第34話 逆鱗
莉花に足を払い倒された信吾は、依然として目を見開きながら、自分の代わりに凶刃に倒れた彼女を見つめる。
ナイフの刺さった箇所から服が赤色に染まり、じわりじわりと拡がっていく。
薄い唇の端から、血が垂れ落ちていく。
それらを認識した瞬間、無表情無感情が
「くっくっくっ……わざと負けた甲斐があったというものだな」
志倉の心底愉快げな笑い声が、
「そうだ。その顔だ。俺が見たかったのは! 假屋を利用すれば、どう転ぼうが貴様の精神を殺せると踏んでいたが期待以上ではないか!」
信吾の教官を務めていた時ですら聞いたことがない、楽しげな声が部屋中に響き渡る。
「大事なものを失った虚無感! 何もできなかった己への憤り! 今貴様が感じているものが、貴様が俺に――いや、俺たちに味わわせたものだ! 噛み締めて! 思い知れ! この事態は、全て貴様が引き起こ――」
不意に、志倉の言葉が途切れる。
なぜなら、信吾が目を血走らせながら、こちらに突っ込んできたからだ。
当然この程度のことで虚を衝かれる志倉ではなく、冷静に両の袖中からナイフを取り出し、突貫してくる信吾の両脚目がけて投擲する。
まだすぐには殺さない。
少なくとも、莉花が息絶える様を見せつけるまでは殺してやらない。
そんな意図とともに、身動きを封じるために両脚目がけてナイフを投擲したが、
「!?」
両の太股にナイフが突き刺さったにもかかわらず、信吾は微塵も速度を緩めることなくこちらに突っ込んできたことに、さしもの志倉も目を見開いてしまう。
「怒りが痛覚を
ため息混じりに言いながら、さらなるナイフを袖中から取り出す。
腕を垂れ下げた走り方からして、信吾の両腕は間違いなく死んでいる。
脚の腱を斬って確実に無力化してやろう――そんな志倉の思惑を、信吾の異常性が上回ることとなる。
信吾が間合いに入った刹那、志倉は牽制を込めて、相手の胴体を裂きにかかる。
切れ味の
このまま胴を裂ければ良し。
かわされたとしても相手の勢いを殺すことができるので、どう転んでもこちらに有利に働く一手――のはずだった。
「がッ!?」
左頬を襲った激烈な衝撃に、志倉は目を白黒させながらも床を転げ、仰臥する。
殴ってきたのだ。
胴を斬り裂かれながら、莉花に刺されて動かすことすらできなかったはずの右腕で、信吾が殴ってきたのだ。
しかもその威力は、先程志倉がくらった、体が浮き上がるほどに強烈だったアッパーカットすら生温いと思えるほどに激烈だった。
(怒りで強くなった!? そんな馬鹿げた話があるか!!)
などという心中とは裏腹に、明らかに重さの増した信吾の拳が効いたせいで脚に力が入らず、立ち上がることすらままならない。
そうこうしている内に信吾に組み敷かれ、こちらと正対する形で胴の上に馬乗りされてしまう。
この一発だけで信吾の攻撃が終わるはずもなく、右拳と左拳が代わる代わる志倉の顔面を殴打する。
「ぐぉっ!? がはッ!? この重さはッ!? いったいッ!?」
殴られながら、気づく。
信吾の拳が、今までとは比較にならないほど重くなった理由に。
確かに、怒りによって普段以上の力が出たという側面もあるだろう。
だが、拳の重さが増した最大の理由は、信吾が志倉に対して、明確に殺意をもって殴りつけていることにあった。
〈夜刀〉時代から、信吾はずっと普通に生きることを望んでいた。
だから、たとえ
一人でも人を殺した人間に、普通に生きることなんて許されないと考えており、
けれど、今の信吾は違う。
莉花を傷つけられた怒りのあまり、信吾は生まれて初めて他人に殺意を抱いた。
その殺意が、信吾の拳をかつてないほどに重くさせていた。
人一人殴り殺すくらい、造作もないほどに。
志倉の顔面を打つ
やがて志倉の意識は奈落の底へと落ちていき、呻き声一つ上げなくなるも、まだ息があると判断した信吾は、ただひたすらに殴って殴って殴――
「ダメよ、信吾くん」
いつの間にか背後にいた誰かが、振りかざそうとした信吾の右拳を、両の掌で優しく包み込む。
顔を上げて背後を振り返ると、そこには痛ましげな顔をした恵の姿があった。
「きみは
その言葉にハッとした表情を浮かべた信吾は、拳を振り下ろし、素直に「はい……」と返した。
「それに、今はこんな奴の相手にしている暇はないわ」
そう言って、恵は
信吾は慌てて立ち上がり、恵とともに莉花のもとへ駆け寄る。
「恵さん……假屋さんは助かるんですか?」
今にも泣き出しそうな子供のような顔で、莉花の容態を確かめている恵に訊ねる。
初めてみせる表情に、恵は勝ち気な笑みを浮かべながら、あえて自信満々に答えた。
「『助かるんですか?』じゃないわよ。助けるのよ。救急車はもう呼んである。応急処置をするから信吾くんも手伝って」
信吾は、怒りで我を忘れて志倉を殺すことしか考えていなかった己が不明を恥じながら、恵とともに莉花の応急処置にあたった。
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