12月7日 ムゲン坂
やはり、人間、働いてばかりというのは良くありません。たとえば働くことが大好きで、いつだってお仕事をしていたいような気持ちであっても、ある程度は息抜きをして、体を休めることが肝要なのです。
サボン温泉ですっかり疲れを取ったさっちゃんは、今日、いつもの倍も働きました。段ボールをふたつも片付けて、床の埃も掃きました。段ボールふたつぶんの雑貨やタオルは、まだ使えるものとそうでないものに分けられて、まだ使えるものも、要るものとそうでないものに分けられました。
「ずいぶん、すっきりしましたねえ」
夜になって、いつもの通りやってきたすーちゃんが、部屋を見回して微笑みます。
「この部屋が、すきまの世界とぴったりくっついている理由が、ちょっと分かった気がします。この中にあるものたちは、物として新たな一生を始めるか、物としての一生をここで終えるかの、ちょうど中間にいるでしょう。始まりと終わりの間のすきまが、こんなにたくさんあるから、この部屋は、すきまの世界と相性が良いんでしょう」
かなり減ったにしても、それでもまだいくつも積み重なっている段ボールの山を、すーちゃんは愛おしそうに撫でました。
すーちゃんの言ったことが、すべて理解できたわけではありませんが、さっちゃんにもちょっとだけ分かったような気がします。
性質の異なるふたつのものを、ぴったり合わせようとしても、どうしてもすきまができてしまいます。逆に言えば、すきまが存在するということは、ふたつの何かが隣り合っているということなのです。
すきまを抱えたものをたくさん置いているせいで、さっちゃんのお部屋は、性質の異なる世界を引き寄せてしまったのかもしれません。
けれど、ということは、この段ボールの山を片付けたときには、さっちゃんの部屋はすきまの世界から切り離されてしまうのでしょうか。すーちゃんとは、会えなくなってしまうのでしょうか。
さっちゃんがそんなことを考えているなんて、ちっとも気付いていない様子で、すーちゃんは今日もクローゼットの前に立ちました。何にせよ、今日もお仕事に行かなくてはならないのです。昨日お休みをしたぶん、しっかり働かなければなりません。
「さっちゃん、行きましょう」
すーちゃんが、手を伸ばしました。さっき浮かんだ考えは、あまり深く追求しないことにして、さっちゃんは、その手を取りました。
『ご乗車ありがとうございます。このバスは、行先番号一二七。すきま五番地経由、トリドリ公園行きです。整理券をお取りください』
バスカードを通して、すきまのバスに乗り込みます。一番後ろの席に座って、窓の外はどうせ何も見えませんから、車内の広告を眺めます。こうして時間を潰していれば、いつもであれば、すぐに目的地に着くはずでした。なにせ、さっちゃんの部屋のクローゼットは、終点の一つ前のバス停なのです。
しかし、どうしたことでしょう。今日はやけに、バスが走っている時間が長いのです。
今日の目的地は、そんなに遠いのかしら。さっちゃんは、横目でちらりと、すーちゃんを見ました。隣に座っているすーちゃんは、涼しい顔をしているかと思いきや、ちょっと不思議そうに首をかしげています。
「こんなに遠いはずは、ないんですけど。ちょっと訊いてきますね」
ごとごと揺れる車内を、転ばないように手すりを持って、すーちゃんは前方の運転席へと向かいます。そして、運転手となにやら、さっちゃんの分からない言葉で話します。
何度か会話のやりとりがあり、すーちゃんは肩を落として、やがて一番後ろの席に戻ってきました。
「どうやら、ムゲン坂に捕まってしまったみたいです」
「ムゲン坂?」
「すきま世界に時々現れる、無限に続く坂道です。私は、出会うのは初めてなんですが」
「つまり、いつまでたっても、坂道が終わらないということ?」
すーちゃんは、溜め息をつきながら頷きました。困ったことになったようです。バスは相変わらず、坂道を進んでいます。不思議なことに、今進んでいるのが上り坂なのか下り坂なのかはよく分かりません。けれどとにかく、坂道は無限に終わらないのです。
「どうするの?」
さっちゃんが尋ねますと、すーちゃんは考え込みます。
「ムゲン坂というのは、それそのものが巨大なミトラなんです。だけどいくら私でも、無限の大きさのものを捕まえることは出来ません」
「じゃあ、ずっとこのまま?」
「うーん……仕方ない、一度、バスを降りましょう」
すーちゃんの提案に、従うほかありませんでした。このままではすきまのバスは、無限の坂道を無限に走るばかりでしょう。
バスの運転手に頼み込み、二人はバスを降りました。運賃がどのように精算されたかは分かりませんが、さっちゃんの黒いバスカードには、煌めく星がひとつ増えます。
坂のなかばで、赤いテールライトが遠ざかっていくのを見送ってから、二人は顔を突き合わせて相談します。無限のムゲン坂から抜け出すには、いったいどうしたら良いのでしょうか。
「とりあえず、歩いてみましょうか」
すーちゃんが言いました。坂を上るのか、下るのか。それも相談し、二人は、ムゲン坂を下ることにしました。上るより下るほうが、ずっと楽だからです。
ムゲン坂は暗く、足元すらよく見えません。さっちゃんはハンドバッグからキーリングを取り出して、懐中電灯のキーホルダーを外しました。左手で撫でて、元の懐中電灯に戻してから、足元を照らします。すーちゃんも、作業着のポケットから懐中電灯を取り出して、周囲を照らしています。
「さて、行きましょう」
おのおの懐中電灯を手にして、ムゲン坂を下ります。時々、さっちゃんが懐中電灯を左右に振りますと、暗闇の中に樹木や電信柱の影が見えました。
電信柱には、たいてい、住所を示すプレートがついています。そこで、さっちゃんが電信柱に近寄ってプレートを呼んでいますと、そこにはさっちゃんにも読める文字で「夢幻坂」と書いてあるのでした。
ムゲン坂。夢幻坂。無限坂。下り坂は無限に続きます。さっちゃんとすーちゃんも、無限に歩きます。ただ歩いているのではありません。ちゃんと、考えながら歩いているのです。つまり、巨大なミトラなのだというこのムゲン坂から、どのようにして逃げ出すか。
このままむやみやたらに歩いていても、無限に歩かされるだけで、なんの解決にもならないでしょう。なにか、やみくもに歩く以外のことをしなければならないのです。
さっちゃんは、再びキーリングを取り出しまして、双眼鏡のキーホルダーを外しました。遠くを見れば、何か分かるかもしれないと思ったのです。だけれど、双眼鏡を覗く前に、気が付いてしまいました。そもそも、こんなに暗いのですから、双眼鏡を覗いたって、遠くなんて見えやしないのです。
「懐中電灯じゃさすがに、向こうの方までは照らせませんよね」
ダメもとで、といったふうに、すーちゃんは懐中電灯を坂の先の方へ向けました。もちろん光は途中で途切れてしまうものだと、さっちゃんもすーちゃんも、そう思っていました。
ところがどうでしょう。懐中電灯から発せられた光のすじは、ムゲン坂のずっとずっと先の方まで、無限に伸びていくのです。さっちゃんは、双眼鏡を覗いてみました。ムゲン坂はやはり無限に続いているのですが、しかしその先の先の方までも、光は無限に届き、しっかりと照らされているのです。
「ムゲン坂では、あらゆるものが無限になるのかもしれません」
すーちゃんの考察は、恐らく正解です。ひとつ、ムゲン坂の生態が分かりました。
行く先を無限に照らしながら、時々双眼鏡を覗きつつ、二人は再び、無限に坂を下ります。
「ムゲン、夢幻、無限の坂……」
呪文のように唱えながら、さっちゃんは考えることをやめません。ムゲン坂では、あらゆるものが無限になります。有限のものを無限に出来るのならば、無限のものも、有限に出来るのではないでしょうか。
坂はその景色を一切変化させず、懐中電灯の光を無限に飲み込みながら、延々と続いています。ここにいれば、さっちゃんとすーちゃんの体力も、無限なのでしょうか。けれど、たとえ体力が無限に続くとしても、これでは気力の方が先に擦り切れてしまいます。
「この辺りで、ちょっと休みましょう」
すーちゃんは坂の途中で座り込んで、作業着のポケットから、マグカップをふたつ取り出しました。それから、ステンレスの水筒も。水筒の中は湯気の立つミルクティーで、品の良い香りが鼻をくすぐります。
「それじゃ、私はこれを」
さっちゃんは、お腹が空いた時にちょっとつまめるように入れておいた、チョコレートのお菓子を取り出しました。
「わあ、チョコレート!」
想像していた以上にすーちゃんが喜びましたので、さっちゃんは少し驚きました。
すーちゃんは大人びていますし、さっちゃんよりもよく物を知っているふうですので、ついつい忘れていましたが、そういえば彼女は中学生くらいの背格好で、実際にそれくらいの歳であってもおかしくはないのです。なんとなく、すーちゃんはとてもとても長い時間を生きているような、そんな気が、さっちゃんにはしていますが。
「ひとつしかないから、半分こね」
さっちゃんはチョコレート菓子を包みから出して、ぱきっとふたつに割りました。そして、大きい方をすーちゃんに渡しました。
その時、ふと思ったのです。
ひとつのチョコレート菓子は、ひとつしかなく、有限です。ひとつのチョコレート菓子を二つに割れば、大きさは半分になりますが、チョコレート菓子はふたつになります。
もう一度半分に割れば、よっつに。更に半分に割れば、やっつに。どんどん半分に割っていけば、十六、三十二、六十四……ひとつの有限だったチョコレート菓子は、無限のチョコレート菓子になるのではないでしょうか。
「ということは、その逆のことをすれば……」
さっちゃんは、半分に割った自分のチョコレート菓子を、更に半分に割りました。それをまた半分に。また半分に、半分に、半分に……。地面にハンカチを敷いて、その上に、分割したチョコレート菓子をどんどん並べていきます。
すーちゃんは、さっちゃんが黙々とチョコレート菓子を割っていくのを、呆気に取られてみています。ここはムゲン坂で、あらゆるものが無限になりますから、チョコレート菓子だって無限に分割することができるのです。
「さっちゃん、どうしたんですか? そんなにおなか、すいてるの?」
すーちゃんは、さっちゃんがちょっとおかしくなったのかと、そう思ったのかもしれません。不安そうに、さっちゃんの顔を覗き込みます。さっちゃんは「ううん、そうじゃないの」と言って、ようやく、チョコレート菓子を分割するのをやめました。
「あのね、すーちゃん。私たち、いま、ムゲン坂の何分のいちくらい、進んだかな」
「え? さあ……分かりませんが、進んだことは確かなので、とにかく何分のいちかは、進んでいるでしょうね」
何か分かったんですか? と、すーちゃんは期待のこもった目で、さっちゃんを見つめます。
「説明するのが、難しいんだけど。私たちが進んだ距離が、この小さなチョコレート菓子のかけらだとしたらね」
さっちゃんは、割ったばかりのチョコレート菓子をふたつ、くっつけました。小さな小さな、無限に分割されたチョコレート菓子は、ほんの少し大きなかけらになりました。
広げたハンカチの上に並べたチョコレート菓子を、さっちゃんは、元の通りにくっつけていきます。無限に分割されたチョコレート菓子は、徐々に大きくなっていき、そしてやがて、元のひとつのチョコレート菓子になりました。
「ええと、つまり、無限のチョコレート菓子が、ひとつの有限になった。チョコレート菓子は、もうこれ以上増えることはないでしょう」
頭をひねったまま、すーちゃんは、じーっと考えます。さっちゃんは、無限に分割されたチョコレート菓子を、みんなまとめて一口に飲み込みました。
さっちゃんの考えていることが正しいとしたら、ともかく、歩かなければならないのです。こくんとうなずいて、すーちゃんも、マグカップと水筒をポケットにしまいました。
そして二人は、無限の中を歩き始めます。
「無限に続くムゲン坂を、無限回数分割して、そのうちのひとかけらを、進む」
さっちゃんが、呟きます。ムゲン坂は相変わらず、変化のない景色をどこまでも続けています。けれど、二人はめげずに歩きます。
「無限に続くムゲン坂を、無限回数分割した、そのひとかけらをひとつずつ、足していく」
似たような形の樹木や電信柱を、いくつも見送りました。まるで同じ場所をぐるぐる回っているようで、心が折れそうになりますが、さっちゃんはすーちゃんと手を繋ぎ、無限の坂を下ります。
「無限に続くムゲン坂を、無限回数分割した、そのひとかけらを無限回数くっつけて、元の大きさに戻していく」
ムゲンに、夢幻に、無限に。二人は歩きます。
どれほど歩いたか、分かりません。けれどとうとう、変化は訪れました。
坂の先に、小さな明かりが見えたのです。それは、すーちゃんの持つ懐中電灯の明かりではなく、電信柱に下げられた裸電球の光でした。
駆け寄って見てみますと、電信柱のプレートには数字が書いてありました。
いち、それからスラッシュ、一二六七六五〇六〇〇二二八二二九……
またしばらく歩くと、裸電球の光る電信柱があり、そのプレートにも、数字が書いてあるようでした。いちとスラッシュの後に、数字がたくさん。さっき見た数字よりも、桁数が減っているようです。
次の電信柱にも、その次の電信柱にも、数字が書いてありました。スラッシュの後ろの数字はどんどん小さくなっていって、そしてとうとう、二五六になりました。その次は一二八、六四、三二、一六……。
「さっちゃん、見て! 二分の一!」
そのプレートを見たとき、さっちゃんとすーちゃんは、抱き合って喜びました。無限に続くムゲン坂の、二分の一の地点まで来たのです。ここまでに歩いてきたのと同じ分だけ歩いたら、無限に続くムゲン坂は、それ以上増えようのない、たったひとつの有限の坂になるのです。
終わりが見えてくれば、がぜん、やる気も出てくるというものです。二人は弾む足取りで、残りの二分の一を歩きました。
最後の電信柱は、坂の終わりに、ぽつんと立っていました。電信柱の足元を境に、坂は平地になっています。いったいどれだけ歩いたか分かりませんが、さっちゃんとすーちゃんは、とうとう無限の坂を下りきったのでした。
二分の一の地点では、あんなに大喜びしたのに、ついに終わりに辿り着いたときには、二人はただ微笑み合っただけでした。すっかり、気力を使い果たしていたのです。
電信柱のプレートを見てみますと、さっちゃんにも読める文字で、「幽玄坂」と書いてありました。
「ああ、疲れた。さっちゃん、お疲れ様でした」
すーちゃんは、作業着のポケットから柔らかそうなタオルを取り出して、額の汗を拭いました。さっちゃんも、分割したチョコレート菓子を並べるのに使ったハンカチを取り出して、チョコレート菓子のかすを払ったあとで、おでこを拭いました。
「疲れたね。でも、終わってよかった」
はあーっと大きな溜め息をつき、まばたきをひとつしますと、さっちゃんはいつも通りにクローゼットの前に帰ってきていました。
「どうせなら、もっと早く帰してくれれば良かったのに」
いったい何に対して文句を言っているのか分からないまま、さっちゃんは口を尖らせました。まばたきひとつで有限の世界に帰って来られるのならば、無限から抜け出すのに、あんなに苦労する必要はなかったのです。
あるいは、無限から抜け出せたからこそ、ここに帰って来られたのでしょうか。あのまま、ムゲン坂を無限にさまよう可能性だって、あったのかもしれません。
「無限なんて、ろくなものじゃないな」
そう呟いて、さっちゃんは、大きく背伸びをします。
ちょうど、日付が変わりました。
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