第10話 邂逅・1

 西岡が警察病院に入院していた頃から、信吾は定期的に彼の見舞いに訪れていた。

 それは西岡が転院し、信吾が学校に通うようになった今でも変わっておらず、週に一度くらいの頻度で、学校の帰りに彼の様子を見に訪れていた。


 金銭的に余裕があれば見舞いの花でも買っていきたいところだけれど、〈夜刀〉時代に稼いだ金は組織が管理していた口座に預けっぱなしになっている上に、警察が〈夜刀〉本部を制圧した今は、資金洗浄マネーロンダリングの疑いもあって完全に凍結させられている。

 名目上の保護者となる恵からは毎月お小遣いをもらっているが、金額はあくまでも普通の高校生基準なので、見舞いの花を買えるほど金銭的に余裕があるわけではない。

 そもそもの話に、西岡の病室に見舞いの品なんてを、警護についている刑事が許すとは思えない。

 だから病室を訪れても、西岡が目覚めることを祈るくらいしかしてやれることはなかった。


 心なしか元気のない足取りで病院の外を出ると、西の空はもう茜色に染まっていた。

 暗くなったからといって恵に心配されることはないだろうが、あまり帰りが遅くなってしまうと、小言の一つや二つくらいは言われるかもしれない。

 そう思った信吾は、真っ直ぐ帰途につくことにする。


 入学式からすでにもう一ヶ月が過ぎたが、学校生活は信吾が望んだとおりに普通、つまりは平穏そのものだった。

 授業開始日に、信吾と島谷目がけて椅子を投げ落とされる事件はあったが、それ以降は本当に何もなかった。

〈夜刀〉の残党が動いた気配も、椅子を投げ落とした犯人の痕跡すらも、何もなかった。

 ここまでくると、椅子を投げ落とされたのはタチの悪いイタズラか、事故の可能性も浮上してきたが、信吾も、恵を含めた刑事たちも、その可能性を受け入れるほど楽観的ではなかった。


 余談だが、信吾が言いつけを破ってケンカしてしまった件について、恵からは、それこそ担任教師兼潜入捜査官の豊山以上にこってりと絞られると信吾は思っていたが、いつもよりも強めに注意を受けただけで、やんわりとすら絞られずに済んでいた。

 その理由が、信吾の口から直接聞いた詳細な報告によって、莉花に心配をかけたくない、莉花に嫌な思いをさせたくないという理由でケンカをしてしまったことを恵が、青春の輝きのあまりの眩しさに、それどころではなくなったからだということはさておき。


 椅子を投げ落とされた事件が原因で、信吾は折角友達になった島谷とは、必要以上に仲良くできない状況に陥っていた。

 なにせ椅子は、島谷をも巻き添えにする形で投げ落とされたのだ。

 また同じようなことが起きて巻き込んでしまったら後悔だけでは済まなくなるので、島谷とは顔見知り以上友達未満の付き合いしかできていなかった。


 そういった意味では、莉花とも距離を置かざるを得なくなり、一緒に登校するという話は開始ゼロ日にしてご破算になった。

 一ヶ月前のように偶然出会って登校するくらいならまだしも、さすがに毎日同じ時間、同じルートで登校していては、待ち伏せなり襲撃なり好きにしてくださいと言っているようなものなので、信吾は血涙(無表情)を飲んで諦めるしかなかった。


 こちらの素性や〈夜刀〉の話を伏せた上で、また同じことが起きないとも限らないからという理由をつけて莉花に断りを入れた際、彼女が微妙にホッとした顔をする一方で、「でもなんか、あたしがフラれたみたいな空気になってんのは気のせい?」と、よくわからないことを言っていたことはさておき。


 平穏そのものの学校生活だからこそ、島谷とは勿論のこと、莉花とも必要以上に仲良くできない状況に、信吾はらしくないほどに苛立ちを覚えていた。

 苛立ちそのものを覚えたことはこれまでにも何度かあったが、ここまで強烈な苛立ちを覚えたのは生まれて初めてのことだった。

 もっとも、相変わらず表情にも態度にも出ないため、クラスメイトはおろか、恵にすらも信吾が苛立っていることには気づかれていないが。


(恵さんは不機嫌な時や、やる気をなくしている時は、よく「ビール成分が足りない」と言っていました。オレの場合は「假屋さん成分が足りない」ということになるのでしょうか?)


 などと、推し活男子じみたことを考えながら繁華街を歩いていると、道行く先にまさしく莉花の後ろ姿が見えて、信吾の目が〇・〇四ミリほど見開かれる。


 存在など信じたこともない神に感謝した信吾は、ここぞとばかりに假屋さん成分を補充するために、逸る気持ちを無駄に早い歩調で表しながら莉花に近づいていき……彼女が歩きスマホをしていることに気づいて〇・〇一ミリほど片眉を上げる。


(いけませんね。これは注意しなくては)


 という真面目ぶった独白とは裏腹に、労せず話しかける口実をゲットできたことを内心喜びながら、莉花のすぐ後ろまで近づいていき……彼女が、スマホで漫画を見ていることに気づき、さらに〇・〇二ミリほど片眉を上げる。

 莉花が食い入るように見ているページは、男女がキスしているシーンだった。

 髪型や裾を染めた髪色など、女のキャラクターが微妙に莉花に似ていることに気づき、さらに〇・五ミリほど片眉を上げた。


(さすがにこれは気になりますね)


 そう思った信吾は、歩きスマホの注意は一旦脇に置いて、女キャラについて莉花に訊ねることにする。

 キスシーンを食い入るように見ているタイミングで、背後から出し抜けに。


「こちらのキャラクター、假屋さんと似――」



「わ――――――――――――――――――――っ!?」



 莉花の口から、心臓が飛び出んばかりの驚声が上がる。

 繁華街ゆえに、信吾たちの周囲にいた人たちが驚き混じりにこちらを見てくる中、莉花は思わず落としそうになったスマホを「わたったっ」と声を上げながらどうにか掴み取り、一人全く驚いていない信吾をキッと睨みつけた。

 ちょっと涙目で。ちょっと顔を赤くして。


 この一ヶ月でようやく理解できたことだが、どうやら自分は彼女に対して「かわいい」という感情を抱いているらしい。

 まさしく今、莉花のことをかわいいと思っていた信吾だったが、


「ちょっとこっち来てっ」


 彼女が突然こちらの手を握ってきた瞬間、〈夜刀〉の用心棒として仕事していた際に銃口を向けられてもウンともスンとも言わなかった心臓が、ドキ――――ンッ!!とド派手な音を立てて、ド派手に飛び跳ねる。

 さすがにそこまでひどいのはその一度きりだったが、莉花に手を引かれて路地に行くまでの間、心臓はドッキンドッキン鳴りっぱなしになっていた。


 普通ここまでドキドキしていたら、顔が赤くなるなり、表情が緩くなるなりするものだが、例によって信吾の表情にはわずかな変化もなく、だからこそ憎々しいと思ったのか、莉花は人っ子一人いない路地の奥で足を止めると、力のこもらない目で再び信吾を睨みつけた。


「なんであんたがこんなところにいるんだよ!?」


 そんな莉花の言葉どおり、今二人がいる繁華街は「こんなところ」と言いたくなるような場所だった。

 何せこの繁華街は、信吾たちが通う按樹高校からは駅二つ離れた場所にあるのだ。

 そんな場所にクラスメイトを見かけたら、なんでこんなところにいるのかと問い詰めたくなるのは道理というもの。

 そしてそれは、莉花に対しても言えることだが、問われた以上はこちらから答えるのが筋だと思った信吾は、


「何か良い参考書はないかと、ここまで足を伸ばしてみました」


 自らが意識不明の重体に追い込んだ、闇組織の構成員の見舞いに行ってました――とはさすがに言えないので、万が一クラスメイトと遭遇した時に備えて考えていた言い訳を、そのまま口にする。


「假屋さんこそ、どうしてこんなところに?」

「あたしは……ちょっと用事があって来ただけだよ……」


 いやに歯切れの悪い返事だった。

 ちょっと気になった信吾は、もう少し突っ込んだ質問をしてみる。


「用事とは、いったいどんな?」

「だ、誰だって人には言えないことってあるだろっ。そんな感じの用事だよ……」


 そう言われてしまっては引き下がる他なかった。人に言えないことに関しては、信吾の方が余程多いからなおさらに。

 なので信吾は、先程訊ね損ねた質問をしてみることにする。


「ところで、先程假屋さんが見ていた漫画のキャラクター、假屋さんと似ている点が多いように見えたのは気のせいでしょうか?」


 途端、莉花の顔が真っ赤になる。


「髪型とか髪の色とか。あと首輪も――」

「わかった! わかったからもう何も言うな! あと首輪じゃなくてチョーカーだから!」


 悲鳴に近い声で、涙目で懇願してから「ぜーはーぜーはー」と肩で息をする。

 しばし信吾のことを睨んでいたが、ほどなくして視線を露骨に外し、赤い顔をそのままに弱々しい声音で呟く。


「ちょっと影響受けちゃっただけだから…………悪い?」


 居直るように、三度みたびこちらを睨みつけてくる。やはり目には力がこもっておらず、信吾からしたら、ただただかわいいという感想しか出てこなかった。

 出てこなかったから、いったい何が悪いのかわからず小首を傾げてしまう。

 この一ヶ月で信吾という不可解な生き物の生態をある程度理解したからか、相手が何もわかっていないことを見て取った莉花は、疲れたようにため息をついた。


「わかってないなら気にしなくていいから。それよりあんた、ここまでなにに乗って来たの?」

「電車に乗ってきました。假屋さんは?」

「あたしも電車。だったら……」

 と前置きしてから散々モダモダした末に、こんなことを提案してくる。


「一緒に……帰る?」

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