二、


 用は済んだとばかりに、部屋を去る志堂の気配。そちらに視線を向ける余力は残されておらず、天井を見るともなく見る。角材を格子状に組んだ、金と手間のかかった格天井。木目が人の顔のように見え、摩耗したわたしを嘲笑っているよう。このまま削られ続け、消えることが出来たらどんなに楽か。

 そうしてしばらく放心していたが、剥ぎ取られた服に手を伸ばす。上等な布地の、無地の白いワンピース。これは志堂が見繕ったものだったか。与えられた服は全て、白のワンピース。これ以外は着るなと言われているが、脱がせやすいようにと選んだのだろう。泣き出したい思いをこらえ、放られた下着を手に取る。

「お疲れさん」

 いつからいたのか、襖の前には志堂の孫、志呉しぐれの姿。開け放った襖に背中を預け、腕を組みながら薄笑っている。確かわたしの九つ上。今年で三十一か。

 無造作に肩まで伸ばした髪に、薄くまだらな無精髭。清潔感など微塵も感じられない。無駄に上背があるせいか、色気のある容貌だと囁かれてはいるが。

 宇場ノ塚の女は志呉をもてはやし、誘う。わたしが知っているだけでも、片手では足りない。

 今この八塚家には志堂と志呉、そしてわたしだけが住んでいる。志堂の妻はわたしが生まれる前に亡くなっているし、志呉の両親も早くに亡くなっている。聞けば穢れに呑まれたということだが、それ以上のことは知らない。

「ちゃんと飲んでるかぁ?」

 軽薄な調子で問いかける志呉の手には、丸い錠剤。いわゆる、避妊薬。「飲んでます」と短く応じると、志呉がいやらしく口角を上げた。わたしに女性としての尊厳を認めていないような、嫌な顔。

「今朝、飲むの躊躇ったろ?」

「見てたんですね」

 避妊薬は志堂から渡されているもの。穢れを身に宿したわたしが、穢れた子を産まないようにと。穢れを注ぐ張本人が、どの口で言っているのだろうか。

「泣きながら薬を眺めてたなぁ」

 はははと、楽しそうな笑い声。わたしを抱きながら笑う時と同じ、不快な声。この男も志堂も、睦言などは決して言わない。ただ仮に言われたとしても、嫌悪感から吐いてしまうだろうなとは思う。

「妊娠すれば、抱かれなくて済むとでも思ったか?」

「そんなこと……」

「安心しろ。そうなったら堕ろすからよ」

「大丈夫です。ちゃんと飲んでますから」

「なら……」

 下卑た笑顔でわたしに覆いかぶさる志呉。まるで盛りのついた猿だ。どうせまた脱がされるのだからと、履かずに握っていた下着を手放す。

「志堂様にバレたらどうするんですか」

 つまらなそうに自分の爪を見つめながら、呆れたように声を出してやる。

「じじいはお前に愛情なんてねぇよ。儀式の道具だ。道具」

「儀式って、馬鹿みたい」

「そう、馬鹿みたいなのがここ、宇場ノ塚だ」

「死ねばいいのに」

「みんな死にたくねぇからこうしてんだよ。嘉明だって──」

 志呉の体がびくんと震え、醜く歪んだ顔をわたしに向ける。吐き出されたのは穢れではなく、ただの欲。これで今日は、終わり。四年間、毎日のように繰り返される、作業。

 それより気になったのは、「嘉明だって──」という先程の言葉。志呉は馬鹿だ。反抗的な態度を見せるとそれが楽しいのだろうか、余計なことを話す傾向がある。それに気付いたのは二ヶ月ほど前。志呉の両親が穢れによって死んだことや、この集落の曰くや様々なことを話したのも志呉。

「嘉明がどうかしたんですか?」

 わたしの上で息を切らす志呉に、問いかける。

「なんでもねぇよ」

 短い言葉だったが、いつもの軽薄さがない。つまり、なにかある。

「してもいいですよ」

「あぁ?」

「志呉さんが前にしたいって言ってたこと。噛みちぎりませんから。やり方、教えてください」

 嬉しそうに醜く歪んだ志呉の顔。「しょうがねぇなぁ」と呟いて仰向けに寝転んだその姿は、もはや人ではない悍ましい何かに見えた。


 この家での食事は各自、自分で済ます。わたしの役目は穢れを受け止める器と、作業中の志堂にお茶を出すこと。お茶を出すのは十八時。時計がない作業場の、時計としての役目がわたし。お茶はついで。

 それ以外での行動は基本的に自由なのだが、携帯電話は取り上げられ、部屋にはテレビもない。暇だろうからと志呉がくれたのは、木彫りの淫具。渡された当初は恥ずかしくて顔を赤らめたが、そんな初心さなどはもう、どこにも。もちろん使ったことなどないし、押入れの奥に放り込んである。

 数少ない楽しみといえば、集落内の散歩と森の散策。それと持ち込みを許された小説を読むこと。好みは不幸な結末を迎える物語。ハッピーエンドなんてわたしには縁遠いし、読後に訪れる現実との乖離に気が滅入るからだ。といっても、学生時代にはハッピーエンドの恋愛小説や青春群像劇なども好きで読んでいた。持ち込んだそれらは、読んだ後で破り捨てたが。残っているのは、人の悍ましさを削り出したような作品ばかり。

 創作だと分かってはいるが、不幸な存在に安心する。最近、安心したいからだろうか、自分でも少し文章を書き始めた。志呉に知られたら面倒なので、隠すのが大変だ。

 ひとまず今日の役目を終えたわたしは、お風呂で汚れを洗い流した後、居間で簡単な食事を摂った。ここに来た当初は料理をしていたが、今はレトルトやカップ麺ばかり。定期的に集落にやってくる移動販売車で、大量に購入している。よく手に取るのは、都会で有名だと云われているラーメン店監修のカップ麺。こちらでは煮干し出汁の醤油や、バターの効いた味噌が主流だが、あちらでは豚骨醤油が人気なのだろう。豚の旨みが効いていて、わたしも好きだ。

 食事を終えて部屋に戻ると、いまだ嫌な匂いが残っていた。飢えた獣のような、男の匂い。換気のために窓を開けると、山の冷えた風が頬を撫でる。削る前の檜の香りが心地よく、情欲の残香が薄まって溶けた。

「わたし、なんのために生きてるんだろ」

 自然と漏れた言葉に誘われるように、涙も溢れる。少し前、尊厳を捨ててまで志呉から聞いた内容は、信じられないものだった。 

 ──嘉明には八年前から関係を持っている相手がいる。

 そう告げた志呉の顔は、憐れむように笑っていた。もちろん志呉の言葉を鵜呑みにした訳ではないが、心が折れそうだ。もし本当に八年前からそんな相手がいたのであれば、わたしと交わした約束はなんだったのか。

 いや、嘉明に怪しい様子はなかったし、言い寄る相手もいなかったはず。せまい集落だからこそ、それは分かる。となれば志呉がわたしの心を折ろうと吐いた嘘か。

──かわいそうな奴だよなぁ、お前は。

 志呉はそれ以上のことは言わなかった。聞きたいのならばもう一度しろと言われ、断った。それ以上聞くのが怖かったというのもあるが、あんな行為を続けてするなんて、耐えられない。思い起こされた口の中が、どろどろと苦い。志呉を信じたくはないが、もしかすれば──と、胸がざわついてしまう。

 正直な話、わたしは嘉明に愛されていた自信があった。大切に、優しく、まるで物語のお姫様のように扱ってくれた嘉明。彫りの深い彫刻のような顔が、笑顔でくしゃっとなるのが好きだった。

 ──祝織が自分で選んだのなら、俺は何も言えないよ。

 わたしが志堂の元に行くと言った際の、嘉明の言葉。当時は止めもしないことに腹が立ったし、家に帰ってから思い切り泣いた。

 ──志堂様になら、あなたを任せられるわ。

 部屋で声を出して泣くわたしに、母がかけた言葉。

 母も、嘉明も、わたしの「志堂様を好きになってしまった」という嘘を、追求することなく受け入れた。何も聞こうとしない二人に覚えたのは、違和感。八塚家相手に下手なことは言えないのだろうと、そう気持ちに折り合いをつけはしたが──

 考えないようにしていた違和感が、心の奥底、しこりのように残る。少しくらい理由を聞いてくれても、引き止めてくれてもいいのではないか。それほどにこの集落は、八塚家の支配で雁字搦めなのか。

 そう思いはするが、先日、八塚家による支配の異常性を知ってしまった。相手が大地主だから、借地だから逆らわないのではなかった。もちろんそれもあるのだろうが、命を握られているのだ。あの狂った男に。志堂を敵に回せば──

 死ぬ。

 文字通りの、死。

 あれは一ヶ月ほど前か。志堂の元を訪れ、言い争いをした住民が一人、死んだ。死んだのは翌日。その死に様があまりに異様だったのだ。わたしは実際に見たわけではないのだが、喉を掻きむしり、苦しみ藻掻いた末に、口から夥しい数の虫を吐き出して死んだ──らしい。吐き出した虫は死出虫シデムシ。埋葬虫とも書き、動物の死体に集まり、それを餌とする甲虫。それが口からぎちぎちと溢れ出し、そのまま亡骸に群がり、死肉を。

 ──お前は明日死ぬ。虫が湧いて、死ぬ。私に従わなかったからだ。

 言い争いを盗み見たわたしが聞いた、志堂の言葉。その言葉通り、死んだのだ。

 悍ましい内容の志堂の予言。

 いや、死の宣告か。


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