12月6日 サボン温泉


「さっちゃん、昨日は大丈夫でしたか?」

 今日、すーちゃんはいつもの時間よりもちょっと早めに現れました。よほど、さっちゃんのことが心配だったのでしょう。

「大丈夫だったよ。すーちゃんは?」

「私は、ちょっと大変でした。ネガタテハの群れに押しやられて、南十字の方まで流されてしまって。ちょうど漁に出ていた船が拾ってくれたので、事なきを得ましたが」


 すーちゃんは、どうやら大冒険をしてきたようです。

「大変だったんだね。私はいつも通り、ここに帰って来られたけど」

 さっちゃんが呟きますと、すーちゃんは「へえ」と感心しました。

「さすが物質世界の人は、実在性が確かですね」

「すーちゃんは、不確かなの?」

「すきま世界の人間ですから」

 確かにすーちゃんは、突然現れたり消えたりします。それは、実在性が不確かだからこそ出来ることなのかもしれません。


 さっちゃんは少し不安になって、すーちゃんに握手を求めました。すーちゃんはちょっと照れながらも、握手に応じてくれます。

 しっかり握ったすーちゃんの手は、さっちゃんよりひとまわり小さくて、さっちゃんより体温が高いのでした。



 さて、今日も出発の時間なのですが、なんだかさっちゃんは元気がありません。浮かない顔をしていることに、自分でも気が付いていました。


「さっちゃん、ちょっとお疲れですか?」

「少し。今日はあんまり、段ボールが片付かなかったから」

「ああ、なるほど」

 今日、さっちゃんは、段ボールの中にあった写真を片付けようとしたのです。

 写真はたくさんありました。アルバムに綴じられているものもあり、写真立てにおさめられているものもあり、撮って現像したまま封筒に入れっぱなしになっているものもありました。

 さっちゃんの知っている人が写っているものもありました。知らない人しか写っていないものもありました。さっちゃんが写っているものもありました。


 そのどれも、さっちゃんには、捨てることが出来なかったのです。結局、写真が入った段ボールはそのまま、部屋の一角を支配しています。

「無理に捨てなくても、良いと思いますけど」

 すーちゃんはそう言いましたが、さっちゃんはふるふるとかぶりを振りました。

「でも、私は、あんまりたくさんのものを持っていたくないんです。重たくて、動けなくなりそうで」

「ああ、それはそうかもしれませんね」

 荷物をたくさん持ちたくないのに、捨てられないものが増えるのは、大変なことです。さっちゃんのお部屋の段ボールは、今や目に見える重荷として、さっちゃんの心にずっしりとのし掛かっているのです。


 しょんぼりしているさっちゃんを見て、すーちゃんは「うーん」と考えます。そして考えたあとで、ポンと手を叩きました。

「よし、決めた! 今日はミトラ採りは、やめにしましょう」

 そして作業着のポケットから、紙切れを二枚、取り出しました。うち一枚を手渡されて、さっちゃんはそれをまじまじ見てみます。文字が読めないので詳しくは分かりませんが、何かのチケットのようです。

 これは何か、とさっちゃんが尋ねる前に、すーちゃんは胸を張って言いました。

「今日は、バスに乗って、温泉に行きましょう。さっちゃん、石鹸はありますか?」

「石鹸?」

 石鹸なんて、ここのところ、滅多に使いません。さっちゃんが使うのは、手を洗うにせよ体を洗うにせよ、液体の石鹸ばかりです。でももしかしたら、あの段ボールの山を探せば、ひとつくらいあるかもしれません。


 さっちゃんは、すーちゃんに少し待ってもらって、段ボールの中を探すことにしました。水回りの道具を集めた箱が、確か、あったはずです。

 段ボールを開きまして、中を確認していきます。これは、本が入っている箱。こっちは、食器が入っている箱。ひとつひとつ見ていくと、やがて目当ての段ボールを見付けました。櫛や手鏡、詰め替えシャンプーや、化粧水の瓶。お風呂や洗面台で使うような雑貨が、ごちゃまぜに重なり合って入っています。


 それらの一番下敷きになって、目当てのものがありました。紙の箱に入った、新品の石鹸です。真っ白でつるりとした、卵のようなその石鹸は、メレンゲのような甘い匂いがしました。

「これで良い?」

「上等です。では、行きましょう」

 さっちゃんとすーちゃんは、バスに乗って出かけます。お仕事をするためにではなく、温泉につかって、日々の疲れを癒すために。



『ご乗車ありがとうございます。このバスは、行き先番号一二六。すきま五番地経由、サボン温泉行きです。整理券をお取りください』

 今日は、バスカードを通さずに、バスに乗りました。すーちゃんの持つチケットがあれば、温泉行きのバス料金も、無料になるのだそうです。

「以前、仕事のつてでもらった無料券を、取っておいて助かりました。気分が落ち込んでいる時は、温泉につかって、ゆっくり温まるに限りますからね」


 がたごと音を立てながら、バスはすきまを走ります。すきまは相変わらず真っ暗で、バスの外には何も見えません。がたごと、がたごと。さっちゃんはしばらく、バスの揺れに身を任せたまま、ぼおっとしていました。心が重たくて、どうにもたまりません。

 がたごと、がたがた。バスは揺れながら走るのですが、しかしふと、揺れがおかしなことになり始めました。がたごと、ふわふわ。ふわふわふわ。足元がおぼつかないような、走っているというより飛んでいるような、奇妙な感覚です。


『次は、サボン温泉。終点です。お忘れ物のないよう、ご注意ください』

 バスが停まり、無料チケットを運転手さんに見せて、二人はサボン温泉へと降り立ちました。足元がふわっと柔らかく、さっちゃんは前につんのめって、危うく転びそうになりました。

 いいえ、転びそうになった、ではありません。転ばないよう踏ん張ったはずのもう片方の足も、ふわりと地面にめりこんで、さっちゃんはとうとうバランスを崩しました。そしてサボン温泉の地面に、思い切り頭を打ち付けたのです。


「いた……くない」

 地面は、実にふわふわでした。雲のように柔らかく、肌触りが良いのです。地面は、上質な綿のタオルなのでした。

「さっちゃん、大丈夫? あっちで受付を済ませて、温泉に入りましょう」

 すーちゃんの手を借りて、さっちゃんは立ち上がりました。タオルの地面は、転んでも痛くはないのですが、その代わりにとても歩きづらく、二人は苦労してサボン温泉の受付まで歩きました。



「サボン温泉へようこそ。チケットと、石鹸はお持ちですか?」

 受付をしているのは、タオルを縫って作られた、タオル人形でした。可愛らしいうさぎのタオル人形が、さっちゃんとすーちゃんに、タオルの手を差し出しています。

 すーちゃんが二人ぶんの無料チケットを見せて、さっちゃんが石鹸を見せました。うさぎのタオル人形は、柔らかなタオル地を更に柔らかくゆるませて、「どうぞ」と言いました。

「温泉に入る前に、石鹸は、おろしていってくださいね」


 温泉に入るのに手渡されたのは、大判のバスタオルと、小さなハンドタオルと、そしてなぜか、おろし金です。大根をすって大根おろしにする、あれです。

 なぜこんなものを渡されるのだろうと、さっちゃんは不思議がりますが、すーちゃんはどうやら全部分かっているようです。


「さっちゃん。荷物の中に、小さな木の箱があったでしょう。あれを出してください」

 そんなものが、確か、ありました。さっちゃんのキーリングにぶら下がっている、たくさんのキーホルダーのひとつです。木の小箱のキーホルダーは、さっちゃんの左手に撫でられまして、たちまち手のひらサイズの小箱に戻りました。

「それから、石鹸を貸してください」

 すーちゃんは、牛乳石鹸を受け取りますと、しょりしょり。おろし金ですりおろし始めました。すりおろされてかつおぶしのようになった石鹸を、さっちゃんは慌てて、木の小箱で受け止めます。すーちゃんは尚も石鹸をすりおろし続け、小箱の中はふわふわの石鹸でいっぱいになっていきます。

 やがて充分にすり下ろしましたら、どうやら準備万端のようです。さっちゃんとすーちゃんは、おろし石鹸の入った小箱を手に、温泉へと向かいました。



 サボン温泉には、たくさんの湯舟があり、たくさんのお客さんがいました。そして驚いたことに、みんな服を着たままで、荷物さえ持ったままで、温泉の中に入っていくのです。足を浸けて、腰まで浸かって、肩まで入って、頭まで沈めて、そして温泉の中から出てこないのです。どうやら、さっちゃんの知る温泉と、ずいぶん勝手が違うようでした。

「まあ、それほど難しいことはありませんよ。一緒に入りましょう」

 さっちゃんの手を引いて、すーちゃんは、一番近くにあった乳白色のお風呂に向かいました。

 まず足を浸けて、それから腰まで浸かります。湯舟の中は、階段になっているのです。階段を一歩一歩降りていき、やがて肩まで温泉に入ります。

「怖がらないで、大丈夫」

 頭が温泉に沈んでしまう前に、すーちゃんが、そっと囁きました。


 お湯はちょうどいい湯加減で、頭まですっかり浸かってしまっても、のぼせるような気配はちっともありませんでした。とろりとなめらかな湯ざわりで、匂いも良く、それから最も重要な点として、呼吸もできます。

 湯舟の中は意外に広く、先客たちが何人もありました。それはみんな人のような姿をしていましたが、それぞれタオル地で出来ていたり、陶器で出来ていたり、木材で出来ていたりしています。血と肉で出来ている人は、さっちゃんとすーちゃんただ二人だけのようでした。


「こんにちは、ごきげんよう」

 さっちゃんが湯舟の中を眺めていると、声をかけてくる者がありました。それは、ガラスで出来た人でした。さっちゃんに向かって、ガラスの小箱を差し出しています。

「石鹸を少し、交換しませんか」

 ガラスの人のガラスの小箱の中には、ガラスのような透明のおろし石鹸が、入っています。さっちゃんは、さっちゃんのおろし石鹸をひとつまみと、透明のおろし石鹸をひとつまみ、交換しました。ガラスの人は嬉しそうに、さっちゃんの石鹸を泡立てて、ガラスの体をこすります。すると、ほんの少しではありますが、ガラスを曇らせていた汚れが落ちたような気がしました。



「どうして、石鹸を交換するの?」

 ガラスの人が去ったあと、さっちゃんはすーちゃんに訊いてみます。

「だって、色んな石鹸があった方が、色んな汚れが落ちるでしょう」

 すーちゃんは、事もなげに言いました。

「生きていれば、疲れたり、悲しんだり、怒ったり、色々あるでしょう。楽しすぎたり、嬉しすぎたりすることもあるでしょう。それらがこびりついて取れなくなったときは、こうして温泉に入って、石鹸で汚れを落とすんです。そのとき、色んな種類の石鹸があった方が、色んな種類の汚れが落ちますからね」


 せっかく温泉に来たのですから、さっちゃんは、できるだけ多くの人と石鹸を交換することにしました。

 木材の人は、削ったヒノキのような石鹸をくれました。陶器の人は、さっちゃんのメレンゲ石鹸よりも真っ白な、ちょっと硬めの石鹸をくれました。砂糖の人は、はちみつを固めたような琥珀色の石鹸をくれました。若葉の人は、春の匂いのする若草色の石鹸をくれました。


 あれほどたくさん削ったメレンゲ石鹸は、ほとんどなくなってしまいました。その代わりに、木の小箱には、ありとあらゆる種類のおろし石鹸が、山盛りになっています。

「これ全部泡立てたら、どんな汚れだって落ちますね」

 すーちゃんは、実に嬉しそう。連日、ミトラ採りのお仕事が忙しかったのですから、すーちゃんも、落としたい汚れや疲れがたくさん溜まっているのでしょう。


 それでは、石鹸を泡立てて、汚れを落とそう。おろし石鹸を手に取ったとき、さっちゃんはふと、湯舟の隅っこにひとりでいる、タオルの人に気が付きました。

 その人は、受付の可愛らしいうさぎのような、タオルで出来た人形でした。けれど、受付のうさぎは清潔なふわふわの綿タオルでしたが、隅っこでじっと湯舟の中を見つめているそのタオル人形は、ずいぶん薄汚れてくたびれているのです。ところどころ、生地が薄くなって、穴だって空いています。

 白地に、色の褪せたいちご柄。どこか見覚えのある、ガーゼタオルです。私は、この人をよく知っている。と、さっちゃんは思いました。


「もしかして、お知り合いですか?」

 すーちゃんが言いました。「たぶん、そう」と言って、さっちゃんは石鹸の小箱を持って、ガーゼタオルの人に近寄りました。



「こんにちは。石鹸を、交換しませんか」

 さっちゃんが声をかけますと、ガーゼタオルの人は、微笑んで首を横に振りました。

「私の石鹸は、もうみんな、使い切ってしまったんです」

「じゃあ、私の石鹸をあげますよ」

 ガーゼタオルの人が何か言う前に、さっちゃんは、小箱の中の石鹸をみんな泡立てました。


 甘いメレンゲの匂いがする泡。さわやかなヒノキの匂いがする泡。優しい春の匂いがする泡。

 真っ白な泡。透明に透き通った泡。琥珀色の泡。

 泡が、さっちゃんと、ガーゼタオルの人とを包みます。すーちゃんも走ってきて、泡の中に飛び込みます。

 きめの細かい泡は弾力があり、まるで大きな生きものの手のように、さっちゃんの体を抱きとめました。同じように、ガーゼタオルの人も、泡の手に抱かれています。


 さっちゃんは手を伸ばして、遠慮がちに、ガーゼタオルの人の頬に触れました。ガーゼタオルの人も手を伸ばして、さっちゃんの頬に触れました。

「大きくなったね、さっちゃん」

 ガーゼタオルの人が言いました。汚れきっていた生地は、泡の手にもみくちゃにされて、すっかり綺麗になりました。ほつれていた裾も元通りになり、くすんだいちごの柄すら、鮮やかな色を取り戻しました。


 そして、幼いさっちゃんのよだれや食べこぼしや汗や涙を拭いてくれたガーゼタオルは、泡の中に消えていきました。さっちゃんの視界も、あらゆる匂いとあらゆる色の泡に、覆い尽くされていきました。



 くしゅん。くしゃみをひとつやりますと、視界を覆っていた泡は吹き飛ばされ、さっちゃんはクローゼットの前に立っていました。

 お風呂に入ったあとのように、体はほかほか、温まっています。疲れも取れていますし、なによりあんなに重かった気持ちが、ほんの少し、軽くなっているのです。相変わらず、段ボールの山はそのままだけれど。


 明日もちゃんと、片付けをしよう。と、さっちゃんは思いました。思い出は、ほったらかしにしているのが、たぶん、一番良くないのです。



 ところで、今日はもう、お風呂に入らなくってもいいかしら。なんて、さっちゃんが考えているうちに。


 ちょうど、日付が変わりました。


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