんは口を開きます。しかし何か言う前に、さっちゃんの抱えている籠が、ぶるりと震えました。かけた布を取ってやりますと、籠の中で、ミトリズクが二羽とも羽根を広げ、くちばしをかちかち鳴らしています。

 舟屋の主人は籠を開いて、ミトリズクのうち一羽を、その巨木のような腕にとまらせました。


 ホオウ、ホウ。

 黒いフードの下から、思いのほか高い声が流れ、空気を震わせます。



 ホオウ、ホウ

 たがねのうった あかがねおちた

 うさぎのとんだ おつきさま


 しらせのあった たよりもつきた

 きざはしきれた

 ホオウ、ホウ



 歌か呪文か分からない、その声に引き付けられるように、波が、舟に向かって打ち始めました。そして波と一緒に、波間をただよっていた物たちも、舟の中へと飛び込んでくるのです。


 ミトリズクは、羽根の中から伸びる細い手をいっぱいに伸ばしました。そして、胸元へと飛び込んできた、重厚な腕時計を抱きしめました。

 黒い文字盤に、つららのような針の光る腕時計です。風防のガラスに割れもなく、ベルトも切れていないし、手入れさえすればまだまだ使えそうな腕時計です。それを腕に抱きしめて、ミトリズクは、耳の羽をそっと寄せました。腕時計は、さっちゃんには分からない言葉で、ぼそぼそと何かを話します。


「あれも、陶磁器たちのように、思い出を話しているの?」

 すーちゃんに耳打ちして尋ねてみますと、すーちゃんはうなずいて、籠の中からもう一羽のミトリズクを出しました。波間から、今度はプラスチックのビーズで出来た、ブレスレットが飛び出してきて、ミトリズクの腕の中におさまります。誰か小さな子供が手作りでもしたような、安っぽい可愛らしいブレスレットです。

「廃棄と放棄は表裏一体ですが、天と地ほども違います。廃棄されたものは、きちんと終わりを迎えられますが、放棄されたものはそうもいきません。不相応なほど長い間、終われないものたちもあるんです」

「終われないことは、苦しいこと?」

「それが忘却を伴うものであれば、たいていは」


 ミトリズクの腕の中で、ビーズのブレスレットは、ぽそぽそと思い出を語ります。ミトリズクはじっと目を閉じて、その思い出話に耳を傾けます。

 やがて語り尽くしたのでしょう。ビーズのブレスレットも、先ほどの腕時計も、囁くのをやめました。そしてミトリズクの腕を離れ、腕時計は銀色のうろこを持つ魚に、ビーズのブレスレットはカラフルなハムシの群れになって、宇宙の果てへと飛んでいきました。


 それからも波の中からは、終わりを望むものたちが、次々に飛び出してきました。さっちゃんたちは、それらを捕まえて舟の中へ置き、ひとつひとつ順番に、ミトリズクの腕に抱かせました。

 たくさんのものが終わっていきました。さっちゃんたちは、たくさんのものを、見送りました。



 舟は舟屋へと戻り、波立っていた海はすっかり静かになりました。ミトリズクたちも、今は籠の中で翼を休め、眠っているようです。

「ミトリズクが、トリドリ公園の外にも必要な理由、分かりました。ごめんなさい、わがままにつき合わせて」

 さっちゃんが謝りますと、すーちゃんは照れくさそうに笑います。

「いえいえ、良いんです。自分の仕事を知ってもらう機会なんて滅多にないから、ちょっと楽しかったです」


 再び六畳の一間へ戻り、さっちゃんはもう一杯、白湯をごちそうになりました。

 最後の一滴を飲み干しまして、「ごちそうさまでした」と、湯飲みを畳に置きましたら、次にまばたきをしたとき、さっちゃんはクローゼットの前にひとり座っていたのです。



 なんだか、久しぶりな気分。さっちゃんは、自分の部屋を見回します。

 たった一日ちょっと部屋を空けただけなのに、なんだかものすごく遠出をした気分です。もちろん、遠いといえば遠いところへ行っていたのですが、まばたきひとつで帰ってこられるためか、いまいち距離感を掴みきれません。


「白湯、おいしかったな」

 今日はもう、二杯も白湯を飲んだのに、もう一杯くらい飲みたい気分です。さっちゃんは水道水を沸かして、ちょっと冷まして、白湯を作ります。そして一口、飲みました。

 それはもちろん、天の川の水をろ過して作った白湯には、遠く及ばないのですが、だけど、これはこれでおいしい。と、さっちゃんは思います。


 ちょうど、日付が変わりました。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る