第35話 二日後

 目を覚ました途端、莉花は勢いよく上体を起こし――左胸に走った鋭い痛みに、うずくまるようにしてその場で突っ伏してしまう。

 志倉が投擲したナイフが胸に突き刺さり、脱力感とともに倒れたことは覚えている。

 刺さった箇所から漏れ出た血と一緒に意識が遠のいていったことも、思いのほかはっきりと覚えている。

 だからこそ、今一度上体を起こして確認した自分の状態に困惑してしまう。


 自分は今、私服ではなく病衣に着替えさせられた上で、病院のベッドに寝かせられていた。

 胸元を確認してみると、ナイフが突き刺さった箇所を中心に包帯が巻かれており、然るべき治療を施された跡が見て取れた。


 莉花が気を失った後、もし仮に信吾が負けていた場合、容赦なくこちらを使い捨てた志倉が、わざわざ病院に運んでくれたとは考えにくい。

 だから気を失った後、信吾が志倉に勝ったことは、今の自分の状況を鑑みた限りでは疑いようがなかった。


 問題は、信吾が無事かどうかという一点だった。

 なにせ彼は、両腕が使い物にならない状態にあったのだ。

 そこからどうやって志倉を倒したのかなんて想像もつかないけど、無傷では済まないことくらいは想像がついた。


 自分が右腕を刺したせいで、もし信吾が重傷を負ってしまっていたら――そんな焦燥に駆られながらも、ここにきてようやく莉花は周囲に目を向け……思わずギョッとしてしまう。

 個室タイプになっている病室の入口、そのすぐ傍でパイプ椅子に座ってこちらをガン見している信吾の存在に気づいたがゆえに。

 信吾もこちらと同様治療を施されており、病衣の隙間から見え隠れしている胸や腕、額には包帯が巻かれていた。


「か、梶原……?」


 恐る恐る声をかけてみるも、信吾は何の反応も示さなかった。

 ベッド脇にあったスリッパを履いて、なおも恐る恐る信吾に近づき、彼の眼前で掌を左右に振ってみるも、やはり何の反応も示さなかった。


 なんだか段々恐くなってきた莉花だったが、信吾の鼻から見事なまでに大きな鼻提灯が膨れ上がり、呼吸に合わせてゆっくりと萎んでいくの見て、目が点になる。


「まさか……寝てんのこれ? 目を開けたまま?」


 信じられない――と言いたいところだけど、相手が信吾のせいか、驚きや呆れよりも納得感の方が先に立ってしまう。


 兎にも角にも、信吾の無事は確認することができた。

 気持ちよさそうに(?)寝ているところを起こすのも悪いと思って、ひとまずベッドに戻ろうときびすを返そうとしたところで、膨らんでいた鼻提灯がパチンと音を立てて破裂する。


 直後、信吾が何事もなかったように、すっくと立ち上がった。

 目を覚ましたのか、それとも寝ぼけているだけなのか判断がつかなかった莉花は、思わず一歩後ずさってしまう。


「か、梶原……?」


 もう一度、恐る恐る声をかけてみる。

 すると、信吾は突然こちらに向かって頭を下げ、


「本当にすみませんでした、假屋さん」


 いつもどおり無感情に――いや、ほんのわずかながらも、揺れた声音で謝罪した。


「……もしかして、兄貴のこと?」


 そんなつもりはなかったけど、自然と声音が冷たいものになってしまう。

 信吾を見下ろす目も、たぶん睨んでいるのと大差ない感じになっているだろう。

 その目に気づいているのかいないのか、信吾は上体を直角に曲げた体勢のまま、莉花の質問に答える。


「はい。オレは〈夜刀〉から脱走するために、追っ手として立ちはだかった假屋さんのお兄さんと戦い、いまだ意識が戻らないほどの重傷を負わせてしまいました。そのことについては、何の申し開きもありません」


 とは言われても、この期に及んで信吾のことを憎みきれない莉花としては、釈明の一つや二つは聞かせてほしいところだった。

 なので、あえて突っ込んだ質問をぶつけることにする。


「ずっと気になってたんだけど、どうしてあんたは〈夜刀〉を脱走したの?」

「普通に生きたかった……ただ、それだけです」

「普通?」


 思わず聞き返す莉花に、信吾は依然として頭を下げたまま「はい。普通です」と答える。


(そんなくだらない理由で――とか言いたいところだけど……)


 なんとなくだけど、自分が言っている〝普通〟と、信吾の言っている〝普通〟は、重みが違うような気がした。

 だからというわけではないが、


「詳しい話、聞かせてくれる?」

「少々長くなりますが、よろしいですか?」


 迷うことなく首肯を返したところで、信吾が頭を上げる。

 お互い長々と立ち話ができるような体調でもなかったので、莉花はベッドに腰掛け、信吾はベッドの傍までパイプ椅子を移動させてから話を始める。


 そうして、莉花は知った。


 信吾が公園に産み捨てられたところを、〈夜刀〉の構成員に拾われたことを。


〝S〟の名称がコードネームではなく、当時名前がなかった信吾にとっては本名に等しかったことを。


 信吾と同じように、アルファベット一字が名前になっている子供が他にもいたことを。


 スカウトされたという違いか、それとも下部組織ゆえのがあったのか。

 仮に用心棒としての適性がなかったとしても、営業や用心棒のサポートなど、他の仕事で構成員として働かせてもらえる自分たちとは違い、アルファベッドの子供たちは、適性がないと判断された時点で比喩抜きに捨てられてしまうことを。


 こちらは薄々そんな気はしていた話だけど、下部組織所属の用心棒に比べて、本部所属の用心棒の方が何倍も命の危険が大きいことを。


 信吾が、こんな組織はこの世に存在してはいけないと心底から思っていたことを――莉花は知った。

 知ったから、全ての話を聞き終えた後は、頭の中がグチャグチャになった。


 本部に比べてぬるかったおかげもあって、莉花は〈夜刀〉という組織に対して、そこまで悪い印象を抱いていなかった。

 クズ親父のもとにいた時に比べたら、それこそ莉花たちにとっては「普通に生きている」と思えるくらいに扱いが真っ当だったからだ。


 けれど、信吾の話を聞いてわからなくなった。

 莉花が所属していた下部組織は、地方ゆえに本部に関する情報が入りづらい。

 実際東京くんだりまで、兄――恭平の安否を確認しに行ったのもそれゆえだった。


 だから、いくら闇組織といえども、〈夜刀〉の本部が用心棒を育成するためにここまで非人道的な行為に走っていたとは思いも寄らなかった。

 信吾の「普通に生きたかった」という願望を、支持してあげたいという思いが芽生えるほどに。


 そのせいで、信吾が恭平を意識不明の重体に追い込んだ件について、ただでさえどうすればいいのかわからなくなっていたのに、ますます余計にわからなくなってしまう。

 自分はいったいどうしたいのか、悩んで悩んで悩み抜いても答えは出ず……莉花は迷路の出口を求めるように、こちらの言葉をただじっと待っている信吾にこんなことを訊ねてしまう。


「もしもの話だけど、あたしが今、梶原のことを殺したいって言ったら……どうする?」

「假屋さんが望むなら、喜んで殺されます」


 いつもどおり表情一つ変えずに、淡々と即答してくる。


「兄貴のことで、まだ梶原のことを恨んでるって言ったら?」

「假屋さんの気が済むまで恨みを晴らしてくださいとお願いします」

「それでも晴れなかったら?」

「晴れるまで待ちます」

「いつまでも待ってるあんたのことが目障りだって言ったら?」

「假屋さんの前から消えます」


 普通の人間ならばまず選ばない答えを、ノータイムで返してくる信吾のことを、「どうかしてる」と心の底から思う。

 けれど、その根底にある純粋さを、愚直さを、どうあっても嫌いになれない自分がいることは否定できなかった。


(ごめん、兄貴。あたし、こいつを恨むなんて、たぶん……もうできそうにない)


 そんな自分こそが一番どうかしてる――心の底からそう思った莉花は深々とため息をつく。


「梶原……あんたが兄貴にしたことだけどさ……」


 そう言った瞬間、気のせいかもしれないけど、ほんのちょっとだけ信吾の体がビクリと震えたような気がした。


「あたしは、あんたの腕をブッ刺した。だから……それで、チャラにしてあげる」


 吐き出すのにもう少し苦労するだろうと思った言葉は、思いのほか簡単に紡ぐことができた。

 なんだか心も軽くなったような気がして、所詮自分は復讐に生きられるような強い人間じゃないかもしれないと自嘲していたら。

 突然、信吾の双眸からブワッと涙が溢れ出してきて、莉花は思わず「うわっ!?」と声を上げて仰け反った。


「えっと……梶原?」


 信吾はいつもどおりの無表情のまま、澎湃ほうはいと溢れる涙を指ですくい、小首を傾げる。


「假屋さん。これはいったいどういうことでしょう?」


 あたしに聞かれても――と思ったけれど。

《LOOK&ROCK》で、こんな感じのシーンがあったことを思い出した莉花は、頭の片隅でやめればいいのにと思いながら、初めて信吾に会った時と同じように、主人公ケイの言葉を真似て、ドヤ顔気味で言ってしまう。


「『泣くほど嬉しかったってやつじゃない?』」


 今度は、使いどころは間違っていないはず。というか、今となっては一目惚れに関しても間違ってなかったと思えるけど、それはそれで何だか恥ずかしい気がしてきたので、これ以上はあえて考えないことにする。

 信吾はしばしの間、ポタポタと流れ落ちる涙を両掌で受け止めていたが、


「そうですか。これが泣くほど嬉しいという感情ですか」


 声音は相変わらず淡々としていたけれど、どこか感慨深そうにしていた。

 そんな信吾を見て、なおさら恨めそうにないと思った莉花が頬を緩めたところで、突然病室の扉が開く。


「やっほ~。莉花ちゃんそろそろ目ぇ覚まし――って、どういう状況!?」


 素っ頓狂な声とともに部屋に入ってきたのは、ブラウスとストレッチデニムに身を包んだ、サングラスの女性。

 女性が何者なのかとか、なんで初対面なのに馴れ馴れしく「莉花ちゃん」と呼んでくるのかとか、気になることは色々あったけど。

 どういう状況なのか一口に説明できる気がしなかった莉花は、ただ曖昧に笑うことしかできなかった。

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