第9話 追憶

「〝ビー〟と〝エス〟。相手が戦闘不能になるまで組手を行え」


 彫りの深い顔立ちと口髭が目を引く、〈夜刀〉の用心棒候補の教官を務める中年の男が、八歳になったばかりの〝S〟と〝B〟に命令する。

 練習着というよりも囚人服じみた着衣に身を包んだ二人は、命令どおりに組手を行うべく、三メートルほど距離を離した状態で対峙する。

 床、壁、天井の全てが打ちっ放しのコンクリートになっている大きな部屋が、緊張と静寂で満たされる中、〝S〟と〝B〟は左手と左脚を前に出して拳を構える。

 組手立ち、あるいは左自然体の構えと呼ばれている、空手や空道くうどうにおいては基本とされている構えだった。


〝S〟と〝B〟は構えをそのままに、摺り足でジリジリと間合いを詰めていく。

 間合いに入った刹那、〝B〟は大人と比べても遜色ないほどに鋭いローキックを繰り出した。

 普通の子供が相手ならば反応すらできずに脚をへし折られているところだが、普通とは程遠い〝S〟は一歩後ろに下がるだけで難なくローキックをかわす。

 のみならず、相手が蹴り足を戻すのに合わせて踏み込み、ショートフックで横合いから相手の顎先を打ち抜いた。

 最も脳を揺さぶられる角度から顎を殴られた〝B〟は、糸が切れた操り人形マリオネットのようにその場で頽れる。


「そこまで」


 つまらなさすら感じるような声音で、教官が組手の終了を告げた。


「まずは〝S〟。やはり貴様の才は群を抜いている。同年代では最早誰も相手にならんほどにな。しかし、だからこそ――」


 教官は突然〝S〟の頬を殴りつける。

 その気になればかわすことも、いなすこともできたが、そんなことをしてもペナルティとして余計に殴られるだけなので、〝S〟はただ黙って殴られるだけだった。


「なっとらんな。貴様、あえて〝B〟を極力傷つけないよう倒したな? そのぬるさのせいで貴様が死ぬ分には構わんが、依頼主クライアントが死ぬような事態になっては目も当てられん。〈夜刀〉の用心棒たるもの、相対する者には決して容赦するな。常に殺すつもりでやれ」


 教官の教えを右から左に流した〝S〟は、表情一つ変えることなく「はい」と答える。

 無表情無感情な〝S〟の心中を察するのは不可能だと思ったのか、それとも心中そんなものに初めから興味を持っていないのか、教官は〝S〟に背を向け、床に倒れている〝B〟を見下ろした。


「実力差があるのは仕方ない。だがそれを差し引いても、蹴り足の戻りの遅さといい、懐に入られた時の反応の悪さといい――」


 教官は気絶している〝B〟の土手っ腹に容赦なく蹴りを入れる。

 その激痛で目が覚め、腹を抱えて悶え苦しむ〝B〟に、教官は冷然と告げる。


「なっとらんな。これ以上、貴様に金と労力を費やすことが、〈夜刀〉にとっては不利益にしかならないと思えるほどに」


 途端、〝B〟は腹を蹴られた激痛も息苦しさも忘れて、教官の脚に縋りつく。


「ゲホッ……ゲホッ! ま、待って、ください……! おれは……おれはまだ……!」

「〝B〟はする。連れて行け」


 教官が命じると、部屋の隅で控えていた二人の構成員が左右から〝B〟の肩と腕を掴み、引きずるようにして連行していく。


「い、嫌だ……廃棄は嫌だあぁああぁあぁああぁッ!!」


 断末魔じみた叫びは、教官に届くことはなかった。

 だが、少なくとも〝S〟には届いており、無表情だった彼の表情にはあるかなきかの陰が落ちていた。


 廃棄とは、〈夜刀〉の用心棒たり得ないと判断した子供を、他の闇組織に売る行為を指した言葉だった。

 売られた先で殺されることは滅多にないが、それでも廃棄された子供の多くが、変態どもの玩具にされたり、臓器を抜かれたりと悲惨な末路を辿っている。

 運が良ければ、売られた先の闇組織で下っ端として働かせてもらえることもあるが、その場合は得てして替えの利く駒として使い潰されることがほとんどだった。


 そもそもの話、廃棄されることなく〈夜刀〉の用心棒になったとしても、悲惨な末路を辿らずに済むとも限らない。

〝S〟が一二歳という若さで〈夜刀〉の用心棒になり、現場に立つようになってからの二年間、依頼主クライアントを守るために命を落とした用心棒を目の当たりにしたのは、一度や二度ではきかない。

 それに恐れを為して脱走したとしても、〈夜刀〉に忠実で、なおかつ実力も上位に位置する用心棒が追っ手として差し向けられ、力尽くで連れ戻されるか、最悪殺されることになる。


 どこまでいっても終わらない地獄。

 外からスカウトされた用心棒や、幹部連中はどう思っているのかは知らないが、少なくとも〝S〟にとっては、〈夜刀〉とは延々と続く地獄そのものだった。


 だから〝S〟は願った。


 こんな地獄ではなく、普通の世界で、普通に生きたいと。


 こんな地獄からは、一刻早く抜け出したいと。


 こんな地獄は、この世に存在してはいけないと。


 その願いのもと、信吾〝S〟は〈夜刀〉を脱走し、組織の情報を警察に売り、組織を潰す協力までした。

 普通に生きるという願いを叶えるために。

 自分のように〈夜刀〉に拾われ、用心棒になることを強制される子供が、もう二度と現れないように。



(そう望んだだけなのに、どうしてこんな結果になってしまったんでしょうね……)



 限りなく無に近い表情に悔恨を滲ませながら、信吾は、病院のベッドで眠っている西岡宗一を見下ろす。


 実のところ、今眼下で眠っている巨漢の名前が、本当に「西岡宗一」で合っているのかどいうかは信吾にもわからなかった。

〈夜刀〉の用心棒は、仕事の際は偽名を使う決まりになっている。

 そのため信吾は、巨漢が〈夜刀〉内で「西岡宗一」と呼ばれていることを知っていても、それが本名なのか偽名なのかまでは知らない。

〈夜刀〉の実力者として彼のことをマークしていた警察内でも「西岡宗一」の名で知られていたため、おそらくは合っているだろうという希望的観測のもと、その名で呼んでいるだけに過ぎなかった。


 信吾は、自分がこの手で意識不明の重体に追い込んだ西岡を、ただただ見下ろし続ける。

 そうしていれば、その内目を覚ましてくれるのではないかと少しでも期待してしまうのは、あるいは、自分の心の弱さの表れかもしれない。


 西岡を警察病院から、脳神経に強いこの病院に移したのは、いまだ意識が戻らない西岡を目覚めさせるためだということは、恵から聞いている。

 だがそんなものは建前で、警察上層部が、信吾と同じく西岡を〈夜刀〉の残党を釣る餌にするために、部外者が入りづらい警察病院から、一般の病院に移したのは火を見るよりも明らかだった。


 恵はそのやり口に心底腹を立てており、そんな彼女の反応自体は信吾自身も嬉しく思っているけれど。

 実のところ信吾は、恵ほど警察上層部のやり方に腹を立ててはいなかった。

 西岡の意識が回復する兆しすら見せない以上、警察病院よりも専門性に優れた病院に移すことは、〈夜刀〉の残党を釣る餌として使われることを差し引いても、そう悪い話ではないと思ったからだ。


 それに警察上層部も、建前で転院させたとはいっても、新たな情報源となり得る西岡の意識は本気で取り戻したいと思っており、その筋では有名な医師を彼の担当につけている。

〈夜刀〉の残党が接触してきた際、一般人を巻き込まないようにするという思惑もあるだろうが、西岡にあてがわれた病室は、院内で最も設備が充実している個室になっている。


 たとえどのような思惑が絡んでいようとも、彼が目覚める可能性が少しでも上がるのならば、そっちの方がいいと思ってしまう。

 それからしばらくの間、ただ黙って西岡を見下ろし続けていた信吾だったが、


「また来ます」


 その言葉を最後に、謝罪するように頭を下げると、入口に立っている警護の刑事に会釈してから病室を後にした。

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