第18話 二日前

 尾行と呼ぶにはあまりにも距離が離れるのを待ってから、恵は信吾と莉花の後を追って歩き出す。

 こうも大胆に距離を離すことができるのは、尾行対象の片割れと通じているおかげで、仮に対象を見失ったとしても、いくらでも修正がきくからに他ならなかった。


 なにせ信吾の人生初めてのデートなのだ。いくら彼に請われて助っ人に来たとはいっても、邪魔になるような真似は極力したくない。

〈夜刀〉の用心棒として指折りの実力を有する信吾を相手に、こちらの存在を完璧に気取られないようにするのは恵といえども難しいが、〝極力〟ならばその限りではない。


(たまにこういうことしとかないと勘が鈍っちゃいそうだし、今日は久しぶりに本気出しちゃうわよ~)


 と、楽しげにしながらも、恵は思い出す。

 信吾が、莉花とデートすることになったことを伝えてきた日のことを。



 二日前――



「やばいわね」


 日が暮れる前からコップに注いだ焼酎をあおりながら、恵は真顔で独りごちる。


「我ながら自堕落がすぎる。いい加減こんな生活はやめにしないと」


 とか言いながらも、からになったコップに向かって「世界滅亡」なる焼酎の酒瓶を傾け、なみなみ注がれたそれを一息に半分ほど飲み干す。


「刑事どうこう以前に、人としてアウトでしょ」


 ちなみに「世界滅亡」のアルコール度数は四〇度超。

 そんなものを割らずに呑んでいるのだから、恵の酒の強さは推して知るべし。


「アウトだとわかっているのに……やめられないのよね~」


 などと、アル中じみたことを口走っていたその時だった。

 玄関の扉が開く音が聞こえてきて信吾が帰ってきたことを察した恵は、世界でも滅亡したかのような慌てっぷりで、酒瓶とコップを片づけにかかる。


 こないだちょっと呑みすぎてパンツ一丁で眠ってしまった時、向こう二日は信吾の視線が冷たくなっているように感じた。

 下手に文句を言われるよりもこたえるものがあったし、信吾が無表情無感情な分、なおさら余計に視線が痛く感じた。


 信吾に対しては、もう少し大人の威厳というものを見せてあげたい――そう思いながら、時間にして一〇秒の間に、酒瓶を戸棚に戻し、洗ったコップをグラススタンドに引っかける。

 こんなことをしている時点で、大人の威厳もへったくれもないのはげんに及ばない。


 完璧に取り繕った――と当人は思っているが、赤ら顔で酒臭くなっている時点で論外である――ところで、ソファに腰掛けて信吾がやって来るのを待つも、


(……あれ?)


 変に律儀なところがある信吾は、帰宅した際は必ず「ただいま帰りました」と言ってから家に上がるようにしている。

 だというのに、今日はなぜか「ただいま帰りました」の声は聞こえてこず、家に上がる足音すらも聞こえてこない。


 さすがにおかしいと思って玄関へ向かうと、そこには、マッサージチェアの出力を誤って最大にしてしまったおじいちゃんさながらに、ブルブルブルと震えている信吾の姿があった。

 家にも上がらず玄関で突っ立って震えている信吾を見て、むしろよく家に帰ってこれたなと感心しながら彼の肩を揺すって声をかける。


「信吾くん! どうしたの!?」

「かかか假屋やややさんにデデデデ」


 それだけで莉花と何かあったことを察した恵は、着ていた部屋着のズボンの端を右手で摘まみ、下にずり下げて大人の下着をチラ見せさせる。

 すると信吾は、マッサージチェアのコンセントを引っこ抜いたおじいちゃんのように、すん……と落ち着きを取り戻した。


「……さすがに、ちょっと泣きたくなってきた」

「どうしてですか?」

「どうしてもよっ!」


 小首を傾げる信吾に、ちょっと涙目で怒鳴る恵だった。

 信吾が落ち着きを取り戻したところで、リビングのソファに腰も落ち着けてから話を聞くことにする。

 そして、次の日曜に信吾が莉花とデートすることになったことを知った恵の手には、いつの間にか缶ビールが握られていた。


「また寄り添ってますね、それ

「はっ!? いつの間に!?」


 ここまでくると、最早ホラーであることはさておき。

 折角なので缶ビールを一口呷ってから、恵は訊ねた。


「それで、信吾くんはオーケーしたの?」

「はい。ほとんど假屋さんにやってもらいましたが、LINEの交換もしました」

「こうもあっさり引き受けたってことは……」


 恵はさらにもう一口缶ビールを呷ってから、ニンマリと笑って言葉をつぐ。


「やっぱり好きなんだ~。莉花ちゃんのこと」


 こうやって煽れば、またマッサージチェアおじいちゃんになると思っていたら……信吾は、何を言っているのかわからないと言わんばかりに小首を傾げた。

 これには、恵も目が点になってしまう。


「好きじゃないの? 莉花ちゃんのこと?」

「いえ、別に。ただ假屋さんを前にしていると、胸の鼓動が大きくなったり早くなったり、假屋さんの表情が変わるたびにかわいいなと思ったり、假屋さんと言葉を交わすだけでいまだかつて経験したことがないほど楽しいと思うだけで、好きという感情――つまりは男女間における恋愛感情を抱いているとは言い難いと思います」


 信吾の言っていることがあまりにも理解不能すぎて、初めて宇宙を見た猫のような顔になってしまう。


「……信吾くん。きみにとって恋って、いったいどういう感情を指したものなのかな?」

「異性のことを好きになる感情です」

「じゃ、じゃあ……信吾くんが莉花ちゃんに対して抱いている感情って何?」


 信吾の首が斜めに傾いて傾いて傾いて……真っ直ぐに戻る。


「なんでしょう?」

「わからないのなら、なんで莉花ちゃんに恋してるって結論にはならないの?」

「むしろ、なんでそういう結論になるのかが全く理解できないのですが」


 何を言ってるんですかこの人と言わんばかりの信吾に、恵は、何言ってんだこいつと言わんばかりの顔をしてしまう。


「……なんか、信吾くんのことが段々宇宙人に見えてきた」

「恵さん。假屋さんと同じ言葉を言うのは、やめていただけませんか?」

「月を見た後にスッポン見たような目を向けるのはやめてっ。つうか、莉花ちゃんにも同じこと言われたんかい!」


 ツッコみを入れてから、スッポンはさめざめと缶ビールを飲み干す。そういうところだとしか言いようがない。


「恵さん。折り入ってお願いしたいことがあるのですが」

「うん。今の流れでよくそんなこと切り出せたわね」


 何か問題でもあるんですかと言わんばかりに小首を傾げる信吾を前に、恵は疲れたようにため息をついてから訊ねる。


「それで、お願いって?」


 そうして恵は、信吾にお願いされた。

 助っ人としてデートに同行してほしいと。莉花にはバレないようにという注釈付きで。


 あの信吾が自分のことを頼ってくれたのだ。

 その時点で恵に断る理由はなく、芋ジャージしか持っていない信吾のためにコーディネートを考えてあげたり、ギャル語のLINEスタンプを買ってあげたり、イヤーカフ型の無線機を用意したりと、この二日間彼の初デートの準備に尽力したのであった。

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