12月9日 外惑星サービスエリア
厚手のコートを着て来て正解でした。
真夜中のトリドリ公園は、ひどく冷えるのです。強風がビョウと吹きすさび、湖面を細かく波立たせます。耳元で鳴る風の音に、卵たちの囁きはかき消され、ミトリズクは胸の羽根を大きく膨らませました。
「私たちも、保温、保温」
すーちゃんも、ポンチョの中に腕を引っ込めます。さっちゃんは、ハンドバッグの中から試験管を取り出して、冷たい指先で握り込みました。いつかすーちゃんにもらった、水素の炎です。
炎はじんわりと、さっちゃんに温度を与えました。そしてある程度温まってから、さっちゃんは、すーちゃんのポンチョの下から試験管を差し入れました。すーちゃんは「ほわあ」と奇妙な声を出しながら、炎のぬくもりを堪能しました。
そうして二人は、始発のバスが来るまで、冬の寒さに耐えました。
すーちゃんはいつもなら、まばたきひとつで、彼女の家のある多次元アンドロメダ伴銀河に帰れるのだそうです。それは、さっちゃんがまばたきひとつでクローゼットの前に帰るのと、同じことです。
しかし今日は、家には帰らずにミトラを売りに行きますから、始発のバスを待つしかないのです。
「ミトラを売るのって、どんな所で?」
「どこででも売れますが、今回はミトリズクを売りますから、モノオキ沖にでも行こうと思います」
モノオキ沖。どんな所でしょう。空想にひたるさっちゃんのお腹が、ぐうと鳴りました。さっちゃんが顔を真っ赤にする前に、すーちゃんのお腹も鳴りました。
「向こうに着いたら、まず何か食べましょうね」
すーちゃんの提案に、さっちゃんは深くうなずきました。
『ご乗車ありがとうございます。このバスは、行き先番号一二九。トリドリ公園発、天の川銀河高速経由、モノオキ沖行きです。整理券をお取り下さい』
さっちゃんは、どきどきしながらバスに乗り込み、一番後ろの席に座ります。すきまのバスにはもうずいぶん慣れたのですが、いつもとは違う場所から乗るバスは、なんだか新鮮に思えました。
トリドリ公園からは、来る時に一緒だった真っ白な人も乗ってきました。さっちゃんたちと真っ白な人は会釈を交わしましたが、真っ白な人は今日は前の方に座りましたので、それ以上の会話はありませんでした。
低いエンジン音を立てて、バスは走り出します。いつもは終点のひとつ前の駅から乗って、そしてすぐに終点に着いていますが、今日は違います。なにせ、始発バス停から乗っているのです。終点のモノオキ沖に着くには、ずいぶん乗っていなければならないでしょう。
「高速を経由するって言ってたけど、高速道路のこと?」
「ええ。光速道路ですよ」
さっちゃんとすーちゃんの認識は、微妙に食い違っているのですが、そのことに二人とも気が付きません。
『当バスは、ただいまより天の川銀河高速に入ります。光速走行中は、お席をお立ちにならず、かならずシートベルトをお締めください』
アナウンスがかかりましたので、さっちゃんは言われた通りに、シートベルトをしめました。窓の外を見ますと、真っ暗の中に、細かな砂をばらまいたような星たちが、びっしりと輝いています。星はそれほど上の方にあるわけではなく、さっちゃんの目線とほとんど同じ高さで瞬いています。
バスは一度スピードを落とし、停車しました。運転手さんが、運転席の窓を開けて、何やら会話しています。ここは、高速道路に入る前の料金所なのかもしれません。料金所をよく見ようと、さっちゃんは体をひねって窓から覗き込みましたが、暗くて何も見えませんでした。
やがてバスは、再び走り始めます。星々が細い線になって窓の外を飛んで行くくらい、さっきよりもずいぶんスピードが出ています。
窓からバスの前方を見ますと、無数の星たちはみな一様に青く光っていました。そして星の光はグラデーションを描きながら、バスの後方へ向かって、次第に赤くなっています。
その不思議で美しい光景に、さっちゃんはすっかり魅了されました。まるで、初めて乗り物に乗った子供みたいに、鼻先が窓にくっついてしまうくらい一生懸命、虹色の星の変遷を眺めました。
「えーと、このバスは、オリオン腕インターチェンジから高速道路に入ってるから、モノオキ沖までは……」
すーちゃんはといいますと、さっちゃんの隣ですきま地図を広げて、ぶつぶつと呟いています。
「結構、距離がありますね。これは、もう一日くらいかかるかも」
その言葉に、さっちゃんは不安になって、窓から視線を外しました。そんなにかかっては、お腹がすきすぎて、お仕事どころではなくなってしまいます。そしてもちろんそれは、すーちゃんも同じです。
「きっと、途中でサービスエリアに停まりますから、そこで何か食べましょう」
「温かいものがあると良いな」
さっちゃんは、コートのポケットの中で、水素の炎の試験管を握りました。バスの中は充分に暖房がきいており、温かいのですが、さっちゃんは芯から冷えてしまっていますので、体の内側から温まりたいのでした。
バスの外は、ずっと虹色でした。景色に変化はなく、虹色の不思議さに慣れてしまえば、ほかに見るものも特にありません。それでもさっちゃんが退屈しなかったのは、すーちゃんと一緒にすきま世界の地図を眺めていたためです。
地図上の模様は、以前に見たときよりもすさまじい速さで移り変わっており、このバスがそれほどすさまじい速さで移動していることを示していました。
やがて、バスがスピードを落とし始めたことに、さっちゃんは気が付きました。窓の外の虹色は、いつのまにかなくなっています。たくさんの星々は相変わらず見えるのですが、それらは白であったり赤であったり青白かったり、それぞれの色を取り戻し、静かに瞬いています。
『当バスは、まもなく外惑星サービスエリアに停車いたします。停車時間は五彗時です』
バスは淡い銀河の光が満ちた空間に入り、ゆっくりと停車しました。さっちゃんとすーちゃんは、運転手さんに挨拶をして、外惑星サービスエリアに降り立ちます。
広い駐車場がありました。地面は、さっちゃんが持っているバスカードと同じ、つやつやと黒くてわずかに透き通った、鉱石のようなものでできています。そこに銀色のラインが引かれていて、車両が停車すべき領域を区切っています。
駐車場と反対側を見れば、この場所にいかにも不釣り合いな、木製の屋台がありました。
それは本当に、宇宙のただ中にあるはずのない、普通の屋台なのです。屋根は錆びたトタンで出来ていますし、赤い提灯と赤いのれんに、白い文字で、何か書いてあります。何と書いてあるのか、さっちゃんには読めません。すーちゃんに読んでもらいますと「ラーメン」と、すーちゃんは言いました。
すきまの世界の文字で、ラーメンとはああ書くのだなと、さっちゃんはちょっと呆れながら思いました。ここまで来て、どうしてラーメンなのでしょう。けれどラーメンは、芯まで冷えた体を温めるには最適なのでした。
宇宙のサービスエリアにあるラーメン屋台に、さっちゃんは妙にひるんでしまいましたが、さすがすーちゃんは慣れたものです。ひょいとのれんをくぐって「やってます?」と、声を掛けます。
「やっとりますよお」
応えたのは、女性だか男性だか分からない、若いのか歳を取っているのか分からないような声でした。さっちゃんも、すーちゃんに続いて、のれんをくぐってみます。屋台の小ぢんまりとしたカウンター席の向こう、ラーメンのスープから立ち上る湯気の奥に、真っ黒の人が立っていました。
手も顔も、墨を塗ったように真っ黒で、目も鼻も口もありません。墨そのものを人の形にして、そしてラーメン屋の店主にふさわしい服装をしているのです。
「ラーメンふたつ」
手早く注文を済ませまして、二人は屋台の丸椅子に座り、ラーメンが出てくるのを待ちます。
それにしても本当に、どうして宇宙のサービスエリアに、ラーメンなのでしょう。
すーちゃんに小声で訊いてみますと、「そらあ、宇宙にラーメン屋があったら、嬉しかでしょうもん」と、答えたのは店主でした。さっちゃんは、本当に本当に小さな声で訊いたはずなのに、店主はどうやらかなりの地獄耳のようです。
「宇宙の暗い、寒い中で、ラーメン屋があったら嬉しかでしょう?」
「ええ、それはもちろん……」
「ですけんね、ラーメン屋を始めたとですよ。お客は少なかですばってん、まあ、良か仕事ですたい」
はい、ラーメン一丁。と、店主はさっちゃんの前に湯気の立つラーメンを置きました。それからすぐに、すーちゃんの前にも、ラーメンを置きました。
なんて美味しそうなラーメンでしょう。白く濃厚なスープに、黄金の油が浮いています。分厚いチャーシューに、きくらげ、青々としたネギ、真っ赤な紅ショウガ。
「星屑は、そこにありますけん、好きにかけて良かですよ」
店主は、さっちゃんの右手側にある小瓶を指しました。小瓶には赤い蓋がついており、中に入っているのは、どうやら摺り胡麻のようです。
しかし、店主は「星屑」と言っていました。さっちゃんは小瓶を持ち上げ、屋台の裸電球にかざして、中を見てみます。やはり、摺り胡麻でしょうか。でも、摺り胡麻にしてはきらきら、光っているようです。
「これ、ラーメンにかけて食べるんですか」
店主に尋ねてみますと、店主は「うん」とも「おん」ともつかない声で返事をしました。
ものは試しです。さっちゃんは小瓶の蓋を開け、中のものをラーメンに振りかけてみました。摺り胡麻、あるいは星屑は、湯気の中をきらきらと落ち、ラーメンにふりかかります。
「いただきます」
手を合わせて、さっちゃんはまず、スープをひとくち、いただきました。
濃い味に、深いコク。口の中から喉へ、そしてお腹へ、旨味がいっぱいに広がっていきます。次に、麺。スープと油をたっぷりからめた麺を、ずずっと一気にすすります。少し硬めで、食べ応えのある麺です。
はふ。と、隣ですーちゃんも、夢中でラーメンをすすっています。おいしい。もうそれ以上の、深いことは考えられません。きくらげと紅ショウガをひとつまみずつ口に運び、ネギと一緒にもうひとすすり麺を食べて、次にスープ。また麺、チャーシューをひと齧り、またスープ……。
「ごちそうさま、でした」
さっちゃんもすーちゃんも、麺の最後の一本、スープの最後の一滴まで、ぺろりとたいらげてしまいました。ラーメンは、それくらい美味しかったのです。それでいて、一杯だけでもう充分なくらいお腹いっぱいになって、二人は、本当に満足なのでした。
「美味しかった。とても美味しかったです」
さっちゃんが言いますと、ラーメン屋の店主は、にっこりと笑いました。店主の顔は真っ黒で、表情も何も分かりやしないのですが、それでも、嬉しそうに笑ったことだけは、分かったのです。
「お客さん、どっから来らっしゃったとですか」
食器を片付けながら、ようやくといった調子で、店主は世間話を始めます。二人が食べている途中に話し掛けては、麺が伸びてしまうと思って、我慢していたのかもしれません。
「私は、多次元アンドロメダ伴銀河から」
と、すーちゃんが答えました。
「私は、物質世界から」
さっちゃんも、答えました。物質世界から来たと説明すると、誰もが同じ反応をするのかもしれないと、さっちゃんは思いました。昨日会った真っ白な人と同じように、真っ黒な店主もまた、「へえ!」と驚いたためです。
そのあとも、店主はおりに触れて、さっちゃんが物質世界からやってきたことに感心するのでした。
すーちゃんのミトラ採りのお仕事の話や、高速道路を経由するバスの本数が減って困っている話や、迷子の彗星が掠めていって、危うく屋台が全壊するところだった話などをしていても、つど店主は「それにしても、物質世界からねえ」と、しみじみ呟くのです。
「物質世界から来たって、そんなに珍しいことですか」
とうとうさっちゃんが尋ねますと、「それはもう」と、店主はうなずきます。隣ですーちゃんも、うんうんとうなずいています。
「特にお嬢さんのごと、終わっとらんもんが来らっしゃるのは、滅多になかですよ」
「終わっていないもの、ですか」
「物質世界で終わったもんは、よう来ますばってん」
そう言って店主は、屋台ののれん越しに、遠く広がる宇宙に視線をやりました。
真っ黒なその顔は、屋台の明かりも何もかも吸い取ってしまって、一切の光の反射を許しません。しかしよく見ますと、宇宙の星々が発する光だけは、店主の顔の表面に、わずかながら反射しているのです。小さな小さな銀河が、墨よりも黒い石炭の顔の上に、渦を巻いて廻っています。
その光に見とれかけていますと、背後の宇宙から、いいえ、駐車場から、クラクションの音が聞こえてきて、さっちゃんは思わず丸椅子から飛び上がりました。
「いけない、バスが出ちゃう」
二人は慌てて立ち上がり、ラーメン屋の店主に、改めてごちそうさまを言いました。すーちゃんが二人分のラーメン代を払い、急いで屋台を後にします。五彗時というのは、ちょうどラーメンを食べ終わって、ちょっと世間話をするくらいの時間だったようです。
バスに乗り込んで、一番後ろの席から、二人はラーメン屋の屋台に手を振りました。そして、バスは再び発車します。
『ご乗車ありがとうございます。このバスは、行き先番号一二九。天の川銀河高速経由、モノオキ沖行きです。光速走行中は、お席をお立ちにならず、かならずシートベルトをお締めください』
お腹もいっぱいになりましたし、体も芯から温まりました。バスの揺れががたごと気持ちよく、さっちゃんは急に、強烈な睡魔に見舞われます。
「寝ていたら、そのうち着きますよ」
すーちゃんが言いましたので、さっちゃんはコートを脱いで毛布代わりにして、ひと眠りすることにしました。
「すーちゃん、ラーメン、ありがとう……」
うとうとしながら、さっちゃんは、ラーメンのお礼を言います。
「すーちゃんのお仕事を、たくさん手伝って……ラーメン代くらい、返せる、かな……」
もう、眠たくて仕方ありません。美味しいものを食べてお腹いっぱいで、暖かくて、眠たくて……こんな幸せなことが、ほかにあるでしょうか。さっちゃんはもう、これ以上は幸福に抗えません。
そういえば。と、夢うつつの中でさっちゃんは考えます。ラーメンにかけて食べた星屑とは、結局、なんだったのでしょう。
味や食感は、どう考えても、摺り胡麻でした。宇宙の摺り胡麻は、星屑のように光るのでしょうか。それとも、星屑が、胡麻のような味をしているのでしょうか。
「へんなの……」
考えているうちにおかしくなって、さっちゃんはふふふと笑いました。そして、そのまますうすうと寝息を立てて、眠ってしまいました。
「おやすみ、さっちゃん」
優しく呟いて、それからすーちゃんも、さっちゃんの肩に頭を預け、眠りの淵に落ちていきます。
ちょうど、日付が変わりました。
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