12月8日 トリドリ公園
ムゲン坂を無限に歩いたにしては、さっちゃんは特に疲れてもおらず、今日もいつも通りに段ボールの山を片付けました。今日開いた段ボールからは、はたきやモップといった掃除道具が出てきましたので、ついでに、ちょっと早めの大掃除もやりました。
捨てるつもりだった古着を手ごろな大きさに切りまして、換気扇のファンや窓のサッシなんかを吹き上げます。そうして、最後まで使い切って、物は物としての寿命を迎えるのです。
永遠のものなんて、なにもない。
黒く汚れたタオルをゴミ袋に突っ込んで、さっちゃんは少し、休憩をすることにしました。
手を洗って、マグカップ一杯の牛乳を、電子レンジにかけます。橙色の光を受けながら、レンジ皿の上でぐるぐる回るマグカップを、さっちゃんはぼうっと見つめます。
このマグカップは、さっちゃんが子供の頃から使っている、お気に入りのものです。白地に紺色で、とあるテーマパークのロゴが書いてあるのです。
そのテーマパークは、十年も前に、潰れてなくなってしまいました。もう存在しないテーマパークのロゴが、電子レンジの中でぐるぐる、ぐるぐる。
いつかこのマグカップも、どこかが欠けたり割れたりして、使い物にならなくなるでしょう。マグカップは失われ、マグカップに書かれていたテーマパークのロゴも失われ、やがてそんなテーマパークがあったなんて記憶も、失われていくでしょう。
さっちゃんが大好きだったテーマパークも、そこで買ってもらったマグカップも、そのマグカップをさっちゃんが大切に使っていたことも、何もかもなかったことになるのです。
(永遠のものなんて、何もないんだ。だけどそれは、良いことなのかもしれない。無限の時間を、無限に歩いていくよりは)
電子レンジが、ピーと生真面目な音を立て、回転を止めました。さっちゃんはマグカップを取り出し、熱々のホットミルクに、息を吹きかけました。
今晩も、すーちゃんはお部屋に現れます。今日のすーちゃんがひと味違うのは、いつもの作業着の上に暖かそうなポンチョを着ていることです。「冷えますから」と、すーちゃんは言いました。確かに、今日はずいぶん冷え込みます。明日は、もしかしたら、雪が降るかもしれません。
「さっちゃんも、何か着ていった方が良いですよ。今日はトリドリ公園に行きますからね。あそこは風を遮るものが何もないので、寒いですよ」
トリドリ公園。今日の目的地を、呟きます。本当は昨日行くはずだったのが、途中でムゲン坂に阻まれてしまったために、行けなかったのです。さっちゃんは忠告通り、厚手のコートを着ていくことにしました。コートを着て、ハンドバッグを持って、クローゼットの前に立ちます。
プー。ブザーの音と共に、バスの扉が開きました。
『ご乗車ありがとうございます。このバスは、行先番号一二八。すきま五番地経由、トリドリ公園行きです。整理券をお取りください』
バスに乗り込みますと、今日はなんと、先客がありました。いつもさっちゃんたちが座っている、バスの一番後ろの席に、女性がひとり座っているのです。
その人は肌も髪も真っ白で、服も靴も真っ白でした。頭の高い位置でお団子に結った髪に、きらきら、星の髪飾りだけが、金色に光っています。
真っ白な人は、バスに乗り込んださっちゃんたちをちらりと見て、小さく会釈をしました。さっちゃんも会釈を返し、今日は前の方の席に座ろうと思ったのですが、すーちゃんはいつもの通り後ろの方まで行き、真っ白な人の前の席に腰掛けました。
自分だけ遠くに座るというのも、それはそれでおかしな気がしますので、さっちゃんはすーちゃんについていって、すーちゃんの隣に座りました。
「こんばんは」
すーちゃんが挨拶をしますと、
「ごきげんよう」
真っ白な人も挨拶をします。
「どちらから? 私は、多次元アンドロメダ伴銀河から。この人は、物質世界から」
すーちゃんはそんなふうに、自分とさっちゃんの出身を紹介しました。真っ白な人は「まあ、物質世界からですか」と言って、まじまじと、さっちゃんを見つめました。
あんまり見つめられて、さっちゃんは気まずくなって、ちょっとうつむきました。すると、見つめすぎたことに気が付いたのでしょう。真っ白な人は「ごめんなさいね」と謝ってから、「あたくしは、セトモノ市から」と言いました。
セトモノ市というのが、いったいどこにあるどういう街なのか、さっちゃんにはさっぱり分かりません。すーちゃんは「ああ、あそこ。良いところですよね」なんて言っていますから、行ったことがあるのでしょう。
「すーちゃん。セトモノ市って、どこ?」
さっちゃんが尋ねますと、すーちゃんは人差し指をすっすっと動かして、「さっちゃんのお部屋の窓のすきまから、十四次元方向へ六星年進むでしょう。そうしますと……」なんて、ちんぷんかんぷんな説明をします。
全く分からないでいたさっちゃんですが、ふと思い出します。そういえば、キーリングに通したキーホルダーの中に、地図があったはずです。一体どこを記した地図なのか、そういえば一度も確認していませんでしたが、すきま世界の旅に必要なものだということは、あれはすきま世界の地図なのではないでしょうか。
さっちゃんは、ハンドバッグからキーリングを取り出しまして、地図のキーホルダーを外しました。そして、左手で撫でて、元の大きさの地図に戻しました。
「そうだ。さっちゃん、地図を持っていたんでしたね」
すーちゃんと、それから真っ白な人も、さっちゃんの広げた地図を覗き込みます。すきま世界の地図は、さっちゃんが知っている地図とは、ずいぶん仕様が違うようです。地図というよりも、物理や数学のグラフに近い模様が、ところ狭しと描かれています。それから、数字と数式も、たくさん。
地図の左上には、一応、方位記号らしきものが描いてあります。しかしそれも、どうやら東西南北を示しているわけではないようで、よっつ以上の矢印が複雑に絡まり合っています。それらの矢印は、見ている間にくるくると、指している方向が変わるのです。
「ほら、ここがすきま五番地でしょう」
そう言って、すーちゃんは地図の片隅を示しますが、「でしょう」と言われたって分かりません。すーちゃんの指し示す先には、何やら複雑な幾何学模様が、複雑なグラフの上を、複雑な動きで移動しています。そこが、すきま五番地、つまりさっちゃんの部屋なのでしょうか。
「この地図、さっぱり見方が分からないんだけど……」
さっちゃんの知る、普通の地図というものを説明しますと、すーちゃんは大いに驚きました。通常は東西南北と、せいぜい標高くらいしか書かれていないものだと、さっちゃんから聞かされて、すーちゃんのお口はぽかんと開いたままです。
「じゃあ物質世界の地図には、リッチ曲率も超弦距離も、フラクタル方位も書かれていないんですか? へえ!」
すーちゃんの言う、そのナントカ率とかナントカ方位というのが、この難解な地図で示されているものなのでしょう。とにかく、さっちゃんには、この地図は読めないということだけは分かりました。
地図を読むことは出来ないのですが、万華鏡のように次々変化する模様は、見ていて飽きません。「ここが今、バスが走っているところ。セトモノ市はこの辺り。トリドリ公園は……」と、すーちゃんが説明してくれますのを、さっちゃんは、楽しく聞きました。
『次は、トリドリ公園。終点です。お忘れ物のないようご注意ください』
アナウンスと共に停車したバスから、今日は三人、降りました。
トリドリ公園は、思いのほか静かな場所でした。バスは公園の入り口、大きなアーチの前に停まりました。そこからアーチの先に、花壇があって、奥の方に湖があるのが見えます。相変わらずすきまの世界は薄暗いのですが、公園には瀟洒なデザインの街灯がたくさん立っていますので、向こうの方まで見えるのです。
公園だし、さっちゃんたちの他にお客さんがいるくらいなのですから、たくさん人が集まる場所かと、さっちゃんは思ったのです。予想は大外れ。トリドリ公園はしんと静まり返っていて、人の気配はありません。
さっちゃんとすーちゃんは、ミトラを採りにここまで来たわけですが、真っ白な人は、いったいトリドリ公園に何をしに来たのでしょう。
「さっちゃん、さっちゃん。こっちです」
真っ白な人の行く先に気を取られていて、さっちゃんは、自分にもお仕事があることをすっかり忘れていました。これではいけません。襟を正して、さっちゃんは、遅れないようすーちゃんについていきます。
向かった先は、花壇の向こうに広がっている、大きな湖でした。湖の真ん中に島があり、島には、こんもりと針山のように盛り上がった森があります。森から、ときどき鳥の影が飛び立っていくのが見えます。
「あっちではなく、こっちです。足元に気を付けて」
すーちゃんが指した足元を見ますと、湖畔には、つるっと丸いかたちの小石が敷き詰められています。いつか行ったホタルガワの川底の石も、こんなふうに卵のようなかたちをしていました。
いいえ、卵のような、ではありません。気が付いて、さっちゃんはその場にしゃがみこみました。これはまさに、卵です。
トリドリ公園にある湖の、その湖畔に並んでいるものは、陶器や磁器の卵でした。絵柄が描いてあるものもあれば、凹凸で模様が付けられているものもあります。どれも、茶渋がこびりついていたり、ひびや欠けがあったりする、とても新品とは言い難いものばかりです。
奇妙なのは、その卵の中からでしょうか。ぼそぼそ、小さな話声が聞こえるのでした。さっちゃんはひとつ、砂気の多い、ざらりとした手触りの卵を、手に取りました。そして、そっと耳元に近付けてみます。
するとやはり、卵の中から、声がするのです。何と言っているかまでは、さっちゃんには聞き取れませんでした。小さな声で、朗読しているような声の調子です。淡々とした、抑揚の少ない話し方ではありますが、よく聞けば、何かを懐かしむような、慈しむような調子が含まれています。
また、別の卵も拾って、耳に当ててみました。その卵は、つやっとした白磁の卵で、淡いピンクの花模様が印刷されています。それもまた、ぼそぼそと呟く声を発しています。さっきの卵とは違って、この声は、深い悲しみを含んだ声でした。
「この卵たちは?」
さっちゃんが尋ねますと、すーちゃんは、少し離れた場所に転がっている灰白色の卵を指差しました。かすかな音を立てながら、今まさに亀裂を広げつつある卵です。
「ここにあるのは、廃棄されて、終わりを迎えようとしている陶磁器たちです。ほら、見て」
ガシャン。と割れる音がして、灰白色の殻が破られました。そして中から、同じ色の陶器の破片が飛び出しました。底の深い器に、丸い持ち手のついた蓋がひとつ。それは、粉々に割れた土鍋です。
土鍋の破片は宙を舞い、そして地面に落ちないままに空高く飛び上がりました。大きな破片、小さな破片のひとつまで、残らず飛び上がりますと、湖の上でぱっとかたちを変えて、無数の鳥の姿になりました。
土鍋だった鳥たちは、土鍋のままでは決して飛べなかったであろう空に、陶器の翼を広げます。湖畔に残された卵の殻からは、もう囁く声は聞こえません。
陶磁器としての終わりを迎えた陶磁器たちは、トリドリ公園の湖畔に辿り着き、やがて鳥になって、どこかへと飛んで行くのです。
「じゃあ、今日捕まえるのは、あの鳥たち?」
ホシウを捕まえた時のことを、思い出します。あの時は素手で捕まえましたが、陶器の鳥たちは、果たして陶器と同じように硬いのでしょうか。そうであれば、素手で捕まえるのは、ちょっと危ないかもしれません。
けれど、すーちゃんは首を横に振ります。
「あれは陶磁器であって、ミトラではありません。ミトラは、あそこにいます」
そう言って、また別の卵を指差しました。
その卵は、朱色の釉薬で、見事な花の絵が描かれています。その脇に、子猫ほどの大きさの生きものがおり、すーちゃんは、その生きものを指差しているのです。
それは、ミミズクに似た猛禽でした。
何やらを囁く卵に、ぴったりと身を寄せています。翼の下から伸びているのは、幾本もの、ほっそりとした人間の腕です。その腕で優しく卵を抱き上げて、耳の羽をぴんとたてて、卵の声を聞いています。
「ミトリズクですよ。陶磁器たちの思い出話を、聞いているんです」
卵からぼそぼそ聞こえてくる声は、陶磁器たちの言葉なのでした。土鍋であったりティーカップであったり、お皿であったりタイルであったり置物であったりした陶磁器たちは、終わりを迎える前に、それぞれの思い出を話しているのです。
陶磁器の言葉は、人間には分かりません。聞けば、すーちゃんにも分からないといいます。その最後の言葉を、ミトリズクは、聞いてやっているのでした。
ミトリズクに話を聞いてもらった卵は、ぱりんと音を立てて割れ、その破片を飛び散らせました。そしてさっきの土鍋と同じように、鳥になって、花の絵が描かれた翼を広げ、どこかへ飛んでいきました。
すーちゃんは、足元の卵を踏んでしまわないように、つま先立ちで、ミトリズクに近寄ります。そして背後から抱きかかえるようにして、ミトリズクをあっさりと捕まえてしまいました。
「良いんですか、捕まえて」
少しの罪悪感があり、さっちゃんは辺りを見回します。ミトリズクを捕まえてしまったら、話を聞いてほしい陶磁器たちは、困るのではないでしょうか。ミトリズクの数が少なくなって、話を聞いてほしいのに聞いてもらえない卵が出てきてしまったら、それはあまりにかわいそうです。
さっちゃんの心配もよそに、すーちゃんは、捕まえたミトリズクをさっさと籠に入れ、作業着のポケットにしまいます。
「良いんですよ。ミトリズクは、たくさんいますから。それに、他の場所でも、ミトリズクはきちんと役に立ちます」
役に立つものを捕まえて、役に立つ場所で売る。それがすーちゃんのお仕事なのです。
「ただ、さっちゃんの言う通り、捕まえすぎてもいけませんから、あともう一羽だけにしておきましょう」
すーちゃんは、これはさっちゃんには任せない方が良いと思ったのでしょう。自分で、また別のミトリズクを探し出し、後ろからそーっと近寄りました。そして、ふわふわの体をぎゅっと抱きしめて、捕まえました。
そんなわけで、すーちゃんの懐には、ミトリズクが二羽。さっちゃんの胸には、もやもやが少しだけ。
本当にここから、ミトリズクを捕まえて行ってもいいのかしら。そんな心配を振り払えないさっちゃんを見て、すーちゃんも、思うところがあるようです。
「ねえ、さっちゃん」
さっちゃんの両手を取って、ぎゅっと胸の前で握り、すーちゃんが言いました。
「もし良かったら、ミトラを捕まえるところだけじゃなくて、その先のお仕事も、手伝ってくれませんか」
それは、思わぬ提案でした。さっちゃんも、常々気になってはいたのです。採ったミトラは、そのあと、どうするのでしょう。どんな人が、どんな目的で、ミトラを買っていくのでしょう。
「行きたい」
と、さっちゃんはほとんど即答しました。
そのときちょうど、日付が変わりました。さっちゃんは、そのことに気が付きませんでした。
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