第4話

 今は、10年後の今である。

 ケンジは、ドラッグストアの棚から目薬をひとつ掴んで、レジに向かった。

 レジには、つや子の姿がある。しかし少し老けて、今まで以上に落ち着いた、静かな顔をしている。

 ケンジはなぜかひどい疲労感を感じた。レジを通る時、つや子は驚いた顔をして、

「あなた、ケンジくん,どうしたの? 随分久しぶり。元気?健康害してない?」

 と一気に言われた。その時はっと、ケンジは自分の身に起こったことを悟った。

「久しぶりだね。君こそ元気? そこの喫茶店にいるから、仕事が終わったらきてくれないか」

「もちろん、いや、ちょっと待ってて、今すぐに切り上げて行きます」

 つや子はレジの応援を呼び、代わってもらうと、制服を着替えてくるから先に行ってて欲しいと言った。


 ひと足先に喫茶店に座っていると、すぐにつや子が入ってきて、ケンジの前に座った。

「どうしたの? 10年ぶりね。結婚生活はうまくいってる? お子さんたちは元気?」

「うん、まあ」

「わたし、老けたでしょ。でも、めぐみももう9歳。生意気よ」

ケンジは、恐る恐る尋ねた。

「君は今、幸せかい?」

「ええ、とっても。毎日めぐみとふたりで穏やかに暮らしてるわ。そりゃお金は充分にないし、不満を言えばキリがないけど、何事もなく、毎日生活ができて、ほんと幸せ」

「そりゃあ良かった。僕が事務所の帳簿をやりくりして作っているお金も,僅かだけど役に立ってる?」

「ええ、本当に10年間も欠かさずありがとう。そのお金と、私のお給料で、生活は何とか大丈夫。本当にありがたいことだと思ってる。あなたはどうなの?幸せ?」

 「いや、実はね,もう飽き飽きしてるんだ。結構いい金稼いでるのに、毎日弁当代だけ渡されて、盆正月は子供達の面倒を俺に押し付けて、友達とハワイだの何だのって、旅行三昧なんだ。結婚した頃は、あんな女だとは思わなかったよ」

「なんか胸が痛む。あなたが幸せになっていないなんて」

「俺が悪いんだよ。俺がきみを捨てたんだ。もし、君と、もし、君と……」

 ケンジの目から大粒の涙がこぼれた。自分は幸せになるはずだった。富と名誉を自由にして、美しい妻と、人生を謳歌しているはずだった。

 しかし現実は、あの女の尻に敷かれてるだけでなく、毎日ポケットには僅かな弁当代しかなく、度々夜出かけ、深夜に帰ってくる妻を待ちながら、子供達のお守りだ。輝かしいはずの未来はどこへ消えたんだ。

「うちに、来る? めぐみの寝顔を見て欲しいの」

「いや、やめとく。もしそうしたら、もう俺は自分の生活に戻れなくなってしまう」


 2人は喫茶店を出ると、駅の方へ向かって歩き出した。寒い、冬の夜だった。10年前だったら,あたたかく肩に手を回して歩いただろうが、今はそれができない。

 駅が近づくと、

「ここで別れよう。めぐみを幸せにしてやってくれ」

 つや子は深く頷いた。

 2人はそれだけで、あとは無言で別れた。

 列車に乗り込み、ドアにもたれて立って、ケンジはまた熱いものが自分の頬を伝うのを覚えた。


(完)

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冬の別れ レネ @asamurakamei

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