禍系図

鋏池 穏美

一、


 ふわりと漂う、削れた木の匂い。

 沼地のように湿った現実でただ一つの、好ましい香り。とりたてて木材に詳しい訳ではないが、これはひのきの香りだろうか。深く吸い込むことで、陰鬱とした心を癒してくれるような、そんな香り。

「失礼します」

 声をかけて引いた戸の先、木材から仏像を彫り出す男、志堂しどうの背中が目に入る。年は六十九。わたしより四十七も上だが、その背中から老いは感じられない。

 白髪の目立つ頭。幾筋も皺が刻まれた乾燥した肌に、落窪んだ眼窩。だが背中からは、ぎらついた精気のようなものを垂れ流している。胡座をかいて黙々と作業するその姿は、まるで鬼かなにかのよう。滴る汗とともに醸す匂いが、鼻につく。反吐が出そうな、男の匂い。 

 木の削れる柔らかな香りと、むせ返るような男の匂い。好ましい香りと、嫌悪の。それらが混じり合い、嘔吐感から震えてしまう。盆に載せたお茶もかたかたと鳴るが、一度深呼吸して震えを抑え、作業台の上に置いた。

「痛いです」

 ざらざらと乾燥した手のひらが、わたしの腕を掴む。ささくれだったそれはまるで、やすりのようだ。わたしの身も心も、ざりざりと削っていく。

「作業、続けて下さい」

「ああ」

 耳障りな嗄れた声に、肌が粟立つ。必要なこと以外は話さず、会話をする気などないのだろう。

 仏師ぶっしである志堂は、この作業場で休みなく仏像を彫り続けている。いや、彫り出すと言えばいいのか。木には魂が宿り、成るべき形があるというのは志堂の言葉。図面もなにもなく、荒々しく、繊細に、魂の形を彫り出していく。

 だからこそ志堂の彫り出す仏像は、他とは違う。姿勢が、表情が、そもそも形が違うものも多い。それならば仏像と呼ばないのではないかとも思うが、この地では志堂の彫り出すものこそが仏像なのだ。

「では失礼します」

「待て」

 立ち去ろうとするわたしの腕が、再び掴まれた。「痛いです」と意思表示するが、そんなことは無駄だと分かっている。わたしの体は、わたしのものではない。ただの肉の器、だ。

 心だけは渡したくないからと、いつも少しばかりの抵抗をしてみせる。そんな思惑など通ずるはずもなく、腕を引かれ、倒れ込んだわたしの耳元にかかる息。

「終わり次第、部屋で」

 いつもの言葉が私の鼓膜をねぶる。ぞわぞわと肌を這い上がる嫌悪の虫を抑え、「はい」と短く応じた。仏像を彫り終えたら、また。


 与えられた部屋で一人、涙を流す。涙が涸れるという言葉があるが、わたしのそれはいつ涸れるのだろうか。ここへ十八の歳に来てから四年。一向に涸れる気配などない。これは人だから流れるのだろうか。わたしもまた、鬼にでもなれば流さずに済むのだろうか。

 鏡台の鏡に写るわたしの顔が、わずかに歪む。

 切れ長の二重に長い睫毛。通った鼻筋と、ふっくらとした唇。背は百六十八と高く、これまで美人だと言われ続けてきた。

 ──華のある顔だよね。ずっと見てられるよ。

 そう言ってくれたのはいつだったか。目の前の鏡に写るのは、能面のように表情のないわたし。

 畳敷きの狭い和室の窓、外を見れば刻刻と陽が沈んでいく。まるで堕ちていく自分のようで、和紙のような柄のカーテンを閉め、外界と切り離す。赤色が遮られ、訪れたのは惣闇に及ばぬ朧気な黒。

 もはや戻れない、あたたかな外の世界。いや、戻ろうと思えば、戻れるのだろうか。愛した相手を見捨てれば、戻れるのだろうか。流した涙が血涙に見えたのは、灯した常夜灯の赤さからだろう。わたしが泣いていると知れば、彼はどうするのだろうか。

 わたしには愛した相手がいた。この土地で生まれ、幼少の頃よりともに過ごしてきた幼なじみ、嘉明よしあき。繋いだ手の温もりが、懐かしい。

 ──祝織いおり。いずれ一緒になってくれないか。

 甘やかな彼の言葉が、澱の堆積した記憶の底で蠢く。

 もう果たされることのない、過ぎ去った約束。甘やかだったからこそ、ひどく苦い。もはやそれは呪いのようにも感じられ、わたしの中でゆっくりと織られていく。

 今も彼と顔を合わせることはあるが、わたしが志堂に科せられた約束は、何も言わないこと。わたしは、わたしの意思で志堂の元に来た、ということになっている。

 すべてを彼に話し、もう一度手を伸ばしたら──

 出来もしない、する勇気もないことを考えていると、部屋の襖が引かれ、刺すような志堂の視線がわたしを貫く。愛情も何も感じられない、冷えた空気に身が縮こまる。

「お疲れ様です」

 そんな形ばかりの労いの言葉に、志堂が鼻を鳴らす。声すらかけて貰えず、畳の上に転がされたわたしと、剥かれた衣服。鑢のような手のひらが触れ、身が削られていく。四年経っても慣れない、熱を伴った下腹部の鈍痛。

「お前は、器だ」

 何度となく聞かされた言葉が落ち、この身に刻まれる。なぜわたしが選ばれたのか。その答えが器。器は器らしく、受け入れろということか。

「今日の忌みは、濃かった」

「そうですか」

 志堂が仏像を彫り出す際、その身に受ける穢れ──忌み。この地は穢れているのだと聞かされた。穢れた地で育まれた、穢れた木。その穢れを削りながら、仏像を彫り出す。そうしてその穢れを志堂が一度受け入れ、わたしの中へ。どくどくと流れ込む穢れに吐き気がする。馬鹿みたいな理由にも、反吐が出そうだ。

 忌み地。

 因習村。

 そんな蔑称で呼ばれる東北地方の奥地、山間の集落、宇場ノ塚うばのつか。火山帯に属する連山の一つ、大針山だいしんざんの麓に位置している。集落を南北に貫く八木川やぎがわと、外界から途絶するように集落を囲む、深く暗い森。それがわたしを閉じ込める檻。

 ここは江戸時代から明治にかけ、姥捨山として利用されていたという曰くがあるとも聞くが、真偽のほどは定かではない。

 もうすぐ人口の半数以上が後期高齢者となる、準限界集落。くだらない因習に支配された、枯れていくだけの吐き溜め。舗装されていない山道を通って集落を訪れるのは、かろうじて繋ぎ止められている行政サービスの移動販売車。そのサービスも、近いうちに打ち切られると聞いた。

「逃げようと思うな」

「そんな、ことは」

 逃げられるなら、逃げている。知っているくせに、言葉の楔を打ち込む。わたしに注がれるのは生暖かい穢れと、冷えた言葉。

「目がそう言っている。逃げれば花房はなふさ家や狩野かのう家がどうなるか分かっているな」

「はい」

「お前の主人は誰だ」

八塚やつか……、八塚志堂様です」

「分かっているなら、私の前では顔を悦ばせろ」

「はい」

 嘉明の家、狩野家。この地を管理している八塚家に古くから仕えており、逆らうことなど出来はしない。農業を営む狩野家が使用している土地は、全て八塚家のもの。

 いや、この宇場ノ塚の土地はほとんどが八塚家のもので、借地として使用している家ばかり。わたしの家、花房家も例外ではない。そのうえ母子家庭であるわたしの家は、志堂から多額の資金援助を受けているのでなおさらだ。わたしが生まれた年に逝った父。父が生きていれば、少しは状況が変わっただろうか。

 八塚家による、宇場ノ塚の異様な支配。世の中は元号が変わり、携帯電話やインターネットなどの便利なもので溢れ、目まぐるしく変化しているというのに──

 ここは時間から取り残されたように、停滞している。いや、八塚家が滞らせているのだろう。

 嘉明の狩野家もわたしの花房はなふさ家も、八塚家には逆らわない。土地を借りているというだけではなく、何かに縛られているように従順だ。そのうえどの家も、志堂の仏像をありがたそうに祀る。穢れを吸うのだと宣い、わたしの家には百体以上の仏像がひしめく。

「一つ、聞きたいことがあります」

 わたしに覆いかぶさり、首筋に顔を埋める志堂に問いかける。志堂は聞いているのかいないのか、けだもののように息を漏らす。

「なぜ、無理やりわたしを奪わなかったのですか。志堂様が命じれば、わたしの母も、嘉明も、逆らわなかったはずです。なぜ、わたしから志堂様の元へ行くと言わせたのですか」

「私は奪ったことなどない。お前は、自分の判断で来た。それだけのこと」

 言いながら吸われた首筋には、紅い花が咲いただろうか。まだ消えぬ昨夜の胸の花と、もはやいつだったかも忘れた内腿の花。お前は器だという痕。厭わしい三輪の。

 この男は、狂っている。いや、この地が狂っているのだろう。

「次は、お前が動け」

「はい」

 四年前、初めは抵抗していたわたしも、今では「はい」と素直に応じるようになった。心の内は汚泥のように濁っているが、体は動く。見下ろす志堂が一瞬苦しげに見えたのは、わたしの願望か。

 いや、おそらくわたしも狂っているのだろう。

 わたしの口から漏れた音は、苦悶か、恍惚か。

 

 

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