第2話 初恋
二週間後。雨には、すぐに友人が出来なかった。それを見かねて僕は雨に声を掛けた。
「なあ、僕の家は食堂をやっているんだけど、夕食食べにくる?」
その言葉に目を丸くし驚いているようだった雨は、静かに頷いた。
彼女と、帰路に着いている
「あの……趣味とかってあるの?」
「読書かな。あと、ゲームとか」
「例えば?」
「三秋縋先生のファンなの。特に『三日間の幸福』が好きで、いつも好きなシーンを寝る前に読んでる」
「そのシーンって?」
「言っても分かんないと思う」
確かに普通ならそうだ。その本を読んだことのない人間なら、たとえ自分の思い出に残るぐらいの重要な記憶を共有したいと思っても、返ってくる感想は、小学生の読書感想文程度の中身空っぽなものだろうと考えるのが自然だ。それほど、人間の想像力というものはちっぽけなものなのだ。
だが僕は違う。その理由は至極単純なことだ。
「僕もその作家が好きなんだよ。僕の好きなシーンは、ミヤギに暴行を加えようとするけれど、踏みとどまる場面だね。それで、その行為から主人公はミヤギに対して扱いが変わったし、ミヤギ自身も主人公への意識が変わった、かなと解釈しているよ」
僕もその本は既読済みだ。面白かった本ベスト三には入るくらい。
「私も、同じ部分が好き。ミヤギは、あの場面では誰も信用できる相手がいなかったんだと思う。でも、一度お互いに腹を割ることで本当の意味で、主人公のことを……」
「そうだね」
それから僕たちは互いの趣味について長らく語り合った。その瞬間に僕の中で、気持ちが晴れた。
僕の家に着いた。家は、大衆料理店でさまざまな料理が置かれている。
引き戸を開けて僕はただいまと言った。隣にいた雨は興味をそそられたのか、まるで初めての場所に訪れた犬みたく、四白眼を周囲に向けた。その様子に僕は笑ってしまった。
するとカウンター席で昼間っから酒を飲んでいる土木作業員(日雇い)のおじさんが、僕らを見遣り「平野君。恋人かい?」と言ってきた。僕は肩を竦めて「そうだったら嬉しいんですけどね」なんて冗談を返した。すると驚いた表情をこちらに向けてきた雨。
そういえば、雨の容姿を今更意識してしまう。
ロングの艶やかな黒髪に、筋の通った鼻。小顔で、なおかつ顎がシャープで綺麗だった。態度や言葉遣いだけで大和撫子だと思ったが、これは容姿も含めないとな。
「何見てんの?」
「いや、見ているのはそっちだろ」
「なにいちゃいちゃしてんだよ。もう、おじさんはいま、元奥さんと離婚調停中だっていうのに」
なぜか理不尽な起こり方をしだしたおじさんに、僕は苦笑を向けざるを得なかった。
「その子も、とんかつ定食、食べる?」
厨房から声を出してきた母に、「そうさせてもらう」と勝手に答えた。
「涼宮、この店のとんかつ定食は絶品なんだ。食ってけよ」
そしたら彼女はしずしずと頷いた。
テーブル席に向かい合って座る。僕は母に、「僕もとんかつ定食」と言うと、「ちょっと待ってて。あんたのはすぐできる」と応えられた。その意味が一瞬理解できなかったが、ああ、と思い至る。
「どうしたの」
「いや、実は僕は中学を卒業したらこの店を継ぐことを決めていてね。毎朝五時起きで料理の特訓をしているんだ。その作り置きがあるから僕にはそれを食べろっていう母さんの言葉だよ」
そしたら彼女は少し考えこむ素振りを見せてから、厨房にいる母に声を掛けた。
「すみません。私も彼と同じものを」
それに驚愕してしまう僕。「ちょっと、客に粗末なものは食べさせられないよ」
「あなたは粗末なものだと思って毎日料理を作っているの?」
そんな言葉を言われて、声を失う。
「そういうわけじゃないけど……」
「あなたの料理、誰かに食べさせた?」
「いや、母さんも父さんも素人の作った料理なんて食べてくれないよ」
それが板前。料理界では普通の事なんだ。
でもそれを聞いた彼女は初めて見せる笑みで、
「じゃあ、私が初めてのあなたのお客だね」
と言って見せた。
すると母がレンジでチンしたとんかつ定食をテーブルに乗せてきた。
それを雨は躊躇うこともなく口に運ぶ。咀嚼しながら「少し脂っぽいかな」なんて言いながらも「美味しかった」と完食してくれた。
僕は下唇を噛んだ。
☔☔☔
母に自宅まで送ってあげなさいと言われたので、そうしていた。
そして雨の家に着いた。二階建ての住宅だった。
「ねえ、帰ったらウェブの小説投稿サイトで雨佳奈って調べてみて」
「えっ」
「私、そのサイトで小説を投稿しているの。つたなくて稚拙な文章だけど、見てくれたら嬉しい。私は小説家を目指しているから。三秋縋先生のように『人の人生を左右するような存在になりたい』から」
「ああ、今日のとんかつの借りを返すつもりで絶対に見るよ。約束する。それと――」
「それと?」雨が小首を傾げる。
「君のこと。雨って呼んでもいいかな」
風が吹いた。それは夕立の前の湿った空気。
「いいよ」
雨は笑ってくれた。
「私も都君って呼ぶね」
手を振りながら雨は自宅へと入っていった。
この気持ちが恋心だと気付く頃には、夕立が降ってきていた。
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