12月5日 フイルム団地
バスカードに、星がもう一つ、増えていました。
やっぱりこれは、バスカードを使ったぶんだけ増えていくんだ。と、段ボールの中身を整理しながら、さっちゃんは思います。
今日は、段ボールの中の更に小さい箱に入っていた、貴金属のたぐいを片付けました。
さっちゃんはあんまり装飾品を身に付けませんので、それほど欲しくなるようなものはなかったのですが、小さなダイヤモンドがついたネックレスだけ、手元に置くことにしました。
あとはみんな、貴金属店に売ってしまいましょう。そうしたら貴金属にくっついている宝石たちも、そしてその殻たちも、必要と不必要のすきまを漂わずに済むでしょう。
少しずつだけれど、片付き始めてきた。さっちゃんは、ほっとため息をつきます。今日はこまごましたものを片付けましたので、段ボールの総数は減っていないのですが、それでも大きな進歩なのでした。
夜になるとまた、音もなく、すーちゃんは現れます。今夜はどこに行くのでしょう。さっちゃんが早速クローゼットの前に立ちますと、「ちょっと待って」と、すーちゃんに引き止められました。
「さっちゃん、ちゃんと記録はつけていますか?」
「記録?」
首を傾げるさっちゃんに、すーちゃんは作業着のポケットから、手帳と鉛筆を出して見せました。
そうです。手帳と筆記具は、いつでもすぐに使えるように、ハンドバッグに入れておくよう言われていたのです。もちろんさっちゃんは言われた通りにしていたのですが、けれどそういえば、一度も使っていません。
「記録はつまり、錨です。すきまの世界というのは、なにもかものすきまが混じり合った、海のようなもの。過去と未来のすきま、生きているものと死んでいるもののすきま、在るものと無いもののすきま……自分がどのすきまから来てどのすきまに帰るべきなのか、きちんと錨を降ろしておかなくちゃ、大変なことになります」
「大変なことって、どうなるの?」
「自分が過去のものなのか未来のものなのか、生きているのか死んでいるのか、存在するのかしないのか、どっちだか分からなくなっちゃうんです」
それは想像するだに恐ろしく、さっちゃんはぶるっと身震いをしました。さっちゃんが怖がっているのを見て、
「さっちゃんは元々、物質世界の人ですから、そこまで曖昧になることはさすがにないと思いますけど」
と、すーちゃんは慌てて付け加えました。だけど、やっぱり怖いので、さっちゃんはきちんと記録をつけることにしたのです。
記録をつけるというのは、要するに、日記を書くということでした。何月何日、何をして、何を思って、何を感じた。それを書けば、出発点の記録になり、すきま世界での錨になります。
そこでさっちゃんは、今日の日記を書きました。朝ごはんに何を食べた。掃除をした。片付けをした。昼ごはんと夜ごはんに、何を食べた。ちょっとだけテレビを見た。などなどなど。
「素晴らしい錨です。これで、帰るべきすきまを見失うことは、ないでしょう」
きちんと記録をつけましたので、もう安心。さっちゃんとすーちゃんは、クローゼットの扉から、今夜もバスに乗り込みます。
『ご乗車、ありがとうございます。このバスは、行先番号一二五。すきま五番地経由、フイルム団地行きです』
バスはがたごと、すきまの世界を進みます。なんだか昨日や一昨日よりも、窓の外が明るいようです。今夜のバスは、真っ暗闇の中ではなく、ぼんやりとした赤っぽい光の中を走っています。
「少し、明るいね」
「そうですね。フイルム団地は、街から近いですから」
「すきまの世界にも、街があるの?」
「もちろん、ありますよ」
すきまの世界の街は、どういう場所でしょう。どういう人たちが、どんな暮らしをしているのでしょう。さっちゃんの胸が、とくんと高鳴りました。
『次は、フイルム団地。終点です。お忘れ物のないよう、ご注意ください』
バスが停車し、降り口の扉が開きます。運賃を支払ってバスを降りますと、さっちゃんの目を、赤い光が貫きました。
まぶしい。思わず目を細めます。光は空のきわから真っ直ぐに、さっちゃんを照らしています。夕焼けです。空は見事な茜色。雲はひとつもなく、一番星もまだ出ていません。
バス通りは並木に縁どられており、太陽の出ている方角へ続いています。並木の枝葉は深く色づいており、さっちゃんの目が夕日にくらんでいる間にも、一枚また一枚と葉を落とすのでした。
「こっちですよ。ついてきて」
すーちゃんが並木通りを歩き出しましたので、さっちゃんは目をしばたたかせながら、ついていきます。歩くと、足元で枯れ葉がかさかさ音を立てます。落ち葉が、よほど深く積もっているのでしょう。足元はふわふわ柔らかく、歩きにくいことこの上ありません。
枯れ葉の通りを行きますと、やがて夕焼けを背に、大きな建物がいくつも並んでいるのが見えました。
「あれが、フイルム団地?」
「ええ。ほら、窓を見て」
団地の窓には明かりが灯っており、外が暗くなりかけているせいもあってか、部屋の中の様子がくっきりと見えます。小さな女の子が一人。ろうそくの並んだケーキを見つめて、微笑んでいます。
別の窓を見てみました。お婆さんが、まるまる太った猫を抱きしめています。そしてまた別の窓を見てみます。なんと、部屋の中なのに、そこには大きな大きな桜の木が立っています。
窓から見えるそれらの光景には一切の動きがなく、どれだけ見つめていても、誰も何も、微動だにしません。
「あれってもしかして、写真?」
「そう。あれだけじゃないですよ。ほら、見て」
すーちゃんは、並木の枝枝を指差しました。よく見てみますと、さっちゃんが葉っぱだと思っていたものは、みんな、写真のフィルムだったのです。足元の落ち葉も、すべて、フィルムの切れ端です。
「写真というのは、記録のひとつです。過去が忘却のすきまに落ちてしまわないように、人は写真を撮りますが、それだって永遠ではありません。いつかはこうして色褪せて、すきまに溶けてしまいます。ここは、それらの行きつく場所です」
強い西日に照らされて、すっかり褪せてしまったフィルムですが、ひとつひとつには、一瞬の光景が焼き付いていたに違いありません。それを踏みつけていることが申し訳なくて、さっちゃんは足をどかそうとするのですが、どこに立ってもフィルムの上で、どうしようもありません。
「気にしても仕方がないですよ。過去を踏みつけずには、生きることは出来ませんから」
あっさりとした調子で、すーちゃんが言いました。
「それよりもほら、ミトラ採りです。さっちゃん、これを持っていてください」
すーちゃんは、作業着のポケットから、籠を取り出しました。いつも使っている籠より、もっと角ばっていて、目の粗い籠です。これは、たぶん虫籠じゃないかしらと、さっちゃんは思いました。
「籠の蓋を開けたまま。そうそう、そのまま」
夕焼けのただ中にさっちゃんを立たせまして、すーちゃんはひとりだけ、後ろ歩きでずりずりあとずさりをします。さっちゃんと、夕日と、フイルム団地とをまんべんなく眺めながら、何やら距離感を測っているようです。
「もうちょっと、この辺かな。このあたり。もっと後ろかな。よしよし、だいだいこの辺だ」
ひとりでぶつぶつ言いまして、やがて何かに納得しますと、作業着から長い棒のようなものを取り出し、ささっと組み立てました。三脚です。次にすーちゃんは、古めかしいカメラを取り出して、三脚に取り付けました。
「では、はいチーズで撮りますから、籠の蓋を素早く閉じてください。はい、チーズ!」
パシャ。シャッターの切られる音と共に、さっちゃんはよく分からないままに、籠の蓋を閉じました。
「もう一度、蓋を開けて。ではいきますよ。はい、チーズ」
さっちゃんはまた同じように、籠の蓋をさっと閉じました。籠の中には、何の変化もありません。
一体自分は、何をやらされているのか。何の説明もないままに、しかしすーちゃんは「もう一回くらいいけるかな」なんて言っていますので、たぶん、何かしらの成果が出ているのでしょう。
すーちゃんの指示の通りに、さっちゃんはもう一度、籠を開いて、そして閉じました。三枚の写真を撮ったすーちゃんは、すっかり満足気に「これで、今日はおしまい。ありがとうございました」なんて言っています。結局最後まで、自分が何の役に立ったのか、さっぱり分かりませんでした。
「ねえ、何を撮ったの?」
「ネガタテハを採ったんですよ。褪せたフィルムに棲むミトラです。ちゃんと採れているかどうか、ちょっと見てみましょうか」
そう言ってすーちゃんは、作業着のポケットから、長い棒やら大きな布やら、あれこれと取り出します。
三脚よりも苦労して組み立てましたら、分厚いカーテンに区切られた、四角い空間が出来上がりました。写真を現像するための、暗室です。さっちゃんとすーちゃん、二人くらいでしたら、なんとか一緒に入れそうなくらいの広さです。
暗室の中には、真っ赤な光で仄光る裸電球がひとつだけ、ぶらりぶらりと揺れていました。「足元に気を付けて」と、すーちゃんが注意したのは、暗室が薄暗いからではありません。分厚いカーテンの内側に一歩入りますと、さっちゃんの足首を、ざあっとしぶきが洗ったのです。
驚いて、さっちゃんは思わず飛び上がります。褪せたフィルムの落ち葉の層は、いつの間にか細かい砂の粒に取って代わっています。そして砂粒を揺らしているのは、潮の香りの立つ波なのです。夕方にしては暗すぎて、夜にしては赤すぎる海が、暗室の中に広がっていました。
海でいったい、どうして写真を現像するんだろう。さっちゃんが見守っていますと、すーちゃんは、赤い波の上にしゃがみ込みました。そして、さっき写真を撮ったカメラから、ひと巻きのフィルムを取り出しますと、砂の中に埋めてしまいました。
いちど、にど、さんど。赤い波が三度、砂を洗いましたら、すーちゃんは砂を掘り返しました。するとそこには、さっき埋めたフィルムのほかに、三枚の写真が、見事に現像されていたのです。
「現像は、海に外注しているんです」
すーちゃんはそう言って、ポケットから金色の粒を取り出しますと、沖合の方へ放り投げました。現像の代金は、赤黒く暗い波間に消えていきました。
暗室から出ますと、強烈な西日に目がくらみます。光に目が慣れてから、さっちゃんはようやく、現像された写真を見ました。
写真はどれも、籠を持つさっちゃんを写したものです。夕日をバックに撮りましたから、逆光でさっちゃんの顔かたちは上手く撮れていません。
さっちゃんが気になったのは、逆光で真っ黒に塗り潰されてしまった自分の顔ではなく、その手に持っている籠の方でした。どうしたことでしょう。籠の中に、何かが入っているのです。
「これが、ネガタテハ?」
籠の中を舞っているのは、たくさんの蝶でした。逆光のためにシルエットだけになってしまった籠を、セピア色の優雅な翅が彩っています。こんな蝶は、いなかったはずです。
「ネガタテハは、フィルムの上に棲んでいますから、こうして写真に撮って捕まえるんです。一度ネガタテハを捕まえるのに使ったフィルムは、褪せてしまって、使い物にならなくなりますけれどね」
写真の中のネガタテハは、さっちゃんが見ている間にもひらひら翅を羽ばたかせ、籠の中を飛び回ります。
と、一匹が、網目のすきまから籠の外へと逃げ出してしまいました。するとあっという間に、写真はセピア色に色褪せて、輪郭を失ってしまいます。それだけではありません。写真のふちを乗り越えて、ネガタテハが一匹、また一匹と、ひらひら飛び出してくるではありませんか。
「あ、いけない」
すーちゃんの、焦った声だけが聞こえました。さっちゃんの視界は、今やセピア色の蝶の翅に遮られて、なんにも見えないのです。
はさはさ、はさ。ほどかれたフィルムが重なり合ってこすれ合っているような、その柔らかな羽音の中に、誰かの声が聞こえます。確かに聞いたことのあるその声は、さっちゃんの名前を呼んでいます。
さっちゃん、さっちゃん、さっちゃん。とても、懐かしい声です。
「はあい」
さっちゃんが返事をしますと、目の前のセピア色が煙のように消えまして、気が付けばさっちゃんは、自分の部屋の、クローゼットの前に立っているのでした。
きーん。と、耳鳴りがします。懐かしい声はもう、聞こえません。
いったい誰が、さっちゃんを呼んでいたのでしょう。考えれば思い出せるような気がしますし、いくら考えても思い出せないような気もします。
ちょうど、日付が変わりました。
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