禍系図
鋏池 穏美
一、
ふわりと漂う、削れた木の匂い。
沼地のように湿った現実でただ一つの、好ましい香り。とりたてて木材に詳しい訳ではないが、これは
「失礼します」
声をかけて引いた戸の先、木材から仏像を彫り出す男、
白髪の目立つ頭。幾筋も皺が刻まれた乾燥した肌に、落窪んだ眼窩。だが背中からは、ぎらついた精気のようなものを垂れ流している。胡座をかいて黙々と作業するその姿は、まるで鬼かなにかのよう。滴る汗とともに醸す匂いが、鼻につく。反吐が出そうな、男の匂い。
木の削れる柔らかな香りと、むせ返るような男の匂い。好ましい香りと、嫌悪の。それらが混じり合い、嘔吐感から震えてしまう。盆に載せたお茶もかたかたと鳴るが、一度深呼吸して震えを抑え、作業台の上に置いた。
「痛いです」
ざらざらと乾燥した手のひらが、わたしの腕を掴む。ささくれだったそれはまるで、
「作業、続けて下さい」
「ああ」
耳障りな嗄れた声に、肌が粟立つ。必要なこと以外は話さず、会話をする気などないのだろう。
だからこそ志堂の彫り出す仏像は、他とは違う。姿勢が、表情が、そもそも形が違うものも多い。それならば仏像と呼ばないのではないかとも思うが、この地では志堂の彫り出すものこそが仏像なのだ。
「では失礼します」
「待て」
立ち去ろうとするわたしの腕が、再び掴まれた。「痛いです」と意思表示するが、そんなことは無駄だと分かっている。わたしの体は、わたしのものではない。ただの肉の器、だ。
心だけは渡したくないからと、いつも少しばかりの抵抗をしてみせる。そんな思惑など通ずるはずもなく、腕を引かれ、倒れ込んだわたしの耳元にかかる息。
「終わり次第、部屋で」
いつもの言葉が私の鼓膜を
与えられた部屋で一人、涙を流す。涙が涸れるという言葉があるが、わたしのそれはいつ涸れるのだろうか。ここへ十八の歳に来てから四年。一向に涸れる気配などない。これは人だから流れるのだろうか。わたしもまた、鬼にでもなれば流さずに済むのだろうか。
鏡台の鏡に写るわたしの顔が、わずかに歪む。
切れ長の二重に長い睫毛。通った鼻筋と、ふっくらとした唇。背は百六十八と高く、これまで美人だと言われ続けてきた。
──華のある顔だよね。ずっと見てられるよ。
そう言ってくれたのはいつだったか。目の前の鏡に写るのは、能面のように表情のないわたし。
畳敷きの狭い和室の窓、外を見れば刻刻と陽が沈んでいく。まるで堕ちていく自分のようで、和紙のような柄のカーテンを閉め、外界と切り離す。赤色が遮られ、訪れたのは惣闇に及ばぬ朧気な黒。
もはや戻れない、あたたかな外の世界。いや、戻ろうと思えば、戻れるのだろうか。愛した相手を見捨てれば、戻れるのだろうか。流した涙が血涙に見えたのは、灯した常夜灯の赤さからだろう。わたしが泣いていると知れば、彼はどうするのだろうか。
わたしには愛した相手がいた。この土地で生まれ、幼少の頃よりともに過ごしてきた幼なじみ、
──
甘やかな彼の言葉が、澱の堆積した記憶の底で蠢く。
もう果たされることのない、過ぎ去った約束。甘やかだったからこそ、ひどく苦い。もはやそれは呪いのようにも感じられ、わたしの中でゆっくりと織られていく。
今も彼と顔を合わせることはあるが、わたしが志堂に科せられた約束は、何も言わないこと。わたしは、わたしの意思で志堂の元に来た、ということになっている。
すべてを彼に話し、もう一度手を伸ばしたら──
出来もしない、する勇気もないことを考えていると、部屋の襖が引かれ、刺すような志堂の視線がわたしを貫く。愛情も何も感じられない、冷えた空気に身が縮こまる。
「お疲れ様です」
そんな形ばかりの労いの言葉に、志堂が鼻を鳴らす。声すらかけて貰えず、畳の上に転がされたわたしと、剥かれた衣服。鑢のような手のひらが触れ、身が削られていく。四年経っても慣れない、熱を伴った下腹部の鈍痛。
「お前は、器だ」
何度となく聞かされた言葉が落ち、この身に刻まれる。なぜわたしが選ばれたのか。その答えが器。器は器らしく、受け入れろということか。
「今日の忌みは、濃かった」
「そうですか」
志堂が仏像を彫り出す際、その身に受ける穢れ──忌み。この地は穢れているのだと聞かされた。穢れた地で育まれた、穢れた木。その穢れを削りながら、仏像を彫り出す。そうしてその穢れを志堂が一度受け入れ、わたしの中へ。どくどくと流れ込む穢れに吐き気がする。馬鹿みたいな理由にも、反吐が出そうだ。
忌み地。
因習村。
そんな蔑称で呼ばれる東北地方の奥地、山間の集落、
ここは江戸時代から明治にかけ、姥捨山として利用されていたという曰くがあるとも聞くが、真偽のほどは定かではない。
もうすぐ人口の半数以上が後期高齢者となる、準限界集落。くだらない因習に支配された、枯れていくだけの吐き溜め。舗装されていない山道を通って集落を訪れるのは、かろうじて繋ぎ止められている行政サービスの移動販売車。そのサービスも、近いうちに打ち切られると聞いた。
「逃げようと思うな」
「そんな、ことは」
逃げられるなら、逃げている。知っているくせに、言葉の楔を打ち込む。わたしに注がれるのは生暖かい穢れと、冷えた言葉。
「目がそう言っている。逃げれば
「はい」
「お前の主人は誰だ」
「
「分かっているなら、私の前では顔を悦ばせろ」
「はい」
嘉明の家、狩野家。この地を管理している八塚家に古くから仕えており、逆らうことなど出来はしない。農業を営む狩野家が使用している土地は、全て八塚家のもの。
いや、この宇場ノ塚の土地はほとんどが八塚家のもので、借地として使用している家ばかり。わたしの家、花房家も例外ではない。そのうえ母子家庭であるわたしの家は、志堂から多額の資金援助を受けているのでなおさらだ。わたしが生まれた年に逝った父。父が生きていれば、少しは状況が変わっただろうか。
八塚家による、宇場ノ塚の異様な支配。世の中は元号が変わり、携帯電話やインターネットなどの便利なもので溢れ、目まぐるしく変化しているというのに──
ここは時間から取り残されたように、停滞している。いや、八塚家が滞らせているのだろう。
嘉明の狩野家もわたしの
「一つ、聞きたいことがあります」
わたしに覆いかぶさり、首筋に顔を埋める志堂に問いかける。志堂は聞いているのかいないのか、けだもののように息を漏らす。
「なぜ、無理やりわたしを奪わなかったのですか。志堂様が命じれば、わたしの母も、嘉明も、逆らわなかったはずです。なぜ、わたしから志堂様の元へ行くと言わせたのですか」
「私は奪ったことなどない。お前は、自分の判断で来た。それだけのこと」
言いながら吸われた首筋には、紅い花が咲いただろうか。まだ消えぬ昨夜の胸の花と、もはやいつだったかも忘れた内腿の花。お前は器だという痕。厭わしい三輪の。
この男は、狂っている。いや、この地が狂っているのだろう。
「次は、お前が動け」
「はい」
四年前、初めは抵抗していたわたしも、今では「はい」と素直に応じるようになった。心の内は汚泥のように濁っているが、体は動く。見下ろす志堂が一瞬苦しげに見えたのは、わたしの願望か。
いや、おそらくわたしも狂っているのだろう。
わたしの口から漏れた音は、苦悶か、恍惚か。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます