第33話 憤懣

 莉花は血に濡れたナイフの切っ先を信吾に向けながら、心の内で己を罵倒する。

 あの時、あいつは間違いなく隙だらけだった。

 だから用心棒候補にすぎない自分でも、裏社会で〝白鳳〟とまで呼ばれたあいつをナイフで刺すことができた。


 然う。

 刺すことができたのだ。

 先の戦闘で、志倉が虚言を弄して不意打ちで投擲したナイフを、いとも容易くかわしたあいつを。

 腕ではなく心臓を刺していれば、確実に殺せたと断言できるほど容易く。

 これでもう、あんたの両腕は使い物にならないよ――その言葉も、ただの言い訳にしか聞こえないくらいに。


 莉花はギリッと不快な音が漏れるほど強く歯噛みし、切っ先の向こうにいる信吾に告げる。


「一応、クラスメイトのよしみで聞いてあげる。最期に何か言い残すことはない?」


 思考を無視して口から出てきたのは、ただ決定的な瞬間を先延ばしにするだけの情けない言葉だった。


 莉花が按樹高校に入学したのは、〝S〟が入学するという噂を聞きつけてのことだった。

 下部組織のサポート要員を務めて得た金と、そこで培ったノウハウを活かして身分を偽造し、されど〝S〟への復讐はあくまでも假屋恭平の妹として果たしたかったから偽名は使わずに入学した。


 そして入学式の日に、




 あたしは、梶原信吾と出会ってしまった。




 クラス分けを確認していた際に、こちらを見つめていた梶原のことがちょっと気になった。初めはその程度の印象だった。


 それからすぐに、梶原があたしと同じクラスで、おまけに席が隣だったことがわかり。


 あまりにも言動がおかしくて、もしかして《LOOK&ROCK》八話に登場した、後々主人公のケイと付き合うことになるキャラみたいに、あたしに一目惚れしたのかもしれないと思って、ケイの真似をして「さてはあんた、あたしに一目惚れしたな?」って言ってみたら違ってて。


 なのに、あたしと話してる時の反応は、あたしにベタ惚れしているようにしか見えなくて。


 クズ親父のもとにいた時も、〈夜刀〉にいた時も、他人からあそこまで好意を向けられたことがなかったから戸惑って。


 でも、全然悪い気はしなくて。


 一緒にいるのが思ったよりも楽しくて。


 気がつけば、気を許している自分がいて。




 なのに……学校で出会った人間の中では、一番〈夜刀〉の匂いが強かった。




 もしかしたら、梶原こそが〝S〟なのかもしれないと思えるほどに。


 授業開始日の昼休み、久留間クラスメイトを一撃で気絶させたジャブは、背筋が凍るほど鋭かった。


 あたしが侵入したせいで一般の病院から警察病院に移送された兄貴が、また別の一般の病院に移送されたという情報を掴んだ時もそうだ。


 警察が見張りについていたら十中八九情報が正しかったことになるから、今度は騒ぎにならないようそれだけを確認しに病院に向かったら本当に警察がいて。


 その帰りに偶然、梶原と出くわした。


 梶原が本当に〝S〟だったら、兄貴がいる病院を訪れていても不思議はないと思って。


 別れ際に〝S〟の異名である〝白鳳〟について訊ねてみたら、思ったのと全然違う反応をされて。


 やっぱり違うかもしれないって、内心ホッとしていたら、翌日あたしたちを〈夜刀〉に迎え入れてくれた重田が接触してきて。


 化学教師の志倉が、かつて重田を〈夜刀〉に迎え入れ、〝S〟を直接鍛えた、本部所属の用心棒候補の元教官だと知って。




 その志倉の口から、梶原が〝S〟だと聞かされた。




 梶原に騙されたとは思っていない。


 黙っていたことを非難するつもりもない。


 けれど、実際に真実を告げられた時は、思いのほか〝S〟を許せない自分がいた。


 だって、〝S〟は兄貴の仇だから。


 絶対にこの手で殺したいと思っていた相手だから。


 だからあたしは、梶原に死の制裁を与えるという志倉の話に乗り、彼が考えた作戦どおりに、あたしと梶原の関係性を利用して、〈夜刀〉と繋がりがある遊園地にデートに誘った。


 それだけ協力してくれれば充分だと言われたけど、あたしはこの手で〝S〟を殺させてほしいと訴え、〝S〟の精神を殺す制裁としてはこれ以上ない趣向だと考えた志倉は、快諾してくれた。


 これでようやく、復讐を果たせる。


 なのに、胸が苦しくて苦しくて苦しくて苦しくて仕方なかった。


 デート当日になっても、胸の苦しさはそのままだった。


 でも、苦しくても大丈夫。


〈夜刀〉の用心棒のサポートをしていた時は、依頼人クライアントを追跡してきた人間に探りを入れるために、別人を演じて接触することもあった。


 だから、デートを楽しんでいるフリをして志倉と重田が待ち構えているお化け屋敷に〝S〟を誘い込むことくらい、わけないと思った。


 だけど……デートを楽しんでいる自分が、本当に演技によるものなのかどうか、わからなくなった。


 志倉が設定した刻限――この遊園地においてはお化け屋敷に来る客の数が最も少ない時間帯である一六時半を迎えたところで、梶原を連れてお化け屋敷に向かったけど……なぜか、気も足も重かった。


 それでも結局、あたしは梶原を連れてお化け屋敷に入って。


 梶原があたしの意思を優先することがわかってたから、T字路で手筈どおりに梶原と分かれて、




 そして――




「何も言い残すことはないの?」


 最期に何か言い残すことはない?――その問いに対して、いつまで経っても返事をよこさない信吾に、莉花は問いを重ねてしまう。

 その問いもまた、決定的な瞬間を先延ばしにしているだけだとわかっていながら。


〝S〟はこの手で殺したい。

 けれど梶原のことは、この手で――いや、この手でなくても殺したくない。

 相反する想いが、胸の苦しみを悪化させる。


 本当に自分はこの手で、目の前にいるクラスメイトを殺せるのか?――自傷にも似た思考が堂々巡りを繰り返していたその時、莉花は目撃する。

 信吾の口角が、わずかに、確かに、上がる瞬間を。


(笑った? 梶原が?)


 ぎこちないけど年相応に愛嬌を感じさせる、そんな微笑だった。


「假屋さん」


 名前を呼ばれて、莉花の体が一瞬だけビクリと震える。


「假屋さんは、島谷くんが〈夜刀〉だということは知ってたんですか?」


 島谷が友達のフリをして信吾に接触した〈夜刀〉の用心棒であることは、志倉から聞いている。

 だから莉花は、黙って首肯を返した。


「オレは知らなかったです……そう、


 同じ言葉を繰り返す信吾に、莉花は少しだけ眉をひそめる。


「知らなかったのに、オレはかわせてしまった。背後からの島谷くんの不意打ちを」

「あんたなら、かわせても不思議は――」

「そんなことはありません」


 いつもの無感情な物言いで、不思議といつもよりも強さを感じる声音で、信吾は否定する。


「あの不意打ちは、とわかっていなければかわせないくらい完璧なものでした。けれどオレは……心のどこかで島谷くんが〈夜刀〉の残党かもしれないと、本当は友達じゃないかもしれないと思っていたから、かわせた。そうとしか考えられないくらいに容易く」


 再び信吾が微笑む。


「けど、假屋さんの時は違った。まさかアナタに刺されるなんて、アナタが〈夜刀〉の残党だなんて思っても――いや、思いたくもなかったから、かわせなかった。体が全く反応しなかった」


 嬉しそうに。


 哀しそうに。


「アナタが〈夜刀〉の残党だったことは、今でも信じたくないくらいですけど……オレは、アナタのことを心の底から信じていたことを知れたことが、心の底から嬉しい」


 その言葉どおりに。


 気がつけば、信吾に向けていたナイフの切っ先は、どうしようもないほどに震えていた。今の莉花の心中を如実に表すように。


 信吾はナイフで貫かれ、使い物にならなくなった両腕を垂れ下げながら言う。


「アナタが西岡宗一の……いや、假屋恭平の妹ならば、オレは恨まれても仕方がないと思っています」


 やめろ――と、心が叫んだ。


「そしてオレは……こんな感情を抱くのは生まれて初めてですが……アナタに恨まれたまま生きるくらいなら、死んだ方がマシだと思っています」


 聞きたくない――と、心が喚いた。


「オレのことが許せないのならば……假屋さん、どうかオレのことを殺してください。これもまた生まれて初めて抱く感情ですが、アナタになら殺されるのも悪くないと、オレは思っています」


 あたしの背中を押すな――と、心が絶叫した。


「ぅ……ぁ……」


 言葉にならない言葉が、勝手に口から漏れ、


「あぁああぁぁああぁああぁぁぁあぁあぁあぁああぁあぁっ!!」


 心に呼応した体がもう耐えられないとばかりに、断末魔じみた悲鳴を上げた。

 その瞬間、自分の中の致命的な〝何か〟が切れたような気がした。

 それが何なのかわからないまま、両手でナイフを握り締め、信吾目がけて突っ込んでいく。


 ナイフの切っ先が向かう先は、信吾の左胸。すなわち心臓。

 信吾も心臓が狙われていることはわかっているはずなのに、両腕を垂れ下げたまま微動だにともしない。

 先の言葉どおり、莉花に殺されることを望んでいるかのように。

 腕を刺した時と同じように、莉花はナイフと一緒に信吾の胸に飛び込む。



 次の瞬間――



 その切っ先は、信吾の胸に届く数ミリ手前で、止まった。



「なんで……なんだよ……」


 気がつけば、双眸から涙が溢れていた。


「なんで……よりにもよって……あんたが〝S〟なんだよ……」


 涙と一緒に、その手に持っていたナイフが床に落ちていく。


「……すみません」

「……謝んな……バカ……」


 頭を信吾の胸に押し当て、悪態を返したその時だった。

 突然、信吾の体が強張ったのは。


 まさかと思った莉花は顔を上げる。

 信吾の肩越しから見えたのは、倒れ伏したはずの志倉が起き上がり、こちらに向かってナイフを投擲した瞬間だった。


 信吾ならば、これくらい簡単によけられる。はずなのに、信吾の体は強張ったまま、その場から動こうとはしなかった。

 なぜなら投擲されたナイフが、信吾がかわせば莉花に突き刺さる軌道になっていたから。


 思考するいとますら惜しんだ莉花の体が、半ば反射的に動く。

 自分に対しては無抵抗なのをいいことに、信吾の左袖を横に引っ張ると同時に、柔道における出足であしばらいと同じ要領で、足裏で彼の足を払い、横に倒させた。


 信吾の双眸が、かつてないほど明確に見開かれる。

 間に合った――と安堵した瞬間、ナイフが深々と莉花の胸に突き刺さる。

 痛みよりも先に、脱力感が全身を襲う中、


「何やってんだろうな……あたし……」


 自嘲をこぼしながら、莉花は仰向けになって倒れた。

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